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一連の質問をさせていただいた総括としての質問です。
多少、新しい見解も提示しております。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html
の続編と受け止めていただくと良いと思います。
ラ抜き動詞に関しては別掲いたします。

<結論>
可能動詞は主体重視、動詞+助動詞れる・られるは対象重視。

<前提 1>
以下はウィキからの抜粋です。
『「行かれる」のような「~れる・られる」の形は、古語の「~る・らる」の形から変化したものだが、「行ける」のような可能動詞はそれとの関係は不明である。
由来には大きく2説があり、「知るる(知れる)」等からの類推で、従来からあった四段(後に五段)活用動詞に対する下二段(後に下一段)段活用の自発動詞が一般化した(類似の動詞の項を参照)という説[1]と、
「行き得(る)」のような「連用形+得(る)」の表現が変化したという説[2]とがある。』

この後者、「連用形+得(る)」の表現が変化したという説に、かなり共感を覚えます。

<前提 2>
以下は、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html
に寄せられた#16さんのご回答です。
『そのように感じられるのは、「れる・られる」の可能以外の意味(受身、尊敬、自発)に大きく影響されているからではないでしょうか。
受身、尊敬、自発には、主体の積極的意志が感じられません。
「れる・られる」には4つの意味あると言っても、一つの言葉ですから、「れる・られる」の可能表現でも、可能以外の「受身、尊敬、自発」に引っ張られることがあってもよいと思います。』

これら2点を主な前提にさせていただきつつ、私の感じたことを総括いたします。
率直な(しかし可能なかぎり論理的な)ご感想をお願いできれば幸いです。

1.
可能動詞の誕生は次のような過程を経ていることになると思います。

  読む(YOMU)→読む[を]得る(YOMU-ERU)→読める(YOMERU)
  休む(YASUMU)→休む[を]得る(YASUMU-ERU)→休める(YASUMERU)
   泳ぐ(OYOGU)→泳ぐ[を]得る(OYOGU-ERU)→泳げる(OYOGERU)

これが、「動詞+得る」が可能動詞の発生過程と推測します。
[U]は発音上の便宜性で消滅したと考えることに無理はないでしょう。

3.
そして、「得る」が可能の意味であることは当然ですが、「【主体(人とは限りません)】が(何事かを)得る」という用法だと思います。
つまり、可能動詞は主体性重視を意図した表現である、ということの根拠となり得るのではないか、ということです。
例を2点挙げます。

a.
「【会社を休むこと】を得ない」という意図ではなく、
「【わたしが休むこと】を得ない」という意図の場合、
『風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休めない』
と表現する所以です。

逆に、
「会社が、休むことを得ないほど繁忙状態にある」という意図を表現したい場合には、
『風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休まれない』
となる。
「会社は、わたしに休まれると困るような状態にある」
という受身の要素、
「私が意図したわけではないが、会社は、わたしに休まれると困るような状態になっている」
という自発の要素、
なども含まれているでしょう。
いずれも、【休むという行為の主体(=わたし)】の存在を薄めるニュアンスが込められていると思います。

b.
「海が汚れているために泳ぐことを得ない」という意図ではなく、
「わたしが泳ぐことを得ない」という意図が強い場合、
『わたしは泳ぐのが大好きだが、この海は汚れているので泳げない』
と表現するでしょう。

ただし、「私という主体」ではなく「海が汚れているために」泳げない、という意図でも、
「この海は汚れているので泳げない」と表現することは、往々にしてあるでしょう。
その場合は、
「この海は汚れているので(私たちは / 人々は)泳げない」という主体の転換がなされているにすぎません。

逆に、私という主体に強い関連性が乏しい場合、
つまり、「海が汚れているために泳ぐことを得ない」という意図を表現したい場合は、
「この海は汚れているので泳がれない」となる。
タンカー事故などによる油の大量流出で、観光地である【海自体の明らかな汚染】を嘆く人は、
「この海は汚されて、泳げない海になってしまった」ではなく、
「この海は汚されて、泳がれない海になってしまった」と表現する割合が高くなるように思われます。

A 回答 (2件)

