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 日本語を勉強中の中国人です。日本の方は物事を言う時に、なぜ直接に言うのを避けていて、遠まわしに言うのが好きでしょうか。なんとなくそういう傾向があると感じています。ストレートに物事を言うのは日本では不躾だとされているのでしょうか。日本の方をよりよく理解したいと思います。悪意がありません。

 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (15件中1~10件)

日本は狭い中での人口密度が高かったことと、世界的に見ても早く(江戸時代?)から庶民レベルで情報網やメディアが発達していたこともあり、大衆の間で「共通意識」というものを共有する文化が発達したように思えます。

つまり簡単に言うと、「みんなで同じ気持ちになれることが多い」ということです。


そういったことから。
日本には「空気を読む」という言葉があることからもお解かりのように、相手の少ない情報(態度・様子・発言など)から、相手のもっと深い意図(本心)を読み取るということに長ける国民性になったようです。
これは、「100まで語らずとも、気を利かせる」という、相手への礼儀にも繋がっているかもしれません。逆に言うと、日本において「100説明しなければ解らない人」というのは、「気が利かない」とか「頭があまり良くないのでは」等という悪印象を持たれてしまうのも事実です。「空気が読める」というのはまさしく日本人にとって「知性」であり「美徳」なのですね。

勿論、どんな国にも言語にも「言いにくいことを遠まわしに言う」というコミュニケーション文化は必ずあります。
ただ日本人の場合、前に述べた性質から、これがさらに漠然とした表現でも、互いに意思疎通出来てしまう土壌があり、ますます「言いにくいことは、極力遠まわしに」という流れが加速したのではないかと推察されます。


勿論、当の日本人からしてみれば、そういう表現が「漠然としている」等と思って使っている訳ではなく、まさしくそれが「断言」だったり「ストレート」だったりするのです。
中国人なんかの自己主張の強さやストレートな表現が、むしろ日本人からしてみれば驚きであり、海外と接して初めて日本のコミュニケーション文化の特異性に気付かされるということが多いのも事実ですね。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 18:39

確かに僕も不思議に感じますね。


英語とかはズバズバ言うイメージがありますが、確かに日本語ではそういうのがあまりないですよね^^;
やはり「ストレートな物言いで人を傷つけないようにするため」っていうのがあるんだと思いますね。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。英語と日本語の感覚はぜんぜん違いますね。会社に欧米の方と日本の方と両方いらっしゃるので、日々文化の違いをじみじみ感じております。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 20:48

確かに遠まわしに言うことが多いかもしれませんね。



理由はいろいろあるとは思いますが、私は、相手に恥をかかせないためかと思います。
そのために、遠まわしに発言し、相手に気付かせるように仕向けているのではないでしょうか。

こうやって改めて考えてみると、文化って面白いですね。
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この回答へのお礼

 ご丁寧に教えていただきありがとうございます。とても参考になりました。おもしろいと思います。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 20:43

これは、評価に関する事柄でしょうか。


その場合、日本人が遠まわしな表現を好んで使うのは、『相手を傷つけないための配慮』と考えるのが自然でしょう。相手の欠点や非をそのままずばり述べてしまうと、相手がショックを受けるからです。
また、相手を有頂天にさせないための配慮、という面もあるでしょう。ずばり相手の長所や良を述べてしまうと、相手が舞い上がってしまうからです。
そういった極端を避けるために、遠まわしの表現を使うのでしょう。

他には、自分の意見に自信がない場合に、ああだこうだと遠まわしな表現を用いる場合があります。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。評価の時だけではないような気がします。いろいろとても参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 20:38

単なる謙譲です。

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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 20:35

淡雪さん。

こんばんは。お久しぶりです。

日本人が大切にしている(?)
「遠まわしの言い方」というのは、
口紅や真珠のネックレス、ダイヤモンドの指輪
など、装飾品のようなものだろうと考えています。
無駄で厄介で面倒でもあり、
内面(の不安など)を隠すために便利でもあり、
娯楽でもあります。


どれぐらい昔のことかは忘れましたが
日本(霊の元(ひのもと))という島の民は、
神(?)を恐れることができたため、
人と人との間にはそれほど優劣の概念はなく
支配服従という概念もそれほどなく、
だれよりも強い者になろうという発想もなく、
各々が持つ、神(?)への恐れ自体に安心し、
ものを言い合い平和に暮らしていたようです。

ところが、
これまたどれぐらい昔のことかは忘れましたが
霊の元という島の優秀(?)な民が、
この世界は島として孤立していることを知り、
「淋しい」「怖い」という感覚をを覚えたのか、
大陸と交わっていろいろなものを輸入し、
必死でどんどん真似をするようになりました。
そうして大陸から習ってきたことを
木霊のように島の外に向かって放るようになり、
権威(のようなもの)を顕示するようになりました。

「淋しい」「怖い」のであって、
悪意はないのですよ。たぶん。

たしか1300年ぐらい前だったと思いますが、
その島の民はずいぶん中国の真似をしたようで、
長安にそっくりの形に平安京(?)を作りましたし、
「仏教(?)という教え」も中国から持ち帰り、
主に、道具として、昔も今も使っているようです。

習ったことを都合よく調理して、
ありがたく使っているのであって、
悪意はないのですよ。たぶん。


そんなころだと思うのですが、
この島の民は神(?)への恐れを忘れて行き、
不安定になり、その不安定さを、
主に(飾る・威張るなどの)【形】によって
払拭するようになったのではないかと思います。
もしかしたら払拭できているつもりになっている、
というだけのことなのかもしれません。

