この質問内容は、当初、
「可能動詞 について」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6537930.html
と同じスペースに掲載予定でしたが、字数の関係で、あえて独立させました。
基本的考えは重複を怖れず掲載したつもりですが、上記URLにも目をお通しいただけると幸いです。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6530613.html
及び、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6534485.html
もご参照いただけれと思います。
可能動詞の成立過程について
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6537930.html
で述べましたように、
ラ抜き動詞についても、【正当な】成立過程が存在しているように思うので、それを提示し、みなさんのご見解を伺わせていただければ、と思います。
ウィキによると、ラ抜き言葉は、大正時代に出現したようで、
「見られる」のような上一段活用動詞、「食べられる」のような下一段活用動詞、また「来られる」のようなカ変動詞の「ら」を抜いたもの。
という解説が載っています。(ウィキでは肯定しているわけではありません)
この「られる」が「れる」に変化した理由として、
「可能動詞 について」http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6537930.html
で、述べた内容と同様に、「動詞+得る」という意図があったと考えることができると思います。
「得る」に関して、ウィキでは五段活用の可能動詞の出現理由のひとつとしてしか挙げていませんが、これはラ抜き言葉にも適用できるのではないでしょうか、ということです。
五段活用の場合、先の質問でも示しましたが、
読む(YOMU)→読む[を]得る(YOMU-ERU)→読める(YOMERU)
という出現過程が推測できるように思います。
[U]は発音上の便宜性で消滅したと考えることに無理はないでしょう。
同様に、あるいは似たように、
見る(MIRU)→見る[を]得る(MIRU-ERU)→見れる(MIRERU)
食べる(TABERU)→食べる[を]得る(TABERU-ERU)→食べれる(TABERERU)
のような過程を経て(ラ抜き言葉ではなく)五段活用以外の動詞の可能動詞が出来た、と考えても良いのではないか、という、いわゆるラ抜き言葉擁護論についてお伺いするのが、当質問の骨子であります。
見られる・食べられる、という(正当的というべきなのでしょう)可能動詞の他に、なぜこのようなものが必要であるのか、という点に関して私見を述べます。
まず、(実際に使う人の意図に関わらず) 見れる と 見られる には微妙な意図の差異が存在するのではないか、ということを主張したいと思います。
「得る」が可能の意味であることは当然ですが、「【主体(人とは限りません)】が(何事かを)得る」という用法だと思います。
つまり、可能動詞は(動詞の対象ではなく)主体性重視を意図した表現である、ということの根拠となり得るのではないか、ということです。
「このテレビは、この眼鏡を描けると 3D 画像が見られるよ」
は、
「これは、そういう(3Dの)画像を見ることが可能な対象(=テレビ)」であることに重点を置きたい場合の表現。
「その眼鏡ではなくて、この眼鏡を描けると 3D 画像が見れるよ」
は、
「主体(=あなた)が、見ることが可能」であることに重点を置きたい場合の表現。
ということが言えるのではないか、ということです。
<結論>
ラ抜き言葉とは、五段活用以外の動詞のための可能動詞であり、且つ、「動詞+助動詞-られる」型の可能表現と、その意図を峻別するために必要な動詞と言える。
<補足>
ただし、上記の例において入れ替えを行なうと、微妙に不自然な表現になる。
つまり、ラ抜き擁護派・反対派を問わず、申し上げておきたいことは、
シチュエーションによって使い分けられるのが本来の用法であって、すべてラ抜きで事足りるということには決してならない。
たとえば、
「こんな流行遅れの洋服で、みんなの前に出れないわ」
という物言いをする女優が蓮っ葉に見えるとすれば、それは、
「出ることを得ない理由」が、「みんなの前だから」という他者への遠慮、あるいは常識的な慎ましさが基盤にあるのではなく、
「自分の損得のみに神経がいっている」という、その「身勝手さ」が、聞くものをして、無意識に蓮っ葉な印象を引き起こさせるのではないか、と思われます。
