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自分自身の死を自力で認識する事は阿羅耶識によっても為され得ない、と思われますが、たとえ腐敗していましても、その遺体が見付からなければ、当事者は行方不明の扱いを受けますので、矢張り自分自身の死は「【シュレディンガーの猫】の様に他者によって認識された時」にしか確定されないのでしょうか?

A 回答 (10件)

二度も書いてしまってごめんなさい。



他の回答者の書き込みの中で、あ、面白いぞ、って思ったものがあったので。
というか、質問者さんの書いた補足が面白かった。 回答より判り易いものも
あったので。

主観の消失は何時どこでどうやって、と主観で認識しようと思うこと自体が
尻尾を食べる蛇みたいなものですよね。

私は異なるアプローチをお勧めします。

現在、全ての前提となっている「主観」の切り崩し作業です。

考えてみれば、自分が生み出したものではないものの巨大な集合体が自分です。
そもそもオリジナルなものなんて含まれているのか、判らなくなるでしょう?
多分、まるっきり私達のオリジナルな片鱗さえ、存在しないと思うんですよ。
DNAですら解読できたのは解体新書並みの単語の一部。「顔の真ん中で
盛り上がってるもの」というレベルでさえ、判明していません。
部分的に特定の酵素やアミノ酸を再現できるにとどまっていますし、脳にしても
新皮質上である機能による反応領域を特定出来ているに過ぎません。
回路構造や情報処理のOSのI/Oレベルのコード構造さえわかっていません。
脳神経回路の論理動作機序さえ想像の域を出ないのです。

我々は、様々な意見が増えただけで、相変わらずアリストテレス時代と
変わらない思考システムを使って少しづつ少しづつ考えを積み上げているのです。
まるで、カタツムリの歩みのようです。

さて、「自分」、まあ主観でもクオリアでも何でも良いのですが、この脳の
中にある、自分の一部と規定されるものをどんどんどんどん取り払っていくと
丁度退行催眠のように「自分と思い込んでいるものの大部分が周りから
与えられたものに過ぎない」ことに気付きます。 先天的なものも所詮は
遺伝子に組み込まれて後で稼動するように仕組まれた途方も無い条件反射系です。

思考ルーチンを外され、言語を外され、視覚的・聴覚的・触覚的・・全ての
感覚や知覚機能は生まれた後で両親に育てられる過程で遺伝子のプログラムに
よって発芽・形成されたものです。

例えば、色一つ取っても、各々の色は周囲の環境にある重要な要素がその色を
持つことによる、先天的な認識機能の発展のための準備です。
赤は焼けた大地、夕焼け、緑は植物、青は空や海。黄色は太陽、群青は夜明け。
いずれも空間識と時間識、敵味方判別、食餌機能の動作に不可欠の「キーワード」。

海の中の鯨や白銀のアザラシなど、生活の全てが異なれば、彼らの目に映る色は、
全く異なる色を見ているでしょう。 異なる波長のスペクトル域に色相がシフト
している、という意味だけではなくて、ある特定の色自体、彼らに必要がなければ
彼らの意識に存在しないだろう、という意味です。 例えばアザラシの脳の中で
緑色のかなりの部分が認識さえ出来ないものであるだろう、ということです。

逆に、昆虫などは色自体2,3種類しか判別できないなどと言われますが、
アリ塚の暗闇の中で彼らの目は赤外線の波長領域を数種類の色として識別して
いるのかも知れません。

いずれにせよ、自分だと思っている感覚・自我・思考・記憶・感情・生理。
その殆ど全てが自分という主観的な絶対者が様々な試行錯誤の末に獲得した
オリジナルなものではなくて、無数の引き出しを持つ遺伝子や脳神経が
そもそも持っている環境への順応性---可塑性、或いは鋳型的なコピー機能。
そういったオートマトンの発現に過ぎないのです。

