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正岡子規の短歌、
・くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る
について教えてください。

特に「二尺伸びたる」はどの名詞を修飾しているのでしょうか。候補は、薔薇と芽だけれど、二尺って60センチです。だとすれば、それが修飾しているのは、芽(茎や蔓の意がある)でしょう。でも、茎が紅色って考えにくいです。

ではと思って、「くれないのバラの芽(蕾)」だと考えると、「二尺伸びたる」のがどこを修飾するかわからなくなってしまいます。

それならと思って、「くれないの」を枕詞だと考えてみるけれど、枕詞の「くれないの」は普通、「色」や「あさ」にかかるのだから、ちょっと無理があります。

正岡子規って、写実主義の歌人だったから、たぶん答えがあると思うのです。文法的に、どうしたら整合性がつくのか、教えてください。

A 回答 (11件中1~10件)

早蕨の質問がお終いになっていましたので、こちらに回答します。



毎年冬を越すため、ハイブリッドのバラから、去年伸びた茎を毎年スッパリと剪定します。春になるとまたそこから芽が伸びてきます。白いバラの茎は柔らかい緑色ですが、赤いバラの茎は紅色といえないこともありません。細い茎がどっしりとした根元からシューッと伸びてきます。葉は深い緑色ですから、紅色は映えます。

60センチ伸びたというから、ずいぶん大きな花のつぼみがついていたことでしょう。そのつぼみに、まるで早く咲けというように、春雨が降りかかっています。風もなく、シトシトと霧のような春雨です。

そうして、バラの花はまた今年も咲こうとしているのです。

作者がバラに見たものは希望だったか、自然の摂理だったか。散り際の美しい桜に比べると、バラの美しさは開きかけに尽きます。その、開きかけよりさらに前、つぼみの景色を歌にした作者は、柔らかな茎を伸ばして、成長してゆくものの命を暖かく包み込む、春雨を詠んでいるように感じます。

彼がつぼみで、春雨は母だったかもしれません。

この回答への補足

皆さまからの回答も止まったようなので、締めようと思います。どうもありがとうございました。

まず文法のことですが、異説もあったものの、僕としては形容詞節が三つ、「芽」にかかると考える他ないなと思いました。芽は蕾ではなく、茎の意味です。ここまでで確実に言えるのは、次のことです。
「季節は春で、雨が降り、桜は散ってしまった。傍にはバラがある。それはもう六十センチにも伸び、雨にぬれて、触れてみると、その棘は柔らかだと思える」。

しかしそれ以上先は、解釈の問題が入ります。一つは「くれなゐ」が紅薔薇の品種を示しているという考え方。もう一つは、茎がにょきにょき生えてきて、それが紅いという考え方です。
(1)の場合、赤があろうとあるまいと問題ではないのだから、蕾がついていて、それはまだ咲きそうにないけれども、うっすらと赤みが覗いているなどと考えてみても許されるでしょう。
(2)の方は、なるほど六十センチも伸びたら、蕾くらいついているだろうという推測は成り立つとしても、歌人が焦点を当てたのは茎であると考えて、蕾のことより茎の色合いを中心に考えるべきでしょう。

僕はどちらが精密な解釈か、ちょっとわかりません。(1)のように考えたら、蕾に相当する語が短歌の中に出てこないとはいえ、通説のように、赤い花の蕾を待ち望んでいると言っても、別段、矛盾はないわけです。ここでは「薔薇が咲いたら赤くてきれいだろうな」という無邪気で楽観的な気持ちが先にあると考えることになります。僕は自分で思いついたという意味では(1)なのですし、僕の思った正岡子規とは無邪気な人だっただけに、この説を信じたのです。

