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国家という存在に異議をとなえる人たちがいます。
国家を揚棄するという表現をする人もいるようです。
共産主義思想の残党の方々の遠吠えばかりでもなく、わりとまじめに主張される場合もあるようです。
しかしその中身はさっぱりイメージがわかりません。そこに至る具体的な道筋も示されません。
言葉とおぼろげなイメージがあるばかりです。
どなたか、国家を「揚棄」した社会のイメージをはっきりと具体的に教えて戴けませんか。
あわせて、なぜそうすべきなのか、そこに至る道筋はどう描かれているのか。できればその辺も教えてください。

「ナンセンス」「革命世代の残滓」など批判だけの回答は、ごもっとなご感想だとおもいますが、ここではご遠慮下さいますようお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

ANo.3です。

お礼ありがとうございます。

>つまり国家をなくすのでなくて骨抜きにしたい、という理解でよろしいでしょうか。

骨抜き、という言葉が正しいかどうかは分かりませんが、たぶんそんなイメージです。
今の国家を一自治体として機能させるために、自治体として逸脱する権力は排除するというイメージです。
もしくは、トップに立つ意志決定機関がそれを抑制する権力を持つ、と言ったところだと思います。
今の政府と、地方自治体との関係と同じようなものにするってことですね。

>理念だけでなく人びとには具体的なモチベーションがないとものごとは変わらないはずです。この場合はなんでしょうか。

ひとつ考えられるのは、EUのような経済の統一化でしょうね。
ただ、それだけでは厳しいこともEUは証明していますからね。実際イギリスなどはEUに加盟せずとも経済維持できてるわけですし。
全世界的な経済の枠組みが作れれば良いですが、まずそれほどの規模の経済統一をどのように成し遂げるのかが問題でしょうね。

あとふと考えに浮かんだのは、日本の明治維新ですね。
明治維新は、まさに世界統一の縮小版とも言えるとも言えます。
それぞれの藩で独立していた日本が、世界と向き合うために国家統一を成し遂げたのが明治維新です。
このとき日本は、世界という大きな脅威が目の前にあったからこそ、統一が成し遂げられたと思われます。
なら、今の地球にもそのような地球外への脅威が出現すれば、世界統一は成し遂げられるかも知れませんね。

と、まあこれは非現実的な考え方ですが、人類に対する脅威という意味では、別に相手が生き物である必要もないですから、そのような事態になれば国家を揚棄することはできるかも知れませんね。

ご参考まで^^;
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この回答へのお礼

おっしゃる通りEUは国家の枠組みそのものとは無関係ですが、それでも国家以上の広がりが具体的にイメージできる一助になっているのでしょうか。
ピエール・クラストルという人類学者が、「国家に抗する社会」という著作で国家を作らず数十家族の小さな単位で平等に暮らしている部族のことを報告しています。その社会は完全に平等で、首長も政治権力を持たず内部は完全な平等と平和社会です。しかし周辺の同様な部族とのあいだでは常に戦争状態にあるそうです。外との戦争によって中が平和になれるのが彼らの社会だそうです。戦争は国家が生むのではない、暴力は人間の本質に属する。クラストルはそういう主張をしています。こういう知見に接すると、国家の揚棄といった言葉には裏づけが乏しいなという気がしてなりません。

お礼日時:2011/05/19 13:06

>国家をなくすという考え



には相反する2つの流れがあるように思います。ひとつは

A)無政府主義というのか、アナーキーな急進的共産主義などにみられる個人の解放ともうひとつは
B)世界平和の実現と言うゆるい見地から来る世界連邦国家実現への希求。


どちらが国家を揚棄(とは耳慣れない言葉ですが、私は止揚という言葉として受け止めました)するものかは意見の分かれるところだと思います。A)とB)は両極端のようでどっちもどっちというか、結局ゆきつくところの理想は個人の尊重と平等主義なのでしょう。ただ、止揚というかぎりにおいて、現在の国家というものの良い面というか必要とされている便益を維持しつつ、更に上級の(少なくないひとびとの既得権益である富と快適を犠牲にせず、更にはより均等配分させるように)進化させた極限広域社会を実現させるには、少なくとも世界平和は必要であり、多くの恵まれないひとびとを苦しめている国境というものも余計なものだろうと思われます。B)へ向かって世界はゆっくりではありますが動いているように思います。国際連合、EU、Tpp、アセアン、更にはオリンピックなどの世界規模での催し物、インターネットの普及もこれらに拍車をかけるものでしょう。大国間での戦争が遠のいた今、現実としてゆるい世界国家は既に成っているのだという考えも可能なのかもしれません。もちろん、世界国家を言う限り、最低でも世界の人々が可能性として同じ経済的平等性と刑法での平等、人権の確保を享受できるということでなければならないでしょう。
現今の国家をそのように統合するには、しかし多くの実現困難な問題が横たわっており、その最大のものは現状での経済的差異、宗教的、政治的、民族的価値観の大いなる差異でしょう。先進国群が国民の経済的優位性を犠牲にしないで完全に平等な世界国家を実現するのはここしばらくは不可能ですし、たとえ世界国家が実現したとしても、それを維持していくためには、やはり何らかの共通した警察組織、更には必要最低限の法律と行動のくくりは必要だろうと思います。そういったものが、今の超大国よりも巨大な権力をもって世界に君臨すれば、平等な平和的世界国家というのはこれまで見たこともない暗黒の帝国になる可能性もあるわけです。
当面必要なのは、やはり性急な世界統一ではなく、地道な発展途上国群の経済的底上げではないか、そういう努力で世界国家群のレベルが均等化されていくにしたがって、いずれ世界的な経済統合体は実現するだろうし、世界の民族多様性を維持する意味からも、それ以上のグローバリズムは不要だろうと私は思っています。
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この回答へのお礼

