最近考えるほどわからない問題があります。
環境破壊はなぜいけないのでしょうか。
様々な回答があると思いますが、
哲学方面から、それに答えを出せるでしょうか。
(というより哲学からの回答しか意味がないと思っています)

エコロジズムは21世紀の倫理となりうるのでしょうか。
哲学の応用問題だと思いますが、よろしくお願いします。

A 回答 (30件中1~10件)

いけないと思う人がいるからです。



専門家を含めて、深く考えている人は少ないようですが。

わたしは考えた末、人類の計画的絶滅が合理的な選択肢であるという結論に達
しました。単なる開き直りではなく、よりよい未来を手に入れるための前提と
して考えています。

問題は、いけないかどうかではなく、したいかどうかではないでしょうか。良
好な環境を維持し、未来に備えることを「仕方なくする義務」ではなく、「望
んですること」として考えるほうが建設的だと思います。

そして、「未来なんていらない」と思うのも自由だと思います。未来を義務で
はなく自由に選択できるものと捉え、その選択にもとづく責任を割り当てるシ
ステムは設計可能です。
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環境破壊により、ヒトという種が存続できなくなる可能性があるからです。



ヒトは動物として、自らの種を守ろうと行動します。
自らが増えて生き延びるために他の生物を殺して食べます。地球の資源を利用します。
ヒトは他の動物が持っていない知識を身につけました。それによってここまで拡大しました。しかしその拡大が自らの種を危険にさらす可能性があることに気づきました。そして自らの種を守るために、他の種や自らが生息する星の環境を守る必要があるという知識を身につけ、そのための技術を開発し続けています。

けっして、他の生き物や地球や宇宙のために環境を守ろうとしているわけではないと思っています。異なる種である生物や無生物の気持ちなんて、数ある生物の内の一つの種でしかない人間が解るわけがありません。そもそも気持ちや感情なんてものがあるのは人間だけかも。

「地球のために」や、「他の生き物のことを考えて」なんて言うのは、あきらかにヒトのエゴです。
そしてヒトはエゴによって環境を守ります。

全てはヒトが生き延びて、かつ拡大していくためにやっていることだという前提に立って考えてみたら、たくさんある答えのうちで単純でわかりやすい一つの帰結に至ることが出来ると考えます。
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No.8でここのテーマ(質問)は


“環境破壊がいけない(すなわち悪)とするならばその価値観の根拠は何か”
となっていますね。
このテーマを議論する前にはっきりさせなきゃいけないことがあります。
それは善悪とは何かと言うことです。そこで僕はこう考えます、
究極的には善悪とは生死。すなわち生きること、生命が善
死ぬこと、生命を脅かすことが悪だと思うんです。
あるいみこの定義が結論にかなり近いものになると思うんです。
まぁ・・それは結論のときには書くとして
この定義には続きが有ります。それは,人間にとっての善は
人間の生命や人間の存続を指し,人間にとっての悪は
人間の死や人間の生命を脅かすこととなることです。
つまり、善悪について“~にとっての・・”とした場合、後に続く
生命や死は“~の”という制約がつくということです。

このことを前提に語るならば
環境破壊は悪と言えるのではないでしょうか
なぜならそれは人間は地球の生態系の一部であり
それ全体の存続を脅かすほどの環境破壊は
人間の生命をも危険にさらすものであり
すなわち悪であると言う結論です

さて・・善悪の定義が正しければこれほど簡単な結論はないと思います
単純明快・・・問題はこの善悪の定義はほんとに正しいのか
ということですが・・僕がこの善悪の定義にたどり着いたのは
もともと善悪と言う概念は人間が作り出したものであり
その言葉の使用された時に発する意味のこれまでの事例
(僕の経験上でしかないが)からそう判断したとしか
言いようがないのが口惜しいところでありまた
正しいかどうかはっきり断言できない理由でも有る
(何を持って正しいと言うのかさえ僕にはわからないが)
しかし個人的には確かな確信を持っており自分の信じるところである
∴この結論が正しいかどうかは別として僕の信じるものとして
僕の回答としたい。
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 お礼や補足をお急ぎになる必要はありません。

