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 先の質問、http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524881.html“終わりは始まり”にては示唆深いご回答を有り難うございました。
 この地上歩いて数兆人、数億年。人が個体としてそれぞれの人生を歩みなが、実は同じという一にして多なる神々。
 ご回答の中の論語。そしてそれにより連想されたフレーズは同じ、或いは関連していると存じますが、ご見解を賜れば幸いです。

1. 論語
 1-1 學而時習之、不亦説(よろこばしからずや)乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍(いからず。いきどうらず。)、不亦君子乎。
 1-2 視其所以、觀其所由、察其所安【其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察す】

2. 武士道
 1-1 山本常朝: 『武士道とは死ぬることと見つけたり』
 1-2 鉄舟山岡鐵太郎との会見後の南洲西郷隆盛のご機嫌の述懐
    『金も名誉も、地位も命も要らない奴は始末におえない』

3. Self-Realization Fellowship (例示的に一部)
1-1 late former President and Sanghamata Sri Daya Mataji
(会長在任中に94歳のご生涯を先日全うされました)の 2011 New Year Message の中のフレーズの一部)
“letting go of all thoughts of self and of this world”
1-2 哲理の一部
1) 凡そ何事に於いても果実を頭においたり、観念するものではない。
2) 永遠無限の中に自己を溶解し消滅してしまいなさい。それが始まりである。

A 回答 (11件中1~10件)

どんなにつまらない人物、人生にも、拠り所(言いわけ)になる名言箴言が存在する・・・勉強になった、ありがとう。

この回答への補足

 私には、拠り所でもなく、言い訳も無用であり、名言箴言ではなく。
 感激していることばでして。

補足日時:2011/02/17 15:40
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この回答へのお礼

 いえxianchingさん、ありがとう。
 どんなにつまらない人物、人生にもですね。、

お礼日時:2011/02/17 15:35

 こんにちは。



 くりやさん これぢゃ たこつぼです。

 ひらかれなければ。

 外の世界と共通の言葉で論理にももとづき 発信していなければただのタコツボになります。

 ★ 仁 君子
 ☆ などは 当時のその人びとのあいだでの常識ですから その常識の内容をいまわれわれが吟味し さらにそれらを超えるべきは超えるべきでしょう。
 
 たしかにみなさんと肝胆相照らしていらっしゃるのかも分かりませんが それだけなら もう鎖国状態になります。それでよいと宣言でもなすったのですか?

 断片から世界や宇宙が見えるということはあり得ます。 
 けれども その内容を明らかにして初めて 意味があります。隠れ哲学ではないのですから。大いに誰にとっても共通の理解が得られる言葉を用いて 見解を出し合って行くのでなければ 惨めにしか思えません。

 言い足りなくてすみません。
 こんな控え目な批判で物足りないでしょうが 取り敢えずここまでをつつしんで申し述べました。

この回答への補足

 誤植訂正;
  共通のことば:ことがって共通でないければ言葉でありませんね。⇒ことばって共通でないければ言葉でありませんね。

 ブラジュエンヌさんの文章、やはり私にはわかりません。
 だからタコツボだよとか、鎖国だよ、とは私のほうもいいたいのですよ。

補足日時:2011/02/19 16:40
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この回答へのお礼

 ご訪問を感謝します。
 どうも私にはブラジュエンヌさんの仰せのことが理解できませんで申し訳ありません。
 共通のことば:ことがって共通でないければ言葉でありませんね。
 鎖国:でも私はいろいろ受け入れ、皆さんのところにも出かけておりまして。
 ブラジュエンヌさんの文章やご質問はわからないのです。
 だから先の越常識が同のというのも、ブラジュエンヌさんのコメントは申し訳ないが、拝読しないで投稿しております。
 独り言ですね。失礼をお詫びしながらでした。コミュニケーションって難しいですね。

お礼日時:2011/02/19 15:43

No.9です。


ご返信有難うございました。
浅学はお互い様ですので、言いっこなしでお願いします(笑)
衒学と思われるも鉄舟先生に倣い、計算も配慮もなく行くのがよいのかもしれません。

共通項は質問者さんの連想された理由をお尋ねしただけでした。誤解を招いたようで申し訳ありません。
御主旨は承りました。
個人的な関わりのご事情があったのですね。これまた無粋なことをお尋ねしました。
伝わるべき人に伝わりますよう願っております。

