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キリスト教では、パウロが手紙で自殺したら天国へはいけないと書いていますが、
仏教でも、自殺したら極楽浄土へは行けないのですか?

A 回答 (11件中1~10件)

始めに聞いとくけど自殺するつもりはないよね?


他人事のように、やめときなとしか言いようがないけど。
違うならいいんだけどね。

そもそも、天国も地獄も人が造り上げた想像上の世界だと思うよ。

天国に行けるんだと思うことで、悪事をしないようにだとか、もっと自ら進んで良いことをしようと思わせて
逆に悪いことすれば地獄という誰もが行きたがらない世界に死後行くことになるっていう恐怖を与えるために造り上げられたモノみたいな?

きっと昔の人は神だとか仏だとかも信じてただろうし、人間には魂があって、死後必ずあの世(天国や地獄)へ行くんだっていうのも信じてたんだと思うよ。

誰が作った設定か知らないけど
よほど影響力があったんだろうね。

そう言う話を聞いても確かめることなんて出来ないし、信頼出来る人や身分が上の人が、そうだ、って言ったら、そう、になっちゃうんだよ。

昔はマンガなんてモノがないから
面白いし夢があるから信じたかったんじゃない?
その当時の人にマンガのワンピースの話をしたら、悪魔の実探しに行っちゃうんじゃないかな?
↑話それたね。


ま、天国だとか地獄だとかの設定もそうだし、どちらかに行く条件も人によって曖昧だったり、つごう良かったりとか、穴ぼこだらけの設定だよね。それがまた良かったんじゃない?

完全否定の意見だけど、信じる信じないは自由だよ。
死後、意識があって認識できれば答えはでるよね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
自殺するつもりはないですけど、将来自殺したくなったら、成仏できないかな、と思いました。
納得のいくご回答、感謝感謝です♪

お礼日時:2011/02/07 18:20

 自殺したら地獄へ堕ちるなら『自殺に追い込む』のは誰かを陥れる最高の手段になりませんか?


私でしたら自分の子供を虐めた人達は全員自殺させたいと思います。
そうすれば彼らは全員確実に地獄行きになります。
最高の復讐手段です。
物騒なことを書いてすみませんでした。
今のは例え話ですので気になさらずに。

 話は変わりますが、犯罪者を罰する場合でも犯罪に対する罰しか与えません。
しかし犯罪者はそれまでの人生でかなり苦しんだはずです。
だから犯罪者になるのです。
私の知り合いの意地の悪い人は大抵不幸な幼少時代を過ごしています。
さて、今までの人生の苦しみは刑罰で本当に考慮されているのでしょうか。
犯罪者が悪人と考えるのは正しいと思います。
しかし犯罪者を犯罪者たらしめた物事は罰せられないのでしょうか?

 自殺者が罰せられるのなら『自殺者を自殺させた要因』が罰せられないのはおかしいと思います。
ひとりの人間が自殺するまでに関わった人間は非常に多いです。
と、すると自殺者を自殺者たらしめた大勢の人々が悪人となります。
その大勢の人々を悪人にしたもっと大勢の人が悪人になります。
と、繰り返すと人類全員が悪人になってしまいます。
これではキリがないので私は『誰も責められない』と考えます。
よって自殺者は地獄へ堕ちない、と私は考えています。

 もちろん自殺しないに越したことはありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/02/11 01:01

宗教ではなく、人間は結果には必ず原因があると考える傾向にあるんです。




以前、英会話の教材だと知らされず、旅行の会員になると、破格で旅行ができるということで、話を聞きにいったことがある。
確かに、旅行の参加費用は安い。
だけど、会員になるには 80万の英会話教材を買う必要があると言うのです。