自分とは何かを探るには、これらをとにかく取り払っていかなければなりません。
たまねぎの皮をむくように小さくなるかといえば、寧ろ逆で、誰もが持っている
「汎」でしかなく、それゆえに個性はどんどん無意味化し、相対的に群として
しか捕らえられなかった私達の集合体・・・社会でも国家でも、或いは家庭や
夫婦・恋人同士に置き換えても同じ視点は成り立ちますが、そもそも個体の
オリジナルな「実在性」などは実は存在していないんじゃないか、という
立脚点から議論を広げてみるのが良いような気がするのです。
未成熟な全体構造の一部がある条件付で単独動作しているように見えるのが
生命の個体の自我なり主観なりではないのか、ということです。

あるシチュエーションでの、例えば進化の試行錯誤のためとか、何らかの
意味生成のプロセスの中で、その場、その時、その条件でのプログラミングの
ために擬似的に生成されているのが「自我」ではないのか、という考えです。

もうお気づきかと思いますが、生死を考える思考の前提となる「個」という
視点を破壊してしまうと、生死そのものの意味が変質します。
壊されて捨てられたマリオネットはゴミになり、意味が消失しますが
そのマリオネットが演じた台本も、人形に魂を込めた演者も、その舞台を
見た観客の記憶も、全ては失われず、流動的に再現したり変質したりを
繰り返しながら別な人形、或いは別な役者によって何度でも再現される。
勿論、全く同じものは二度と出来ませんが、ユニーク、つまり唯一性は
殆ど意味を成しません。 受け継がれ、拡散し、再生産され、再分化、
或いは部分品として再構成されながら一情報として流れていく。

そういうシステムの中にあって、生死とは絶対唯一無二のユニークな存在が
集合に融合して消失することなく永遠性を獲得する、というロマンチックな
メロドラマに過ぎないのではないか、というのが私の思考ルーチンで
導かれた一般解です。

すなわち、巨大な集合の一部の偏りの生成と消失という、意味的な機序を
別にすれば、他者、と区分独立した絶対者ですらない、境界の明確でない
雲のような集合体、あたかも霧のような、そんなものが見ている夢のような
ものが我々「個体」という錯覚、と言えるのではないか、そう思っています。

私達は、実は、自分が存在していると確信する機能を持たされた(集合からの
期間的な断絶によってそう反応する、つまり人生という有限の間、単独に
なることで)マリオネットだと言えます。 その人形は、たまたま自分の
顔、姿かたちをしているだけで、海面の泡がある瞬間もっともらしい形を
為した、と言うほどに意味の乏しいものであろうか、とも。

であるならば、元々の母集合から切り取られた私たち、一滴の神の雫は
母集合の根本的な構造を、極めて疎ではあれ、縮小した形で保存している。
つまり、母集合の雛形です。 あるシチュエーション用に抽出された「系」の
マイクロ・モデル。 逆に言えば、何かに相対することによって、初めて
性質なり構造なり、つまり人格、と言うことですが、それが対生成のように
生み出されるのではないか、というミラーリングの仕組みも含んでいます。

ハードディスクのRAIDなどは、原理的な構造にこういった形を含んで
いるではありませんか。

私達は自分であって自分ではなく、自分は全ての人であり、誰でもない。
私達はどこにも存在しておらず、ゆえに、全存在に遍く分布し、流動している。

自分と他者、という概念の枷を取り外してしまえば、もはや生死にさえ
究極的な意義など無くなってしまうのではないでしょうか。

ちょっと今夜の猫は酔ってしまいました。

この回答への補足

有り難う御座います。

別段に2回目でも3・4回目でも構いません。
色々と伺えると勉強になりますから、嬉しいです。

確かに、もし人が生まれてから他の動物によって育てられて手遅れになったのでしたら、その場合には、別れを嘆く「死生観」さえもが人間中心主義的な謬見だと分かるのかも知れませんね。

因みに、従来からの私見では、「自己意識は唯のOSではないか」と考えて参りましたが、その認識は適切なのでしょうか?

補足日時:2011/05/21 01:01
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この回答へのお礼

http://okwave.jp/qa/q6755450.html
もし可能でしたら、此方の疑問への御教授をも賜れませんでしょうか?