アナーキズムは一切を破壊するのが信条ですし、大杉栄は「アナーキズムは盲目的行為で精神の爆発だ」と言ってるように、何ひとつ作ったりまとめたりできないと思います。つまり壊せても揚げる?ことは一切できない。
となると世界連邦を目指す行為を「揚棄」と呼ぶということなんでしょうか。精神的には昔より世界的な利益が意識される機会は増えてると思いますが、しかしいくら経済で密接に結びついても国家をなくすことはできそうにありません。資本は居心地のいい国家を求めて単にボーダーレスに動くだけだし、国家はその資本をとりこんでいかに国内の再分配に役立てるかに汲々としてます。しかしまじめな話、経済のエンジンは内外の差です。発展途上国という外部があるから経済は動くわけでしょう。発展途上国がみな同じ世界意識をもつほど経済的に底上げされた時は、ひょっとしたら逆にグローバル経済の終焉の時ではないでしょうか。少なくとも自然という外部はその時までに破綻しているのでしょう。

お礼日時:2011/05/22 17:43

有史以来国家という枠組みがなくなり、地球上一国家になったことはないですけどね。


国家の枠組みをなくした社会といったことは宗教と同じで現実認識から乖離したある個人の中の理想の姿としてしてでしか存在できないんじゃないのかな。
世界は国家の離合集散を繰り返しで、少なくとも歴史的にはそういう状態が存在したという時代はないなぁ。

それでは現実的な形で国家という枠組みがなくなる時というのはどういう時かと言えば、国家が征服された時か、国家を征服した時と考えられる。

それでは今の日本の状況はどうなっているかと言うと
民主党政権の主張と政策群は、地方分権化(最近は地方主権化といったりする)、外国人地方参政権付与、TPPで人が自由に行き来できるようになる平成の開国、新しい公共、アメリカに依存した国防
これを例えば部分連合で関連法案を通していったとしてそれが統合されるとどういうことが起きるかと言うと、日本国民自らの手によって自らの住む社会を統治することを自らが法的に放棄する土台を作って、小泉改革の行き過ぎた競争社会以上のアメリカ型の自由競争社会に移行する。
新しい公共とは、国家行政とは別の企業体に、その地方公共をみさせるという考え方で公共の民営化ってこと。
国家の枠組みが明確にある場合は民営化による無駄をはぶく合理化の意味になり、国家の枠が取り払われる時には国家行政の代替えとして企業体に公共をみさせるということを意味する。

経済戦争において共産主義が資本主義に敗北したことによって、共産主義における国家の枠を取り払うというのは宗教と同じ理想論であり、資本主義における国家の枠組みを取り払うということと等価の意味をもつ現象は、TPPによる開国という名において実質的に起こる。


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この回答へのお礼

国家がない時代はあったけれど、近代の国民国家が生まれてからなくなったことはありません。まさに理想論が語られているのですが、なぜその理想を掲げるのか、なぜ国家をなくしたいと思うのかについても納得できる理由を見ないのは不思議なことです。ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 17:19

No11の方の回答もそうですが、人間の社会関係は直接に交流している範囲内においては平和であり、交流がやや離れている場合は、戦争と平和が交互するようです。


この交流範囲はだんだんと広がってきて、集落単位から現在の国民国家へとつながっているかと思います。

この交流範囲内の平和は、その集団内の何らかの制裁によって担保されていることは明らかです。
したがってこの延長線上にある国家の直接的な役割は、平和を領域内に最終的に確保するための(国民がそれを容認することを前提としての)警察力・軍事力の独占であることも明らかです。

