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賤ヶ岳の戦いの初戦、大岩山砦の中川清秀を、佐久間盛政が奇襲攻撃を仕掛け、激戦のすえ、清秀の自害で幕を閉じました。
さて、この戦死した中川清秀の妹が嫁いだ先は「古田左介(織部)」ですが、この中川清秀(義兄)が大岩山砦で戦うとき、「古田左介」はどこにいたのでしょう。
また実際に戦っていたのか、使番の役目であったか。
或いは、そうした史実はなにもないのでしょうか。
天正11年4月20日の前後の古田左介の様子を、教えて下さい。
あわせて出典も教えて戴ければ助かります。
宜しくお願いします。

A 回答 (3件)

1579年 丹波攻め


細川藤孝の部下で その後信長配下
※ そーすは へうげもの11巻のおまけ 綿考輯録からの孫引きとなるがどこまで正確かは不明


天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城の滝川一益を攻め
WIKIPEDIA 古田織部
同 細川忠興も参戦
同 中川清秀は不明

1583年 3月 11日
羽柴秀吉、三好秀次、中川清秀等をして、美濃口に陣せしむ、
岐阜県古文書類纂

天正11年4月20日
柴田勝家の将佐久間盛政、羽柴秀吉の将中川清秀を近江大岩山に襲ふ、清秀、奮戦して之に死す
中川家譜など

細川忠興は、丹後

正月の伊勢亀山攻めに 中川清秀は参戦していないようです。
というのは、伊勢亀山攻略は直接の軍功がなくても、羽柴方の勝利なので、家譜あたりに残りそう。

なので 天正11年4月段階では、細川忠興配下あるいは、細川忠興の目付として丹後にいたのではないかと推測します。
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この回答へのお礼

「細川忠興配下として丹後にいたかと推測」
ということはやはりこのときの消息は不明なのですね。
それが判明するだけでも、大変有り難いです。
詳しい記述をいただきありがとうございます。

お礼日時:2011/05/27 01:29

補足資料




天正10年12月13日
長岡藤孝、其子忠興と共に、兵を率ゐて、近江に之く、
兼見卿記
松井家譜

天正11年1月是月
伊勢亀山城主関盛信、同一政父子、羽柴秀吉に見えんとして、京都に之く、家臣岩間八左衛門等、叛きて瀧川一益に属す、一益、乃ち其臣佐治新介をして、入りて亀山城を守らしむ、
天正11年3月3日
伊勢亀山城攻囲の中に在り、守将佐治新介、城を羽柴秀吉の兵に致して、長島に退く、秀吉、北畠信雄を亀山に迎へ、蒲生賦秀氏郷等をして、益峰城以下の諸城を攻めしむ、
ソースはいろいろ

天正11年3月27日
羽柴秀吉、長岡忠興をして、越前を衝かしむ、
細川忠興記
細川忠興軍功記
細川家記
松井家譜

古田左介は伊勢亀山城攻略戦に参戦していて、中川清秀が伊勢亀山に参戦していないようなので、

天正10年末から天正11年4月の賤ヶ岳の戦いのころまでは、忠興と同行していたのではないかと。
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この回答へのお礼

「忠興と同行していたのではないか……」
となれば、佐介は死に目にあえなかった。
もしくはすぐに駆けつけることができないところにいた。
との可能性が高いわけですね。
証明する史料が現存していない、
と断定してよいのでしょうか。
それが判明するだけでも大変有り難いのです。
丁寧なご教示をいただき有難うございました。

お礼日時:2011/05/27 01:36

古田織部は戦死した中川清秀の嫡男、秀政の後見人を務めたとありますからやはり参戦していたとみられます。



下記の資料からの孫引きです(^_^;)

参考URL:http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.furu …

この回答への補足

早速のご教示有難うございます。
しかしながら、「後見人を務めた」だけでは、
参戦の確証には、たりえないと考えます。
また、お気づきのことがございましたら、
宜しく御願い申し上げます。

補足日時:2011/05/26 21:25
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