ご自分のペースでどうぞ。また、私は質問者が求める限り、そして自分の能力が及ぶ限り、いくらでもおつきあいします。

 ディープエコロジーでの「人間」の捉え方に疑問をお感じのようですね。
 まず、「人間は自然の一つ」。おっしゃるとおりです。ディープエコロジーでの捉え方はそういうことです。「人間と言えども数ある生物種の一つにすぎず、なんら特権的なものではない」と。
 でも、gattoさんの疑問はもう一歩進んで、「生きる上で環境を変化させるのも生命の本性(nature=自然)である、文化を持ち、科学の力をもって自然環境を改変する人間の営みも、人間という種にそなわった本性ならば、人間はそういう営みを通じて生態系の一員となっていることになる、これがどう考えられているか」ということのようです。
 そういう本性を持つ人間を、生態系内に調和させるための考え方として、一つには「文化やら科学やらという、人間以外の動物が持たない特権的な力を捨て、人間という生物種として生きよ」という方向がありえます。ただ、これはただ単に考え方としては可能ということであって、文化の力に守られていない人間という生物種は恐ろしく脆弱なものですから、実際にはあっと言う間に絶滅するでしょう。現実的ではありません。
 知る限りにおいて、ディープエコロジーはそのような主張はとっていません。この思想の原則通りに考えていると思います。すなわち、「人間の持つ文化や科学の力を肯定し、その存在を認めるが、その力による自然環境改変の程度は、生態系バランスのとりかえしのつかない破壊にならない限界内に留めなければならない」ということです。
 前回ガラパゴスの例を挙げながら「アニマルライト」に対して「ディープエコロジー」を対比してみましたが、これと同じことです。イナゴが異常増殖して生態系バランスを乱そうとしているなら、これは間引かなくてはならない。同様に、人間が過剰増殖しており、しかも科学力によってさらに急激に生態系バランスを乱そうとしているなら…やはり間引かなくてはならない、ということです。だから「人類の9割を…」なんて話にもなってくる。
 ですから、ディープエコロジーによる「人間の脱中心化」は、それなりに徹底しています。これが極端なものになるとアウシュビッツまでもう一歩という、文字通り「非人間的な」発想にもなりうるものですので、私はそこが好きになれないのです。

 ディープエコロジーの解説を離れて、人間の文化や科学の力ということについて自分の考えを少し述べます。
 文化や科学が自然環境を破壊している部分が目立つのは事実ですが、やはりかと言って否定することはできないと思います。また、それらがただ単に「自然に敵対するものである」と見なす必要もないでしょう。そう見えてしまうのも、「自然と人間」という二分法図式がもたらす弊害です。
 実際には、「人間が介在することで初めて成り立っている生態系」もあります。農耕は人間による自然改変であり、一面において自然破壊ではありますが、農民たちは土と水のために「森」を育てることに腐心したものです。森を育てるには「間伐」という人為的操作も有効です。農民だけではありません。最近では仙台湾でカキを養殖する人たちが、その滋養の元となる森を育てようとしています。こうした、自然と関わる仕事に携わる人々の知恵は立派な「文化」であり「科学」ですが、自然に敵対するものではなく、それを豊かにするものです。自然と人間の二分法ではなく、両者が関わりあって両者が共々成り立っている姿の中からも、学ぶものは多くあると考えます。

 それから、「人間と自然の上下関係」について。
 「強者としての立場から、多様性の維持を志向する」という考え方は、ディープエコロジーのエッセンス的な原則の中には入らないでしょう。「あくまでも生物種の一つ」ですから。ただ現実に、ディープの方々が思想を具体的な行動に移そうと考える局面で、そうした考え方を受け容れざるをえなくなることは考えられます。生態系を壊すのも人間、そして、それに対して積極的・能動的・主体的に修正を働きかけることができるのも人間だけだからです。
 この考え方をはっきり出しているのが、キリスト教的環境保全思想です。旧約聖書の「創世記」では、神様はアダムとイブを創造した後、彼らに自然の支配権を認めています。これは、とりようによっては、人間の欲望による自然からの収奪・搾取を肯定する考え方を根拠付けるものでもあります。が、「キリスト教的環境保全思想」は、いわばこれを逆手にとって、人間を「自然の姿を十全に保つための善意の管理者」と位置付けようとするのです。
 私はクリスチャンではありませんから、こういう特定宗教をバックボーンとした考え方は素直に認めたくないです(それに、結局欧米中心だし)。が、位置付けは微妙。人間の自然に対する優位を認めているという意味では「人間中心主義」の枠内に留まっているとも言える。…ただし、その背後には「神」がいます。これを考えると、人間を脱中心化しているともいえます。
 こういう立場を代表する人として、アメリカのナチュラリスト、ヘンリー・デイヴィッド・ソローがいます。この人の言葉で、好きなものがあります。
  「神の目から見て美しい。」
 どんなに醜い生き物でも、ということです。神は、それが美しいと思ったからこそ、創造した。
 人間の偏狭な価値基準で自然を裁断してはならない。そういうことを、彼は「神」という言葉を用いて述べたのだと理解しています。
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 補足をありがとうございます。

