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明治維新は各藩の偉人がビジョンをもってうまく成功したのだと思います
なぜ日清戦争からずっと戦争をするよになったにでしょうか
維新時代の人がいれば、戦争は回避するような政策をとったのではないかと
感じるにですが、どこからー戦争路線になったのでしょうか?
また、軍が何故力を持つようになったのでしょうか?

A 回答 (3件)

維新時代の人たちが明治政府をやっていたから拡大策を取り、日清日露と戦争をしたのです。



日露戦争が終わるまで、政府の中で元老と呼ばれ天皇を指導する立場にあったのは伊藤博文と山縣有朋です。この二人は、長州人で維新の志士の生き残りです。幕末に二人を指導したのは吉田松陰ですが、松陰は次のように言っています。

今急武備を修め,艦略具はりキ略足らば,則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し,間に乗じてカムチャッカ・オホーツクを奪ひ,琉球に諭し,朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ,古の盛時の如くにし,北は満州の地を割き,南は台湾,ルソン諸島を収め,進取の勢を漸示すべし.然る後に民を愛し士を養い,慎みて辺圉を守らば,則ち善く国を保つと謂ふべし『幽囚録』

簡単に訳すと・・・(今の日本には十分な武力はないが)、今後軍備を増強して、北海道を開拓して国土に組み入れ、カムチャッカ・オホーツクを奪いとり、沖縄を支配下に入れ、国内の勢力をまとめて朝鮮を占領し、豊臣秀吉のようにして、北に進んで満州を占領し、南に進んで台湾やフィリピンを占領し、国土を広げよう。こうした後で、国民を大事にし、兵隊を育成して国境を守ってこそ国家の安全保障ができる。

読めばわかるとおり、明治政府はこのシナリオに従って帝国の拡大を図ったのです。つまり維新時代の人たちが明治政府をやっていたから戦争をしたのです。

軍が政府(国会や内閣)を超える力を持つようになったのは、伊藤博文が暗殺され山縣有朋が最後の元老になったことが大きいです。山縣は帝国陸軍の創設者であり、政府が軍に口出しをすることを嫌っていました。

伊藤が生きているときは、明治天皇の伊藤への信任が厚いこともあり勝手はできませんでしたが、伊藤が殺され明治天皇が崩御したあとはやりたい放題で、シベリア出兵の時に統帥権の独立を盾に政府に従おうとしない上原参謀本部長を内閣が更迭しようとしたときに、これを押しとどめて軍の勝手を通してしまいました。
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そもそも戦前の日本の体制は陸海軍が並列な上に、政治的にも独立性が強く対外戦争には不向きなものです。


これは明治維新政府の権力基盤が弱体であったが故に、権限を分散して一気に体制をひっくり返されないように意図した
ものだと言われています。
この体制の不備を補うため、日清・日露戦争では伊藤博文や山県有朋などの元老が、言わば超法規的に陸海軍、及び政府の意思統一を図りました。
しかしながら「明治維新の功臣」という元老のカリスマ性に頼った体制が長続きするはずが無いのは自明の理ですが、皮肉にも日清・日露戦争に勝利し、日本を大国の座にまで引き揚げた事によりこの不備のある体制はそのまま維持されてしまいました。
戦後の日本で言えばいわゆる「銀行の護送船団方式」「土地本位制」などの経済体制が不備を抱えつつも日本を世界屈指の経済大国に押し上げた事により、その制度疲労が見逃されてしまった事と相通じるところがあります。
もちろん戦前の政治家も元老亡き後の事は考え「軍は政治面では政府に従属する」という考えが、昭和初期まで主流となりました。
ところが昭和6年のロンドン軍縮条約調印の折りに当時野党であった政友会の犬養毅や鳩山一郎が「軍縮条約調印は統帥権の干犯である」として政府を攻撃しました。
実は犬養も鳩山も軍縮には賛成の立場であったのですが、ただ政府の足を引っ張る為に問題を大きくしたのですが、この結果「統帥権」は一気に拡大解釈されるようになり、これ以降議会で軍を統制しようとすると「統帥権干犯だ!」と揚げ足をとられる事になってしまい、議会も政府も軍の統制が出来なくなってしまいます。
このような見苦しい足の引っ張り合いは当然ながら、議会や政府の信頼を損なう事になり、また当時は政治家の疑獄事件が頻発するなど、昭和10年頃には議会や政党政治は国民からの信頼を失ってしまいます。
その一方で「統帥権の独立」を盾にとって行われた「満州事変の成功」が日本の世界恐慌からの脱出に大きく貢献したことから、国民の支持は軍部に集まり、それが軍の権力へと繋がります。
つまり軍部が力を得たのは
「制度の不備がその成功故に放置されてしまった」
「近視眼的な政党政治家による、議会における目先の勢力争いの為に、制度の不備が更に拡大されてしまった」
「制度の不備をついて行われた『軍の暴走』が一時的にせよ成功を収め、国民の支持を受けてしまった」
と言った要因によるものです。
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世界史の視点で考えると、第一次世界大戦までは、主要国同士の極めて戦争の少なかった時代。



1853年 クリミア戦争
1861年 南北戦争
1866年 普墺戦争に伴い、イタリアも参戦
1871年 普仏戦争によって、ドイツ帝国成立
1877年 西南戦争によって、西郷隆盛没落

1894年 日清戦争
1899年 ボーア戦争
1904年 日露戦争
1912年 バルカン戦争

1815年のウィーン体制確立によって、欧州内の主要国同士の戦争は少なくなります。
それから50年かけて、欧州・アメリカ・日本を含めて国民国家づくりの戦争が頻発します。日本は幕末にその歴史の動きが欧州にリンクされます。あるいは言い方を変えると、19世紀後半の国民国家づくりのタイミングに間に合って世界史に登場した。
この後、しばらく戦争は休止します。
国民国家にして産業革命経験国家が、そうでない国に支配圏を広げる時代なので、国民国家同士は戦争をしない。
ベタに言うと、ドイツはフランスを攻めて領土を広げるよりも、列強同士で協調してアフリカを分割したほうが、コスト効率がいい。オーストリアもドイツにリベンジするよりもバルカン半島に支配領域を広げるほうが効率がいい。
19世紀も末になると、またぞろ、再分割が必要になってくる。
もう分割するアフリカもアジアもなくなってきたので、他人(他の列強の支配圏)を盗りたい。
すでに日本はこの世界史の大きなな動きの中に組み込まれていましたので、俺だけ戦争しませんなんて言っている場合ではない。お互いに喧嘩を売り始めた時代ですから、列強が。
維新の偉人がとかの属人的な状況ではない。

最近の世界史の見かたとして 1904年の日露戦争から1945年までを、長い世界大戦の時代とみる史観もあります。
つまり、1872年の普仏戦争によって、一旦収束した列強同士の戦争がここから再開したという意味で。
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