火事で逃げ送れた女優が煙渦巻く密室から、
「わたし、ここから出られないわ」と言ったらさぞかし奇異な印象を受けるでしょう。
「わたし、ここから出れないわ」が自然だろうと思います。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
「可能動詞 について」の回答者#2です。
あちらの説はなかなか面白いなと思ったのですが、こちらの説にはちょっと賛成できません。
理由はいくつかあります。
一つ目の理由は、可能動詞が「動詞+得る」からできたという説において、そのもとになった
形は「動詞の終止形+得る」ではなく「動詞の連用形+得る」だということです。
Wikiで言われている「連用形+得る」というのは、例えば最近若者を中心によく使われている
「あり得ない」のような形のことです。「ある得ない」ではありません。
「書く得る」「読む得る」ではなく、「書き得る」「読み得る」です。
この形から可能動詞ができたという説は、むしろ質問者さんの説とは逆に、五段動詞以外から
可能動詞と同じ方法でら抜き言葉を作ることはできないということを強く示していると思います。
「書く(KAKU)」→「書き得る(KAKIERU)」→「書きぇる(KAKYERU)」→「書ける(KAKERU)」
「読む(YOMU)」→「読み得る(YOMIERU)」→「読みぇる(YOMYERU)」→「読める(YOMERU)」
これと同じような変化を例えば上一段段動詞に適用すると、
「生きる(IKIRU)」→「生き得る(IKIERU)」→「生きぇる(IKYERU)」→「生ける(IKERU)」
単に活用が下一段になるだけで、いわゆる「ら抜き」の形にはなりません。
下一段動詞に至っては、
「食べる(TABERU)」→「食べ得る(TABEERU)」→「食べる(TABERU)」
と、元の形に戻ってしまいます。
二つ目の理由は、可能動詞とら抜き言葉の発生時期のずれです。
Wikipedia等の記載を信じるなら、両者の発生時期には数百年のずれがあります。
質問者さんのおっしゃるような形で両者が発生したなら、それらの時期に大きなずれが
生じることに合理的な説明ができるとは思えません。
また、何らかの理由で最初に五段動詞の可能形のみが広まって、後からら抜き言葉が
できたなら、その成立時期においては可能動詞の成立過程がどういうものであったか
ということ自体が失われてしまっていたはずです。(現在定説がないくらいですから)
したがって、その数百年前に失われたのと全く同じ経過をたどって言葉が変化するとは
考えにくいと思います。
やはり、ら抜き言葉は、当時既に成立済みだったラ行五段活用動詞の可能動詞からの
類推であったと考える方が妥当だと思います。
「られる」から「ら」が抜けたわけではないということ自体には賛成です。
三つ目の理由は、もう一方のスレッドにも書いたことですが、「れる」「られる」という助動詞と
可能動詞を意味において区別して使い分けるというのは、少なくとも現代においてはあくまで
一部の地域でのみ使われている方言だということです。
質問者さんがこれらを入れ替えることによって感じるとおっしゃる「奇異な印象」は、おそらく
ほとんどの日本人は全く感じないはずです。私も感じません。
私自身「五段動詞+れる」の形は稀に使わないわけではないのですが(「やっとれんわ」
ではなく「やっとられんわ」と言うとか)、それはあくまで語感などによってそちらを選んで
いるだけで、質問者さんのおっしゃるような意味の区別は全くしていません。
「言われてみれば…」と思い当たることすらありません。残念ながら。
つまり、それらを区別する地域以外では、「られる」と意味的に区別するための可能動詞
というものは必要とされていないということです。
上一段・下一段動詞に可能動詞がなくても、全く困らないのです。
この回答への補足
お礼欄からの続きです。
因みに「おれいらん」と変換すると、「俺要らん」になるので凹みます。^^;
>私自身「五段動詞+れる」の形は稀に使わないわけではないのですが(「やっとれんわ」
ではなく「やっとられんわ」と言うとか)、それはあくまで語感などによってそちらを選んで
いるだけで、質問者さんのおっしゃるような意味の区別は全くしていません。
「言われてみれば…」と思い当たることすらありません。残念ながら。
:
そうかもしれませんね。
いや、1万歩譲ってそうだとしましょう。
その上であえてお尋ねします。
多少関西弁交じりですが、そのほうが雰囲気が取りやすいかと思い・・・。
A:「こんなしょうもないことを、なんでこの俺がやらなあかんのや。あ、出かける時間や。もう【】」
