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あまりこういう質問をみかけたことがないのでさせていただきたいのですが、子持ちの方、自分の子供を産むとき、産もうと決意したときって、どのような心持でしたか?

ぼくはどちらかといえば常々「人生つまんね」と思っている人間で、特に気分がへこんでいるときなんかは「別にうまれてこんでもよかったわー」みたいなことを思っちゃうわけですが、この「生まれてしまった」という事実って人生において「死」に並ぶ大事件のはずなのに、巷ではほとんど話題になりませんよね。でも「出生」がなければその人の人生は無である一方、「死」は発生したとしてもその人の痕跡というかなんやかやは残るわけで、その意味からすれば下手すりゃ「死」よりも大事件なんじゃないかと思うわけです。しかも「死」は選択できるが「出生」は選択できない。

この「出生」という人生における大事件を、究極的にはその人の人生に無関係である二人の人間(親)が本人の同意もなく決定づけてしまう、って考えてみたらちょっと恐ろしくないですか。「生まれてきてよかった」なんて言える幸福な人生をそのひとが送ったならそれは素晴らしいことですが、そんな保証はむろんどこにもないわけです。良心的な親なら子が幸福になれるよう最大限努力するでしょうし、本人だってそりゃ努力せねばならないわけですけど、それでも「環境」やら「才能」、「時代との相性」みたいなどーしょうもないものが人生にはどうしたってからんでくる。もしかしたら「死にたい」「生まれたくなかった」と強烈に苦しむ人生を送ることにもなるかもしれない。このことを、そのひとの親になった人間、要するにその人の人生をスタートさせる側の人間としてどのように捉えますか?

公園でひとんちの子供がキャッキャ遊ぶのを見て「そろそろぼくたちも……(ハート)」「うふふ。もう、アナタったら(ハート)」みたいなノリだったら結構ガッカリというか、ぼくが赤ん坊なら「生まれる側の身にもなってえな」と一言添えたくなるとおもうんですが。虐待なんてのはクズですね。ご意見をどうぞ。

A 回答 (18件中1~10件)

ご質問の表題はともかく、一読して生まれた人間の内部の問題をいっているのではなく、生ませる立場、生む立場としての責任問題を問うて居られるのではと拝察いたします。

結局
>「死」は選択できるが「出生」は選択できない。

ので、ひとの個人的発生の責任は徹底的にその両親にあるのではないか?と仰るのはそのとおりでしょう。

多くのカップルが自分たちにはこどもをなす権利があるか、どうかということについて真剣に考えます。
もちろん私もその一人でしたが、ま、なんとかなるか、という感じでした。多くの日本人の若者は(私のようでなく)思うよりも真面目で慎重なのでしょうから、
だからこそ今の少子化問題もあるのであって、これは哲学問題であるまえにすぐれて経済問題であるわけです。あるいは生物学テキ病理学的、(遺伝的リスクに悩む)問題でもあるでしょう。妻なども、有無までは恐ろしかった、ちゃんと指も揃っているかを数えたと言っていました。もっともそれでは遅いのですが。
でもね、
私を含め、私たちの子供が生きることに将来悩むかどうかと言うことに関しては、彼らがとりあえず満足に生まれ、そして人並みの教育と食物をあたえてそこそこの人格を得た後のことは、それこそ免責、限定責任外のことになってしまうだろうと真面目に考えていますよ。そのときに核戦争があろうと、私の責任ではないし(多分ないから生んだのだ)、それはお前たちが好きに悩んでくれということです。

これは一般論ですが、ここでは異端らしいですね。

性なんて当然オートマチズムの最たるもので、だからこその百万年、我らの人生も猥雑そのもののそれらをおおいに含んだ人生だと私などは達観しています。そこから哲学も生まれ洗練れるのでしょうけどね。どうぞ…。
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この回答へのお礼

ああ、、これタイトルの付け方が悪かったのかもしれませんね。

>私を含め、私たちの子供が生きることに将来悩むかどうかと言うことに関しては、彼らがとりあえず満足に生まれ、そして人並みの教育と食物をあたえてそこそこの人格を得た後のことは、それこそ免責、限定責任外のことになってしまうだろうと真面目に考えていますよ。