とてもお話しがしやすいです。
 まず、No.10へお寄せいただいた「補足」の、触れなかった点について。一言申し上げておくべきでした。特に私の方から再考を促したり、さらに言葉を付け加えたりする必要を感じなかったので言及しませんでした。つまり、gattoさんのご見解に賛同、ということです。
 とりわけ、生物たちとの間の「物理的な行為の相互性」という観点。これは直接的には自然科学の「生態学 ecology」の対象でしょうが、gattoさんが他の方への補足で述べておられるように(No.15)、「自然の複雑さ」ゆえにそれが果たして人知の及ぶものであるかどうか、人間として謙虚に考える必要があるように思います。開発に際しての「アセスメント(評価)」でGoサインが出たとしても、予想がつかない形で自然の「復讐」が起こることもありますから。

 そして、私がとる立場としての「人間中心主義」についてです。これについては、お返事も待たずに突っ走って書いたNo.18で軽く触れております。まずは御一読を。
 そこでも述べたように、「人間中心主義 humanizm」という言葉はかなり包括的な言い方です。が、とりわけ環境問題・環境倫理学の文脈で批判の対象として取り上げられる人間中心主義というのは、
   自然と人間とを二元論的図式で切り分け、人間を優位のものとし(中心化し)、
   人間による自然の支配・搾取を肯定する考え方
とでもまとめておけばよいと思います。自然を人間の恣意的な欲望に委ねてよいという意味での「人間のエゴ」を肯定するものです。
 事実これが批判され乗り越えられなければならない考え方であることは、巷間に溢れる言説が饒舌に物語っていますので多言を要しないでしょう。その考え方は人類の生存基盤そのものを脅かす「親殺し」という結果を生み、未来世代の生存可能性を奪う「子孫殺し」にも結び付こうとしています。
 私が自分の立場として考えようとしている人間中心主義は、もちろんこれと同じではありません。言葉が同じだとどうしてもややこしいことになるのですが、何かどうも、適当な呼び名が見つかりません。仮にここでは、空前絶後の究極的超絶傑作ワープロソフト「松 Ver.6」にちなんで、仮の符牒を「松主義」としておきましょう。ダサイのですが、入力が楽ですので。
 松主義は、「人間の欲望のために自然に対して何をしてもよい」という人間のエゴは否定します。そういう種類の人間中心主義とは区別されます。しかして、そうではない別の形、別の内容の人間のエゴを徹底します。それはつまり、「人類の存続を最優先に考える」というエゴです。「存続」に力点を置きますので、先に取り上げた「世代間倫理」をもしっくりと取り込むことができます。「未来世代の生存可能性を確保する」という目標設定が明確になります。
 この目標設定から、その他の基本的方針が演繹されてくるでしょう。無軌道な開発の制限・抑止、人口増加の抑制、謙虚さを伴った生態系への関わり、など。

 ただ、正直に言うと課題や難点もあるのです。
 例えば、いま「人口増加の抑制」と書きましたが、これ一つ見ても、まず一つに「人口爆発」が予想される地域にはその地域の経済的・政治的事情があるということ、もう一つに、カトリックなど妊娠中絶に否定的な宗教や文化とどう折り合いをつけるかという問題、があります。前者は後者と関わる面もあり、そういう意味では政治レベルの課題でも思想レベルの問題でもあるという複雑さがあります。利害の調整という政治レベルで解決しなければならない面もあり、地域事情や宗教・文化の独自性を尊重しつつ折り合いをつけるという面では、思想的レベルでも時間と労力をかけた対話が必要になるでしょう。
 もう一つには「反・人間中心主義」からの批判がありえます。「人間を中心に据えたままでは、結局中途半端で不徹底なことしかできず、人類の存続という枢要な目標すら実現できなくなるのではないか」…とか。
 「それはありうる」と認めざるをえません。人間のエゴのある部分を肯定する限り、やはり「人間の欲望」に対して妥協的な部分を残すからです。これについては、松主義の内部努力を通じて「そうならないようにする」という以上の反論は、今のところ思いついていません。

