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こんにちは。

私は哲学のことは全くわかりませんが、普段から疑問に思っていることが
あるので投稿させていただきました。
それは

「誰かを愛することと、誰かに愛されることのどちらが幸せなのか」
(ここでは片思いの恋愛において)

です。

私は「誰かに愛される」方が幸せだと思います。
「愛」の根本が分かっていないので、むずかしいですが、
なぜなら、誰かを愛して振り向いてもらえないよりも、
自分を愛してくれているだれかがいるという、自己満足、
自己肯定、自分の存在の意味、優越感になるからです。

「誰かを愛する」ことは、その人を愛し続けたが、その人が自分の思っていた
人ではない、とんでもない人だと分かった時の絶望感や、
振り向いてもらえないじれったさ、
疲労感を感じ、結局何にも満たされることなく終わってしまうからです。

皆さんはどう思われますか。

A 回答 (11件中1~10件)

自分も以前は質問者さんと同じように考えていました。

でも、愛されるという行為はその愛に応えなければ、いづれ終わります。その愛に応えないまま、永遠に愛され続けるということは極めて稀だろうと思います。
愛されるということは、自分を愛する者がいて初めて成立します。つまり、愛される優越性は愛する他者の絶望やじれったさ、疲労感により強制終了されるリスクを抱えているといえるだろうと思います。
自分を愛する他者の思いに応えなければ、その片思いはいづれ終わります。その愛のありようは虚しいのではないでしょうか。

片思いとは両思いを目的とするものではないでしょうか。
だとしたら、愛することも愛されることもいづれはお互い愛し合う帰結を得るべきものではないでしょうか。
両思いという結論に至ることができないのなら、どちらが幸せかは五十歩百歩でしかないと思います。
それに優越性を得るために、相手を片思いのままに放置しておくのなら、それは自己愛に過ぎません。他者を愛せない者が他者から愛され続けることもまた難しいだろうと思います。

実際、自分は誰かに愛されることを望み、自分からは愛さなかった結果、ちっとも幸せではありませんでした。自分が愛されるということは、自分を愛する相手が絶望やじれったさ、疲労感を味わい、愛を終わらせていくことでした。その時、自分もまた愛されるという快感を失いました。その愛に報いようと思えば、やはり愛されるだけの優越感は消滅しました。
結局、愛される優越感は刹那的なものでしかなかった。
結局、蜉蝣のようにはかない幸せよりも、両思いの確かな愛を求めた方がずっと幸せは感じやすいのではないかと思います。
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何事も単純化して考える癖がありますので、これもそのでんで。


愛するというのは不完全な自己Aが完全に近い他者Sに惹かれ、それを自分のものにしたい、それによって自分を高めたいという意識の発現だと考えられます。
一方、
愛されるというのは自分Aがより完全だと思い込んでいる(自分よりも低位にある)他者BがAに近づき、Aを糧にしてBをAの位置まで高めたいと願うBの願望です。
Aにしてみれば、どうぞご勝手に、というしかないですね。Bがたまさか美人なら自身のちんけなプライドは癒されるかもですが、それだけです(笑)。

どちらがより高級な現象であるかはこれだけであきらかでしょう。
自己Aが真面目な人間で、自己をより高みへ引き上げたいという意志を持っていれば、愛されるよりも愛することを選ぶのは当然の結果です。

私の経験からいって、愛される状況よりも愛している状態の方がずっと気分が良いという結果を得ています。
それが失われたときのことはまた別の問題です。

>その人が自分の思っていた
人ではない、とんでもない人だと分かった時の絶望感や、
振り向いてもらえないじれったさ、
疲労感を感じ、結局何にも満たされることなく終わってしまうからです。

そういったことを繰り返して人間は鍛えられていくものです。
何事も勉強です。
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愛憎は表裏一体であると思います。


愛に執着しないほうが幸せです。

つまり,過剰に愛そうとか,
過剰に愛されようとかしないのが善いと思います。

当時は意識せずにいたことを,
振り返ってみて,愛していたのだとか,
愛されていたのだとか感じるのは幸せです。

それはたいていなんでもないことです。


ところで,愛の形態はエロスとアガペーだけではないのですね。

http://charm.at.webry.info/200504/article_1.html
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http://sooda.jp/qa/202691