やっと求めていた回答がきたなあ、というかんじでした。そうですね、親は子に教育と食物を与えて、その先は免責、自己責任でやってもらうというのはしごくまっとうな考えだと思います。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/01 10:10

#13の物理的な回答が余りに素晴らしいんで、それにあやかって、その発想に限りなく近い形でこの問題を哲学的に語ってみます。

実は、この回答はつい最近、9年前の質問でまだ閉じられていない質問、「正弦波宇宙論」に対する回答を試みたときに提示した文章だったのでが、今回の#13の回答を見て、実はこちらで回答すべきだったことに気が付いたからです。では、回答いたします。


貴方が、「生まれる側の身にもなってえな」と考えてしまう原因は、哲学が形相のイデアをアンチテーゼとしてアウフヘーベンしてしまったところにあるのです。

実は生まれる前には形而上学としての悟性が実存として絶対無全体を覆っていたんですね。そのボイド、即ち真空無の質料としてのアリストテレス的な実体は世界内存在と状況内存在に対するアンチノミーとしての本有な観念と対自すべしとして、存在者達が敢えて定言命法の止揚の一例として捉えていた筈なのです。そして、その弁証法的な存在の真理が、何が何でも唯心論的な判断中止を避けるべく美的実存の段階に頼った結果産み出して来たのが、貴方の誕生だったのです。その誕生の自体的存在が円寂を通して個としての貴方を創出しました。だから貴方はその不条理に疼いている。

しかも恐ろしいことに、その誕生は能動感情を伴う否定神学を誘因となり得るために、明証性の規則と矛盾する可能性があり、さらに、アプリオリな倫理的実存の段階を認識した臆見になる可能性をも孕んでいました。そこでそのようなことになるのを避けるために、それを宗教的実存の段階との混成体として、あえて、現存在の格率を演繹的に帰納する一般的常識に基づいた生得観念として現出させたのが、貴方の個性だったのです。

ですから、貴方の誕生の選択権に関する捉え方は、哲学的に実証可能な存在の真理を開示したものとして、先験的に受け入れられる仮言的命法の一例なのだと思います。

どうですか。大分苦労しましたが、まだまだ#13さんの清々しさには叶わないようですね。
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この回答へのお礼

いえいえ、じゅうぶん清々しい気持ちになれましたよ

お礼日時:2011/05/01 09:41

>これは観念の遊びというか、こういう異端な考えを示すことで回答者様のいう「平均値の周りに揺らいで存在している」多数派の人間に対してちょっとした挑発をする、くらいの感覚でやってます



こんなことではアホらしくて真面目な回答する気しないな。
ボーダーラインの中に無理やり自分を作り上げて置こうとしても駄目だね。
死ぬときが来るまでひとに頼らず人のせいにせず、しっかりと生きてください、最後は苦しい痛いと喚いて死んでください。
みなさんそうしてます。
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この回答へのお礼

お礼日時:2011/05/01 09:39

>産むのは親の自由



意識の上でエゴであって、自由かどうかは保留。

>親は子の人生の幸・不幸にどの程度責任というか義務を負うんでしょうかね。

親の責任は子に対して発生するものではありません。産んでしまった(堕胎議論を避けるなら「作ってしまった」)責任は、養育義務や扶養共助義務として社会(共同体)から課せられるものです。
感謝するしない(幸・不幸)が自由であるならば、その責任は自己に帰結します。

親は「責任があるから」「義務だから」子の幸せを願い尽力するわけではないのです。
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この回答へのお礼

責任・義務の問題で捉えるには限界があるかもしれないですね。だったらその情(?)の部分で語っていただいてもかまわないですし、そういう回答もいただくかなと思っていたのですけども。

お礼日時:2011/05/01 09:29

子供を産むことに関する決心を問うてもしゃあないんじゃん。



自分がこの世に生まれた仕返しにとか、うんでもらった恩返しとか、様々な理由を考えようとも、そっちが(=子を産むのが)普通だからね。「親がしてきたようにする」ことの理由を問うても、あまり明確な答えは期待できない。

むしろ、「子供を産まない事」を決心した人に、なぜかを問うたほうがおもしろくないかい?