時間も空間もない、というのは仏教的ですね。色即是空空即是色ですね。この世のすべては現象であって、実体はない。過去、現在、未来も現象であって実体として存在はしていない、ということでしょう。
「唯一存在なる一なる意識の夢」は荘子の胡蝶の夢を連想させます。一切斉同、すべては同じ、ですね。確かに東洋思想は自他の関係性において通じている、といえるのだろうと思います。

滋味深いお言葉を味わわせていただきました。有難うございました。
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この回答へのお礼

 早速ありがとうございました。
 この詮もない私は邂逅にめぐまれることが少なく、湖人とロマンロラン、阿部次郎と倉田百三、そしてラートブルッフと出隆の範疇での日本人を出ることができませんでした。
 今後もどうぞよろしくお願い申しあげます。

お礼日時:2011/02/19 15:36

前回は過分なお計らいを賜り、有難うございました。


また一凡夫として参加させていただきます。

論語の一節よりの連想は質問者さんなりの共通項がおありなのだと思います。
できれば、その共通項をお聞かせいただければ、何よりです。
前回は質問者さんがあえて外された幸福論を無粋にも持ち込んでしまいましたので、同じ轍は踏まないように質問者さんの方向性を伺っておきたい気はいたします。

学びて時にこれを習うの一文より、葉隠を連想されたというのは、やはり一期一会のような刹那の重さなのでしょうか。
鉄舟もいいですね。南洲よりも鉄舟の方が人として好きになれます。
最後の方は不明にして存じ上げません。申し訳ない。
ただ、永遠と自己の関係性は極めて東洋的な世界観に立脚したものと思います。
禅の十牛図はご存知でしょうか。
あの中の一枚、八枚目の人牛俱忘を思い出しました。
忘我の境地より、返本還源へと至るのであれば、終わりは始まりと帰結するのもまた首肯できるというものです。

この回答への補足

 codex_regius様 補足欄から失礼します。
 前質問に引き続く、ご訪問とコメントに感謝します。

 この浅学を羅列する質問は衒学と取る方もおられるであろうと存じながら、敢えて勇と雄を鼓して投稿しました。

 論語も武士道も実は下村湖人の次郎や論語物語、或い心窓去来を読書しての受け売りでして、私自身の実践はお話しするほどのもの悲しくもないのです。
 内務省時代からの長い歴史のある大学図書館にオペラ座の怪人のように46年も棲み付いていましたので、孔子、論語、儒教の文献は多少目を通しはしました。しかし学術に関心と能力のない私には、湖人の価値と理念への目的的当為思考からご著作は、意味性を以って伝えるものだと存じます。
 机をいくら木をこのように切り、こういう形にしたものだと説明するなんて馬鹿げた事で、何のためにどうして々造っているかを、意味性を以って説明しない説明は説明ではありません。

【共通項を】
 残念ですが、ここ40年ほどは老子の無為やヒンドゥの哲理の勉強と精進に拙く打ち込んでいるので、直ぐには論語のことでのコメントは出てまいりません。
 出来れば項目などを上げていただくか、codex_regius様が一時でもブログを立ち上げて(codex_regius様のブログをご紹介)戴ければ、是非訪問させていただきます。

【この質問の趣旨】
 1. この質問は、codex_regius様からご賢答を頂いた質問を広げ敷衍をしていただき、友人達へ伝えることを目的としていました。

 2. そして別の質問で私にいたく地上界を思い知らせてくれた方【この質問でも“どんなにつまらない人物、人生にも、拠り所(言いわけ)になる名言箴言が存在する”】といって登場してくれた遠ぉつ国人がおられ。このご仁が武士道について質問しております。
 多少とも参考の関連でもお伝えたかったのですが、返ってくる罵倒も予測できましたので、彼に伝える目的もあって、ここに皆さんに教えていただいた私の限り武士道の思いに敷衍した次第です。
 なお【あんたはその歳になっても】と投稿してくれたご仁さまは猿田彦命のお提さえの灯[http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6494456.html]でもあられたようです。

 遠来のお国の方にはご勉強になったとか付加していただきましたが。
 この遠ぉつ国人は先に、私の質問、[非常勤公務員の任命]に、偉くお叱りに為りながらご登場されてからです。