B:「なんであんたにこの俺が100万も貸さなあかんねん。え? 俺しか頼るもんがおらんて?それに?わしとあんたは同じ苗字やて?もう【】」
このA B 二例文に、「やっとれんわ」「やっとられんわ」を当てはめるとすればどうなるでしょうか。
今までの遣り取りは忘れて素直にお答えください。^^;
Aは、もう出かけなければならないこの俺が、何で・・・。というニュアンスを出したい場合の例文ですので、そのへんを十分お汲み取りください。
Bは、相手が挙げる無茶苦茶な理由に辟易している心境を表現した例文であることにご留意いただきたいと思います。
>「言われてみれば…」と思い当たることすらありません
:
と再度!間違いなく!神仏に誓って!二言なく! 宣言おできになるでしょうか。^^;
できるならば諦めますが。(-_-;)
ご回答ありがとうございます。
>一つ目の理由は、可能動詞が「動詞+得る」からできたという説において、そのもとになった
形は「動詞の終止形+得る」ではなく「動詞の連用形+得る」だということです。
:
見る[を]得る(MIRU-ERU)
という発想自体が根本的に間違い、ということですね。
たしかに「見る得る」という表現はありませんしね。
私としても「強弁」のそしりを免れない要素を含んでいることは自覚しています。
「得る」の効用を主張する以上、「動詞の連用形+得る」という形を崩すことは論理破綻に通じる、というご見解に耳を傾ける必要性は大いに感じます。
しかし、この説は、
「動詞の終止形+得る」という思考型から可能動詞が発生したのではない、という直接的根拠とするにはやや脆弱感があるという指摘を免れることはできないでしょう。
言ってみれば状況証拠を突きつけても有罪にはできない、のと似ているかもしれません。
端的に申し上げると、「動詞の終止形+得る」であっても不都合はないのではないか、ということです。
ただ、この件に関しては、「第2の観点」としてもうひとつの可能性を既に示唆済みですので、礼儀として、それも提示しておきます。以下は、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6534485.html
#7さんへのお礼欄からの抜粋です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こちらのブログ最下段の表をご覧ください。
http://dora0.blog115.fc2.com/blog-entry-59.html
無断借用ですが、事後承諾の依頼を入れる予定です。
・休み⇒休まれる⇒休める
YASUMU⇒YASUM AR ERU⇒YASUMERU
・食べる⇒食べられる⇒食べれる
TABERU⇒TABER AR ERU⇒TABERERU
という構図がご覧いただけると思います。
つまり、あくまで基本的にはですが、全ての動詞が、「られる型」から可能動詞を発生させ得る、と考えるわけです。
この場合、すべての動詞の AR 音が抜けることによって可能動詞が発生することになります。
これも生理的呼吸法の観点から見ても無理な論理ではないと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
節操無く、もうひとつの可能性についても(2次的可能性して)言及しているわけですが、こちらについては、どのようなご感想をお持ちになるのか伺わせていただければ、貴重な判断材料になりそうな気がします。
ただ、これは、「得る型」の存在理由を弱める可能性につながるので、それが悩ましいところではあるのですが。
>二つ目の理由は、可能動詞とら抜き言葉の発生時期のずれです。
Wikipedia等の記載を信じるなら、両者の発生時期には数百年のずれがあります。
質問者さんのおっしゃるような形で両者が発生したなら、それらの時期に大きなずれが
生じることに合理的な説明ができるとは思えません。
:
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6534485.html
で別質問を平行して立てさせていただいたぐらいでして、
この理由には素直に肯けます。
これは、上記「 AR 脱落説 」に対しても否定の根拠となり得る強力なご見解と感じます。
明白な理由がない限り、ラ抜き擁護論の立場がかなり弱くなるのかもしれません。
ここにきて、ラ抜きを五段可能動詞の成立根拠と同一に論じることの無理を感じて始めております。
>やはり、ら抜き言葉は、当時既に成立済みだったラ行五段活用動詞の可能動詞からの
類推であったと考える方が妥当だと思います。
:
同意いたします。