それから、貴方が「生まれて来なくても良かった」という命題は100%正しいのですから、そんなことを改めて宣言する必要もないですよ。「私はやがて死ぬことになっておる」という命題が100%正しいのと同じで、言わずもがな、といいます。

ですから、もし「私が生まれてくる意味があった」と主張する人間を見つけた時に、その根拠を問う方が、哲学の積極的な利用法だと言えますね。

手前の経験した事を元に、意見を言わせていただくとね、自分にとっての自分の意味を問うている間は、なにも納得できる理由はみつからなかった。でも、他人にとっての自分の意味を問うことに気づいてからは、自分が生きている理由がはっきりとわかるようになったよ。まあ、そんな事に気づくのが遅くて30代になってからだったけどね。
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この回答へのお礼

>「子供を産まない事」を決心した人に、なぜかを問うたほうがおもしろくないかい?
まあ確かにこれも面白そうですけど、「産むことにした」多くのひとたちがそのときどういう心情であったのか、子供の人生の不確実さにどこまで関与するか、みたいなのを今まであまり耳にしたことがないので気になったんですよ。
回答者様のおっしゃるように「みんなやってるから」「それがふつうだから」「親がやったから」くらいの理由しかないのなら、まあ、耳に入ってこなかったのもうなづけますね。まあそういう理屈と子への愛情はまた別物なんでしょうけども。回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/01 09:53

相対性理論において、時間軸の方向は、相対運動に


よって異なり、四次元空間において選択される任意の軸
(自我仮説=異なる認識可能性の時系列化=記憶(時間的
流れ)と時空仮説=五感の相関した経験の蓄積による予測
(空間的広がり)の相補分化)に他ならない。
そこにおいて、時間的連続性における認識の不連続性と
空間的広がりにおける他人との距離は等価であり、その
距離が異なって見えるのは、意識を形成する階層現象性
(超弦(量子)>クォーク>素粒子>原子>分子>細胞>
個体(脳))内部に、時空がコンパクト化されている事による。

即ち、寿命の有限性と、肉体の有限性は等価であり、
人は時間的な不連続な認識可能性の時系列化により
意識を生じた時から、その認識可能性の射影としての
他人の自我化=愛を目指して生きていると言える。
その有限な肉体の苦しみ、寿命の悲しみも、愛によって
越えられるべくしてある、中間のギャップに過ぎない。
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この回答へのお礼

清々しいまでに意味がわからないです。

お礼日時:2011/04/30 23:33

 生まれたとき、はもう“白紙”とは思ってません。



 私の回答は、そういっていると思いますが。

 もちろん想像なのであって、別の言葉を使った方が、よりイメージしやすいのかもしれませんが、今は思いつきません。

 ただ、よく“私って誰”なんて言い方でよく考えられていて、それに対して、そう思ったところで答など見つかるわけないじゃないか、なんて思う時、逆の発想をすることで疑問を消す事が出来るのではないかと思い、今ここに意識できている心、これが“私”なんだと思うしかないと考えたわけです。

 どこかに“私”があるのではなく、“この心”これを“私”と感じるんだ、としたのです。
 あえて言ってみれば、誕生したばかりの白紙のような状態は、もうすでに“私”の始まりなんだ、と。

 想像です。こんなイメージで受け止めている、という事なので正しいとか正しくないとかで、受け止める必要はないと思います。
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兄ちゃん、もう一回御免なすって。

これもなんかの縁なんかね。

>生まれたときはまだ「何者」でもない、ということですか。でもまっさらな白紙なわけないですよねえ、、、

んにゃ、まっさらだよ。あんたはあんたとして生まれて来たのではない、あんたになるのだ。これ、フランスのある人の本の有名な出だしの文句だね。あんたは、世界を人間なんて一般的な存在で目で見ていないよ。日本の何処何処村の何兵衛ってな、超特殊な色眼鏡で見てるんだよ。その超特殊な色眼鏡のことを、世間様は個性なんて難しい言葉つかちゃっているけどね。あんたは人間である前に、何とか村の何兵衛なんだよ。そこを間違っちゃあいけないよ。