【時習と葉隠】
 時習と葉隠れは、禅の一期一会に通じる側面は深いところであると私も感じています。
 刹那って確か、仏教用語から由縁しておりますよね。私は時間って、そして空間ってないという思いです。無論、人もこの地上界も存在していない。

 唯一存在なる一なる意識の夢でしかない。過去、現在、未来はどれが過去でどれが未来でどれが現在か。
 そういうものはない。そういうものは欧的思考の小賢しい自己意識(上の回答の天河童女史がいう)のego的産物にすぎない、と存じております。
 日本の伝統ではあぁいう時間意識も主体意識も無いと存じます。

補足日時:2011/02/19 10:22
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この回答へのお礼

 補足欄から。
 そういう中で永遠や真実実在に関連して行く時間(同じことですが空間)は永遠なる現在だと存じます。永遠なる現在は瞬間、一瞬として実在する存在であろうと存じます。
 永遠は、とりとめもない、fractalの繰り返しの時間にはありえない。どんなに長くても。ある存在たる自己が其処にある瞬間が実在者の永遠だと存じます。
 時間の長さは問題にならない。空間がどんなに広かろうと、そこに無限はない。一瞬に永遠が、一粒の麦、原子に無限がある。
 そういう認識実現の世界に居る、それが永遠無限であり、禅では一期一会なのでしょうね。どんなにつまらない人物、人生にも、拠り所(言いわけ)になる名言箴言が存在する”が忠孝が武士道というが、これは統治のための用具として地上界次元で孔子の言葉をひん曲げたもので、禅に自己を注ぎ死んでいく武士道はもっと自己からの使命に根ざしている。無論、君(くん)に忠にして己の出(い)でてきている根幹(霊)に違わ(たがわ)ないこと、つまり孝行はその方法としての基幹です。
 孔子は横断的巫覡の職に身をおかれておられました(白川先生の推量)。婚外のおかぁさまは巫の方とのことだそうです。
 ですから四神の北方、玄武については無頓着ではありませんでしたでしょう。孔子は鬼神への盲目的信仰を窘めていました。
 孔子が疾にあるとき、素朴・朴訥な子路が祈らせて欲しいと願い出ます。孔子はそっと掛け布で涙を隠し、『私が祈らないできたと思うか。人は他人に祈ってもらう前に自分で祈るものだ。私の人生は祈りだ(存在は当為だ。その観念の凝縮が視聴などに紡がれる世界だ。思想と価値理念の反射が此の世だ)』と応える。
 孔子が玄武の世界に無頓着だったとはいえない。しかし顔回はともかく、他の弟子には理解してもらえない。そういう孔子の忠孝は超世俗で地上権力の道具することは慎みたいと存じす。
 そこに唯一なる実在がある瞬間、太刀風三寸、無心の打ち込み、無我。サマディ。
 時習と葉隠れ、そして、禅の一期一会であろうと存じます。
 東洋の思想は全て通じている。同じものだという思いがあって、この質問を起しております。

【鉄舟もいいですね】
 海舟の手紙を胸に抱き、街道に大勢で屯営している官軍を尻目に、我が横丁の鉄舟あにぃは単騎で本営に。玄関の入り上がり框に上りながら、『幕臣、山岡鉄太郎である。大参謀・西郷殿に罷り通る』とどんどん二回の西郷(せごどん)部屋のに入っていく。自己のこと何も、考えない。
 これが武士(道)。計算や配慮はしない。ここに永遠と無限という実在がある。一期一会でしょうね。
 武士は死に際。おいどんの命を上げましょうと郷党の決起者に。刺客に、それはご苦労さんです。今は家人がいない。この命をどうぞ。そして月照との入水ですか。居並ぶ兵卒を前にして、なじみの芸者と別れを惜しむ。粛然と見ている兵。日本の心性ですね。

【禅の十牛図】は存じ上げません。【忘我の境地より、返本還源へと至るのであれば、終わりは始まりと帰結する】はいいですね。

【終わりに:遠ぉつ国人が訪問するかどうか存じませんが】
インドでは世俗の界の管理支配者はクシャトリアですね、先に上げた、バガヴァン・クリシュナとアルジュナ。彼らも使命と当為の観念原理です。
 西洋のナイトは存じません。日本は朝廷や公家ではなく、武士ですね。
 そして士大夫も統治の階級ですね。“三日読まざれば醜し”は正に精進の方ですね。
 “三日遭わざれば”は正にイエスの故里の人がイエスをきちんと見ることに躓いたの通じますね。
 イエスの成長過程が聖書にはありませんが、かれやラージャ(クシャトリア:武士)のヨガの完成者です。
 私たちのSelf-Realization Fellowshipのグルのお一人です。