    *

 ではちょっと唐突ですが、リクエストしていただいた「ディープ・エコロジー」の話に移ります。なぜ唐突に移るかと申しますと、さきほどの「松主義」も、この「ディープ・エコロジー」も、地球環境の悪化の度合いをどの程度「急を要する」ものと判断するかにより、現実への応用が変わってくるという点で共通のものがあるからです。

 「ディープ・エコロジー」に関しては過去に質問があります。なんと、先にご紹介した「環境破壊って本当にいけないの?」のすぐ一コ下です(下記参考URL参照)。すでにご覧になっているかもしれませんね。
 ディープ・エコロジーについて、私が述べたいことはすでにその質問のところで大体言及されています。まず、この立場は「人間もまた生態系全体の中で一定の地位を持つ《種》の一つにすぎず、何ら特権的なものではない」とする点において反・人間中心主義的と言えます。
 ただ、前回も述べたように、実は一時期、私自身この立場には傾倒していました。今でも全面否定はしていません。さきほど説明した「松主義」の対抗原理として、必要なものであるとすら思っています。

 では概略を紹介します。
 1973年に、ノルウェイの思想家アルネ・ネスが最初に提唱しました。「ディープ・エコロジー」=「深いエコロジー」というのは、「浅いエコロジー」すなわち「資源枯渇や汚染に反対する」、つまりは「松主義」にわりと近い考え方への対義語です。もっと根本的に人間と自然との関係のあり方を問い直し、「人間が自然を一方的に利用することができる」という価値観自体を刷新せねばならないと考えるものです。その意味では「生命平等主義」を含む主張です。
 ただ、ここで言う生命平等主義というのは、前回紹介した「アニマルライト」の考え方とは著しく異なっています。この違いを鮮明に示すために、一つ具体例を挙げましょう。
 ガラパゴス諸島って、ありますよね。ダーウィンが進化論のヒントを得たところとして有名です。現在、観光客を受け容れていますが、大小を問わず外来生物の持ち込みを今では禁止しています。現地生態系の攪乱を避けるためです。
 が、現地の自然保護監察官の主要な仕事はというと…実は大量殺戮だったりします。言葉は悪いですが。
 山羊です。今から百年ほども前にガラパゴスに赴いた宣教師が、食糧用に持ち込んだわずか数頭の山羊が、今では数十万頭にまで繁殖し、現地の在来生態系を圧迫しているのです。それでやむなく、自然保護監察官たちは毎日のように猟銃を持って山野を駆け巡り、山羊を射殺しまくっているのです。
 アニマルライトの立場だったら、このような挙に賛同することはありえません。なぜなら、生物の「個体」レベルで生きる権利を認めようとするからです。「苦痛を感じる能力をもつ」というのは個体レベルでのことです。だから一頭一頭の「個体」に、生きる権利を認めなければならなない。いくら生態系を攪乱するからといって、射殺するなどもってのほか。
 これに対して、ディープ・エコロジーでは「生態系全体のバランス」が最優先に重視されます。ある生物種が過剰増殖してそれを脅かそうとしている。しかも、その影響の排除が急を要するとしたら、ある程度強硬な手段もやむをえない。そういう発想になります。したがって、ディープ・エコロジーの立場からすれば、山羊の大量殺戮は肯定されることになります。