んで、あんたもしなんかの弾みで、ある教祖様の居じゃる宗教の信者になったら、どんな望みでも必ず願い事を叶えてくれるとうことを知ってしまったとしたら、あんた多分その宗教の信者になっちゃうと思うんだが、どうだ、当たってんだろう。これもあんたの言う観念の遊びだと思ってみな。

あたしゃ、そんなの知ったからってその信者になんかなんないと思う。あたしゃね、あたしのこと知ってるから、自分の望みが叶ったからって、それであたしが幸せになれるなんちゅうほど出来た人間じゃないことも知ってるんだよ。昔の人は良く言ったもんだね、神社の神様やご先祖様にお祈りする時にゃ、決して何かの願掛けちゃ駄目だって。無念無想で頭を空っぽにして、だた敬意の念を示すだけにしなさいって。

  なにごとのおわしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる

ってな具合にね。兄ちゃんも知ってる有名なお方の歌だ。いい歌だね。

でも兄ちゃんもそうだろうが、人間て弱いもんだ。だから、もしどうしても何かお願いしたいんだったら、

「死んだ爺ちゃん婆ちゃんよ、あたしに取って一番いいことが起こるようにしてくんしゃい」

ってお祈りするんだそうだ。そうしたら、例えばあんたがあの娘と一緒になりたいなんて思ってたときに、ご先祖様が

「そうか、好しよし、あの娘があんたを振るようにしてあげるからね。それがあんたの幸せのためなんじゃから」

ってな具合にあんたを見守ってくれているんじゃよ。神社やお寺で、絵馬やおみくじ売ってんのは神様や佛様に関係ないからね。あれ商売だから間違わないでね。

そんな人間が、俺は生まれたいから生まれさせてくれとか、俺生まれたくないんで生まれなくてもいいなんて決めちゃっていいんですかい。なんかそれ、「俺の願い叶えてくんさい」なんて神様に拝んでいる奴みたいな程度の低い奴の言ってることにしか聞こえないんだけど、あたしにゃあ。だから、あんた絶対に上で言った教祖様の宗教の信者になる素質持ってるね。それじゃあ、あんたいつまで経っても幸せになんか成れないよ。それでもいいんですかい。
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この回答へのお礼

あ、最初の回答者様ですか。なんで急にべらんめえなのか知りませんけど、要するに人間が全て自分の意思で物事を決めたってロクなことにはならないよ、思い通りにならないことがあるから思い通りになったときの幸福感があるのだ、ということでよろしいですか。確かにそう言われたらそうですねえ。

ただまあぼくがこの質問で本来聞きたかったことって、「生まれる」ということの受動性を、みなさんが親の視点からどうやって捉えているのかという点だったんですよ。「生まれた」側からの視点でぐずぐず愚痴を言うつもりなんて最初からなかったし、現に言っていないでしょう。そこだけはあんまり誤解してほしくないです。

もしその宗教がこの世にあったら、ぼくはおそらく信者になりますが、「あの娘と一緒になりたい」なんて直接的なことを教祖様に頼むんじゃなくて、「お顔をもう少しイケメンにしてくださいな」「トークスキルを上げてくださいな」って頼んでそれで娘にアタックしますかねえ。ネットでよく見る「イージーモード」「ハードモード」の思想ですかね。書いてて気が滅入ってきました。まあ多分欲が出てきて結局破滅しますね。たびたび回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 22:31

>常々「人生つまんね」と思っている


>特に気分がへこんでいるときなんかは「別にうまれてこんでもよかったわ

思う時はありますね。
そんな時、もっと治安が悪い国の人や理不尽な国家の中で精神的な溺死を免れきれない立場の人を思うと、もしそんな中に居たら生きていける自信がありません。