お礼日時:2011/02/19 10:41

存在も地(じ)と図の様にあり、死も地と図の様に在るということ以外には、


語る内容を持ちませんが、
われわれが西洋的な主体というのを抱えてしまうと、変化を内包的に消化できない概念装置を抱えてしまうようで、かえってやこしいなと思っています。

たしか美空ひばりさんが、千回歌っても初めて聴くお客さんがそこにいる、と言っていましたね。
地が変化すれば図はつねにあたらしく、
それも地を意識の外とするのではなく、地を覚ることで図となる、
そういうかたちを、西洋的主体で考えるのは骨が折れます。

先のご質問に、俳優さんの名前が挙がっていましたが、
芸能界の方は、鬼籍に入っても俗世に存在しつづけるのが本領であるためか、
何事も自分だけで運ぶものではないことをよく知っているのではないでしょうか。

占いの好きな方が芸能界には多いものですが、占いというのは奇妙なものです。
話は横に入りますが、主題を手放さないようにして、この奇妙さのほうに少し寄り道してみようと思います。

占いでも推命や観相とちがって、卜占の奇怪さ、まさに人を木の葉のように操る様子があります。
なぜなら、あるタイミングにおける人の位置を、万象が教えてくれるかのように求めるのですが、
タイミングを創ったのは卜占する行為なので、占わなければその位置は無かったはずなのです。
水商売の芸能の世界にいる人の心が求め、また、よく馴染んでいるのは、
この刹那的に「創り出される位置」の、万象の「中心」となる瞬間の輝きなのだろうと思います。

卜占のタイミングと同じようなものなのか、
ふつう、われわれが自分を意識する時に、自分が中心位置となる万象の配置が作り出されます。
これは啓明であることの一種の形式なのでしょうが、
無意識にも自分を意識しているのが人間ですので、ほぼ恒常的にそういう位置感覚であることになります。

自然の産物であるとしても、社会の産物であるとしても、われわれは大雑把な知覚をもって自分を捉え返しているにすぎないせいか、
瞬間瞬間に自分が変化しているとは感じません。そういう受動態ではないのですね。
ですが、われわれが、とりまく世界(地)を、自分の存在(図)の契機的な糧としていること、
つまり、世界をどのように覚えたか、そのことが、即ち自分の内実であるということを、感じると、
自分から新しくなり、自分から変化するでしょう。そういう能動態であるでしょう。

これは地と図のひたすら求心的なありようのすばらしいところであって、
西洋の主体が、世界と対峙するように、相手を捩じ伏せるようにあり、貧弱な力学を最大に生かすため、意図や目的を明確にしなければならないのとは様子が違っています。

図のありようというのは、始まりと終わりのある直線ではなく、変化によって節目がある状態ではないでしょうか。
まわりの人々やまわりの物事を覚る、その覚りかたにおいて、それ自身の形成があり、また、まわりの人々やまわりの物事が合わさって浮き彫りにもする、そういうダイナミズムに節目があるということをわたしは思います。

雑文にてお許しください。くりやさんは締切が早いので、またいつお話できるかわかりませんし、取り急ぎ。

この回答への補足

 字数が多いので、補足欄から参ります。
 天河童さん、
 世界と自己の持ち方に関する天河童さんの深遠な哲理を西洋的自己と世界との対置の中でご展開下さり、有り難う御座います。
 鈍根の私は一生懸命頭を働かせていますが、多分誤読が多くて失望させてしまうでしょう。
 今回はそんなに早くは締め切りませんのでとうかご添削などをお願いします。
 
【西洋的な主体】
 西洋人は文章でも何かと、I, my, meや単複数を明確にしますね。
 ところでこの“西洋的主体意識”というのはまことに、私たち日本人には厄介で、現代は抱えているのに、私は実はその性格や心性、或いはその基盤や現場世界を理解できないでおります。

