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「詩的イマージュ」とはどういうものなのか教えてください。

A 回答 (2件)

(承前)



ところがそういうプロセスを経ない「悲しい」「恐ろしい」「感動した」という言葉は、実のところ、わたしたちにはその字面以上のものは何一つ呼び起こさないのです。

そこで小説では、ストーリーの助けを借りて、読者に登場人物と同じ経験をさせていきます。登場人物と同じ経験をすることによって、読者は登場人物と同じ感情を自分のものとして経験するのです。たとえば親に疎んじられた子供が大人になって田舎に先生として赴任していき、そこで自分を幼い頃からたったひとり、かわいがってくれたばあやから手紙が来て、その手紙を縁側で読んでいたら、長い手紙がひらひらと風になびいていく、ということを読むことによって、わたしたちはそこには言葉として書かれていない「人が人に寄せる愛情」というものを、自分で汲み取ります。その認識は感動をともなっています。

それに対して、詩は、言葉によってわたしたちをその世界に招き入れ、その世界を「見せる」のです。その影像は、時間が凝縮され(あるいは引き延ばされ)、何かが「そうあるほかない」かたちを取っています。陽が沈む、という自然界の出来事が、言葉を通して自然界の出来事であることをやめ、人間の精神の領域にはいってきます。言葉の働きによって、ひとつの影像を精神が受けとる。そうして今度は、その影像を受けとったわたしたちがいままでいた世界の方が、それとひとつになっていくのを感じるのです。

「詩的イマージュ」とは、そうした影像のことです。

以上、参考になれば。
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この回答へのお礼

ghostbusterさん、お忙しいところご回答いただきありがとうございます。

まったく少年少女以下の知識しか持ち合わせていないので頓珍漢な」質問かもしれませんが。
例えば、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」という短歌なんですが、これだけ読むと、一個の美しい花瓶とそれにさされた一本の美しい藤の花ぶさを表現しているにすぎないように思えるのですが、この作者が正岡子規であり、現実の彼の病室の光景と対応させると、一気に感動を呼び起こしますね。こういう感動というのは詩的イマージュの賜物なのでしょうか。

お礼日時:2011/02/08 02:38

「詩的イマージュ」については、いろんな人がいろんなふうに説明していて、質問者さんがどの程度の知識があり、どういう問題意識を持っておられるのかわかりませんが、そもそも「詩的イマージュ」というのはいったい何なんだ、というレベルのご質問であると理解して回答したいと思います。



これに関してはイギリスの桂冠詩人C.D.ルイスが十代の少年少女に向けた講演がもとになっている『詩をよむ若き人々のために』(深瀬基寛訳 筑摩叢書)という本が、一番わかりやすい説明をしているのではないでしょうか。

ルイスは「詩というものをなにかしらぼやけた、つかみどころのないものと考えるのはたいへんなまちがいです」と考えている人ですので、ここでもきわめてクリアカットに論が進められていきます。

第三章「詩の七ツ道具」という章で「詩の用語もけっして科学的用語におとらない正確なことばでなくてはなりません。でなければ、感情のこまかい味わいを生み出すこともできないし、毎日見なれた事物を、生まれてはじめてながめるようにあざやかに、われわれの想像力をとおして見せることもできないわけです。」(p.53)と言っています。

この
・感情のこまかい味わいを生み出す
・見なれた事物を、生まれてはじめてながめるように見せる
というのが、詩の役割であり、そのための「道具」が「イメージ」だというわけです(そのほかにも直喩、隠喩、韻律などという「道具」があげられています)。

では、この「イメージ」(お好みならば「イマージュ」と言ってもかまいませんが)とは何か。ルイスは端的にこう説明します。

「イメージとは読者の想像力に訴えるような仕かたで詩人の想像力によってえがかれた言葉の絵のことです。たいていのばあい、イメージは、ただ単に詩人の目にとまったある物を記述したり写したりするために使用されるのではありません。イメージのはたらきは、ある物を詩人が見たときその詩人の感情によっていろどられたままのその物、あるいはその詩の全体の気分によっていろどられたままのそのものを記述することがあります」

これだけだとはっきりしないかもしれませんが、このあと、実際の詩を例に取って説明されていきます。本をお読みいただくのが一番良いのですが、ここではその中からThomas Nashe の"In Time of Pestilence" を引きつつ説明した箇所を引用します。詩の箇所の翻訳は省略。

 Brightness falls from the air;
 Queens have died young and fair;
 Dust hath closed Helen's eye.
 I am sick, I must die.

「はじめの三行はいずれもひとつのイメージになっています。最初の一行はちょっとみるとつかまえどころのないもので、なんとなくわたしたちが日没を見てよくかんずるような悲しい気持をあたえます…略…

つぎのイメージはもっとはっきりした特殊なイメージです。詩人は若くして死んだうつくしい女王たちのことを語っています。第三のイメージはおなじ主題をさらに一歩せまく限って、かつてない美人といわれたトロヤ城の女王ヘレナのことをさしています。

これらの三つのイメージをつらぬいて走っているものが、とりもなおさず詩人をしてこの詩をかかせた感情なのです。それは最後の行にいたって明瞭になります。それはつまり、わかくして死んでゆかなければならないことにたいする恐怖と、すべてのうつくしいものも亡びなければならないことの悲しみです。」(p.56)

だいたい、「詩的イメージ」というのはどういうものか、おわかりいただけたかと思いますが、逆に、イメージなど用いずに、どうしてもっと端的に直接悲しみであるとか、怖れであるとか、美しさを感嘆する気持ちであるとかを言葉にしてしまわないのか、というふうに問題を立ててもいいかもしれません。何もそんなふうに持って回ったことを言わないで、「言いたいこと」をそのまま言えば良いのではないか、と。

ところが「悲しい」「恐ろしい」「感動した」という言葉は、あるいは「雨」でも「夜明け」でも「花」でもよいのですが、それだけの言葉は、実のところ、わたしたちにはその字面以上のものは何一つ伝えないのです。「悲しい」という言葉はわたしたちの内側に何の感情も呼び起こしません。

わたしたちは言葉によって考えるわけですけれども、もっと言うと自分にとってまだ言葉にならないものを言葉にしようとすることが考えるということでもあります。それを重ねていって、ある段階に達して、ある言葉を得る。そのときわたしたちは何ごとかを認識したと感じるわけです。

(続く)
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