しかし(2)も言われてみて考えていたら、非常に味があるなと思いました。つまり「花の無い枝だけの薔薇が植わっており、本当は殺風景なのではある。桜も雨で散ってしまっただろう。しかし茎の赤みに感じ入り、棘に触れみると濡れているせいなのか柔らかい。こうやって薔薇は水を吸って成長しているのだ。春雨は桜を散らしてしまったかもしれないが、その同じ雨で薔薇は、夏に向けて育っていくのを感じる」。
僕はこれもいいなと思うのです。寂しさに美を見出すという姿勢に、感じ入りました。華やかさに寂しさを見出すとした定家の有心とは逆です。子規が自らの美学を模索している姿を看取るだけに、素晴らしい解釈だと感じました。

補足日時:2011/04/27 17:42
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。そうですか、あの質問に関心をもっていただけたのですか。それは申し訳ありませんでした。

ご解釈だと、芽に3つの形容詞がかかり、かつその芽が赤いということなのですね。ハコブルさんという方に、芽かきということを指摘していただきましたが、伸びてきた芽全体が紅色と呼べるかどうかで躊躇いがあったのでした。僕は薔薇を育てたことが無く、調べるばかりです。
が、芽が赤いとおっしゃるのなら、僕はこの説には同意できます。というのも、文法に整合性がありますから。それにこの場合、蕾が紅いかどうかは、あまり問題ではないということになり、春としても納得できます。

春雨に、桜が雨で散った情景を看取ったのは面白いですね。何かさびしさがあった上で、次の季節に想いを馳せたと言えます。
子規が蕾なら、春雨は妹だったでしょう。子規は妹に面倒を見てもらっていたのですから。

お礼日時:2011/04/27 13:32

なぜ、「春雨」なのか? ですが、


この句の季語は「薔薇」でしょうか? それとも「春雨」でしょうか?

季語が「薔薇」の方なら、季節は「夏」に限定されてしまいます。
そうしたら「春雨」を使うのは不自然です。
「秋雨」なら季節は秋ですから、こちらも不自然ですよね。

季語が「薔薇」の方なら、「五月雨」や「梅雨」で季節の「夏」を示すか、
単なる「雨」とするのが自然な使い方です。

でも、季語が「薔薇」ではなく「春雨」の方だとすると、
「春雨」は「春」を示す季語として必要だった。

つまり、この句の季語は「薔薇」ではなく「春雨」の方だと思うのですが。
そして「夏」ではなく、
「春」を示す(強調する)季語として「春雨」が必要だったのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。感謝しております。季語が春雨であるというのは、同意するところです。だからこそ、疑問なのです。

わからなかったのは、ケンタウロスさんの針が蕾の先端を示すという解釈のことなのですが、これだと、もう薔薇は開花直前になっているということになりますね。季節は春と呼べる時期かもしれないが、もう既に薔薇は咲きかけんとしている。つまり作品は、早咲きの薔薇を描いているということになります。
しかし早咲きの薔薇というテーマの意義それ自体が、僕にはよくわからないのです。なぜなら、これは春に夏の予兆を求めていることになります。その季節を楽しんでいないということになります。テーマとして成立するのかどうか、という疑問を前回は投げたつもりでした。

ケンタウロスさんは、もう一案、棘が赤いという可能性を提示してくださいました。この場合、薔薇の蕾が紅いかどうかは、関係ないわけで、季語が春を示すことには何ら矛盾はないと言えます。ハコブルさんという方がその説を支持しています。が、日本語の文法構造として、「くれなゐ」が直接「針」を修飾することが出来るのかどうか、僕は疑問に思っているところでした。

お礼日時:2011/04/27 09:42

#8です。



>うーん。その解釈は無理ですよ。

たしかに、花や蕾を差し置いて紅色と表現できる針があるかどうか、という点については、わたしも自信はないんですけどね。^^;
ただ、ケンタウロスさんの写真は棘のように見える芽なのでしょう。
また、
>この棘が二尺でないと、文章にならない

