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どなたか歴史に詳しいお方、教えて下さい。妻と何かの話題から「服部半蔵」の事で議論となりました。半蔵は確か伊賀組を預かっていただけで忍者ではないはず…と、女房に説明をしても納得してくれません。「忍者ハットリくん」と「影の軍団」の影響が強いようです。

A 回答 (3件)

半蔵門の由来などで世間一般に知られる半蔵(2代目)は仰る通り武将であって、自身は忍者ではありません。


また、伊賀同心を部下に抱えたのも武将として名を馳せた後です。それまでは槍の名手として活躍していました。本能寺の変の後、家康を逃がすために伊賀、甲賀の人間と交渉して逃げ道を確保したあたりから忍者達との接点が生まれて来ています。

ただ、父親である初代は伊賀出身の忍者であったというのが通説であり、全く関わりがないかというとそういうわけでもありません。
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この回答へのお礼

ご親切に有り難うございました。

お礼日時:2011/01/23 09:58

まー、水戸黄門と徳川光圀の違いのようなもんで、


あるいは「三国志演義」と「三国志」

表向き、改易になった後も、代々、伊賀忍群の頭領として歴史を左右し、
平成の世になっても「ニンニン」とやってくるのが、
フイクションの服部半蔵

史実の初代服部半蔵保長は、室町十二代将軍足利義晴から仕事を頼まれたこともある
その方面では優秀な伊賀忍者で、
松平清康(家康の祖父)が、三河の大半を勢力下にし、
京へ上洛した時の帰路、伊賀を通った折に、宿に忍び込み、
「これからは、われらのような者も必要となりましょう」
と忍術を披露し、仕官を申し入れ、雇われ、
服部家は三河に引っ越しました。

 家康の幼馴染みで、本能寺の変の折の伊賀越えで活躍した
有名な服部半蔵は
二代・服部半蔵正成で、父に鍛えられ忍術の技量も身につけましたが、
槍自慢の武将として活躍、家康の関東入国後、与力三十騎および伊賀同心二百名を預かり
同心給とあわせて八千石を領した。自身は武将であったが、父親が伊賀の上忍出身であった縁から
徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になったという。

代々の服部半蔵と伊賀同心は、荒廃していた江戸周辺の治安維持と街づくり開発に尽力し、
「隠密同心」と江戸っ子から敬愛され、半蔵門に名を残しましたが、
子孫の半蔵と伊賀同心の揉め事から、服部家は改易され幕府をクビになりましたが、
後に桑名松平家に仕え、幕末史に、京都所司代松平定敬の重臣として服部半蔵が登場し、
戊辰戦争で活躍しています\(^^;)...
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この回答へのお礼

わかりやすく教えていただきまして有り難うございました。

お礼日時:2011/01/23 09:54
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この回答へのお礼

有り難うございます。さっそく見てみます。

お礼日時:2011/01/23 09:56

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