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【NHK大河ドラマ・江】を視聴していましたが、本日の清洲会議(織田家の跡目相続会議)のシーンで信長の嫡男・信忠の忘れ形見として三法師(後の秀信)が登場しますが、その後の豊臣秀吉・秀次・秀頼と続く歴史では、織田秀信からの家督奪取?臣下への格下げ(下克上)の経緯や大義名分、権力闘争の有無等が余り記録・記載されていません・・・

そこで、質問ですが・・・
◇織田三法師(秀信)は、いくら幼少とは言え、秀吉の狡猾さ智謀からか、多くの織田家家臣や親族(叔父叔母や従兄弟達)がありながら、徳川の影響も排して、何時ごろ何故に秀吉に権力奪取され、結果的に豊臣の臣下に甘んじたのでしょうか?
興味あるテーマーであり、その経過・経緯、諸将の対応等を簡単にお教え願えませんでしょうか・・・

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0% …

A 回答 (4件)

織田三法師は、今日「江」に初登場してきたわけですが、早く言えば羽柴秀吉が織田家乗っ取りを計る為に利用された、秀吉にとっては「道具」でしかない存在なわけです。

秀吉の真意を悟った「市」は秀吉とは対立関係にあった「柴田勝家」との再婚を「織田家存続」を大義名分に決意し、柴田勝家の正室となるのです。市は自ら「人身御供」の様な形を取り、嫁ぎたくもない柴田の所へ嫁入りするのです。市が「悲劇のヒロイン」扱いされる理由はそこにあります。浅井長政と結託した織田信長は妹である「市」を嫁がせます。織田・浅井連合強化の為の「政略結婚」です。市は一男三女(茶々・初・江・万福丸)を儲けますが、結局、織田と浅井の連合は崩れ、秀吉が浅井と交戦。勝利し市と子供4人を救出し、信長の元に届けます。しかし信長は、その場で浅井家の嫡男「万福丸」を殺害。完全に浅井家を滅亡させてしまいます。市としては、嫡男を失うのは「戦の慣らし」と考えておりましたが、秀吉が「4人は私が立派に育てる」等と余計な事を言ったものだから、その場で殺害されたのには、どうにも納得がいかない。それで「秀吉憎し」になったわけです。ですから、明智を倒し、自らが天下を取ろうとする秀吉の謀略は、どうしても阻止しなければならない。織田家後継は信長の子でなければ、秀吉の思うがままになってしまう、とこう言った経緯があるんです。その事情を知っている茶々も初も「秀吉嫌い」。江だけが何も知らずに育ったわけで、実際、秀吉と会ったと市と姉2人に言った時、怒られてましたよね?この時期から既に、織田三法師は「秀吉に権力奪取」されたも同然だったのです。それを阻止せんとした勝家も秀吉に敗れ去り、秀吉は天下統一への道をひた走ったわけです。

秀吉は「百姓から足軽、足軽から織田家臣の重鎮」にまで昇りつめた「英雄」みたいな感じで扱われていますけれども、実際のところは謀略の限りを尽くし、信長の死後は「織田家乗っ取り」に討って出たわけです。武将としては長けていたかもですが、人間としては如何なものか、と私なんかは思います。信長の死 → 中国大返し → 明智光秀討伐 → その後の秀吉の行動・・・ 全部「信長の後継はわしじゃぁ」と言う事を天下に見せ付ける為の謀議・謀略・策略にすぎないというわけです。
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この回答へのお礼

詳細に且つ丁寧にお教え、ご回答を賜りまして、真にありがとうございます。


やはり、
◇歴史は勝者によって作られる。
◇カリスマ亡き後の凡庸な子供達が足の引っ張り合い,意地の張り合い、近親憎悪で共倒れ。
◇下克上の気風が未だ色濃い時代にあって、血縁や主家筋や家柄以上に力・智謀・権力が求心力に。
◇所詮、年端も行かぬお坊ちゃん・甘ちゃんであり、生き残るのがやっとで秀吉の前では借りて来た猫。
◇有力な後ろ盾が秀吉の庇護であり、結局は秀吉の顔色を伺う生き方・運命しかなかった。

のでしょうか・・・。

お礼日時:2011/02/21 23:12

考えて見れば


1580年段階で、無能を理由に、追放されている人もいるわけですから、追放されずにその後13万石の大名に残れれば 御の字では?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85% …
かなりの有力親族がいましたが、追放されています
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この回答へのお礼

詳細に且つ丁寧にお教え、ご回答を賜りまして、真にありがとうございます。

なるほど、大変、参考になる分析・解説を頂戴し、心より感謝とお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/21 23:24

1575年に織田家の家督は信長から信忠に譲られています。


同じころ、信長は将軍になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0% …
上記より引用

天正3年1575年
11月4日権大納言
11月7日右近衛大将兼任公卿補任
11月28日 織田家の家督を嫡男・信忠に譲渡。

つまり1582年の段階で
天下人   信長
織田家家督 信忠
清洲会議は、織田家家督決定のための、織田家重臣会議であり、信忠の嫡子三法師が継承している。
その後、秀吉が織田家の家督を奪ったというのは記録はない。

また、1583年段階では、信雄が将軍(左近衛権中将)であり、秀吉が位官の上で、信雄を超えるのは、小牧長久手の戦いのあととなります。

信長革命 「安土幕府」の衝撃 (角川選書) [単行本]
からの、受け売りになりますが、

信長による安土幕府の成立
1575年~
信雄による継承
1582-1584
秀吉による継承
1584~

と説明しております。
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この回答へのお礼

詳細に且つ丁寧にお教え、ご回答を賜りまして、真にありがとうございます。

時系列的に貴重なデーター・分析を頂戴して、大変、参考になり、心より感謝とお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/21 23:22

秀吉は柴田勝家を討った直後に、小早川隆景へ書状を送ります。



秀吉存分次第に御覚悟なされ候へば
日本の治、頼朝依頼これには争か増すべく候哉

毛利さえ服従すれば日本は頼朝以来治まるであろう。
と、天下取りの意欲満々です。

勝家の後ろ盾を失った織田信孝は自害に追い込まれます。

一方、
織田信雄は伊勢、伊賀、尾張の3国を有していました。
家康と手を組んで秀吉と交戦します。(小牧長久手の合戦)

信雄は家康に相談もせずに勝手に秀吉と講和に応じてしまいます。
この時点で織田信雄は1大名に転落したと見て良いでしょう。

その後、
紀伊、根来衆2万を下し、雑賀衆を下し、長宗我部を毛利との連合軍6万で下します。

三法師は岐阜城主となります。
清洲会議では3万石を直轄地としただけです。
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この回答へのお礼

詳細に且つ丁寧にお教え、ご回答を賜りまして、真にありがとうございます。

当時の状況とその後の推移について貴重な考察を頂戴しまして、大変、参考になりました。
三法師の織田家の家督相続や織田連合軍の旗印からの降格の事情や切っ掛け、さらには織田家の主家筋の相伝への秀吉の増長・背信・離反への他の武将の諫言・諫止は無かったのでしょうか?
その辺の事情を記した文献や小説には、どのような物が分かり易くあるのでしょうか?

お礼日時:2011/02/21 23:20

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