ということもないでしょう。
「二尺伸びたる 薔薇の芽から生えている」「くれなゐの 針」という構造。

>好みとか性格の問題ではなくて、この詩が何を描いているかを知りたいのです。

ごもっともです。
国語というよりは、薔薇に詳しい方にお聞きすると案外すんなり解決するかもですね。
ガーデニングカテあたりで質問なさってみても面白いかもしれません。
  
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この回答へのお礼

僕から質問したとはいえ、何度も、ありがとうございます。ハコブルさんは丁寧な方ですね。それに甘えて、伺いたいのですが、次は本当に可能なのですか。

>「二尺伸びたる 薔薇の芽から生えている」「くれなゐの 針」という構造。

何度も聞いていることで誰も答えて下さらないのですが、それが日本語でできるのですか? つまり形容する修飾節が二つあって、それぞれが別の名詞にかかるということがあるのかどうか。僕はあまり確信がないのです。というより、無理だと思っているのです。もし他に例文をご存じなら、教えてください。
副詞が動詞から離れた位置にあるのはしっていますが、形容詞が前に出ているということがあるのでしょうか。

お礼日時:2011/04/27 09:12

#4です。



>バラの手入れを怠って二尺にもなってしまったなぁ、という歌だという解釈でしょう。

表現不足でしたが、そうした諧謔味のある歌と捉えているわけではありません。

>子規が写実であることを考えると、複数の解釈が同時に浮かぶ文法構造をとるとは考えにくいのですが。

これは鑑賞者の解釈次第だと思います。

この歌の要点は、
針自体の柔らかさと春雨のイメージによるやわらかさが掛かっていることであり、また、「くれなゐ」と春雨の透明性を含んだ白色のイメージが対比的に使われていることではないかと思います。
その意味で、あくまで実際の紅色を目にしての歌でしょう。

肝心の「くれなゐの」が何に懸かるのか、という点に関しては、やはり針と考えます。
たしかに蕾なり花なりのほうが美しいのですが、わたしはへそ曲がりですので。^^
2尺伸びたのは前回同様ですが「(薔薇の)芽」です。

「頼りなく柔らかい針(とげ)」の存在に気づき、バラの棘と言えば硬くて鋭いものという既成概念を超える発見を新鮮なものとして表現し、且つ、
その針の柔らかさを「春雨の柔らかなイメージ」と重ね合わせると同時に、
針(とげ)の紅色⇔春雨の透明的白色のイメージの対比効果も盛り込んだ。
そういった感じでしょうか。

       
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この回答へのお礼

ありがとうございます。せっかくですが、うーん。その解釈は無理ですよ。赤い棘があるということは、それでいいのですが、それならば、この棘が二尺でないと、文章にならないと思います。形容詞が並んでいる以上は、同じ名詞を修飾することになるでしょう。赤い色の棘を紹介してくださったケンタウロスさんの写真を見ると、赤い棘が二尺は無理ですね。だからこの時点で、赤い棘説は、ちょっと成立しないように思うのです。

文法的に解釈しないで読むと、どういうことが起きるかといえば、自分で想像したイメージをもってきて、それに沿って文章を再構成して解釈するということになってしまいます。これがシュルレアリスムの詩ならいいんですが、これは写実の子規の作品ですから。それにハコブルさんの説だと、透明とおっしゃいますが、赤以外に、他に色を明示する言葉が入っていないとコントラストを強調するには弱いように思うのです。

詩を読む際に、文法か想像力のどちらを優先するかと言われて、文法と答えるのは、あまり面白くないかもしれませんね。ただ僕は真面目に、好みとか性格の問題ではなくて、この詩が何を描いているかを知りたいのです。

お礼日時:2011/04/26 23:18

> 先端を針と呼ぶのは難しそうな気がします。


というのも、植物の場合、針といえば、どうしても棘の用例しかないからです。
比喩だとしても、紛らわしいという点で、歌人なら避けるように思うのです。

こんな写真を発見しました。
http://www.ichigu-doc.jp/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%8 …
http://www.ichigu-doc.jp/2009/05/2-1.html

