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福沢諭吉は日本の近代化をどうとらえたのですか?
また日本の近代化に伴う問題、課題についてどういった対応をしたんですか?

A 回答 (2件)

訂正。

たとえばアヘン戦争なんかでも清国に敗北しました。の部分ですが、「アヘン戦争」なんかでも清国は敗北しました。タイプミス・・・

続きです。

そして1884年に、こんなことがありました。それは「清仏戦争」です。これは何なのかというと、「ベトナム」をめぐる争いです。というのは、当時「ベトナム」は清国の属国でした。つまり「朝鮮」と清国と同じような関係ですね。そんな中、フランスが「ベトナム」を侵略しようとしてきたのです。当然、子分を守るのが親分。そこで「清」と「フランス」が戦争をしたのですが・・・結果は清の敗北。
結果、「ベトナム」はフランス領土となってしまったのです。

この結果に一番響いたのは「朝鮮」でした。だって、同じ「ベトナム」が清が負けたことによって侵略されてしまった。じゃあ、朝鮮も同じ経路をたどるんじゃないの?と思ったのです。そこで起こったのが「甲申事変」という事件です。これは「親日派」の連中である「独立党」の、いわゆるクーデター事件です。最初は政府も相手にしていなかったのですが、ここで驚きの事実が発覚します。それはそのクーデター事件のバックに、あの「日本公使館」があったのです。バックに日本がいると分かった以上、清国と日本の関係は悪化しました。

ところが、両者とも戦争なんかしたくない。なんで?だって、清国は先ほどの「清仏戦争」で負けたばかり、そして日本は・・・国内の充実化に集中したい。内閣制度などを整えている最中だったので・・・なので、両者とも利害が一致し、「天津条約」を結ぶことによって、日本と清国との戦争はとりあえず回避したのです。


ここまで歴史的背景なのですが、ここで登場してくるのが「福沢諭吉」です。福沢諭吉はこれまでの「日本」の政策を見て、「これじゃいかん!」と思い、「時事新報」の中で「脱亜論」というのを発表しました。これは先ほども述べたとおり「日本はアジアなどに目を向けないで、ヨーロッパと対抗していける国になければならない。」という見解です。どういうことか?というと、先ほどから説明したとおり、日本は国内充実化をする!といっておいて、「清国」や「朝鮮」などのアジアの中でしか、動きを見せていません。これじゃ、いずれヨーロッパからも「あいつら視野がせめーな」と思われる恐れがあったのです。そこで福沢諭吉はこんなことを言いました。

「日本はね、アジアから脱して、欧米列強の一員となるべきなんだよ!アジアなんかにとらわれちゃだめなんだよ!で、清国と朝鮮に対しては条約なんかいらない。武力をもって対処すべきなんだよ。だって、日本は清国なんかよりもぜんぜん強いんだから!」

こんなことをいい、福沢諭吉はあの「慶応義塾」を設立しました。これは元々「ヨーロッパと対等に渡り合える人材育成」を目的に設立されました。福沢諭吉は日本の近代化をアジアの中ではなく、ヨーロッパという広い視野で見ていたんですね。

でもこの意見が、当時あまりいい方向に解釈されていませんでした。特に、「武力をもって」というところが欧米諸国からも批判されたのです。なので、今では福沢諭吉は一万円札の肖像画となっていますが、実は欧米諸国からは「戦争をしろ!といった人なのに、お札のシンボルにするのはよくないんじゃないの?」と批判されたほどです。

でも間違えてはいけないのが、福沢諭吉は決して「戦争をしろ!」なんていっていません。そうではなく、「ヨーロッパと渡り合えるくらいの強い国にしていかなければならないんだよ!」といったにすぎないというわけです。これが富国強兵などにもつながっていくというわけです。

長くなりましたが、分かってもらえたでしょうか?
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こんにちは。

ちょうど今、福沢諭吉について勉強しましたので、一応説明してみたいと思います。

やはり福沢諭吉で有名なのは「脱亜論」ですよね。これは何なのか・・・といえば、簡単に言えば「アジアなんかでぐちぐちやってるんじゃなく、もっとヨーロッパと対等に渡り合える国になるように近代化をはかるべきだ!」という内容です。

って・・・言っても急に何?って感じですね?そこで、当時福沢諭吉が唱えた「脱亜論」・・・これを唱えた歴史的背景とはいったいなんだったのか?それを踏まえながら説明していきたいと思います。


明治初期に、日本国内では「征韓論派」と「国内近代化派」というので分かれていたのは知っているでしょうか?では、なぜ征韓論というのが出てきたのか?

