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白村江の戦い~遣唐使の航海術

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  • 質問者:ohaduke
  • 投稿日時:2011/02/20 17:48
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白村江の戦い時の航海能力と、その後の遣唐使での航海能力ではかなりの差を感じます。
白村江の戦いでは42,000人、800隻の大軍を送り込める航海能力があったのに、
遣唐使では、10年に1回、4隻送って1隻着けばいい的な航海方法をしており、かなりの犠牲が生じています。
この技術力低下の理由は何でしょうか?

3件思いつきましたが、実際の所はどうなのでしょうか?
1 白村江の戦いでも、難破・沈没等による非戦闘の犠牲を相当数見込んで出兵している。
2 造船・航海技術者が 白村江の戦いで戦死し、航海能力が低下した。
3 朝鮮半島に寄港できなくなり、危険なルートで航海しなければならなくなった。

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  • 回答者:P0O9I
  • 回答日時:2011/02/22 15:59

遣唐使は元日朝賀に出席するため、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航し、気象条件のよくない季節に帰国せざるを得なかった。
とあります。

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No.2ベストアンサー20pt

  • 回答者:zep19
  • 回答日時:2011/02/20 21:11

当時の航海術ではいきなりの大洋横断はかなり危険であったので沿岸、島嶼沿いに航海したと思われます

あとは大軍をまとめて渡海させるのは危険です
元寇の際、元軍の多数の軍船が博多湾内の海岸と志賀・能古島の間の狭い海域に集結させていたため
暴風雨で互いの軍船が衝突したりして沈没したのが引き揚げた軍船の状態でわかるそうです

日本側は史料から兵を分散させ渡海させるのがわかります
【斉明七年(661年)9月】
大山下狭連檳榔、小山下秦造田来津率いる軍渡海(兵力5000余)
【天智元年(662年)5月】
大将軍大錦中阿曇比邏夫連等率いる軍渡海(兵力不明、軍船170艘)
【天智二年(663年)3月】
前将軍上毛野君稚子、間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比羅夫、大宅臣鎌柄率いる軍(兵力27000)
【天智二年(663年)8月】
廬原君臣率いる軍(兵力不明)

という具合です
最後の二つの軍が白村江へ向かい
一線主力部隊が出払い二線級の留守部隊7000、170艘の軍船率いた唐の将軍孫仁師に惨敗を喫したといわれています

これにより日本の被害は大きいものの航海術を持った者が激減したわけでないと思います
それに百済からの亡命者は多数にのぼり、その中には渡海させた船員も多かったと思われます
遣唐使は基本は外交使節なので大船団を編成する必要はなかったのではないでしょうか?

長文失礼致しました

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この回答へのお礼

なるほど、兵数を消耗しない渡海航路を取った(取れた)ということですか。
島沿いなら海が荒れても「九州に引き返す」「対馬、壱岐へ避難」「朝鮮半島まで突っ切る」が選べますね。
遣唐使船の成功率の低さは、技術力の低下ではなく、航路の問題と言うことで良さそうですね。

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>朝鮮半島に寄港できなくなり、危険なルートで航海しなければならなくなった。
これは大きな理由ですね。朝鮮との関係の悪化が危険なルートを余儀なくされたのは重要です。
また、物理的な距離も「日本~朝鮮半島」よりは「日本~中国大陸」のほうが遠いですからリスクも高いです。

遣唐使は唐から技術を持ち帰ることが最大の目的です。
そして技術を最大限持ち帰ることができるような優秀な人間は限られます。
身体を動かすことはだれでも出来ますが、頭を使うことは最先端の学問を学んだ限られた人材だけです。
優秀な人間は限られていますし、しかも全員を唐に送るわけにはいかず、何人かは日本で能力を発揮する必要がありますからね。
それが、兵士に比べた遣唐使の少なさの理由です。

>4隻送って1隻着けばいい的な航海方法
これも上述した理由です。
つまり、1隻に全員を乗せたとしてその1隻が沈没したら技術は全くもって帰れなくなります。
そのため、船を分けて乗らせてリスクを分散させたのでしょう。

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この回答へのお礼

まず、当時の日本の人口は400万弱程度かな?と推測
4万人出兵なら、国民の100人に1人、主な労働力の成年男子20人に1人くらい?が出兵
戦闘無くても往路で75%、復路でも75%消耗、2500人しか帰れない
こんな杜撰な作戦があるはずがない。
少なくともある程度安全に兵を送り込む手段があったのではないかと思ました。
何らかの理由で、遣唐使船の時代は安全に渡海出来る手段を失ったと考えたのです。

考えてみれば、対馬からなら九州も朝鮮半島も目視出来ますね。
目印無しに上海、南京目指すのとは訳が違いますね。

  
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