 ディープ・エコロジーが現実にアプライされた場合の危険さは、ここに由来します。「人間すらも種の一つにすぎない」わけです。それが「生態系全体のバランス」を崩すならば、「間引く」ことが肯定されます。少なくとも原理的には。
 「人口増加の抑制」は、ディープ・エコロジーの主要な主張の一つです。が、具体的にどのような手段をもってそうするかに関しては、先に述べた「松主義」と同様の困難を抱えています。漸進的に、緩やかに、のんびり進めてよいのか、それとも緊急に、苛烈に、容赦なく進めるべき危急の際にあるのか。その現状評価の違いによって、具体的な方法は「緩やかな産児制限」にもなりえますし、「即時大量殺戮」にもなりえます。ウィリアム・エイケンの極端な考え方などは、後者に結び付きかねません。また、No.22に書いたような、「人が傷ついてもかまわない」と考えるような環境保全運動の方向にも結び付くでしょう。むろん、質問No.26886での発言にも見られるように、いちおう彼らは「平和的・民主的」方向で行こうとはしています。が、これは「あくまでも人間は種の一つにすぎない」という大前提からすれば、「人々に抵抗なく受け容れてもらうための方便」でしかありません。理論的な枠組みというか、「核(コア)」とは関係のない、いわば外付けのアダプターみたいな要素でしかありません。原理そのものはあくまでも「反・人間中心主義」です。
 ゆえに、私は「ディープ・エコロジー」ははっきり「危険」と考えています。

 とは言っても、たぶんこれ、今の時点での「主流」なんだと思います。立場的にアニマルライトに近そうなJAVA(動物実験に反対する会)の関係者までもが、「ディープ・エコロジーを支持する」と言ってるの聞いたことありますし。たしかに、いい部分もあるんです。二元論的分離を超えて、関係主義的ホーリズムに到達できるかもしれない。しかし矛盾点もあるのです。
 「松主義」に対する対抗原理として作動してくれる分にはいいな、と思います。「自然の立場を代表して人間中心主義を掣肘しつづけ、その健全性を保たせる批判的言説」として作用してくれれば。ただ…人間でありながら、あるいは人知の及びかねる部分もありうる「自然」を代弁することが可能かどうか…そのへんに矛盾がありそうなんですが。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=26886
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この回答へのお礼

何度もおつきあいいただきありがとうございます。
お返事が遅くなり申し訳ありません。


ディープエコロジーに関してですが、

過去(No.10)に、
-->『生物の保護はなぜ必要か』ウォルター・リード&ケントン・ミラー著
をあげて
-->生態系にとって「正義」と呼べるものがあるとすれば、それは「多様性」である
と述べられている、と紹介いただきました。

多様性が正義であると仮定すれば、ディープエコロジーの思想
、つまり「生態系全体のバランス」を重視すべきとする思想は
肯定できるところもあります。
少なくとも現状では生物の多様性は自然を安定させる力において
人間の科学技術に勝っていることは明白ですから。

ただ、この思想で「自然」をどう考えているのかがちょっと疑問です。
推論するに、人間も自然の1つと考え、人間が生存・繁栄等のために
環境を変化・あるいは保護することも「自然」の活動の一環、つまり
種としての人間の活動であると、こういうことでしょうか。
もしそうなら、人間が自然を破壊し尽くす結果となっても、やはり
種としての人間の活動なのであるとも言うことができます。

するとこの問題は結局人間に投げ返されざるを得ない。
つまり人間中心主義の見方に戻ってくる。
ということは「ディープエコロジー」は人間中心主義の立場でしか
成り立たないのでは?というのが(以前少し出しましたが)現在の私の考えです。
(※人間中心主義というものが私の考えているとおりのものならば、ですが。)
上下関係で言えば、「ディープエコロジー」的な「実践」は
「人間」社会の倫理・道徳の後にくる、ということになるのかな?
(→つまり私はこれによって、人間社会の倫理・道徳を超越した「自然の倫理」を
 となえるのは無理があるのではないか、という一応の結論に達したわけです。)


また、多様性の維持とのことですが、現状では人間が強者の位置にあることは
明白です。その状態で、多様性の維持を志向する。ということは
強者としての立場を固定したいという意識もあるのではないか、と勘ぐってしまいます。
あるいは無意識に志向している。
それは、果たして「自然」だろうかと思うのです。

+++

さて議論が長くなりすぎた観があります。私の処理速度が遅くなってきた
ことも、長引かせる原因になってきています。
今回も結論をまとめようと試みたのですが、とてもまとまらず、
安易な結論を出すよりは、宿題としてもう少し考えようと思います。
という訳なので、今後、回答・補足要求などは大歓迎なのですが、
お返事が遅くなるかもしれません。