ちょっと興味があったので調べさせてもらいました。



Wikipedia「秋田弁」より抜粋

> 可能態
>
> 秋田方言の可能の形式には、動作の主体の持つ能力によって行為が可能である
> 「能力可能」と、動作の主体を取り巻く状況によって行為が可能である「状況可能」
> の区別が見られることが特徴的である。全ての動詞を通じて、能力可能には
> 可能動詞形が用いられ、五段動詞とサ変動詞には仮定形に「-ル」を接続し、
> 一段動詞とカ変動詞動詞では未然形に「-レル」を接続して「カゲル」(書ける)、
> 「ミレル」(見られる)、「コレル」(来られる)、「シェル」(できる、「*シレル」から)
> のように言う。また能力可能の否定も「カゲネァ」「ミレネァ」「コレネァ」「シェネァ」
> のように可能動詞の否定形を用いる。状況可能では、肯定では基本形に
> 「-ニエー」を接続して「カグニエー」「ミルニエー」「クルニエー」「シルニエー」のように
> 言い、否定では五段動詞とサ変動詞には未然形に「-レル」を、一段動詞と
> カ変動詞には未然形に「-ラレル」を接続した可能接辞形を用い、「カガレネァ」
> 「ミラレネァ」「コラレネァ」「サレネァ」を用いる。
>
> 共通語では一段動詞やカ変動詞では「見られる」「来られる」のような可能接辞形が
> 規範的で、「見れる」「来れる」のような可能動詞形は「ら抜き言葉」と呼ばれ
> 非規範的なものとされているが、秋田方言では否定形において可能動詞形が
> 能力可能、可能接辞形が状況可能として使い分けられる。例えば「着る」に対する
> 「キレネァ」は「子供がまだ小さすぎて一人で服を着られない」のような文脈に
> 用いられ、「キラレネァ」は「子供が大きくなったのでこの服はもう小さくて着られない」
> のような文脈に用いるというような区別がある。  


ほぼ、質問者さんの主張されていることと一致しているのではないかと思います。
質問者さんは、北海道の方だと書いておられたと思いますが、恐らくお住まいの地域
の方でも同じような使い分けがあるのでしょう。
Wikipediaは項目によって詳しさの差が大きいので、どのような範囲の地域でこのような
使い分けがあるのかまでは分かりませんでした。

ただ、多くの回答者の方が「そんな使い分けは無い」と書いていることからもわかるとおり、
このような使い分けは、決して全国的なものではありません。
私自身(北陸在住)も、そのような使い分けはしたことがありません。


しかしながら、可能動詞と助動詞「れる」の使い分けが存在する地域は実際に存在する
ようなので、その使い分けと、可能動詞が「連用形+得(る)」から変化して生まれたとする
説を結びつけた考察は、中々示唆に富んでいて面白いのではないかと思います。
質問者さんがこの説の「連用形」という部分を無視して「終止形+得る」として考えて
いらっしゃるようなのは若干気になりますが。

可能動詞の「連用形+得(る)」説は「下二段自発動詞の一般化」説と比べると、
「意味が『可能』に限定される」という点については説得力で勝りますが、弱点もあります。
それは、「連用形+得(る)」という表現では、可能表現で起こるはずの主客の転倒が
起こらないということです。
 「私が絵を描く」→「私には絵が描ける」
 「事件が起こる」→「事件が起こり得る」
上のように、可能表現では、(ガ格→ニ格)、(ヲ格→ガ格)のように元の文と格支配が
変わりますが、「連用形+得(る)」ではこのような格支配の変化がありません。
「私が絵を描ける」というような言い方もしますが、これはもともとはあまり一般的では
なかったとされるようです。
したがって、「描ける」は「描き得る」から生まれたとするのは若干無理があるということに
なるわけです

しかしもし、「描ける」が動作の主体の能力を表す表現であり、もともと「自発」からおこり
状況による可能性の有無を表す「れる」「られる」とは全く別だったとするとどうでしょう。
「私が絵を描き得る」からうまれた「私が絵を描ける」の方こそが先発であり、あとから
助動詞を使った可能表現との類推により「私に絵が描ける」という風に主客の転倒が
起こるようになったのだと考えることもできます。
とすると、「連用形+得(る)」説は俄然説得力を帯びてくることになります。

まあ、以上のようなことは、所詮推測にすぎません。
実際には歴史の中でこれらの表現がどう発達してきたかを、地域性も含めて検討する
必要がありますが、それは易しいことではありません。
ただ、面白そうではありますね。