茎に付く棘状の芽も紅色をしているようです。
子規はこれを詠んだ可能性もあります。



> 薔薇が春先にすでに咲きそうな状態にまで蕾がなっているというのは考えにくいのです。

正岡子規は幕末に生まれ、明治を生きた歌人ですよね。
当時の暦は旧暦を使っていました。

春は1~3月、夏は4~6月ですよね。
旧暦の1~3月は、新暦の2~4月に当たります。

つまり、季語が春のこの句が書かれた時期は、
旧暦の1~3月(新暦の2~4月)です。

て゛、ここのページを見ると

http://www.hana300.com/bara00.html

バラの開花時期は新暦の5月~11月ですから、
旧暦に直すと4月~10月になります。

旧暦4月には、すでにバラは開花している可能性は十分に有る
と言えます。

もしこの句が旧暦3月末(新暦4月末)に詠まれたとすると、
バラの蕾は開花寸前で、蕾の先端が少し開き、紅色の花弁が見えていたかもしれません。

この回答への補足

いや、ごめんなさい。誤解しました。前までは針は蕾の先端であるということでしたが、針は紅色の棘の可能性があると仰るのですね。

補足日時:2011/04/26 21:52
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほど。暦の話はうっかりしていました。確かに春雨と呼んだものが降っていたのが、仮に旧暦の四月五日ごろだとしたら、それは新暦の五月七日です。となると、薔薇が開花直前である可能性はあるでしょう。「薔薇」が旧暦の頃から夏の季語であるから、少し僕にはこの句が「春」を強調したのが腑に落ちませんが(その箇所に初夏の風物詩を入れた方が素直だった)、薔薇が咲くというのは納得しました。

しかし、針はまだ不思議です。非常に細い糸のようなものがピンと先端に出ているのなら、それが針だというのはわかります。僕はそういう可能性がないだろうかとも考えてみたのです。頂いた写真は、僕には針というより、やはり別のもののように見えるのです。すみません、いろいろ探して頂いたのに。

そして最後の「春雨のふる」ですが、なぜ、こうしたのでしょう。もちろん子規は写実の人ですから、単に雨が降っていた可能性もあるのですが、植物に雨が何らかの影響を及ぼしたので、それを書いたと思うのです。あまり影響がないなら、雨があがってから詠めばいいのですから。僕には、雨にぬれて、本来硬い棘が柔らかく思えたという可能性があると思えるのですが。あるいは、子規は過剰な水を嫌う薔薇に対して、雨の影響を心配しているということなのでしょうか。

お礼日時:2011/04/26 21:40

#3です。

再々お邪魔します。近くに薔薇園があり、薔薇の開花期は一般には5月~6月です。

最近花が咲いているミニ薔薇の鉢植えを買いました。
くれないと言っていい綺麗な赤で花が咲いていますがこれは温室咲きです。
路地咲でも蕾はついていると思います。

赤いバラは赤みを帯びた葉脈で、茎も赤みを帯びていますが、地味な臙脂がかった色で、やはり
これをくれないとは言い難いように思います。
「くれないの」は薔薇にかかるのではないでしょうか。
針柔らかにの針はやはり刺だと思います。新しい枝も60センチも伸びればおしゃるとおり
刺も余り柔らかではないと思います。
春雨の降り掛る様子が柔らかい感じなのではないかと思うのですが、
間違っているでしょうか。こうなると当人以外分かりませんね。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。僕は次のように考えるに至りました。もしよかったらお考えを聞かせてください。
・くれなゐの(※) 芽
・二尺伸びたる 芽
・薔薇の 芽
このように形容が三回、芽にかかり、芽は針を修飾するのです。こう考えないと、形容詞が並んで居ながら、別々の名詞を修飾することになって、文法が破綻してしまいます。
ここでいう芽とは茎を含めた全部のことです。つまり他の方が指摘してくれた通り、もともと子規は芽の状態を見ていたのでしょう。60センチ伸びたのが、子規は嬉しいのです。