私は、、、愛したことかな。

能動的で実感できるから。


サヨナライツカという映画で、光子は豊に「あなたは死ぬ前に、愛したことを思い出しますか、それとも愛されたことを思い出しますか。私は愛されたことを思い出すでしょう。」と言った。

ん? と思った。
光子は豊を愛しぬいた。
豊が杏子を愛しているのを実は知っていた。
豊の心は杏子にあることを知りながら、豊に「私は愛されたことを思い出す」と言った。

豊は一途な光子を捨てられず、自分が杏子を愛することをあきらめ、光子に愛される人生を選択した。

つまり、光子は「愛することを重点にした人生」
豊は「愛された人生」をこのとき選んだわけだ。
もちろん豊は杏子と光子の両方から愛された立場。
豊自信はどっちがより自分の野心をかなえるのに都合が良い愛かを考え、良妻賢母タイプの光子が家庭を守ってくれれば、自分の社会における成功を実現できると考え、自分が自分を一番愛しているので、自分の社会での成功が自分を幸せにすると思い、光子を選んだわけだ。


仕事でバンコクに行って、捨てた杏子が今でも自分を待っていたことを知って、そこまで愛してくれる女がいたんだ とわかったわけですが、、、、
光子からの愛を選び、杏子から愛されることを捨てて、ボロ雑巾のように捨てた女が待っていたことに感動を覚えるズルイ男。

光子も杏子も豊に利用されたわけで、、、それでも 二人とも豊に愛される自分ではなく、自分が愛している男をどんなことがあっても愛しぬくってことを幸福だとしており、、、、

豊かは愛されることを幸福だとしており、、、、
しかも、浮気していながらも文句を言わず気付きもしていないかのようにふるまってくれた妻と、体をもてあそぶだけ遊んでボロ雑巾のように捨てた女なのに、恨みもせずに待っていてくれたという とっても男によって妄想のここまできては、、、とあきれるほどのワールド。

そんな男にとって都合のいい世界になるなんて稀。

だいたいは「あんた どっちを選ぶのよ」となり、優柔不断なはっきりとしない風見鶏男を最終的に両方が「この女の敵、男のクズ!」と言って捨てるもんだ。
愛する価値すらないクズと知られて。

ってことで、愛されるってことは相手次第ですので、こっちが望んでも無理ですが、愛するってことは相手に関係なく、、


愛されるって受動的だから相手が愛することに飽きたらポーイですが、愛するって能動的で自律的なので、、、愛する方が幸福感を増すというか、不安感が無いと思いますぅ。

相手次第じゃなく自分次第ってのも、自分でコントロールできますしぃ。

まあ 妄想起こして自分が愛しているという思いが、相手も同じくらい愛してくれていると思うと、やばいですよね。
ストーカーって、そういう混乱した人だから。

「愛してないんだってば」ってどんなに言っても信じてもらえない。
「また すてね 僕をじらして愛を試してるんだね 大丈夫 どんなことがあっても愛しぬくよ」とか言って、「こないで」って逃げ惑う相手を「まてー あははは」って追い掛け回す。

一方的に愛するって、実は怖い?

光子の一方的な愛も、杏子に遭いに言って、杏子を退かせたほどでしたし。
光子の勝ちで、豊を手に入れたが、、、、
あーー 豊 イライラする というか この男にとって都合いのよすぎるこの小説に 男の現実不可能で妄想の世界でのみ実現可能な夢をみるわけで。

妄想の世界ですね。
演歌もけなげで男を待つ女ってのが主人公になっていて、男の現実ではかなえられない妄想の世界となっていますが、、、

ということで、現実 女は待ちゃしない。笑
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誰かが貴方を愛したとして、どうやってその事を知るのですか?



自分が他人を愛すならば、まごうかたなきその事実を知るので、貴方の心が愛に満ち、幸せでしょう。
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人間には2パターンあると思います。


「愛すること」に幸せを感じる人と、「愛されること」に幸せを感じる人と。
これは好みの問題です。だから正解はないと思います。

ちなみに私は「愛する」方が好きです。「振り向いてもらえないかもしれない片思い」いいですね~。もうそういう歳でも境遇でもないので、2.5次元の人に疑似恋愛するしかないですが。