>三つ目の理由は、もう一方のスレッドにも書いたことですが、「れる」「られる」という助動詞と
可能動詞を意味において区別して使い分けるというのは、少なくとも現代においてはあくまで
一部の地域でのみ使われている方言だということです。
:
今回お寄せいただいた一連のご回答の中でわかったことですが、おっしゃるとおり、確率は低いのですが、しかし、方言というには確率の高い同感もまた寄せられています。
辞書にも方言という注釈無しに、可能の用法として明記しているものが殆んどであることを思えば、単に方言と片付けるわけにはいかないでしょう。
「いじる」を意味する北海道弁の「ちょす」などは辞書にも載っておらず、これなどは明らかな方言と言えるでしょうが。
>一部の地域でのみ使われている
:可能性を否定できるだけの根拠はありませんが、方言の定義が必要になるほどには、広範囲で使われている用法である可能性もあるかもしれません。
特に、無意識的に使い分けている、ということに気づいているか否か、ということがあります。
No.1
- 回答日時:
>上記の例において入れ替えを行なうと、微妙に不自然な表現になる。
>火事で逃げ送れた女優が煙渦巻く密室から、
>「わたし、ここから出られないわ」と言ったらさぞかし奇異な印象を受けるでしょう。
>「わたし、ここから出れないわ」が自然だろうと思います。
とおっしゃいますが、私には何ら不自然には思えません。日本人の何%が、不自然さを感じるのでしょうか。
可能動詞は「~得る」からできたとの説は頷けます。それにひっぱられて「出れる」が生まれた、というのも頷けます。ただ、「出れる」を使う人は、可能の意味で「出られる」を使わないと思うのですが、いかがでしょうか。「ら抜き」が正当な理由によって成立したとしたら、駆逐された「ら」のある形は使われないはずです。
hakobulu様の説は主観的で、「いや、私はそうは感じない」と言われれば議論にならないと思います。無意識の領域で使い分けている、と言われても、確証が持てないのです。不自然だ、と言われても、そうは感じないのです。
・「出られる」と「出れる」の使い分けをしている人はどのくらいいるのか
・「泳がれる」という「五段活用+れる」を日常的に使用している人はどの
くらいいるのか
・可能であることを主体と対象で分けるのに、文の形でなく動詞の変化に頼
っている人がどのくらいいるのか
について、調査なりアンケートなりしてみて、自説の根拠にされてはいかがでしょうか。ないものをいくら論じても。
ちなみに、私は三点とも「いいえ」です。
ご回答ありがとうございます。
>とおっしゃいますが、私には何ら不自然には思えません。日本人の何%が、不自然さを感じるのでしょうか。
:
たしかに、厳密に区分することは難しいかもしれません。
また、全く区分していない方も実際多いのかもしれません。
ただ、その無意識的な区別に気づいていない場合もあると思います。
言葉というものは、何らかの必要性によって生じるのだと思われますが、その要因が無意識的な場合は非常に多いと思われるからです。
この観点で考察をするのが面白いと思っていますので、全く(たとえ無意識的であっても)区別していない場合、それは時代の流れのひとつと受け止めるしかないでしょうね。
ですから、真理に悖る、とまで強弁しているわけではありません。
あくまで、この用法の発生した過程に興味がある、そして、無意識領域を掘り起こしてみれば、そのことに気づけるかも、という可能性を探っているような次第ですので、賛否を問うという方法は今回の場合、そぐわないでしょう。
>ただ、「出れる」を使う人は、可能の意味で「出られる」を使わないと思うのですが、いかがでしょうか。「ら抜き」が正当な理由によって成立したとしたら、駆逐された「ら」のある形は使われないはずです。
:
これも同様にですが、全く区別しない人と、無意識的に、「あ、考えてみれば、そうかも」と気づく方もおられるように思います。
その根拠を推測してみたわけです。
「出れる」が成立した正当な理由に関しては、
自発・受身・尊敬から可能を独立させるために、「得る」を(おそらく無意識的に)採用したからだと考えます。
独立させる必要性がなぜ生じたかと言えば、可能は他の3要素に比べて「主体重視」の要素が遙かに強いからではないでしょうか。
おそらくですが。
つまり、
>「ら」が駆逐された
:
わけではなく、あらたな可能動詞の用法が誕生した、というわけです。
ただ、全ての動詞に適用できるわけではないでしょうね。
それがまたややこしくしているわけですが。
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