哲学として定義してくださいませんか?
宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。
質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。
1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。
2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。
3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。
4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。
5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。
6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。
7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。
8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。
9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。
10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。
11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。
12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。
13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。
15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。
16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
No.19ベストアンサー
- 回答日時:
実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。
それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。豊臣の時代ならまだしも、ブラジュロンさんの信教の自由は既に保障されています。何某の宗教組織の内部事情は知らないですが、そこでも同じであると思います。そのような内面的な事柄について、誰の手が届きうるのでしょうか。おそらくブラジュロンさんが言いたいのはこうではないかと思います。
画一的な信仰ではなく、個性的な信仰を人はもつべきだ。と。人はそれぞれ異なるのであるから、それぞれにとって最高に相応しい信仰のスタイルないし内実があるはずだし、それを獲得できるはずだ。そうであるのだから、人々の信仰のスタイルもその個的な信仰へと一新されて然るべきではないのかと。その方がすばらしい未来が待っていると。
そのようなビジョンを持つことも確かに可能ですし、それに共感する人もいると思います。しかしそれ以上に、人々は他のビジョンを持っていて、それぞれがよしとする方向に動いて行くものであると思います。結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。
個性が大事なのは分かりますが、それは孤立とは異なるものであり、野原に様々な種類の花の咲くように、世間には様々な個性があって然るべきだし、実際にもそうであるでしょう。ブラジュロンさんは特異な方だとは思いますが、それでも、実際のところは珍しくはないでしょう。一つの花としてどこかに咲いていて、見る人だけが見る、そんなような花なのかもしれません。得体の知れない生命体というほどでは決してないですから、共感される人も少なくはないと思います。
★ 実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。
☆ これには 脱帽です。わたしが 舌足らずでした。
ひかりなみさん ご回答をありがとうございます。
精神は どれだけ海の表面の心理が波風を受けて騒ぎ立てようとも 海として何ともありません。それと同じように 内面における良心や信教の自由が他人によって侵されることは 金輪際あり得ません。
ですから 宗教組織に問題があるとしたらそれは 社会力学として自分の行動が左右されることです。
ただし それについても
★ 結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。
☆ という分析を示しておられます。そうですね。それが 現実である 現実であるなら 哲学もそのとおりだと認めなくてはなりません。
で それと同時に これこれのように別様に考えることも出来ると示すことが出来る程度だと思います。
それが 《信じる》の定義であり 信仰の理論だと考えます。
ということは 趣旨説明に述べたたたき台の内容に ひととおり賛同していただいたということでしょうか?
つまり第一段階での理論作業は すでに済んでいる。そのあとは 人それぞれであり 千差万別だと見なければなるまい。こういったご見解でしょうか?
じっさいわたしは 今としては 第二段階での具体的な現場の対処策については ずるいほど今は何もしようとはしていないわけですから すべておっしゃったことは受け容れざるを得ません。
もっと言えば たとえば仏教なら仏教について その《教義》の内容を批判すべきところは批判して来ておりますので そういう方面からの接近の仕方を 第二段階の作業と いまは しています。現場にまではいま少し届かないその手前での作業です。
ですから ひとつの結論はこうです:
☆☆(趣旨説明欄) 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
☆ というように 理論の外延として ひとこと触れておく。ここまでです。いまは これでよしとします。
くどいように再考します。
☆☆(趣旨説明欄) 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
☆ このような現実は 人びとがそれぞれともかくそれをよしと選択した結果である。その自由な自己表現を認めなさい。――こうおっしゃった。
おっしゃるとおりです。
と同時に それは 第二段階での現場での作業である。しかるに第一段階における理論作業としては 信じるの定義を 普遍的なかたちで明らかにしたい。
それによると 特には何が《信じる》ではないかが明らかになる。
1. その人物がいかに偉かろうと人は 経験的な存在であるので どれだけとうとびこそすれ 《信じる》ことはしない。
2. それと同じように理論や学問 あるいは愛や慈悲やの理念としての徳を成す事項 これらも経験事象であって それらを《信じる》とは言わない。
3. しかも紛らわしいのは 宗教のその教義である。オシエは いかに信仰の動態から得られたその成果であっても 一たん人間の言葉に書き換えられたならそれは 思想や哲学となっている。ゆえにこれも経験事物であって だから《考える》ものでこそあれ 《信じる》ものではあり得ない。
☆ このような第一段階の作業を問題提起しています。
このことが明らかになれば じつは すでにその第二段階での作業も 案外おのづから定まって来るとは見ています。
そしてここで――このときに初めて―― あとは 人びとそれぞれの考察と判断によると言って行くことになると思います。
ちがいはありましょうか?