ずばりこれは朝鮮と清との属国関係を終わりにするためです。当時清と朝鮮は親分子分の関係、つまり「属国関係」にありました。1870年代の日本は朝鮮といろいろと条約を結びたがっていたのですが、それには必ず親分である「清」が関与してくる。日本にとってはそれは、とてもやりにくかったのです。そこで、日本は清と朝鮮との属国関係をなくそうと考え、「征韓論」というのが出たのです。
ところが、これは「国内近代化派」による政治家によって挫折しました。当時日本はまったく近代化していなく、彼らは朝鮮との関係なんかより、「条約改正」を第一と考えていたのです。だから、「挑戦なんか今はどうだっていいじゃん!そんなのよりも、国内を近代化して、条約改正しないと!」という動きの方が強かったんです。そして、征韓論は挫折して、日本は国内近代化という動きへと入るはずだったんです。

ところがこんな事件が起こりました。それは1875年「江華島事件」です。これは何なのかというと、日本の軍艦である「雲揚」が江華島付近で海路測量をしていたのですが、それを朝鮮が挑発とみなす軍艦を攻撃した事件です。(実際に日本は挑発を狙っていたといわれています。)
そこで怒った日本は、「てめ!よくもやってくれたな!」となり、朝鮮に対してこの事件の責任を追及してきたのです。それが、1876年「日朝修好条規」です。これによって、朝鮮を開国させ、「領事裁判権」や「関税免除」などの権利を持ち、朝鮮と不平等条約を結ぶこととなったのです。

そして、日朝修好条規を結んだ結果、朝鮮国内でこんな動きが現れました。それは「親日派」と「親清派」の対立です。えっ?と思うでしょ?どうして不平等条約を結んだのに、「親日派」が現れたのか・・・それは日本の条約を結ぶときの態度に理由がありました。というのは、当時アジアのほとんどの国がヨーロッパの植民地という状態にありました。実は先ほどやった江華島事件なんですが、あれの一連の流れはヨーロッパがアジアの国を植民地にしようとする際につかう定石手段だったんです。つまり、日本はヨーロッパと同じ手段を使ったのですが、そのとき条約する態度がヨーロッパよりも紳士的な態度だったといわれています。
ヨーロッパは当時アジア人種を「奴隷」というような見方をしていたので、アジア人に対する態度がひどいものだったのですが、日本と朝鮮は同じ「黄色人種」。なので、比較的ヨーロッパよりも態度がやさしかったのです。そこで「親日派」の人たちはこう思うわけです。

「もしかして、清と仲良くするよりも・・・日本と仲良くした方が安全なんじゃないかな・・・」」

というのは、当時清国はいろんな戦争に負けていました。たとえばアヘン戦争なんかでも清国に敗北しました。弱い親分に従うよりも、やさしくて強い親分に従う方がいいでしょ?なので、親日派というのが現れたのです。

しかしこんな事件が起こりました。「壬午軍乱」です。これは何なのかというと・・・この「親日派」に対する朝鮮国内の反乱です。やはり、いくら紳士的な態度をとったといっても、やり方はヨーロッパと同じですから、それに反対する人も当然出てくるわけです。そこで親日派に対抗する人たちが、朝鮮国内にあった日本公使館を焼き討ちにしました。これに激怒した日本は、朝鮮に対して謝罪を要求。やがて1882年に「済物浦条約」を締結したというわけです。

しかしここで日本の誤算がありました。それは「親日派」が路線転換し、「清」への依存を強め始めたということです。いったいなぜ?それは、もともと親日派が日本を好きになったのは「日清修好条規」における日本の態度だったからです。確かに、今回の「壬午軍乱」を起こしたのは朝鮮側でしたが、今回のやり方はあまりにも冷徹で条約内容も厳しいものでした。
そこで「親日派」は「なぁんだ・・・やっぱり日本もほかと同じか・・・」とがっかりして、やはり今までお付き合いしていた「清」に対して依存を強めるようになったというわけです。
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この回答へのお礼

丁寧に説明していただいてありがとうございます♪ちょうど勉強してたからって、ここまで答えられるなんてスゴいです☆

お礼日時:2011/02/12 00:27

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