【“ひばり”の“地と図”】
 [状況・条件や場と現われ画面]の問題ですね。
 その“地”では、そのお客さんは始めて聴いていてくれているのだという“図”の当為的(理念的)認識ですね。
 “地”があるが故に“図”があり、前者をfeelingするからこそ、後者を眼前にすることができるのでしょうね。
 千回歌ってもいつも新た。四書の大学にいう、筍に日に新たに、日々に新たに、また日々新たなり。ですね。
【西洋的主体】では、いわゆる切り離した“個”存在意識であり、『何事も自分だけで運ぶ』かのような思考経路なんですね。

【自分意識と自分を中心位置にした万象配置の創出】
 我々は、無意識にも自分を意識しているので、恒常的にこういう位置感覚である。
 自然の産物にせよ、社会の産物であるにせよ、我々大雑把な知覚をもって自分を捉え返しているのである。
 それが為か自分自身の瞬間瞬間の変化を感じない。このように我々は受動態ではないのである。
 そういう我々も自己をとりまく世界(地)を自分の存在(図)の契機的な糧とする。
 つまり、世界をどのようにfeelingしたかで、即ち自分の内実たるものを感じとり、荀に新たとなり、変化するでしょう。こういう能動態である。

 私たちの“地と図”は、ひたすら求心的ですばらしい。
 これに反して“西洋の主体”が世界と対峙するようであり、且つ、相手を捩じ伏せるような側面もあり、貧弱な自己性力学にも拘らず、最大性を生かそうとするため、意図や目的を明確にしなければならない。
 これは我々の自己存在意識とは様子が違うところである。

補足日時:2011/02/18 10:15
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この回答へのお礼

 そういう我々の“地”での“図”の現象性は、始まりと終わりを直線的に繋いでいるのではなく、変化によって節目がある状態であろう。
 つまり、地(まわりの人々やまわりの物事)を覚り、その覚りの中で地と図の形成がある。
 そしてまわりの人々やまわりの物事が合わさって浮き彫りなってくる。
 そういうダイナミズム節目は私たちには転機の救いでもありますね。

 東洋の方向方角という空間位置的契機と、3,6,9による時と回数的契機にここ数年私も大きな意味性を抱いてきております。
 かの太極、陰陽の両儀から四象、八卦という展開は中国に発祥しておりますが、もっと根源的哲理はヒンドゥのグルたちが大昔に展開しております。

  ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/18 10:16

もうすぐ春ですね。

終わりは始まり、で思いついたのが、卒業と入学、あるいは入社です。一定の修業期間が終わり、新たな修業期間がまた設けられる。。終わりは始まり。桜の季節を思い浮かべました。
哲学も何もないですが、時間に関して言えば、∞なんかは終わりははじまりに近い軌道を、文字自体がそのまま描いているようにも思いました。ただの繰り返しではなく。人は長く生きても約百年ですし、無限軌道に乗ることもできないと思いますが、生きている間は、∞について思惟することができます。百年の中に無限が納まるというのも不思議な話ですね。
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この回答へのお礼

 lightwave8さん、有り難う御座います。
 百年の中に無限が納まるというのも不思議な話ですね。私もとても不思議に思います。
 Infinite (原初前飾者)ってなんだろうって。瞬間にあるんですよね。でも瞬間ってあるのでしょうか?
 瞬間しかないんでしょうね。未来、過去、現在ってないような気がします。
 繰り返し、継続って無限でしょうか?そういう無理念性を永遠や無限とは言わないような気がします。
 価値理念への当為性が存在で、それを捨象した、忘却した固定性は現象結果ですよね。それは現象ではなく見ている感覚などの経験内容ですよね。
 太初の言葉という創造の意志を発した。これがそんざいなんでしょうね。
 太刀風の三寸とい機、あるなきかの論議ができない瞬間に永遠があるというのは不思議なことですね。

 同じような感じをお持ちのようであられるlightwave8のコメントを頂き嬉しく存じます。

 有り難う御座いました。

お礼日時:2011/02/18 10:30

創世の時期ではなく、神組織にせよ社会組織にせよそれらが定まっている時期においては



「人の道は戦うことと見つけたり」

 です。人の世と神の世とで、違いがあるでしょうか?

 それにしてもこの質問は不評ですね。プロフィールに武士の家系だと書いたことが 妬み、顰蹙を買ったのでしょうか?いや、「自己を溶解し消滅してしまいなさい」が嫌われたのでしょうか。



 ところで ずっと気になっていたことがあるのですが、口呼吸というのは修行法であるのですか?