No.60
- 回答日時:
忘我が無根拠の絶対無を受け入れさせてくれるのでしょうか。
ご回答をありがとうございます。
★ 忘我
☆ とは 何を言うのか いまひとつ分かりませんが――《無心の状態》と言うのと それほど違わないとも思われますが―― いづれにしましても 《信じる》については こうです。
つまり 二段階があって 初めには《無根拠》のほうからわが心の庭におとづれるということ。次にこの無根拠をわが心の庭に迎えたわたしは 人間の意志行為としてそのまぼろしをわが心に受け容れるということ。
忘我は まづ《忘我が 無根拠を呼びよせる》のでもなければ おそらく《忘我が われをして無根拠の受け容れをおこなわしめる》というのでもない。と考えます。前者は 無根拠の側からやってくると捉えますし 後者は はっきりと人間のわたしが意識をもしつつおのれの意志としておこなう こう考えます。
どうでしょう?
* 意識をもしつつおのれの意志としておこなう と言いましたが その行為の性質は 根拠無しにです。賭けのごとくにです。人間の意志行為なのだが 非思考と見るゆえんです。
No.57
- 回答日時:
そもそも非経験の状態の維持に信じる過程が必要なのでしょうか。
経験されていない対象の事への与信は可能なのですか。
ご回答をありがとうございます。
《非経験》ということが まだ伝わっていなかったのですね。
☆☆(趣旨説明欄) 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。
☆ そう言えばこの質問では ここくらいですね 触れているのは。
《経験世界を超えて》というところが ミソです。
そうしますと
○ 非経験のナゾとは 人間が《経験している・していない》をも超えている。
○ そして この非経験のナゾを相手にするのは 《想定の上で》なのです。
○ 想定した上では その非経験のナゾを――そして言いかえると《無根拠》を――心に受け容れるということが起こります。
○ わが心の庭を ひょっとして そのナゾがおとづれて来て窓をノックしているかも知れないと――想定の世界において――思ったとき これを受け容れるという仮りの行為をおこなう。
○ その行為は――想定の延長上にありますが もしそうしたとするならば―― 今度は人間のおこなう経験行為であろうと言っています。あたかも《賭け》のごとく えいやっと受け容れを決めて 言わば領収証を発行すると言っています たとえで言って。
○ なんでそんな想定をしなければならぬのか? なぜならわれわれ人間は どの言語においては 《信じる》という言葉を持っているからです。あるいは 《神》という言葉です。
○ つまり 神や信じるという言葉は 要らないのだ 意味のない言葉だ 死語だというのであれば そう証明してそのようにすればよいでしょうし あるいはそうでないとすれば 上のように定義して使いつづければよい。または 別の定義を持って使い続ければよい。
☆ こうなります。
★ そもそも非経験の状態の維持に信じる過程が必要なのでしょうか。
☆ 《非経験》は 《状態》であるかどうかさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません。
おそらく非経験なるナゾは・つまり一般に神は 人間が何かを心配することはいっさい要らないでしょう。経験世界のすべてを超えた存在〔というなら存在〕ですから。ぎゃくに人間のほうが心配してもらうと言えば そう言えることになるでしょう。あくまで主観の内面における心のあり方の問題です。
★ 経験されていない対象の事への与信は可能なのですか。
☆ 上に触れましたように 神は人間が成すところの何の心配をも必要としていません。与信をも必要としていません。
与信というのは 誰かが神なる存在は信用できん お払い箱だと言っているとき いやいや そうではない 神は信用するに足る存在だよ 何なら担保を指し出そうかと言って 裏書きすることを言うのでしょうか?