多くのことをご教授いただき大変感謝しております。

お礼日時:2001/04/26 13:48

No1で、「自殺、自傷はなぜいけないのか」と、同じ答えをあてはめればいかがでしょう? と回答した者です。




今までの回答を読んできて、「直感または本能」があるかないかの問題だと気づきました。
命の大切さに対する直感も本能もなければ、いくら考えても回答は出ないと思います。考えるだけ時間の無駄のような気がします。

この回答への補足

コメントありがとうございます。

>「直感または本能」
おっしゃるとおりとも思うのです。しかし

>「直感または本能」があるかないか
ない人はいないと思いますが、
しかし直感又は本能による判断基準は人によって、
あるいはその人がそのとき置かれた状況によって、
あるいは時代によって、バラバラではないですか?
それにも関わらず「環境」は共有資源であるなら、共通の基準をつくらなければ
いけないので、その基準を決めるときどうやって決めるかの
問題に関わってくると思うのです。

補足日時:2001/04/19 13:57
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再び補足がつきましたので、うるさいでしょうが3度目の登場となります。



>> 哲学的・倫理的に考えるならば、「根拠はありません」
>そうなのかも、とも思うのですが、なぜそうかを考えています。
話をこちらへ導くつもりだっのですが、もうスレッドが長くなりすぎて
いますので以降、このスレッドでの回答は遠慮するつもりです。

>ただ、抽象性は具体的なものの上に成り立つわけですから、
(中略)
>具体的事実で共通認識をもてば自然に抽象的な議論に向かうのでは
>ないかと思っています。
その通りです。抽象化のプロセスは自分でしなければなりません。
独力で考えることも必要ですし、対話により自分の考えを深めていく
ことも必要ですね。

>確かで、私の知力不足によるところが大きいので申し訳なく
>おもっています。
卑下することはありません。質問を吟味してもう少し抽象度をあげる
努力をなさってください。

ヒント:ここでお答えになっている方々が「無意識の前提」としてい
るのは何でしょうか?
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この回答へのお礼

おつきあいいただきありがとうございます。

>再び補足がつきましたので、うるさいでしょうが3度目の登場となります。
うるさいなんて思うはずがありません。

>このスレッドでの回答は遠慮するつもりです。
残念です・・・。
なんというか、申し訳ないです。

>卑下することはありません。質問を吟味してもう少し抽象度をあげる
努力をなさってください。

がんばりたいと思いますが、

>ヒント:ここでお答えになっている方々が「無意識の前提」としてい
るのは何でしょうか?

何でしょう・・・?
serpent-owlさんが述べておられるような「人間中心主義」の立場に
自覚的ないし無自覚的に立脚しているという点でしょうか・・・?
わかりません。
わかっておられるのでしたら、教えていただくわけにはいきませんか?
(それは甘えすぎでしょうか?)

お礼日時:2001/04/19 13:37

 No.10への補足を拝見しました。

ありがとうございます。
 で、早速なんですが、
>そんな必要ないと思うのですが。
>たとえば野生動物には、快適に生存する「権利」があったのですか?
>そんなものないと思います。
>権利とは人間(被抑圧者とか)が発明したものではないですか?
>人間以外の外部、たとえば生物に対して、人間と同等の権利をみとめることは
>できないのでは。
という箇所について。
 イマイチ通じにくかったでしょうか。「いちおう唯一の主体たりうる人間が配慮してやる必要がある」というのは、生物種が生存しつづけられるように、というだけの意味です。彼らに「権利」を認めるという意味ではなくて。はっきり言っちゃうと、「人間が資源として利用しつづけるために、その生物種が存続できるよう、人間として配慮する」ということだったのです(No.10でも「持続的に利用可能なように」…に続けて書いております)。だから、gattoさんが「人間中心主義の枠の中で、人間として配慮するのならわかる」と仰っているとおりの意味です。