 口からは はくのみで、吸気はしないほうが良いと思うのですが。

 一体感を求め、強要するのは親です。そして神です。彼らの思う壺ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

_AXISさん久しぶりです。_AXISさんでしたか。
 質問より質問者が嫌がられているのでしょうね。最初にあの方に出会ったのは、アサヒコムの記事(暴力団が国勢調査の調査員に任命されている)ということで私が質問を出した時、暴力団だって人間だ、質問は差別だ。というご見解で叱られてからですね。
 その前にもどこかで私をお見かけになられていたのかもしれませんが。
 その次に父や父の郷里の方々から仄聞したことを確かめもせずに書き込んでいて、注意されました。
 私には辛いかたではありますが、大切だと存じます。

【定まっている時期においては「人の道は戦うことと見つけたり」】
 krya1998。そうですね。仰せのことは、ロマンロランもいっています。その通りと存じます。

【人の世と神の世とで、違いがあるでしょうか?】
 krya1998。聖書にも似像(にすがた)とかのことばがあるようですね。
 そういうことだと存じます。
 ただ全てが自分であり、唯一の(意識)存在だと“戦う”は創造の側面を持つに到った神の遊び、夢。
 ゲーム。舞台、スクリーンの映像でしょう。

【口呼吸】
 krya1998。ご存じのように一定の行ではやりますが。口での吸気と呼気を。やり方があるのですね。
 大変効果的であり、問題は今はまったくありません。
 20年の躊躇の末、決心して正式に1995年にディクシャを受け、伝授されました。

【一体感を求め、強要するのは親です。そして神です】
 krya1998。思う壺になりたいですね。
 肉の親は同じ人間ですが、神ってどこにいますか?そこにいる。無なる自分ですものね。実は自分ですからね、一切の自分、自分なる一切ですから。

お礼日時:2011/02/18 07:42

>この地上歩いて数兆人、数億年。



ホモサピエンスは25~40万年前に登場したばかりです。数億年とは3ケタ違いの桁違い。

累計の個体数は、現在生きている個体数と死んでしまった個体数の比率が1:3.25前後ですので、現在生きている個体数を69億とすれば、既に死んだ個体数は224億ですね。
つまり、「数兆人」ではなくて、たかだか69+224=293億人に過ぎません。数兆人とも3ケタ違いの桁違い。

哲学のカテにおいては枝葉末節と思われるかもしれませんが、事実認識に桁違いの乖離があると、ご高説も陳腐に見えますがな。

この回答への補足

 木造さんの済まぬが、ここをおかりして。
 皆様のご投稿を感謝申し上げます。
 かの天河童さんからの添削をお待ちしていたが、どうも今回はなさそうです。

 ANo.3のとおつ国人は本人も自覚・経験していることを敢えて、辛口のコメントにしてくれたことを感謝したい。
 60年位前に、或いはいろんなことを自分の合理化や依拠やいいわけにしているのではないか、と不図気付いたことがあった。
 だから、一切を捨てる。死ぬる。
 という日常生活的自己の否定に徹底した時代が中学であった。
 小学校の恩師にはずいぶん単純になったな。そして精神でなんでもやるのか。暗い位にもっと論理的なると思っていたのに。と批判された。
 そんなことを思い出しつつ、彼の【どんなにつまらない人物、人生にも、拠り所(言いわけ)になる名言箴言が存在する】に今回はお礼をしたい。
 それに多少とも勉強の足しにしてくれたとは、こちらこそ望外の喜びである。
 本人はいくつになったのか知らないが、【あんたはその歳になっても】猿田彦命の提げ灯(ちん)は本人のために残念である。ここは木造さんの場所で、上記のお二方へのコメントを含む皆さんへのお礼の場所としては、よろしいかと存じました。木造さんにお礼申しあげます。

 みなさまに心からの感謝を表します。

補足日時:2011/02/20 07:46
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この回答へのお礼

 Mokuzo100nennさん、その通り、枝葉末節とはいえませんね。
 見る人がみたら、見苦しいことですね。判らなくて、調べることもできないのなら、あんなフレーズは避けるべきですね。
 桁違いですか。そうでしょうね。私たちヒンドゥの哲理ではもっと桁違いの数字ではありますが。
 失礼しました。