>自分を愛してくれているだれかがいるという、自己満足、
>自己肯定、自分の存在の意味、優越感になるからです。
その意見を否定するつもりはありませんが、それってまさに「自己満足」「自己愛」じゃないでしょうか?
片思いでも好きな人がいれば自分を肯定できますし、自分が存在するのはその人を愛するためだと思えます。優越感は、第三者(好きな人の恋人とか浮気相手、ライバルなど)がいない限り、恋愛には関係ないものだと思います。
片思いだと、相手と目が合ったりするだけで満足できますよ…、私は。(でも、あくまでも好みの話ですから)

>その人を愛し続けたが、その人が自分の思っていた人ではない、
>とんでもない人だと分かった時の絶望感や、振り向いてもらえないじれったさ、
>疲労感を感じ、結局何にも満たされることなく終わってしまうからです。
これも好みの問題なんでしょうね~。
自分が思っていた人ではないなんて、自分の思い込みにこそ問題があるわけで、それをどう受け入れるかの問題だと思います。「振り向いてもらえないじれったさ」も、片思い好きには、それこそが醍醐味だったりしますよ。そういう疲労感ですら、片思いをする時の満足感だったりしますし。

まあ、やっぱり好みの問題なんでしょうね。好きでもない人に好きだと言われても、私は気持ち悪くなるだけなんで。
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#3です


なんと言われようと、それでも俺は、あなたを愛しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なんだか嬉しいです。(笑)

お礼日時:2011/05/04 23:43

「愛される」ことによっては、人は変わりませんが、


「愛する」ことによって、人は変わります。
愛されることを求めるのは多くの場合、自己中心的
な欲求はけ口として、相手のフィジカルな面を見て
いるに過ぎません。

愛することの喜びは、そうした短絡的な衝動ではなく、
深い認識による相手への思いやりに由来するので、
前者の「衝動=快楽」よりも深い喜び、「幸福感」と
呼ぶべき、大きな(&持続的な)充足感に結果します。

もちろん、一般には、その二者は同時に発露する
ので混同されがちです。
その上、後者の「相手を愛すること」の条件として、
相互理解=「自分を愛してくれること」も重要な要素
であり得るので、よけい分かち難いものになります。

しかし、「愛されることが先決」だとして、誰も愛さず
『愛される』ことだけを求めるのは、「愛」を前者の
卑小なものに留めることになります。
確かに、即物的には、より多くのものを「得ている」
としても、その実、目に見えない大きなものを失って
いると言えます。
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俺は、生きる者、及びすでに死んでしまった者


人類はもちろんのこと動物、虫、ウイルスに至るまで
世界中の生きとし生けるもの、そして死んだ者までを
愛しつづけて います。

俺にとって、愛する行為とは、見守ることです。
量子論でいうと、感受表面における物質波を整数倍に
増幅させることである。さらにエントロピー増大によって
多世界解釈における自意識のパラレル化を認識することにより
一つに執着することなく、全体の安寧を望む心です。

また特殊相対性理論において、お互いの時空間における
座標系の違いを理解し、それぞれがお互いの異空間において
時刻の相対性の作用によって過去しか認識できない事実を
踏まえたうえで、過干渉を避けるための距離をとることによって
干渉渦を最小限におさえる心です。

では、見守るだけで幸せなのかと問われるならば
俺は、ご先祖様と宇宙論の先駆者であるお釈迦様に
見守られているから幸せです。

つまり俺は必ず誰かに愛されているので、あえてこれ以上
愛を求めるつもりはないです。
むしろ愛すべき全ての者を愛したい。
我唯足るを知る。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。


あなたのように座標や距離を図れる方ならいいのですが、
私はそれがうまくいきません。
距離を取り違えることばかりです。

愛すると、見守るは少し違うと思うのですが、
私は目に見えないモノを愛することはできません。
だって、どこに愛を伝えればいいのですか。だれに向けて
発信すればいいのですか?

愛すべき全てのものに顔も形も知らない私は含まれますか?
目に見えるモノを愛することができるならば、
あなたの命がなくなった後、あなたは逆に目に見えないものになります。
それでも、誰かを愛することができるのですか。それは証明できますか?


私は、相手に伝わることがなければ、もしくは、自分が誰かを愛している、
愛されているという実感がなければ愛の意味がないと感じてしまいます。

お礼日時:2011/05/04 20:33

愛してくる相手が片思い? 男じゃんヤダよ


姿が女なら拒否らんから片思いにならんハズ
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