お礼日時:2011/05/23 01:36

ご質問の意味を理解したいものですから幾つかお尋ねさせて下さい。



JidousyaGaisyaさんは、自分自身の死という現象をどう理解するかについて、【シュレディンガーの猫】を引き合いにしながらの質問をされているのではないかな、と受け取っております。

そして、JidousyaGaisyaさんは

>自分自身の死を自力で認識する事は阿羅耶識によっても為され得ない、と思われますが

と触れておりますが、お尋ねしたいのは「自分自身」をどの様に規定するかによってこの質問の様な表現ではなくて、別の質問に変わる気がしているのですが如何でしょうか?

推測しますに、自分自身の死という現象を、【シュレディンガーの猫】を引き合いにしていらっしゃるので、猫の死と対応付けているという観点から観て、自分自身というのは体を持って、意識を持って、自我意識までが機能している自分自身なのかなぁ、という気がしています。

JidousyaGaisyaさんがその様に捉えているのでしたら、自分自身というのは末那識であろう事ですから、

>自分自身の死を自力で認識する事は阿羅耶識によっても為され得ない、・・・

ではなく、末那識によって為され得ない・・・となるのではないでしょうか?
それとも、

>阿羅耶識によっても為され得ない、と思われますが

と仰るには、自分自身という定義・規定が上の推測と違うものだったのでしょうか?しかし、その場合は【シュレディンガーの猫】の思考実験を引用する際に、別の表現になるといいますか、別の質問に成り代わる気がしているのですが、この点如何でございましょうか?

この回答への補足

有り難う御座います。

それでは、先ず切っ掛けになった着眼点を申し上げます。

自己が死を迎えるというコトは、逆に自己が周囲の環境(【夢・想像】を含みます。)の存在を認識し得なくなる、という事を意味しているのではないか、と思われましたので、此の質問を提出させて頂いております。

そして、単一の他者によって【自己の死】が認識された途端に、他の方々によっても【自己の死】が信用されざるを得なくなる、という認識の仕組みが仏教的にも諭されているのか否かもが、現時点で気になっております。

補足日時:2011/05/21 01:10
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この回答へのお礼

http://okwave.jp/qa/q6748269.html
実は是にも関わっていますから、宜しければ御覧になって下さいませ。

お礼日時:2011/05/21 04:23

断続ではなく断絶、と訂正させていただきます。


失礼しました。

この回答への補足

私の勇み足で纏められているせいで、自分自身にも分かる見落としが含まれていました。

若しかしますと、此の問題は、多重人格とか脳死判定とかに関わっているのかも知れません。

補足日時:2011/05/22 00:24
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この回答へのお礼

http://okwave.jp/qa/q6882788.html
此方でも御教授を賜れますと助かります。

お礼日時:2011/07/18 10:25

再度推測になりますがお答えします。



箱の中を見る事ができない、というのは第七識以下の認識状態に置かれている、という事だと思います。
また、猫という動物の生命活動が停止したものかどうか、の判別についても同様だと思われます。
第八識以上の智慧の世界においては、「相互に断続したものが無い」という認識状態なのかもしれません。
時間、方向、遠近の区別も無いといったもののようです。
また、生命活動に対しては、身体の働きが停止しても、なお残る業識や、その潜勢力の動きを自在に読み取れるといったものなのでしょう。
以上から
シュレディンガーの猫のパラドックスは、第七識以下の唯物的な命題であり、第八識以上の立場においての命題とは成り得ないと思われます。
結論からいえば、第八識以上の立場においては、箱の中が見え、猫の生死の判別も容易につくという事になります。

また、業識の流れを観る(業観縁起)というような立場にあっては、完全なる死というものはあり得ないようにも思います。
業の消滅をもって完全なる死とするならば、縁起による空観の徹底、或いはその先にある法身の世界への参入といった事になるのかもしれません。
「業不滅」のままに、法身の生命に帰入できる可能性もあるように思います。
いずれにしても、第八識に体達しなければ分からない事のように思います。

以上は唯識的な拙い推測です、ご了承ください。

この回答への補足

有り難う御座います。

「遺体化して命を失った猫」と「【阿羅耶識】の存続」とを関連付けてはいけないのですね。

因みに、特定の誰かによって【死】が確認された際には、「共時的」に他の方もが【生】でなく【(相対的な)死】を認識せざるを得なくなるのだろう、と思われますが、そういう伝達性を諭した教えは存在していますでしょうか?