しかしながら、国家の警察力・軍事力の独占なしの域内平和(それが如何に地球規模まで範囲を広げたものであろうと)というのは、私にはどうやっても想像もつきません。

想像力貧困な私をお笑いください。
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この回答へのお礼

個人的には全くその通りだと感じています。至極真っ当な感覚だとも思います。質問者からすれば、資本主義が進めば・人間性が向上すれば・国家を揚棄できるというのが想像の世界のこととしか思えないのです。暴力のことを少し前の方のお礼にも書きましたが、人間の暴力性の根は深いところで社会のシステムの基盤になっているような気がします。国家をなくせばバラ色のような単純なビジョンには何かしらける感じを受けるのです。だからこういう質問をたてて具体的なものを尋ねたかったのです。

お礼日時:2011/05/19 21:57

当初、人類の集団性は、血縁(=交配)関係を基盤としていた(動物にも見られるように)。


やがて、武力や為政の組織化や、生産の分業化において、集団は拡大した。
村単位で争っていたのが、戦国時代には県単位になり、やがて国家の実質を帯びてきた(日本は島国なので、それ以前も一くくりで見られる事があったが、国家としての機能はなかった)。

つまり、社会生命たる人類の生存単位は、社会性(分業化・組織化)の発達に応じて、拡張してきたのだ。
ひるがえって現代、国家が「生存単位」のふりをしているが、身の回りの製品は世界中の人々の労力とグローバルな物流によっている。
情報や経済も同様にグローバル化しており。既に国家の枠組みは“生きるための手段”としての為政として時代遅れになっているのだ。

「どうすべきか?」という問いには、特段する必要はないというのが答えだ。
ただ、自然な必要の「見えざる手」に従えばいい。
かつては県単位で戦争していた日本が、今は「東京が儲けすぎだ」というので静岡が攻める、という事は考えもつかないように、国政が生活を左右するものではなくなって行くにつれ、国境は実質を持たない県境に過ぎなくなる。
ただ、政治家の意識だけが、旧態依然のままの“勘違いヤロー”として、時代錯誤の振る舞いをして国家の枠組みに固執するだろうが。
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この回答へのお礼

「国家は時代遅れ」という言葉を聞くようになって久しいのですが、現実には国家がなくなった例はありません。そればかりかその気配もない。その点が質問者の疑問の発端です。
柄谷行人はこんなことを言っています。(「世界史の構造」)
『資本主義がどんなにグローバルに浸透しようと、国家は生滅しない。それは商品交換の原理とは別の原理に立っているからだ。(中略)リバタリアンやアナルコ・キャピタリストは、資本主義が国家を解体するかのように考えているが、そんなことは絶対にありえない。」
資本には国境はもちろんないのですが、その流動化で産業の空洞化と雇用の悪化が出来するなら国家はそれを食い止める方向にいくでしょう。所詮国家と資本は手を切ることができない。国内で格差や階級的な矛盾が生まれれば、国家のネーションの部分が全面に出てきて想像的な共同体として問題を回復するほうに働く。柄谷氏の見たては、資本・ネーション・国家はそれぞれ密接にからみあって強力強固な一体関係にあるのだから、単に資本主義が進展しても国家を変える力などないというのです。

psytexさんの見立てによると、政治家の頭が古いので資本の国際化の前では当然無くなるべき国家の枠ぐみがいまだ存続しているということですが、果たして問題はそんな単純なことなのでしょうか。

お礼日時:2011/05/19 13:50

その概念を聞くと、キリスト教とオウム真理教を連想してしまいます。



キリスト教のある聖職者は人類がみな滅亡するしか救いが無いと考えたらしいです。
実行力があったら、核爆弾で人類を皆殺しにしていたかも。

オウムも同じく、ポア思想によりより上位に人々を導くために、殺すしかないと考えて、実行力があったので大量殺人を実行したわけです。

で、確かに、古くなったビルを改築するより、めんどくさいので爆破して立て直したほうが楽でいいって考えもありますが、ヨーロッパの人って、古いから趣があるという考えがあり、家具は古いものを買いたがる。
古い家具に良さがあるとして、そのよさを残しながら、外装だけ変えて使うって人もいる。
揚棄もそのような考えで、良い部分は残し新しくなった後も使うって考え。


日本の国の場合、戦時中は肌の色や人種で差別すべきではないという考えを政府の要人は持っており、アジアはその当時、タイと日本と、、、あとどこだったか忘れましたが、そのくらいしか独立しておらず、他はヨーロッパの植民地だった。

ヨーロッパの人からすれば、アジア人は自分たちと同じではなく下等な人間というのが常識だった。
価値観が違うわけですが、日本は同じ人間だとして、支配して奴隷のように扱うべきじゃないとして、西洋人に支配されているアジアに行って、西洋人を追い払っていたわけです。

結構強かったので一時は西洋人をだいぶアジアから追い払えたのですが、西洋諸国は団結して、「身のほどしらずの下等な人種よ 思い知れ」とばかりに勝ったのですが、日本を兵糧攻めにしたんです。