お礼日時:2011/02/18 07:09

こんにちは。

迷っておいでなのか、迷ってなどいないのか?
私には、わかりませんが。

ご自分の心を、ご自分の内から抜き取って、
ご自分の神様に、預けてしまえば、迷わなくなりますね。

必要な時だけ、返してもらえば、用が足りますね。
用が済んだら、また預けておけばいいですね。


「仕事をするときには、何のためでもなく、誰のためでもなく、
ましてや、結果などに想いはせる事なく、ただ、目の前にある
仕事を、黙々とやる。手を抜かない。とにかくやる。倒れるまでやる。」

「生きようなどとは、考えない。倒れるまで働く。
結果、武士は戦いに勝ち、俳優は名優と呼ばれ、
人は、偉人と、みなされる。」

「そこには、もはや、己など無く、そこに立っているのは、
神や御仏に近い、仁者。」

「なにも行動しない、怠け者になってしまったら、
迷いから抜け出す事は、もはや叶わず。」


と、誰かが言ってました。私の言葉ではありません。
参考になれば幸いです。

この回答への補足

 今の私には不可能に近い難しさを含んだ、お話もありますが、難しいといっていて済ませないのがじんせいですからね。
 何度も読んでいます。
 有り難う御座いました。
 ここにかかげたのはこういうお話もいただきたいという期待と共に、わたしはHPがありませんので友人達への語り掛けであり、挨拶でもありました。
 そしてまた、先の質問では少し中途半端であったので、多少バイパスへの敷衍を皆様にお願いしたかったのです。

 お話は私たちのSelf-Realization Fellowshipの大師様の哲理を日本語とその心性で語るものです。
 有り難う御座いました。どうぞまたお教えをいただけますように。

補足日時:2011/02/18 07:05
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この回答へのお礼

 pixsfineさん、有り難う御座います。
 【迷っておいでなのか、迷ってなどいないのか】
  krya1998⇒申し訳ありません、誰とも会話もしていませんで独習ですので誤読があるかもしれませんので、チェック依頼が目的なのですが。

 【ご自分の心を、ご自分の内から抜き取る】ことも、ご自分の【神様に、預ける】ことも難しいという、嘆きの言葉が出てまいります。

 【必要な時だけ、返してもらえば、用が足りますね。用が済んだら、また預けておけばいいですね。】
  krya1998⇒これはいいですね。なんとか練習してみます。

 【「仕事をするときには、何のためでもなく、誰のためでもなく、ましてや、結果などに想いはせる事なく、ただ、目の前にある仕事を、黙々とやる。手を抜かない。とにかくやる。倒れるまでやる。」】
  krya1998⇒素晴らしいですね。

【「生きようなどとは、考えない。倒れるまで働く。結果、武士は戦いに勝ち、俳優は名優と呼ばれ、人は、偉人と、みなされる。」】
  krya1998⇒それが自然であり、本当なのでしょうね。

【「そこには、もはや、己など無く、そこに立っているのは、神や御仏に近い、仁者。」
「なにも行動しない、怠け者になってしまったら、迷いから抜け出す事は、もはや叶わず。」】
 
 krya1998⇒大事なお教えとして心がけます。

 pixsfineさん、有り難う御座います。

お礼日時:2011/02/17 16:34

前の質問は読んでいなくて、今回の質問がいまいち何をたずねているのかわからないのですが、、、




ぼんやりと思うことは、宗教信者にしろ信仰が無いものにしろ、「幸福でありたい」と望んでいるわけです。

今の状態に満足している人は、一握りだと思う。
その満足している人にすら「終わりがくるぞ」とか「将来年金制度が崩壊することは確実なので、もっと貯蓄するため、もっともっと働いたほうがいい」とか、脅す人がいるわけです。


決して悪気があるわけではなく、将来が不明で、先行きが良いという風に楽天的に考えず、悪くなることを想定しておいて、悪くなかったら、それはそれでよかった ってことで、リスクを常に考えて生きた方が、ダメージが少ない という助言なわけです。


で、ふと思ったのですが、ほんと頭くるのですが、銀行口座から近くの他行銀行より下すと、手数料を取られる。
そりゃ わかります。 他の銀行が私の銀行の口座から取り出して現金を渡すという仕事をするわけですから。
でも、営業時間以外に、自分の銀行の自分のお金を取り出すとき、やはり手数料を取られる。
なんで、自分のお金を引き出すのに、手数料を取られるのか。 借りるわけじゃなく自分のお金から一部取るわけです。

機械がやっているわけで、人間がやっているわけじゃないのに。
機械は年金や保険や給料やいらないのに。 
ボーナスを要求して、あげないと働かないぞとストライキを起こさないのに。
なにより預けていた私のお金を引き出すのに、なんで私のお金から一部とるの?