補足日時:2011/05/21 00:42
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#2の者です。


シュレーディンガーの猫と関係なく、「死の認識」という
意味であれば、下記のような形での考察は可能です。

人の意識は、誕生と共に生まれたとするなら、生まれる
前も「死」な訳です。
「過去は見る事はできない」と言うなかれ、光速が有限
である以上、我々の見ているのは過去以外の何もの
でもありません。
たとえばあなたが40歳なら、20光年彼方の星に大きな
鏡を置き、こちらから超高性能の望遠鏡でのぞけば、
そこに映った地球上で、自分が誕生しているところを
見る事ができます(それ以前(遠く)は死)。

量子論的世界像での、「認識される事で有限的性質が
派生する=世界が生じる」という事において、感受(=現在
=光速)から、過去(=記憶=超光速)と未来(=予測=
光速下)が対発生していると考えられます。
その「異なる時点から対発生の時系列化=プランク定数
(h)の収束=物体の収縮=宇宙の膨張」こそが時間性の
本質なのです。

全ての存在は量子的な不確定性(確率波動)に基づい
ており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、
無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の
闇に、認識可能性の仮定断面の運動(プランク定数hの
収束の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は光
になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完と
しての時空仮説=宇宙を認識するのです。

時間軸(=環境の感受)そのものが、自分が勝手に作り
出したものである限り、「死」とは、その辺縁=宇宙の
果てと同じです。
宇宙が無限でなく、有限(137億光年)であるように、
その外側は“自己”の外=死だと言え、「自己の死」は、
「他者によって認識される」も何も、無への還元に他
ならない。

この回答への補足

有り難う御座います。

因みに、「【相対無】への還元」として、他者達が「自己の【死】」を認識するのではないでしょうか?

補足日時:2011/05/20 16:31
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こんにちは。



死の認識は、単に生の実感の裏返しです。
自分自身の死について考えてしまう、ということは、
自分自身の生について生理的な認識が乏しいことのアンチテーゼです。

生きていることさえ忘れる程の凝集された心の燃焼。
時が止まるほどの、つまり思考からも時空からも自由になる刹那。

そうですね、例えば立会いの武蔵の心、でしょうか。

それが言語化する必要さえない、答えだと思いますよ。

生死とか認識という言葉は、魂を実感から遠ざけるのです。
芸術家は色彩やカタチをそのまま言語として思考できるし、
音楽家なら音を、舞踏家なら肉体を、やくざならケンカを、
それぞれ言語として思考できます。

いずれも生死を見つめ、究極的に点や瞬間を追い求め、
やがていずれにもそれが存在していることに気づいて
何気なく、穏やかにありきたりに生きることが回答だったのだと
深く理解できる段階に至ります。

ま、猫には関係ありませんけどね。(;^^)

この回答への補足

有り難う御座います。

認識の対象は主観の外部に位置していると思われますので、
「【生】への認識」は【死】の側からでないと、
行なわれ得ないのだろう、と考えて参りました。

でも十分な根拠が分からないものですから、其の解釈の妥当性の確認の為に、此の質問を提出させて頂きました。

補足日時:2011/05/20 16:25
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この回答へのお礼

「【死】の存在」を知らなければ、「【死】によって奪われ得る【(相対的な)生】の存在」に気付かないのだろう、と考えていますが、それは私の勝手な謬見なのでしょうか?