イラクも因縁つけられて、世界各国から経済封鎖されちゃったように、あんな感じで西洋諸国は話を合わせて、目的を邪魔する日本を潰しにかかった。

で、結局物資が乏しい日本に物を売らなくなり、日本の経済はたちまち悪化して、アメリカは日本のアメリカにある資産を凍結したり、日系人を強制収容所に入れるなどして、日本をあおり、ついに日本は真珠湾にいたアメリカ軍を攻撃したわけです。

結局 負けちゃったわけですが、西洋の歴史家の一人は「短命な理想を持った国」と日本を評価しています。
人種差別の無い世界という理想を持った短命に終わった日本。

で、日本の存続だけではなく、正義 真理の存続をかけた戦いだったわけですが、負けてしまったのですが、この真理の希求の精神は価値があるとして、日本を植民地にしてまったく支配することはせず、一応独立国にして、飼いならしならが使ったほうが得策だとなり、現在アメリカのポチ状態になっているわけです。

「あの国は困っている」と言えば「はい ご主人様 我々は平和を希求する集団でございますので、あの国に無料で60億円寄付いたします」ってなているわけです。
まあ 馬鹿は潰さす 新しくした後も財布として使ったほうがいいってことで、日本の52番目の州にならなかったってことですね。
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この回答へのお礼

質問者が求めているのがkigurumiさんの自由連想ではないことをご理解頂ければありがたいと思います。
>揚棄もそのような考えで、良い部分は残し新しくなった後も使うって考え
前後の脈絡と無関係に断じていらっしゃいますが、これはkigurumiさんの意見でなければ他にどなたか唱えていらっしゃるのですか。そしてそこでは国家の何が良い部分とされているのですか。

お礼日時:2011/05/19 12:53

私は国家をなくしたい人の一人です。


私をはじめとする大勢の人々の心を壊すような権力構造を無くし、大規模自治体や巨大企業や国家が消える方向に世の中が向かえばいいと観念しています。
そして地上の人間世界を、無数の小規模な自治体のみにするのです。

国家を止す理由は、人々の意識を自由なものにするため。権力構造からの抑圧をほどくため。戦争を廃絶するため。
国家を含む大規模自治体を止す理由は、人口が数千人を超えると自ずから権力構造が要請されるため。
権力構造を止したいのは、やっぱりそれが嫌いだから。衝突しあうし、群れは細かくしているほうがいいのです。

イメージをできるだけ具体的にしてみます。

脱国家化されたあとの世の中の内容
・政治家(小さな郷の代表者)のめんつが男性と女性の半々(男性ばっかりだと自ずから競争しあうから)。
・発言権は老若男女問わず万人に等価にある(子どもを大人らの価値観に染めない)。
・郷(くに)から郷への生身の旅(住人の交換や移住)の推奨と、ウェブによって郷どうしのネットワークを緻密にする。
・流通させるマネーの量をある程度限界づけて、労働の量を制限する(でたらめに沢山の仕事や雇用や生産をしない)。
・男性的な闘争本能は、商業紛争や軍事よりも、スポーツや芸術、文化的な競技に向けさせる。
・地上にあるすべての国や州や県が捨てられて、郷(くに)だらけになっている。かなり静かな暮らし(理想はムーミン谷)。
・教育はすべての人種の子が生徒として参加する学校(ニュースクール)。
・ヒエラルキアのない家庭。自由な言論テーフルがある(家庭にも郷ごとにも)。
・衣食住のすべてのクオリティが高い水準で各々の郷ごとに自足している(もっとも重要)。
・生産……郷ごとに、その土地の自然を生かした文化的な、風土的な小規模な企業が必要な種類あり、暮らしに必要なものを生産し、またそのテクニックをウェブや人材交換のネットワークを通じて世界中で共有し練磨する。

という感じです。

そういう脱国家した状態の世界に向けて、世の中を方向づけながら歩む人々の類
・世界中の、戦争を経験したことのある人(もう国家なんか嫌だよという気分になっている人々)。
・詩人(はなっから言語的に気分的に脱国家している人々)
・個人で動くジャーナリスト(言論や態度によって民の意識を脱国家化する)
・国境を好かない医師たち(その活動自体による脱国家化)
・権威ぎらいな学者や研究者たち(同上)
・ウィキリークスとか、ウェブの自由主義者(国家やら企業やら組織などのあらゆる権威を失墜させつづける)(国家をはじめとする権力構造を必要としない情報や流通)
・国家に属する人々(その営みが悉くだらないので自ずから世の中に見限られ脱国家が進む)
・ニート、ひきこもり、無職、アナーキスト(あまり何もしない)
・うつの人(組織なんかもういやだ)
・出家者(国家なんかどうでもいい)