しかし問題は「くれなゐの芽」とは何を意味するのかです。薔薇が五月に咲くのなら、春雨の時期に赤くなっているというのは、ちょっと辻褄が合わないように思えるのです。そこで僕は、「くれなゐ」とは紅色の花を咲かせる品種を意味すると考えたのです。こうすると、赤い品種の薔薇の芽ということになりますから、意味は矛盾しません。つまり第1句は仮想なのです。

短歌で一番に重きを置くはずの第1句に、仮想が来るのはおかしいと思われるかも知れません。しかし子規は「わが幼時の美感」で述べたように、赤が好きで、薔薇が欲しかったけれど、貧乏で買えなかったのです。だから「俺は赤いバラを買ったぞ」と嬉しくて仕方なかったのでしょう。
この喜びを表現したくて、第1句が「くれなゐ」となった。そして、まだ春ですから咲くはずもないのに、二尺伸びたと言っては嬉しがって、棘を触ってみる。この棘が春雨にぬれているせいでふやけているのか、それとも子規の嬉しい気持ちの表れなのか、棘という本来、硬いものでさえも、柔らかに感じられてしまう。――そういう喜びの歌だと僕は考えるに至りました。
「針やわらかに」は文法的に考えて、「棘がやわらかになって」という意味で考えないと、「針」まで続いていた文章が終わってしまいます。もちろん、情景としては春雨が静かに降っているのだろうなという連想は浮かぶのですが。

お礼日時:2011/04/26 21:03

> 第4句で「芽の針」とは何なのでしょう。


蕾の針ということになりますが、僕には想像ができないのです。

蕾の針 ではなく、
蕾の先端(頂点)
の意味です。

蕾の先端(頂点) が尖っていて、針のようだ
と形容しているのです。

茎の針は堅いですが、芽の針(蕾の先端)は柔らかいですよね。

薔薇の芽の 針 < やわらか > に 
「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の」の回答画像5
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この回答へのお礼

ありがとうございます。全体をまとめると、初め芽は低い位置にあったのに、六十センチにも成長し、赤くなって成熟し、その先端は針のように尖っているが、触れてみると柔らかいという感動を詠ったというのですね。蕾の先を触ってみるという悪戯もまた、子規ならありうるかもしれません。

しかし、ちょっと辞書を引いてみましたが、先端を針と呼ぶのは難しそうな気がします。というのも、植物の場合、針といえば、どうしても棘の用例しかないからです。比喩だとしても、紛らわしいという点で、歌人なら避けるように思うのです。

それともう一点。薔薇が春先にすでに咲きそうな状態にまで蕾がなっているというのは考えにくいのです。
でも僕は薔薇を育てたことがないのです。何かご存じのことがあったら教えていただけませんか。蕾がなってからも、ずっと初夏の辺りまで咲かないものなのでしょうか。

僕はケンタウルスさんのご意見に、これがバラが咲き乱れる成熟の季節(夏)の歌であったら、成熟の喜びを詠った短歌であると解釈して、同意するのですが。

お礼日時:2011/04/26 18:07

薔薇には「芽かき」という作業があるようですね。



枝分かれするように出てくる芽を摘むのが良いとされているようですが、放置しておく場合も案外多いようです。
それがどんどん伸びて2尺ほどになったのでしょう。
このあたりに関しては、質問者さんもご存知のことだろうと思います。

元々の茎というか、地面から生えている茎にできる針は結構頑丈で硬いもののような気がします。
しかし、芽かきをしなかったために枝分かれするように伸びてきた芽(茎)にも、おそらく針はできるのでしょう。
そして、それは(おそらく)本茎についている針よりはどこか頼りなげで柔らかい。
鮮やかな紅色をして針であることは主張しているものの、その針が柔らかいので、そぼふる春雨とよくマッチしているような優しい印象を受ける。