売り込むセールスマンは「もちろん私も会員ですから持ってます。が一度も教材を開いて勉強をしたことなど無い」と言っていた。

で、私は教材はいらないから、会員にだけなりたい というと、条件は80万の教材を買うことですから、別売りはできないと。

それで1時間話を聞いたあげく、断ったんです。

すると、セールスマンの顔がみるみる赤くなり、とたんに無言になった。

彼にしれみれば「これだけ仕事をしたのだから、当然その見返りとして会員になってもらえる」と思ったわけです。

努力をすればするほど、見返りはデカイはずだ と。



これは人間の特徴で、悪いことをしたら、必ずその報いが来ると思い、苦労をした者は必ず将来幸せになる というルールがあるとみんな思っている。

例えば雷が落ちたら、人は誰しも何かしら思うことろがあるもので、「あれをやったから 報いを受けた」と過去のことに関連づける。

雷が発生する理由や落雷する理由も知っていながら、自分の過去のやったことに何故か関連づけて報いだ と思ってしまう。


これは古代からそういう考えがあったので、人間の特徴。
他の動物は因果を考えないが、人間は因果にすぐ結びつけるので、そういう思考から逃れることができないわけです。


哲学も人間は因果を考える性質があるので、できたわけです。


いいことをやれば いいことが報いとしてあり、悪いことをすれば悪い報いを受ける というのがカルマの法則と呼ばれるもの。

業次第で未来が変わってくるという考え。

しかし、聖書でも語られていますが、「人間が死後天にのぼり、動物が地に下るとどうして言えよう。」と言うように、善いことをすれば必ず善い報い(天国に行く)、逆は地獄に行くと迷信であることは、賢者は知っていたわけです。


が、しかし 人々を統治するレベルの人は、それだどまとまりがつかないので、悪いことをしたら悪い報いが必ずくるから、悪さをしてはいけない として、じゃあ どういうことが悪いことになるかと考え、法律を作っていったわけです。

律法はもちろん、日本の法律にも、自殺をしたら犯罪と書かれてはいない。

困るのは統治する人。
だって自殺されたら税金取れず メシのくいっぱぐれでしょ?

家畜が自殺したら、将来売ってもうけるはずだった計画がパーになるでしょ?

信者が自殺したら、「全財産を寄付しなかった夫婦は、全額寄付をした嘘をついたため神が殺した、聖書にそう書いてある」といって、信者から一生死ぬまで搾取することができなくなるでしょ?

だから、死んでもらったら困るわけです。 メシのくいっぱぐれに自分がなるから。

信者は家畜とみており、家畜がよく働けば、それだけ稼ぐので、それだけ自分に寄付金がたまるわけです。
家畜を野に放ち 太ってもらわなければならない。
死んでもらったら、自分が困る。

これが本音だと思います。

だから古代の支配者は「生かさぬよう 殺さぬよう」とうまく税率を調整してきたわけです。

そのように搾取しつづけた人が、そういうことをやっていたら地獄に落ちると信じていたら、搾取するわけがないでしょ?
天国など無い 地獄もない と知っているから、自殺するなよ さもないと地獄に落ちるぞ と脅迫しつづけ、にんまりしているわけです。

天国や地獄の概念を作ったのは、支配者。
搾取する人たちが、搾取される側に妄想を起こさせることで、利益を得られるとして、必要にせまられてそういう概念を作り出した。

というわけで、迷信です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/02/11 01:01

勇敢な仏教者は自殺を恐れず行動します。



「一人の僧侶がナイフを自分に刺し自殺した」
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/5155009 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/02/07 18:21

西洋は神様が死をも計画して与えるという考えですが、仏教にはそういう考えは無い。


ご先祖様がいたから今自分がいる という考えは、キリスト教では禁止です。
神様が命を与えたのであって、ご先祖様は関係が無いという考えがキリスト教。

神様は自分の計画で生命を与え、死も与えるという考え。
だからマサダに立て篭もったユダヤ教の熱血党(バリバリのユダヤ教原理主義者)は、お互い剣を持ちそこに倒れるということをして死んだんです。
聖書にそういう死に方は神が与えた死となっていたので。



で、キリスト教では、神様の計画とは違って勝手に死んだら駄目。
神の計画以外ではないのに自分の計画で死んだものは、神が死を与えていないので、神の支配する国には入れない。
自分の支配する国に行くことになる。


というわけで、キリスト教では自殺した信者は棄教したとみなされ、キリスト教会が持つ墓地ではなく、そのほかの墓地に埋葬されることになる。



日本に伝わった仏教は変化して独自なものになっていくんです。

神道の影響もある。

神道は穢れと清めの概念があり、悪事を行ったら穢れたとなる。
神社は神聖な場所なので、喪中の間は足を踏み入れてはならない。

神道も葬式はするのですが、主に民間の葬式は仏教が執り行うことで、檀家を獲得していった。


で、悪事をやると穢れに入るが、切腹をすることで身を清めるという考えが日本にはある。
だから、悪事をやった人が自殺した場合、日本では身を清めたか となり、自殺した人を非難しませんよね。

悪事をやった政治家が辞職しないと、国民は非難して 早く死ね つまり辞職して穢れを洗え となるわけです。


日本は穢れたまま生きると、他の人にその穢れが移ってしまうので、穢れた場合は禊を終えるまで、立て篭もるべきという考えがある。
ただ、一定の期間が設けられており、神道だと50日、仏教だと49日、ユダヤ教だと40日。