脱国家化を阻害する人々
・国家や大企業や財閥が大好きなお年寄りたち(……数十年もすればみんな死ぬ)。

いけると思います。
脱国家化をする人々は世界中でほぼ同時に、脱国家的な営みをしていっているのですし、また国家が大好きなお年寄りたちも同時に一斉に老化・死亡していっているので、いけると思います。
脱国家的な思想でマインドコントロールするか、国家の維持存続の方向で子らをマインドコントロールしつづけるか、の勝負だと思います。
勝てます。とにかく複数の郷を作ってしまって、多数の人々が脱国家的生活のシステムに入ってしまえば、勝てると思います。

もし入ってみて不幸せだった場合には、やっぱり脱国家なんかもダメだと思えば良いと思います。
とにかく国家ゲームばかりをみんなで数千年やりつづけているのが尊くもあるようで実は本当に滑稽です。一度くらいは止めてみるのも良いと思います。
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この回答へのお礼

具体的なイメージに踏み込んでのご回答ありがとうございます。
ただ、集団が小さくなるとヒエラルキーがなくなるかというと必ずしもそうではないように思います。マンションの自治組織の規模ですら、どこまで真に民主的かと考えると疑問符をつけざるをえないのが現実です。問題はむしろ官僚制度の硬直性のほうではないでしょうか。
もう一点。国家が戦争するのは事実ですが、国家がなくなれば暴力がなくなるわけではないと思います。国家体制だから暴力の発現形態がおもに国家間の争いとなるのであって、人間の暴力性が国家とともに消えるというのは幻想、つまり敵を間違えているような気がしてなりません。
反論ばかりで恐縮ですが、質問意図を汲んでもらえない回答がおおいなかでご自身の思いとイメージをはっきりと示して頂き大変有難く思いました。

お礼日時:2011/05/19 18:46

社会を語る際に、社会プレートとなる社会の土台がありました。

社会の土台となる社会プレートがどの様に推移してきたのかを観る事で、次なる社会の大枠と道筋が観えてこようかと思います。

それともう一つ。

社会を形成している主体は人間でございますので、人間とは一体何なのか?に対しても切り込む必要があろうかと思っております。

人間はどういう存在なのか?

そこから社会プレートがどの様に移り変わっていったのかを歴史的に追いかける事を通して、今から創られる新しい社会プレートの概要を知る事が出来るのではないかと思います。

人間は、出発の時点から既にカオス(無秩序)を抱えています。
それは、判断基準の5つの問題性を見る事を通して鮮明になります。

◎判断基準の5つの問題性

1.誰もが皆、判断基準を持っている
2.一人ひとりの判断基準は皆違ってバラバラ
3.かと言って一つにさせたらもっと問題
4.人間の判断基準は不完全
5.不完全なのに無意識では自分の判断基準は完全だと思っている

この1~5の判断基準の問題性によって、人と人は分かり合う事が出来ません。自分と同じ判断基準をもつ人が一人もいないからです。判断基準が全部違うので、摩擦や衝突が終わりなき起きますし、人と人が分かり合えないから問題だといって、判断基準を一つにさせたら、人間にとってもっと問題が起きます。

人間として生まれてきた意味や価値が失われてしまうんですね。ファシズムやドグマに支配されたり、機械やロボットの様な生き方をして一生が終わります。

判断基準を一つにそろえる事も出来ません。

その状態で、更に厄介な事は人間の判断基準は不完全ですから、何と出会っても答と出会う事が出来ません。終わりが無く問題と出会う様になっています。

不完全な判断基準である事の明確な自覚があれば良いのですが、無意識では自分の判断基準が完全だと思っている為に、更なる摩擦・衝突が生まれる様になっています。

自分の判断基準に観点が固定されたまま、抜ける事がありません。

世界69億人もそうですし、今までの歴史上の全ての人間は判断基準を持っていました。この判断基準から感情・思考・表情・言葉・行動などが始まります。ですから、人間の出発は判断基準でもあり、判断基準の5つの問題性を抱えているという事は、人間の出発はカオス(無秩序)だという事です。

判断基準の5つの問題性を置いておいたままにしては、人間はカオス(無秩序)です。そんな人間たちは、自然との闘いや動物との闘いに破れました。

僕たちの祖先は、カオス(無秩序)と向き合い、一人ひとりではバラバラで何の力も発揮できない非力な人間を止めて、お互いに協力して団結して強烈な力を発揮できる新しい人間生命体を創る事に成功しました。

それが共同体です。
無秩序を克服できなかった人間は滅んでいきます。

無秩序と向き合い、何とか秩序を取り持った集団が生き残っていき、自然との闘いや動物との闘いに勝利し、自由を獲得していきました。

無秩序(カオス)・・・そこに対してどの様に向き合い秩序(コスモロジー)立てていったのか?歴史的に観るとそれは力でした。まず最初にヒットした力は暴力です。

先ほどの、共同体を纏めるリーダー的存在が、後の王様になっていきます。自然との闘いに勝利し、動物との闘いに勝利した王様とその共同体は、食べる事がどういう事なのかについての知恵も手に入れていました。