つまり 「くれなゐの針」という解釈はできないでしょうか。
語調を無視した解説文であれば、
二尺伸びたる 薔薇の芽の くれなゐの 針やわらかに 春雨の降る
という感じ。
薔薇に詳しくないのであまり自信はありませんが、あくまで可能性のひとつということで。
  
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この回答へのお礼

ありがとうございます。この解釈では、雨でさえも柔らかい麗らかな春にうつつを抜かしていたら、バラの手入れを怠って二尺にもなってしまったなぁ、という歌だという解釈でしょう。しかし、どうなのでしょう。教えていただきたいのですが、形容詞が並んでいて、同じ名詞ではなく、別々の名詞を修飾するということがありますか。これを認めると、たとえばNo1の方のように、まったく別の情景が浮かぶということもありえます。子規が写実であることを考えると、複数の解釈が同時に浮かぶ文法構造をとるとは考えにくいのですが。

質問者ではありますが、実は僕はいま思いついたのですが、「くれなゐの」とは「紅色の花を咲かせる品種」という意味で、まだ赤い色が植物のどこかに出ているわけではないのではないかと思い始めました。
つまり、バラが咲く芽が六十センチになり、まだ針も柔らかくて幼く、そこに雨がしとしと降っているのだけれど、花が咲いたら赤なんだよなぁと思って楽しみにしているという心情を読んだのかなと思い始めたのです。第一句が「くれないゐの」で始まるように、一番の力点が置かれているわけなので、何かしら彼が、ここに心をうつして歌を詠んだのであろうとは思うのです。正岡子規の好きな色は、特に赤だと「わが幼時の美感」にありました。バラは高価なので、子供の時には高嶺の花だったのだそうです。

お礼日時:2011/04/26 17:31

バラはまたたく間に新しい茎枝を伸ばします。


それをバラの芽と呼んでいるのでしょう。
2尺伸びたるはそのまま薔薇の芽を修飾していると思います。
バラの新しい枝は花の色の色素によっては、赤を含んだ色をしている事があります。
その場合は「くれないの」は「ニ尺伸びたる薔薇の芽」を修飾していると思います。
でも薔薇を修飾していて短歌らしく語順を変えただけかもしれません。

ニ尺も伸びた紅薔薇の花の新しい茎、訳するとこうなるのかな?
回答になったなくて御免なさい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。「芽(=茎)」に3つの形容詞が重なっており、さらに芽が「針」を修飾するということなのですね。
そして、茎が紅いのは、新しく幹から伸びてきたのであれば、十分にあり得るということだというのは勉強になりました。しかし60センチです。20センチくらいならわかりますが、これでも紅色をしていることはあるのでしょうか。もしよかったら、教えてください。

お礼日時:2011/04/26 16:38

こんにちは。



バラの < 芽の背丈 (つまり、茎の長さ)> が二尺伸びた
と解釈してはどうですか?

「伸びた」ということは、以前のバラを知っている
ということでしょう?

「以前のバラ」とは、新芽が出たころのバラかもしれません。

この過去の新芽と、現在の蕾が出る前の紅色の芽の背丈の差 が二尺伸びた
と詠んでいるのです。
「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の」の回答画像2
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この回答へのお礼

ありがとうございます。「伸びたる」という以上は、前を知っていただろうというのは、おっしゃる通りです。成長を楽しみにしているバラなのでしょう。それに雨が降って、愛おしく感じる気持ちを詠ったと考えることができるでしょうか。

そして文法は「(1)くれなゐの(2)二尺伸びたる(3)薔薇の」の三つの形容詞が芽という名詞を修飾するということになるのですね。なるほど、第3句までは非常にわかりやすいです。

しかし第4句で「芽の針」とは何なのでしょう。蕾の針ということになりますが、僕には想像ができないのです。

お礼日時:2011/04/26 16:01

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