その期間が過ぎたら穢れは消えるとされている。


で、仏教では自殺を禁じていません。


極楽浄土は一切の欲が無い状態になることなわけで、生きたまま一切の欲が無い人を生き仏と呼びます。
生きる意欲も死ぬ意欲も他人と関わろうとする欲もどんなよくも一切無い状態。
無いから欲し、手に入らないから苦しむ。あるいは手に入れようとして苦しむ。
そういうのは 喜びと勘違いするかもしれないが苦を生じているとしているんだったと思う。

麻薬摂取して 蝶よ花よ という状態が極楽浄土ではなく、何があっても穏やかな心の状態でいることが、仏のようだとされるのではいかと。

例えばひどいことをして謝ったら「いいですよ」とにっこりされたら、「あなたは仏様みたいだ」ってなりますよね?


こんな話がある、不具の子供を抱いた母親がわめき散らして仏陀に救いを求めたら、仏陀は「子供を捨ててしまいなさい」と言った。
母親は「そんなことはできない」と言い、他の子と比べてものすごく手のかかる子供に振り回されて生きる。
また仏陀に助けを求めると、やはり同じ答えが返ってきた。
それを何度か繰り返し、頭にきた女はついに子供を川にすてると、「ちっ あと数年は苦しめてやりたかったのに」と残念そうに言ったそうです。
仏陀は、その子供がお前の前世のカルマだったのだ と答えた。
欲があり捨てれず、その結果苦しんでいたのだ って。
欲を捨てれば助かる ってずーーっと言ってたわけです。
女は欲によって苦しみ、欲を捨てたことで、カルマから逃れることができたわけです。

女がカルマをどうしても捨てられないってのは理解できる。
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この回答へのお礼

カルマって業ですよね?
いまいちカルマってよくわかりません。
前世での業とか、因果応報ということでしょうか?
ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2011/02/07 18:33

逆質問で申し訳ありませんが、



パウロが自殺したら天国へは行けないって言ってましたっけ?
自殺するなと言っているのは知ってますが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/05 17:39

仏教と言っても元々の釈迦が説いた仏教には死後の世界まで言及していません。


彼の死後数百年経って起こった大乗仏教で創作された多くの経典のなかの浄土経典に極楽浄土が出てくるのであり、日本では浄土宗や浄土真宗が浄土経典を重視したことから一般的になったもので、死んだら極楽浄土に生まれ変わるというのは仏教すべての考え方ではありません。
もともとの釈迦の教えは人の世は(自殺したくなるようなことも含め)苦の連続であり、そこから逃れる生きる方法を説いたものであり、現世から逃避して極楽浄土へ行くというのは本末転倒とも言えます。
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この回答へのお礼

鳩摩羅汁(くまらじゅう)、字が違うかもしれませんが。
彼が極楽浄土を説いたのでしたっけ?
ラピスラズリの壁画の番組で見たような気がします。そういえば。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2011/02/05 17:39

#2です。



誤:前世が悲惨な状態だと現世も似たような状態に
正:前世が悲惨な状態で終わると、現世のスタートも似たような状態に

まあ、自室のベッドで眠ると、起きる時もベッドの上である可能性が高い。
そんな感じでw
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/05 17:37

こんにちは(^-^)



単純に行けるか行けないかで言うと、行くことはできません。
仏教でも自殺は殺人になるので。

ですが、天国に行けないから地獄に行くというのは違います。

ただもう一度同じ困難にあい、乗り越えるまでは何度も同じ人生を繰り返さなければなりません。
ある意味では地獄ですね。

こんな感じでよろしいでしょうか??
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/05 17:37

死んで天国に行けるかというと、本当にそうならば皆自殺します。

何もしんどい思いを
して生きていく必要性はありません。「死んだら仏になる」などの発想の矛盾が
ここにあります。

仏教は無始無終を説いていると見受けられる部分もあります。人の生き死には、
日々の生活で寝たり起きたりするようなもので、前世が悲惨な状態だと現世も似たような
状態になるだろうと、昔、祖母に聞かされた事があります。物的証拠による証明は
不可能ですが、命の価値は平等と言いつつも、産まれた状態によっては大きな差が生じる
説明にはなるかと思います。

死んだら現世ではそれで終わりですが、それが当人にとって最善の選択とは言えない
場合が殆どです。元々、現世以外のどこかに救い(天国や浄土)を求める発想が、宗教と
してはおかしいのではないかと思います。「じゃあ、そこで死ね」と言いたくなります。

だからこそ、死に顔や死に様を重視したくなるのではないか。逆に言うと、
「死」を重視する事は、「生」を重視する事にも繋がります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/05 17:36

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