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精神論は役に立ちますか。
それとも不毛なものなのでしょうか。

A 回答 (7件)

第二次世界大戦時の日本が戦略・戦術や諜報・ロビー活動・外交などで失敗し、物資の不足などを覆い隠してしまった精神論については、「戦争に敗けてしまった」という観点からすれば、反省すべき点が多々あります。


戦争には詳しくありませんし、上記に誤認があるかもしれないので、これ以上の言及は他の方にお任せしたいと思います。

しかし、本来の精神論とは不毛ではなく、かつ無視すべき存在ではありません。

アメリカを見てみるとよく分かります。
一例としてテニスをあげて見ます。
アメリカでのテニスの練習は一般的に馴染みが無いと思うのですが、どのようなイメージを持たれるでしょうか。
チュッチュベロベロキャッキャウフフなことをやりながら、楽しみながらかつ合理的な練習をやっているのでしょうか。

合理的なトレーニングをやっているというのは正解です。但し、精神論が全く無いというのは不正解です。
テニスのトレーニングの為、アメリカで練習した人のお話しが記憶にあるのですが(どこで聞いたのか思い出せない・・・)、練習中に笑っていると「なんで笑っているんだ、どうして真剣にやらないんだ」と結構ガチで怒られるのだそうです。

また、テニスから外れてなぜアメリカがあのような巨大なパワーを手に入れたのかという点について考察すると、次の点が見えてきます。
人は自分が正しいと判断する事に対して積極的な行動を選択し、正しくないけれどもやらなければならないという行動には消極的な参加を選択します。正しい行動と認識すればするほどそのモチベーションは上がり、その結果も比例する。逆に、消極的な選択をした行動の場合には、正しい行動と認識した行動の結果と比較した場合には、その結果は同じとなる事は殆どなく、むしろそれ以下の結果を残す事が通例となります。

その意味において、アメリカは「正義の国」である事を自認しています。自らの行動と結果により心理的な自己強化を図っているのです。
そうした精神的支柱と自らの正当性を謳う事により、その強大なパワーを発揮しつづけているのです。
こうした自己の意思を貫き通す力をどうやって持つか、という事を精神論と呼ぶならば、この精神論については、その結果から見て必要だと私は考えます。

第二次世界大戦を思い出し「精神論は不要だ! 」と考える事は容易ですが、それでは人間の真に求めうる答えに到達できません。
我々はまだ精神論なるものについて、どう捉えるべきなのか、どう扱うべきなのかについて未熟な存在です。歴史を反省した上で、まだまだ学ばねばならない事が沢山ありますので、これからの私達にとって必要なものになる事には間違いありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/01/27 21:44

意思と精神の力は役に立つが、精神論 は役に立たない。



No.5さんが正しいと想いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/01/27 21:45

「精神論」、人に無理難題を押し付けるとき、「精神論」におちいるようです。



学校の教員が、無茶な宿題を出して、児童生徒を虐待するとき。

その道をきわめた人は、みな独自の「精神論」「身体論」「方法論」を確立しているようです。

テレビで、「心眼」という言葉をききました。人間の視界には、限りがあります。視界の外、視界のなかでも、

障害物の向こうが見える、見通せることを「心眼」というのだと思っていました。

「レッドクリフ」という洋画を見ました。軍隊の兵力では、圧倒的な差がありましたが、負けるのですね。

天のときは、地の利に如かず、地の利は、人の和に如かず。「精神論」が、森羅万象の力を味方にするとき、

奇跡は、起きるというか、起こせるのでしょう。

「精神論」が、合理的で、「正義」「大義」の実現のためであれば、必ずものになるでしょう。

「精神論」も「哲学」、「思想」も立場の違いで、たくさんあるような気がします。「政党」「宗教」「企業」「団体」「地域」

ごとに。

人間一人一人が、独自の「精神論」を確立して、生きていくことがよいのでしょう。

私の「精神論」は、なにもしないこと。余計なことはしないこと。困っている人がいたら、一緒に困ってあげること。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/01/27 21:45

強靭な精神、不屈の精神がすべての仕事、すべての偉業の基本ですね。



でも、精神論は役に立たないと思いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/01/27 21:44

精神の鍛え方を知らずに精神論を述べたところで、それは机上の空論と言う意味で、何の役にも立たないでしょう。

ですから、精神論を述べるためにはそれを鍛える方法論も述べなくては成らない。

例えば、勝海舟は自伝の中で自分の精神の鍛え方を具体的に紹介しておりました。彼は、若い頃毎日真夜中過ぎに、木刀を背負ってある適当な距離にあるお寺のお墓までジョギングをしていたそうです。そこに着いたら、お墓の中で木刀の素振り千回をやる。それが終わったら、息を整えるために日によって適当なお墓を選んで、その前で座禅を組んでしばらく瞑想してから、またジョギングで家まで帰ったそうです。勝はそれによって自分の精神が随分鍛えられたと言って居ります。

また大分昔に、どうしようもない暴走族の連中を数人集めて、富士山麓の自衛隊に体験入学をしているドキュメントを、テレビで流したことがあります。彼等は、その訓練を始る前には、訓練の自衛官に向かって「お前らなんかにどうこうされるような俺たちじゃねえ。お前らの訓練なんて糞見ないなもんだ。まあ見ているがいい」とほざいて居りました。そして訓練が始まりました。

その中で最も感動的だったのは、20~30Kg位のリュックを彼等に背負わせて富士山麓で数十Kmの行軍をさせたときでした。7~8人の体験者のうち、2~3人が途中で悲鳴を上げて脱落し、こんな無駄なことやって何に成るんだ、とクダをまき、体験入学を途中で打ち切って、あとは、どなり散らして脱会してしまいました。ところが、残りの体験者は途中で這いつくばりながら、泣きながらその行軍をやり遂げました。そしてゴールに到着した後、彼等は、自分にもこんなに苦しみに耐える力が在ったのだ、と大声で泣きながら感激の涙に咽せていました。そして、その後、そのやり遂げた人達は、自分から暴走族であることを恥じ、まともになっているのをそのドキュメントは見せてくれました。勿論、脱落した連中はその後も相変わらずの暴走族でした。だから、精神を鍛えることは出来るのですね。

個人的な話になって恐縮ですが、私も若い頃山岳会に入って、新人として40kg程もあるリュックを背負わされて、穂高の夏山合宿に行った経験があります。そのとき、涸沢のベースキャンプに這いつくばりながら、朦朧とした私を起こすために先輩の張り手を食らいながら到着できたときには、自分の力に驚き、私もやはり泣き叫びました。あの張り手があんなにも気持ちが良い物だとは思いもしませんでした。だから、その経験で、そのテレビのドキュメントが本物であることは、私にも理解できたのです。その後、私は一見不可能に見えることでも、自分の限界以上に見えるところまでトコトン試してみることに自信がつくようになったのです。その訓練で得た私の精神力は、その後の私自身の人生でいろいろなところで役に立って来ました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/01/23 16:59

とっても役に立つと思います、いざという時に精神力があれば


持ちこたえる事が出来ますから。
ただ、精神論を唱える方々に、環境の改善など試みず、
精神力でなんとかなると思ってらっしゃる方が多いのが困ります。

肉体にも精神にも限界があります、
精神が限界を超え崩壊した時どうなるか・・
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/01/23 16:57

「精神論」が全ての根底ですよ。


他のスキルを身につけても、精神論がないと活きません。
精神論を言わない方も多いですが、
それは、精神論はあって当たり前だから割愛してるだけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/01/23 01:49

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