水のあるところに植物や動物を含め、食べ物が豊富であった事に気付き、水をコントロールしたり自然の力をコントロールする事を通して、食べ物が豊かになっていく事に気付きます。

そうして、共同体は豊かになっていきますが、その過程の中で国家共同体が生まれていきます。この頃、判断基準の中心は王様で、社会プレートは農業社会で、秩序の原動力となっていたのは農業革命(自然の力との出会い)に恩恵を受けた王様の暴力でした。

当初、これは大ヒットします。

生きる事が大変な時代、そして食べる事が大変だった頃から、生きる事、食べる事に安定してきますので、王様を中心とした国家共同体に落ち着く事を通して愛する家族を守る事が出来ます。

一人でも多くの人の生命を安定させ家族を守るには、国家共同体という生命体は常に成長していかねばなりません。農業社会ですから、そのシンボルは土地です。つまり土地を奪い合う闘いが勃発する様になりました。

王様と王様の判断基準の戦いが、国家共同体と国家共同体の戦いへと移り変わります。そうして、国家間の争いが激しくなり、負けた国の民衆は奴隷にさせられる為に、国が負ける事は赦されなくなっていきます。その為に、王様の判断基準が絶対となり、王様の判断基準にそぐわない人は罰を与えられ、王様の気分次第では殺される事も当たり前でした。

当初ヒットしたこの社会プレートは、広がりを見せるに連れて徐々に不安定になっていきます。かなり個人が王様によって抑圧されていたんですね。個人一人ひとりも判断基準を持っていますが、それを無理矢理暴力で王様の判断基準にあわさなければならないので、人間として生きる意味や価値などの喪失が酷く、疑問も生じます。

そんな中、遂に王様の判断基準が倒される時が来ます。

代表的なのはフランス市民革命です。

市民たちが、何百万の血を流しながらも必死で勝ち取った人間としての権利。当時、市民たちというのは商人たちでした。一番身分の低い商人たちが、王様の判断基準を切って、新しい判断基準へと移動させました。

個人一人ひとりには人間としての尊厳があり、その尊厳の基で権利を有する、としながら主権を市民、国民へと移動させます。それまで、抑圧されてきた個人一人ひとりの判断基準でしたから、これはとても大ヒットしました。

西洋は天動説⇒地動説の意識改革以降、学術が開花して、神・聖書・教会・牧師だけが語る宇宙自然の仕組みよりも、そんな言葉や概念を一切使う事なく個人一人ひとりが追及できる物理学・数学・経済学などに関心を示します。

そんな中、イギリス産業革命も起きて、社会は益々変貌を遂げます。

判断基準の中心は市民(当時の商人たち)、社会プレートは産業社会で、秩序の原動力となっていたのは産業革命(機械の力との出会い)の恩恵を受けた市民の財力でした。

西洋は、個人が目覚めます。

個人一人ひとりが宇宙自然の仕組みや人間活動の追及を果たせる様に学術が広がりを見せ、天の動きと地の動きを融合したニュートンや天地の動きを人間活動に積極的に取り入れたアダムスミスらによって、西洋の個人一人ひとりはとても洗練されていきます。

一方、東洋にはそうした目覚めがありませんでした。

ですから、西洋は文明先進国へと様変わりし全体的に列強諸国となっていきます。アフリカを制し奴隷化させ、その勢いに乗ってアジアへの侵出も果たします。多くの文明は西洋によって滅んで生きます。

もはやアジアの文明も息の根が途絶えるかと思ったその時。何と日本から明治維新が興り、アジアが辛うじて攻め滅ぼされずに済みます。

もし明治維新が無ければ、白人・黒人・・・ときて、黄色人種が奴隷となっていました。日本文明の果たした役割の重要性が観て取れます。

そんな中、西洋を主導するアメリカが全世界の覇権を握って管理監督しようとし、日本はそれに対して真っ向から勝負しましたが、徹底的に叩かれ敗れます。

日本は自らを反省し日本色を消し、アメリカを大好きになり、アメリカを真似て、アメリカ・西洋に着いていこうと決めます。そうこうする間に、何とMade in Japanでアメリカ・西洋の市場を取ってしまうくらいにまで躍進が起きています。

アメリカ・西洋は驚きます。社会のプレートが、産業社会ですし財力でもありますので、日本がその気になれば世界が日本に傾きます。それはアメリカの沽券に関わる。

だから、プラザ合意による政治原理によって力技で日本をねじ伏せながら、一方では金融経済へと逃げてIT産業と連動させながら、日本からお金が海外に流出したり、技術や権利を簡単に奪う仕組みへと中心を移動します。

これにより日本の勢いは挫かれます。ですが、アメリカ・西洋は挫かれるレベルではなく壊滅の手前まで来ています。金融バブル崩壊など。

今、インターネットによって、人も情報もお金もモノも激しく行き来し、人類69億人が運命共同体にまでなってしまっています。そんな中、どこか一つの国だけがうまく行く道理などどこにもありません。今は、西洋が切り開いた個人戦・個人主義がヒットし過ぎて、国家共同体では秩序立てる役割として不足です。

それではどうすれば良いのでしょうか?
何が問題だったのでしょうか?