>「生まれてしまった」という事実って人生において「死」に並ぶ

辛さですよね。

>「出生」がなければその人の人生は無であ

りますね。もしかしたら生きていた無の人がたくさんいることでしょう。

>「死」は選択できるが「出生」は選択できない。

それが嫌ですよね。出生とその後を知っていたら生まれるのを辞める事を選択したと思います。

>究極的にはその人の人生に無関係である二人の
>親)が本人の同意もなく決定づけてしまう

ということになるから、無責任な努力しない動物に近い価値しか見出せない頭の悪い親の元生まれた者は初めから相当なハンデを負います。

>恐ろしくないですか。

恐ろしいです。

>「生まれてきてよかった」なんて言える
>ひと

なんか欺瞞に満ちた台詞にしか見えませんね。

>良心的な親なら子が幸福になれるよう最大限努力するでしょう

ね。手本も示すでしょう。

>本人だってそりゃ努力せねばならないわけですけど、それでも「環境」やら「才能」、「時代との相性」みたいなどーしょうもないものが人生にはどうしたってからんで

きますね。

>「死にたい」「生まれたくなかった」と強烈に苦しむ人生を送ることにもなるかもしれ

ませんね。

>そのひとの親になった人間、要するにその人の人生をスタートさせる側の人間としてどのように捉えますか?

低多楽は、三大欲しか感じず決行しそれを証明するでしょう。猿に近い動機と証拠にその後の無責任さ。こういう親の元生まれた子供はそういう存在でしかない身の存在に精神的に悩みます。親のあほで生まれて今居る存在。

>公園でひとんちの子供がキャッキャ遊ぶのを見て「そろそろぼくたちも……(ハート)」「うふふ。もう、アナタったら(ハート)」みたいなノリだったら結構ガッカリというか

その通りですね。切実な選択を微塵も感じずに決行しようとする。後の人の事など考えずに。身勝手で、自分さえよければ良くて、無関心の無責任でね。どうしようもなく抜けている。
だから生まれてきちゃう。あ~あ。

>ぼくが赤ん坊なら「生まれる側の身にもなってえな」と一言添えたくなるとおも

いますよね。同感です。

>虐待なんてのはクズで

す。上の低多楽に甘んじない徹底ぶり。しかしそれも負方向。
子供が泣くを通り越して啼く。
また。あ~あ。と不条理の中固まらざるを得なくなる心。とため息。
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この回答へのお礼

ちょ、、質問した側の人間がいうのもへんですけど、だいじょうぶですか。だいじょうぶじゃないですね。ぼくの親はまあそこまでひどくもなかったですけど、なにはともあれ人生って不確定要素の部分がつよすぎるんですよ。どーしたらいんすかね。どーしようもないっすね。中島義道でも読んで溜飲を下げることをお勧めします。回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 21:40

子供の産声は世の苦しみに対して叫ぶ最初の叫び



子煩悩とは、子供に執着する煩悩の事。
子供が可愛いのは、一種の自己愛。自分の子供だから可愛いという構図。
よって煩悩による自己執着に端を発している。
仏教では、一切皆苦と定義し、苦しみに対する心構えを説く。

sogoromo5さんには仏教はお勧めの学問と思われます。
仏教は子育てをするな、とは言っていないそうですが、
仏教徒には子煩悩を避けるため、子供を持ちたくないと考える人もいるそうです。


上記の内容とは関連性はないのですが、
子育てとは、子育てを望む親が
「子供を育てるのではなく、子供をお育てさせていただくものだ」と母親がよく言っていました。
母にしてみれば、それくらい自分の思う通りにはならなかったという感覚でしょう。
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この回答へのお礼

>「子供を育てるのではなく、子供をお育てさせていただくものだ」と母親がよく言っていました。

すごいですねえ……そんな言葉、初めて聞きました。子を「育てる」ということの限界、みたいなところからそういう言葉が出てきたのでしょうか。

まあ、、ぼくみたいな奴が親にそんなことを言われたら「おら、ちゃんと育てろ」みたいな、まあそんなこと言いませんけど、そういう態度をとりかねないです。「育ててやる」と「育てさせていただく」との中間にちょうどいい言葉があるといいのでけども。

お礼日時:2011/05/01 00:31

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