この回答への補足

貴重な資料を検索していただき、ありがとうございました。
  

補足日時:2011/02/21 16:53
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

論拠が必ずしも完全な独りよがりでないことが判明し、幾分安堵しております。
とはいえ、
>ただ、多くの回答者の方が「そんな使い分けは無い」と書いていることからもわかるとおり、
このような使い分けは、決して全国的なものではありません。
私自身(北陸在住)も、そのような使い分けはしたことがありません。

という点も真摯に受け止める必要がありそうです。
ここで、もう一方の質問で#1さんがおっしゃっている、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6538133.html
>無意識の領域で使い分けている、と言われても、確証が持てないのです。不自然だ、と言われても、そうは感じないのです。

というコメントをご紹介いたしますが、おそらく同意されるかもしれませんね。
この#1さんや、momordica さんには当てはまらないかもしれませんが、
ただ、やはり「使い分けの必然性」はあったように思われます。
可能動詞が出現した本質的理由は、単なる便宜性というよりは、自発・受身・尊敬から可能を独立させるために、「得る」を(おそらく無意識的に)採用したからだと考えます。
独立させる必要性がなぜ生じたかと言えば、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html
の#16さんがご指摘になっているように、可能は他の3要素に比べて「主体重視」の要素が遙かに強いからではないでしょうか。

五段は室町、ら抜きは大正と時期の差はあれ、このような(あるいは他のなんらかの)必然性があったと考えるほうが自然だろうと思います。
その意味で、特定の地域だけに発生したというよりは、特定の地域で次第に廃れていった、と捉えるほうが腑に落ちるように感じられます。
事実は言語学者さんにでもお任せするしか無いのでしょうが。

>しかしながら、可能動詞と助動詞「れる」の使い分けが存在する地域は実際に存在する
ようなので、その使い分けと、可能動詞が「連用形+得(る)」から変化して生まれたとする
説を結びつけた考察は、中々示唆に富んでいて面白いのではないかと思います。
質問者さんがこの説の「連用形」という部分を無視して「終止形+得る」として考えて
いらっしゃるようなのは若干気になりますが。

「結びつけた考察」とおっしゃっていただきましたが、単にウィキの「得る」説を分解してみただけです。
休む(YASUMU)→休む[を]得る(YASUMU-ERU)→休める(YASUMERU)
は、
休む(YASUMU)→休み得る(YASUMi-ERU)→休める(YASUMERU)の、[ie⇒e]の転化とウィキに則って記述したほうが良かったかもしれませんね。
いずれにしても、発音の利便性という納得いきやすい過程を経ていることになると思われます。

>しかしもし、「描ける」が動作の主体の能力を表す表現であり、もともと「自発」からおこり
状況による可能性の有無を表す「れる」「られる」とは全く別だったとするとどうでしょう。

「全く別だったとすると」という大胆な推測ですが、実際こうであったら「使い分けの必然性」を主張する私(及び、おそらく秋田県民他)としては、非常に嬉しいですね。
非常に面白いと思います。
    

お礼日時:2011/02/21 16:38

前回質問の#16です。


そのときのお礼「そもそも自発の用法が最初だったという話もあるようで、」についてはその通りと思います。

「受身・尊敬・自発・可能」といっても、皆「自然にそうなる」の感じでしょう。
自然に受身状態になる、自然に尊敬する、自然にそうなる、自然に手に入る・・・こんな感じ。
どれも質問者様のおっしゃる主体の意志が感じられません。

「得る」も昔の「得(う)」は、かなり「自然にそうなる」の意味が強かったのではないでしょうか。
(これは詳しく調べていないのでわかりません)

「得る」の発音が「ウェル」「エル」の状態になった時期と可能動詞の発生時期に合理的な説明ができれば、貴説は納得性あると思います。
大きな辞書や日葡辞書を調べればすぐわかるし、多分大丈夫でしょう。

昔の「得(う)」「得る」も現在のような積極的な意味ではなく、「自然にそうなる」という意味が強かったとすれば、分かれた時点にも合理性あるように思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「得る」も昔の「得(う)」は、かなり「自然にそうなる」の意味が強かったのではないでしょうか。

そうかもしれませんね。
「得る」を採用したとすれば、そこにあったのは、「主体の可能性への言及」なのでしょう。

>大きな辞書や日葡辞書を調べればすぐわかるし、多分大丈夫でしょう。

文法に疎い私がひやひやながらも、色々考察できたのは多くのみなさんのお陰です。
たぶん、これ以上は無理でしょう。
ありがとうございました。
  

お礼日時:2011/02/21 16:52

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