それは その誰かなる人が その不信を言うことによってみづからの人間性を失いかけているようだとあなたが捉えたなら そう言ってやってもよいと考えます。神は 信用できんと言われることによっても何によっても傷つくことはあり得ませんが その人のためには 言ってやってもよいと思います。
No.56
- 回答日時:
信じることの定義を全知全能の貴方が示して下さらないと、
庶民は祀り申し上げ難くなりますね。
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~
質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。
1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。
2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。
3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。
4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。
5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。
6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。
7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。
8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。
9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。
10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。
11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。
12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。
13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。
15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。
16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ さあ もしあなたが定義をするのを怠るなら 正真正銘の荒らしであると見なします。
No.54
- 回答日時:
前回の文言へ「先験的」という語を盛り込んだ理由は、【反語】だからです。
逆方向の質問が寄せられる遣り取りは、此のサイトでなくとも、
人類の歴史の中の手紙にも有り得ただろう、と考えられますが、
それを読んだ際に反語の可能性を踏まえていなかったでしょうか?
それとも単純な疑問文だと見做していたのでしょうか?
つまり、【「先験的」な疑い】は不可能なので、それの排除は有り得ないのです。
因みに、敢えては触れませんが、共通の論理の誕生の切っ掛けとして確実に機能し得る仕組みは既に明らかになっていますので、其処から話題が発展し得ると思われますから、御自身で其の調査を為さってみて下さい。
でもね。その場合にもすでに《信じる》の定義が 仮説としてでも 出来ている場合の反語法になります。
その定義をまづお示しください。それからの話ではないでしょうか?
No.53
- 回答日時:
ルサンチマンの発想との比較で類推しました。
たとえ意識的な思考が御座いませんでしても、先験的には、疑念対象の排除の過程を辿らずに、<<信じる>>という行為が可能になり得るのでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
★ 疑念対象の排除の過程を辿らずに
☆ という過程もしくは場があるということは 何を意味するか? しかも
★ 先験的には
☆ だそうですね。
でもね。その場合にはすでに《信じる》の定義が 仮説としてでも 出来ている場合の問いになります。
その定義をまづお示しください。それからの話ではないでしょうか?
No.52
- 回答日時:
否定されている「思考」の用語の意味は、辞書の記述の通りの内容なのでしょうか。
それとも対象の特定を志向していない段階にも、その「思考」は関わっていますか。
そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃には、
「信じる」という過程の存在が必要になっていない筈です。
この部分の食い違いが残っていますと、他の方々の意見にも変化が及ぶのでしょうから、無駄な誤解の残留を防ぐ為に、そこの食い違いの不在証明の優先を御願いします。
ご回答をありがとうございます。
まづ
★ 否定されている「思考」
☆ これは まったくの誤解です。
☆☆(趣旨説明) 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。
☆ 《信じる》とは何かを説明して 《思考に非ず》と言っているのみです。
これは 《思考》というものを 要らないだとかのように否定しているのではありませんから。
★ 「思考」の用語の意味は、辞書の記述の通りの内容なのでしょうか。
☆ そのとおりです。言いかえると きちんとは定義していないわけですが 全体の趣旨説明からは 《非思考》としての《信じる》ではない自然本性としての能力行為を言っていることになります。
意志や記憶といった能力行為もありますが ここでは《知解》としての思考にあたります。
もう一度言いかえると
考える――経験世界
信じる――非経験の領域
こういった対応関係をおさえることが出来ると思います。
★ それとも対象の特定を志向していない段階にも、その「思考」は関わっていますか。
☆ 上の図式で経験世界と対応する《考える》を取り上げるならば 《思考》をしていなくても 思考しうるものごとを対象としているわけですから そうですという答えになります。
★☆(編集しました= a ) 対象を特定していない場合
☆ にも大きくは《思考》の世界に属します。
ただし やっかいな特殊な場合を取り上げておられましょうか?
★ 対象の特定を志向していない段階
☆ つまり
★ そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃
☆ ということのようですね。うえの( a )の場合と少し違って来ますね。
★ ~~~~
そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃には、
「信じる」という過程の存在が必要になっていない筈です。
~~~~~~
☆ 大きな主題のようで よくは分かりませんが こうお応えして 質問の問うところの探究にともにすすんでいただきましょうか。すなわち
○ 言語をまだ持ち得ていなかった頃 この頃にも 《考える》と《信じる》との能力行為は ともに潜在性としてならそなわっていた。
☆ と見るのだと。
言いかえると 何のことはない。いま現在の人間のあり方について捉えてみてください。という問いになります。そう受けとめてくださればありがたいです。
どうしてもそのような前提では 答えることが出来ないということでしたら その旨をも示してくださればさいわいです。
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