 が、文字通り本当に「動物に生きる権利を認めよう」という主張もあります。ついでですから紹介しましょう。すでにちらっと言葉は出してあります。「アニマルライト」。オーストラリアはシドニー大学、「the革靴なんて絶対履かない人」ピーター・シンガー教授が最初に提唱したものです。この立場に関する書籍には『動物の解放』『動物の権利』(工作舎)がありますが、残念ながら絶版になったそうです(買っといてよかった…)。その後再版されたかどうかは確認できておりません。
 それはいいとしまして、内容です。その主張を一言でまとめれば、上に書いた通り「づ物に生きる権利を認めよう」になります。この立場から、彼らは動物実験、産業畜産、肉食、皮革製品、動物園などについて廃止すべきと主張し、運動しています。
 理論的骨組みも軽く押さえておきます。土台となっているのはジェレミー・ベンサム(18世紀の人、倫理の教科書的には「功利主義」の代表的思想家)の思想です。いわく、「苦痛を感じる能力を持つものは固有の利害を持つ、固有の利害を持つものは、その利害を調停される権利を持つ」。
 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、「苦痛を感じる能力を持つ」ということは、言い換えれば「自分がやってほしくないことを持っている」ということです。だから「自分がやってほしくないことを他人にするな」という相互承認の対手でありうるのだ、と。そしてその点において、人間も動物も何ら変わりはないのだとまで、彼らは言い切るのです。
 『動物の権利』、こちらはシンガー氏編著の論文集なのですが、これに寄稿しているトム・レーガンという人の論文はなかなか過激です。「人間とは何か」という人間の定義、これを思いつく限り挙げていって、そのすべてを完膚なきまでに解体してしまいます。「どのような定義をとっても、必ずその定義にしたがって除外されてしまう《人間》が出てくる」と。
 こうして彼らは、人間と動物との間に線を引こうとするあらゆる考え方を拒否し、両者を連続的に捉えようとします。そして結論。「権利において人間と同等の動物を、人間が一方的に利用してよいと考える根拠はない、ゆえに、道徳的に正しくない」。
 このような考え方から、アニマルライトは「肉食うな、動物を実験に使うな、動物園なんかやめろ」と主張してくるわけです。

 ご覧になるとわかると思いますが、この立場はかなり極端と映ります。なので、実は諸々の環境保全運動家の間でも少々「浮いて」いる思想でもあるのです。理論的な骨組みは意外としっかりしており、なかなか侮れないものなのですが、ちょっとついていきにくい。
 私もアニマルライトは支持しません。「人間中心主義者」ですから当然そうなります。アニマルライトは「人間だからと言って動物たちの中で特別な存在ではないのだ」と考えるわけで、反・人間中心主義を代表する考え方の一つですから。

 とりあえず「こんな考え方もあるよ」ということで紹介しました。反・人間中心主義を代表するもう一つの考え方に「ディープ・エコロジー」があります。実はこれ、私自身、一時期傾倒していたものだったりします。この次くらいに紹介しましょう。

この回答への補足

ご親切な説明をありがとうございます。

>イマイチ通じにくかったでしょうか。
・・・
>わかる」と仰っているとおりの意味です。

はい、勘違いしてました。すみません。 

>アニマルライト
アニマルライトの思想の論理性については、一部鋭いものがあると
感じました。
>「どのような定義をとっても、必ずその定義にしたがって除外
>されてしまう《人間》が出てくる」
から
>両者を連続的
にとらえるところなど。

しかし
・動物と他の生物との境界の根拠が甘いのでは?
 →(野菜を食べるな、と言うこともできてしまう。苦痛を感じる能力を
   判定する科学的根拠が疑わしいから)
・ある動物が他の動物の「権利を侵害」したら、罰したりしちゃうわけ?
など、理解しにくい点があります。
「極端」と言うより、いい加減に見えます。

>とりあえず「こんな考え方もあるよ」ということで紹介しました。

ありがとうございます。ここまでしていただいて大変感謝です。

また、自身の立場とされる「人間中心主義」の根拠や、
「ディープ・エコロジー」なるものについても
よろしければご説明いただけませんか?