お礼日時:2011/05/20 17:32

そうだよ。


客観的死はあるが、主観的死は無い。
死ぬのはいつも他人ばかりではないですか。

この回答への補足

有り難う御座います。

勿論乍ら仰る通りなのですが、
此処では敢えて「阿羅耶識」の有無の検証の為に、
【シュレディンガーの猫】の事例を引用しています。

補足日時:2011/05/20 07:19
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>自分自身の死を自力で認識する事は阿羅耶識によっても為され得ない、と思われますが・・・


そうでしょうか?
第七識以下に束縛された状態にあってはそうかもしれませんが、第八識以上に目覚めた場合にはそうではないように思います。
第八識に付随しているとされる第七識にあっても、十二因縁の中の「識」は「受胎の一念」と解されていますので
それ以前の中陰の状態においては、何らかの死への認識があるのかもしれません。
矛盾しているようですが、死後も第七識以下に束縛された状態にあっては、その業識が希薄な形を伴って見えてしまうといった事もあるようですので(幽霊)
その段階においては、死への認識が少しはあっても確定するところまではいっていないと思われます。
死への認識が明瞭に確定されていないままに、次の生を受ける事を望むという状態なのだと思います。

第八識以上に目覚めた場合には、自らの業を客観視できると思われますので
死のみならず、生を含めた業のすべてを観る事ができるのではないでしょうか。
第八識(阿羅耶識)以上においては、自らの死を明らかに知る事ができると思います。
第七識以下に留まる状態においては、自らの死も生も明らかに知る事はできないのかもしれません。

この回答への補足

有り難う御座います。

もう少し詳しく知りたいものですから、伺わせて下さい。

もし「阿羅耶識」の覚醒の可能性が有り得るのだとしましたら、
【シュレディンガーの猫】の解釈はどうなりますか?

補足日時:2011/05/20 07:17
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「発見する」などというのは、たくさんある物理的相互作用の中の、可視光線というたった一つのものに過ぎません。


例えば、重力は到達距離無限大で、しかも反重力はないので打ち消す事も出来ないので、(精度は別にして)全く情報を遮断する事などできす、「シュレーディンガーの猫」は、思考実験に過ぎません。
ただ、それは、現実でないものの再現ではなく、素粒子レベルの話をマクロに射影したら、という仮定なのです。
原理的レベルの現象と、階層現象性の表面的な現象の、どちらが「現実」かについては異論があるかも知れないが、少なくとも原理的に確率的実体に基づいている事は否定出来ない。
(「シュレーディンガーの猫」の実験の面白さによって、その可否の議論を見かけるが、大した意味はない)

この回答への補足

有り難う御座います。

矢張り、重力波の影響は盛り込まれていないのですね。

他の方が【シュレディンガーの猫】の話題に言及なさっていますが、
「箱の重心の変化で猫の移動の有無が分かるであろう」との事情を、
私が提案しましたら、其処には返事が御座いませんでしたので、
重力の影響は関係しないのか、と誤解してしまっていました。

補足日時:2011/05/20 07:24
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そりゃそうですよ。



・自分自身が死んだことを、医者が「ご臨終です」と家族に伝える。そこで初めて死が確定する

・自分自身が自殺を図り断崖から飛び降りる。遺体が第三者の手で発見され、自分自身(本人)である確認が取れて初めて死が確定する

・死亡診断書は医者が書く

・死亡推定時刻は司法解剖によって明らかにされる

・葬式は家族が出す

・家族がいなければ無縁仏となりお寺さんにより手厚く供養される  エトセトラ


全部、自分以外の人間がする事です。特段に難しく考える事も無いんじゃないですか?

この回答への補足

明確に分析を行なって下さいまして、誠に有り難う御座います。

因みに、此処では、「阿羅耶識」の妥当性の検証の為に、
【シュレディンガーの猫】の事例を引用させて頂いておりますので、
仮説でも構いませんから、主観が何処で消えるのかを教えて頂けないでしょうか?

補足日時:2011/05/20 07:29
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この回答へのお礼

別ページ(http://okwave.jp/qa/q6800988.html)でも御教授を賜れますと、非常に助かります。

お礼日時:2011/06/13 16:26

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