判断基準の問題性を解消していない事です。

西洋の個人の目覚めは実は中途半端です。
組織に弱い個人、国家共同体に負けてしまう個人です。

悟り・真理が無いからです。
判断基準の問題性5つを解決しまいまま、暴力・財力に依存する弱い個人。
それが、組織に負けてしまう個人を量産します。

中の王様、判断基準に勝利する。

つまり西洋は、外の王様を倒しましたが、中の王様(判断基準)を倒していません。この仕事は、アメリカ・西洋には無理です。中の王様を倒すのは東洋、取り分け日本。

日本から真理と共にある真の民主主義革命。

絶対的真理・相対的真理を自由自在に活用した判断基準を中心にして、そんな悟った個人が団結したグループリーダーシップが感動社会を創る。認識革命(東洋の悟りと西洋の最終理論が統合された究極の力との出会い)が原動力となります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2011/05/18 20:56

 No.5です。



 ★(No.5補足欄)  ~~~~~~~
  独特の用語を使われるとその意味の定義から始めなければなりません。
 できれば一般的な用語でもう少し明快な言葉を使用していただけると有難いです。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ あたらしい用語で分からなかったものは たぶんないでしょう。

 ★(同上) 質問者はそもそも「揚棄」だ何だという言葉の具体的な中身を尋ねていますので、その解説にまたさらに別の新語が出てきては困ります。
 ☆☆(回答No.5) それを 弁証法的にかどうなのでしょうか 解決して行きたい。
 ☆ この言い回しで《揚棄》は どうでもよいと言おうとしています。

 ★(お礼欄。以下同様です))  地域主権はあくまでも国家を前提にしたうえでの「地域」主権ではありませんか。
 ☆ ですから 《きっかけ》という言葉を使ったりあるいは
 ☆☆(回答No.5) この第二点も けっきょく第一点の地域主権と展望として方向をひとつにしているようです。
 ☆ というように 《展望》の問題へと広げて捉えてくださいという含みを持たせました。

 ★ 国際社会がどこまでも主権をもった国家の付き合いである以上、たとえ日本ひとりが「国家を揚棄します」といっていくら内部で平等な「市民社会」を作ってもどうにもならないでしょう。
 ☆☆ これを称して インタムライズムさらには インタナショナルなインタムライズムと名づけています。
 ☆ ムラどうしの経済的・共同自治的あるいは文化的な連携や交流は 何も国内だけに限るとは言っていません。

 ★ 具体的には周りの野心的な国々が体よくその市民社会の領土を侵食するだけでお終いでしょう。
 ☆ そのとおりでしょう。特にめぼしい安全保障策があるとは思えないので触れなかったまでです。
 そうしてわづかに このインタナショナルなインタムライズムを推進して行く過程で その平和政策をも含ませたいというつもりはあります。ですがたしかに
 ★ 「あやふやな道筋」とおっしゃっていますが、
 ☆ ということになることを認めざるを得ません。国際関係は そういう状態であろうと同じく考えます。

 ★ 「あやふやな道筋」とおっしゃっていますが、そういう空疎な議論は開国前の江戸幕府のもっていた問題意識にも及んでいないのではないでしょうか。
 ☆ そう認識されたのでしたら 仕方がありません。その程度のものです。

 ★ あるいは一国だけで国民国家のレジームを変えられないから世界同時革命をうたった共産主義がいかに露骨に失敗したか、その反省もそこにはありません。
 ☆ 共産主義については 弁証法過程くらいしかほとんど触れていません。どうでもよいという考えを 暗黙の内に言っています。なんで同じ道筋ですすまなければならないのですか?


 もともと(最初の回答No.5において)マルクスのマの文字にも触れていないのですから ご質問に正面から回答を寄せるというには不足だったかと返り見ましたが 補足欄に言葉が継がれているのを見て お応えをしようと思い直しました。
 つまり 独特の用語を使っているが たやすく分かるようにうまく造ったものだねと暗に言われているようなので 思いなおしました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。もう十分です。

お礼日時:2011/05/18 21:06

 こんにちは。



 きっかけとしての二点をまづ申し上げます。
 
 地域主権 これはすでに提起されています。ムラ(市町村)が共同自治の主体である。

 わが国ではお上に従うというクセが人びとからなかなか抜けません。アマアガリ・シンドロームと言ったり アマテラス予備軍症候群と呼んだりしていますが 要するにアマテラス公民には かつてローマ法王に不可謬性が賦与されていると思い込まれたように 無謬性があると人びとの間では心理的に誘導・操作されていたと考えられます。