給料の総額のうち三分の一が取られれてる。
「道路代でしょ、 小学校の授業料援助代でしょ、図書館建築費用代でしょ、健康保険でしょ、年金でしょ、所得税でしょ。住民税でしょ、市県民税でしょ、」といろんな名目で差っぴかれてしまう。


3月になると、あっちこっちできれいな道路をひっぺがして工事している。
予算が余ったから全部使わないと、来期は今期と同じくらいもれないから って。

わかりますよ きれいな道路を破壊して、また道路を舗装する仕事をする人が、その仕事があることで、給料が安定してもらえるわけですから、その人たちのために、きれいな道路をめちゃくちゃに破壊して、やり直しをする必要がある。

保険料も余ってしまうが、各人に返金したり、保険料を減らしてしまうと、また必要になっても、簡単に値上げできないから、余った保険料を返金しないわけで。
福利施設を建築して、被保険者に安く娯楽施設を利用してもらうという形で、返金をしないわけで。
で、困ったら、その2億で作った施設を10万円で売却し、2億の損額を被保険者にかぶっておらうわけで。

みんなが稼いだお金を取り、それが他の人に支払われる。

社会全体の総額は減らないから 社会はまわっている。 みんなで消費すればするほどお金は回る、貯蓄してもらっては困る、使わないと。

というわけで、将来が不安定だから投資をした方がいいといって、手数料を取るわけです。

映画にあった。
自分の口座からお金を下そうとしたら、手数料をひかれるので、最低引き出し額を満たさなくなり、残高があるのに下せない。

「なんで俺のお金なのに、引き出せないんだよ」と頭にきたわけです。

かたや銀行強盗が、銀行がみんなから盗んだ手数料を銀行から奪おうとしていた。

みんなから盗んだお金を盗まれた銀行は、それをさらに盗んだ人を泥棒呼ばわりできない。
おもしろかったです。
何度も盗んでいると、やがて気づかれるので、何度もしない というのが成功のコツ。
銀行や国は国民からずーっと盗んでおり、それに、気づいちゃったんですけど。。。かえせーー この大泥棒。


1人1人が出すことで、社会全体がうまく機能する とか言って、一人一人が税金を払わないと、結局は社会全体が活性化せず、仕事がなくなり、結局めぐりめぐって 自分が困ることになる  という理屈はわかりますよ。

だからといって 国民や他人から盗んじゃいけないですよね。

って つらつら思いました。

この回答への補足

 此処をお借りして補足。武士の美学は死です。
 担保力のある借用書は、期日までに返却できない時は、お笑い下さい。という文言です。
 武士は人に笑われたら死ななければいけなかった。
  
 ヒンドゥではバガヴァン・クリシュナとアルジュナのself-controlという領地支配はぎらぎらの照り輝くagressiveではなく、humbleでunassumingな半月の影に自己をおく。
 ヒンドゥの一つの武士道です。
 つまりNo.2であり、白鳥(臨在の偈では白馬)入蘆花です。
 日本における忠孝は支配者側が儒教をひん曲げた悪用の社会強制です。そこでは孔子の己に忠を求めていない。
 それに反し、周恩来もその意味で理想的なNo.2です。
 中国の本来の孔孟はそういう武士道です。士大夫とはその教養人です。

 各国に武士道はあるのですね。

補足日時:2011/02/17 16:20
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この回答へのお礼

 扨、新たに木胡桃さん今日は。
 宗教信者というものではありませんが、私も勉強と精進はしております。
 「幸福でありたい」とかどうかは日常的には考えていないんです。
 不幸は困るでしょうが。
 幸福とかどうとかのカテゴリーではて考えていないんです。
 そういうことばでは思考も志向もしていないんです。

 後は何か、いろいろ有り難う御座いました。

お礼日時:2011/02/17 15:34

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