また、no.10での私の補足のうち、コメントなさらなかった部分
について、どうお考えかよろしければお聞かせください。

いろいろ要求してばかりですね・・・。
もう少し整理する力を身につけたいと思います(自己反省)。

補足日時:2001/04/19 13:42
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 反論めいた言い方に見えてしまうかもしれませんが、「行動」の背景にはそれを決定するある種の「思想」が動いているはずです。

それ自体は「哲学」と呼べるほど大仰なものとは限りませんが、これに関しては、やはり哲学・倫理学的な考察対象になりえます。
 たしかに行動は大事です。それがなくては何も解決しませんから。ただ、その行動方針を決定する思想に反人間中心主義的な傾向のものを採用している場合、結果的にその行動が「うーん、それでいいのかなぁ?」っぽいモノになってくることがあります。
 例えば、アメリカに“The Earth First!”という環境保護団体があります。団体名自体、直訳すれば「地球を第一に!」ってことですから、なんかもう、名が体を表しております。この団体が採っている「戦術」として有名なのが、森林伐採阻止を目的とした「ツリー・スパイキング」です。木の幹に、釘をたくさん打ち込むんです。もちろん、木そのものの生命には影響ないように。
 で、こういう木をチェーンソーで切ろうとするとどうなるか。チェーンソーの刃が粉々になって飛び散るわけです。当然、チェーンソーを使っている人に危害が及びます。今までのところ、死者が出たとは聞いていませんが、負傷者は現実に出ています。
 他にも、行動が過激なことで知られているものに「シーシェパード・コンサベーション協会」があります。船でクジラ密漁船に体当たりして「撃沈」してしまったという実績を持っています(船沈めるのって、環境破壊じゃないの…?)。
 ちなみに、グリーンピースなんてのは非常におとなしいもんです。せいぜい「威力営業妨害罪」スレスレの線までしかやりませんから。(GPに関しては、農林水産省およびマスコミにより誤解が巷間に流布されているようです。クジラ問題についても同様で、少なくともオフィシャルな声明では「かわいいから、頭がいいから」とか「食べてはいけない」とかいう根拠は掲げていません。むしろ基本的には「資源としての持続的な利用継続のために保護すべし」という立場です。)

 要するに、方針を決定する「思想」の持ち方一つで、行動の様相は「テロ」にもなりうるということです。この場合、それがテロであるから、殺人罪であるから、傷害罪であるから、威力営業妨害罪であるから、などなどの法律的な議論だけでは問題の根本を押さえたことにはならないでしょう。「いかなる目的であれ、罪のない人を傷つけるのはよくない」という考え方で対抗すれば、いくらか倫理の問題になってきますが、しかしテロリストの方々はそんなセリフは聞き飽きています。「大義の前に多少の犠牲は…」という「思想」を突き崩すことは困難です。
 少々「環境問題」から離れてテロリズム一般のハナシになってしまいますが、「テロはよくない」の一言で済ませてしまうのではなくて、それを生み出した問題の根源まで遡って検討しなければ理解も解決もできないと考えます。自爆して自分が死んでもいいから相手を殺したいというほどの憎悪と怒りというのは、生半可なものではないです。

 話が逸れましたので戻します。
 哲学・倫理学の問題として考えると、やはり「人間中心主義」が一つの考究すべきポイントになってくると思うのです。人類の生存を優先させるか、自然を優先するか、はたまたあるいは、人間と自然とを切り分ける問題の図式そのものを批判・検討するか。こうした問いの立て方をすれば、それは哲学の問題になってくるでしょう。
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 哲学とか倫理とか「理屈抜き」で、身の回りのことから「環境破壊」について考えてみましょう。


 例えばgattoさんの住まいの隣に突如高層マンション建設計画が持ち上がったとします。ゴミ処理場でもいいです。gattoさんをはじめ近隣の方々は連合をつくって当然反対しますよね。名目は、日照権とか、景観、電波障害、風害等々、さまざまな環境破壊をあげて反対する訳です。このことは、他の地域の人々、ましてや世界の多くの人にとっては無関心の出来事です。とすると、gattoさん達は、自分たちのエゴだけで行動しているのでしょうか。多分そうじゃないと思います。
 このことをもっと広い範囲、つまり地球規模で考えてみては如何でしょうか?オゾン層破壊などは現段階の日本では、それほど深刻な事態にはなっておりません。でも、このままの破棄が続くならば、確実に今の子供達、孫達の世代には、皮膚ガンが増加し、防御なしには外を歩けなくなるであろうと警告されております。今を楽しく過ごせばいいという問題ではないのです。
 gattoさんも難しく考えることもいいですが、自分の日常行動に於いて、何をどうすれば環境破棄にならないか、小さなことから積み上げていけば、いずれ哲学的解明に結びつくと思います。まずは行動あるのみです。

参考URL:http://naturalist.go.to
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