 これは 徳川幕藩体制におけるアマテラス公民の優位性からの影響だけではなく それをくつがえして成った明治社会においても アマテラス公民の象徴としてのアマテラシテ( amaterasity; amatérasité; Amaterasität )には 神聖にして侵すべからざる権威が賦与されたかたちが成ったことがあり そこからの余韻が響いているかに思われます。

 ところが それらを超えてなお この《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の二階建てから成る連関制には 問題点があると捉えます。この社会形態が つまりは 国家ということですが――そして おおよそ世界の諸国家を眺めても意外とこの二階建て構造からなるというのが基本と見ているのですが―― けっきょく早い話としては 頭で立って逆立ちをしているかたちなのではないか? この点を問題にしています。

 言いかえると ひとつにもともと社会は 市民社会として平屋建てであっただろうし ひとつにそのような人びとの互いに対等なスサノヲ市民関係においてムラオサ(市長)を出すことは それをアマテラス公民と呼んだとしても 決して逆立ちをするわけではない。
 ところが 人びとの間には ここでお山の大将になりたい そうでなければおれは生きて行けないと言う者が出た。優秀であったらしく コギトないし理性で生きる人間であった。なら ひとつの――そして唯だひとつの――かしらで世の中を束ねようともくろんだ。そうして 一般の人びとは これに手を焼き根負けして 社会にもヤシロをこしらえてやって その高い所にかれらアマアガリ志向のスサノヲらをまつりあげた。

 日本では このように《くにゆづり》と呼ばれるかたちで 平屋建ての社会に第二階が築かれたと捉えられます。ほかのアジアの人びとや国々の間では どうだったでしょうか。そしてヨーロッパなどにおいては けっきょくスサノヲ市民一人ひとりがそのアマアガリ志向を内に秘めていて 一たん二階が出来上がったならあとは 次から次へと残されたスサノヲらの新たなアマアガリが見られた。ということではないか?

 この第二点も けっきょく第一点の地域主権と展望として方向をひとつにしているようです。
 アマアガリ・シンドロームからの脱却というひとつのことにおいてです。逆立ちをただすことです。あるいは 一階と二階とのそれがもし無益だとすればその回転(レヲ゛リューション)を止め 市民社会が なおしばらくは残るであろう二階の調整機能などを主導するかたちに変えて行く。つまりは 地域主権。ムラムラの主導する方式。

 これを称して インタムライズムさらには インタナショナルなインタムライズムと名づけています。

 このような今ある問題点から出発するというのみです。それを 弁証法的にかどうなのでしょうか 解決して行きたい。ムラムラの自由な連合が 第二階をも当分は主導するという方式が その中身を具体的にはまだほとんどまったく描かないままの当面の方向です。

 国際連合には 期待していません。活用できればよいでしょうけれど。
 世界政府は 論外だと思っています。逆立ちの上に逆立ちを重ねるようになるのではないかと。

 道筋があやふやであり その先の未来社会の絵に到っては まったく白紙です。すみません。
 すみません。つまり それでよいと いまは 思っています。どうでしょうか?
 つまりとうぜんのごとく みんなが考えてつくりあげて行くものであるはずです。

 * インタスサノヲイズムという言葉を出すとしたら 何でしょうね きづな 共生なる愛 でしょうか。ファンタジーも入れておかなくっちゃ。

 * あと この思想に同感・共感・反感の三つにおおむね等しく人びとの考えが分かれるという状態にまで到れば 軌道に乗ると思います。それが 第一目標でしょうか。

 * 特に《国家をなくす》ということが それを突破口にするといったかたちにおいて 目的であるというのではありません。

 そう言えば きわめて粗いものだとふり返って思いますが とりあえずはこんなところでしょうか。

この回答への補足

独特の用語を使われるとその意味の定義から始めなければなりません。
できれば一般的な用語でもう少し明快な言葉を使用していただけると有難いです。質問者はそもそも「揚棄」だ何だという言葉の具体的な中身を尋ねていますので、その解説にまたさらに別の新語が出てきては困ります。

補足日時:2011/05/18 12:08
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この回答へのお礼

地域主権はあくまでも国家を前提にしたうえでの「地域」主権ではありませんか。
国際社会がどこまでも主権をもった国家の付き合いである以上、たとえ日本ひとりが「国家を揚棄します」といっていくら内部で平等な「市民社会」を作ってもどうにもならないでしょう。具体的には周りの野心的な国々が体よくその市民社会の領土を侵食するだけでお終いでしょう。
「あやふやな道筋」とおっしゃっていますが、そういう空疎な議論は開国前の江戸幕府のもっていた問題意識にも及んでいないのではないでしょうか。あるいは一国だけで国民国家のレジームを変えられないから世界同時革命をうたった共産主義がいかに露骨に失敗したか、その反省もそこにはありません。

お礼日時:2011/05/18 11:48

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