神(?)への恐れを忘れて行ったのは、
上記のような外国からの影響もあるでしょうし、
また、外国とは関係なく、
(これもどれぐらい昔のことかは忘れましたが)
この島では「米を育てる」という作業が始まり、
それ以来、人々は「わたし」というものを見つけ、
この場所は「わたし」の縄張りなので守ろう、
さらには「わたし」の縄張りを広くしてやろう、
と考え、物理的に優位に立つことができた人が
たまたまいたから、ではないかと思います。

忘れているのであって、
悪意はないのですよ。たぶん。


しかし、忘れているのは事実ですから、
(飾る・威張るなどの)【形】をいくら使おうが、
結局、不安から解放されることはできず
(そのことに多くの人が気付いてはいるようですが)、
とりあえず不安から逃れようと、
さらなる【形】を使ってきた結果、
このように遠まわりするのが習慣となり、
その習慣が(ずいぶん淡くなったように思いますが)
残っているように思います。


しかし、この島の人たちは、この「遠まわり」を、
化粧や装飾品と同じように
「娯楽」として使うことも覚え、
実際楽しんでいる場合もあるように思います。

敵に襲われないための「遠まわり」だけでなく、
「月がとっても青いから遠まわりして帰ろう♪」
という歌もありますし。

「目病み女に風邪引き男」という言葉もあり、
無駄なものを楽しむ能天気さのようなものも
「遠まわり」から養ってきたような気もします。


思ったことを乱雑に書いてまいりました。
当方は「遠まわり」については好きでも嫌いでもなく、
面倒なときは近道をし、
何となく気が向いたときに「遠まわり」をします。



添削はしませんが、わたしなら、質問の題名欄に、
「日本の方々が遠まわしな言い方を好むのはなぜですか」
と書きます。それでは。 
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この回答へのお礼

 この度は本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 20:33

そうですね。


全ての要因を挙げることはできないかもしれませんが、わたしなりに述べてみます。

1400年ほど前に聖徳太子が作った 十七条の憲法 は「和を以って貴しと為す」という言葉で始まっています。
これは貴国の「礼記」「論語」が出典のようです。
当時の憲法の最初の言葉が「和を以って」であることが、ひとつのヒントになるでしょう。
聖徳太子について、以下ウィキから抜粋してみます。
『推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。』

この 十七条の憲法 が制定された当時の日本は、国内的には血なまぐさい各種の政争が起こっていた時期であり、また、国際的交流が盛んになり始めた時期でもあります。
「和を以って貴しと為す」は国内融和を図り、対外的にもしっかりとした外交をするために必須の要素であると彼は考えたのだと思います。

このように、天皇を中心とした中央集権国家が、島国という地理的要因と相俟って、和の必要性を強く認識させる国民感覚を形成していったように思われます。
周囲を海に囲まれた狭い島国であることは、求心力を必要とする風土を生み出しているでしょう。

和の基本は相手の意見の尊重だろうと思います。
ただ、相互理解のためには、自分の意見を相手に理解してもらうことも必要です。
日本の場合、和を尊重する必要性が強すぎたために、自分の意見を主張することによる和の乱れを怖れる傾向が強かったのだろうという気がします。
そのために、ストレートに物を言わず婉曲的に話すのが美徳とされる文化が醸成されることになったのでしょう。
最近の若い方々に関しては、そのような要素は大分薄れてきているように思います。


1.
>日本の方は物事を言う時に、なぜ直接に言うのを避けていて、遠まわしに言うのが好きでしょうか。
→日本の方は【物を言う】時に、なぜ【直接的】に言うのを【避けて】、遠まわしに言うのが【好きなのでしょうか】。

a.
「物を言う」という表現のほうが自然です。

b.
この文脈では、「直接に言う」という表現は適切ではありません。
「直接的に言う」が自然です。

c.
「なぜ」は、「避けて」と「遠まわしに言う」両方に掛かっていますから、一方だけ「避けている」と継続を表わす表現をすると不自然になります。

d.
「好きでしょうか」でも間違いではありませんが、
原因や理由を尋ねる場合には「のでしょうか」という表現をお使いになると自然になります。
「好きなのでしょうか」とすると良いでしょう。
因みに、
原因や理由を答える場合には「のです」という表現をお使いになると自然になります。

2.
>悪意がありません。
→悪意【は】ありません。

今回のご質問内容の場合は、
「悪意に関して述べるならば、それはありません」
「悪意についても念のために触れておきますが、それはありません」
などの意図で、
「悪意」を主題(話題)にして「悪意は」と表現するのが自然です。
    
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。質問文の添削にも感謝いたします。これから気をつけます。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 20:20

島の住人は、島から逃げることができないために、島の住民同士の対立を表面化しないようにするのです。

ですから、このような文化は、英国にもありますし、台湾やスリランカの人々も基本的に日本人と類似した表現をするものだと思っております。

一方、大陸は、ある場所で対立し、その対立に負けても、いくらでも逃げてゆく場所があると考えられますので、対立の表面化を避けるよりも、むしろはっきりと対立する(自己主張する)ことで、わかりやすいスタイルをとるようです。

これは、大陸民族のフランス人や中国人などに共通の性格ではないでしょうか。

もう一つの要因は、狭い島国にすんでいると共通の情報・共通の認識(これを一般常識と呼びますね)が普及するので、あいまいな表現をしても、明言されない部分を双方が補うことが可能ですから、コミュニケーションが成り立ちますね。

一方、パリの住人と、コートジボアールの住人では、フランス語だけは共通ですが、日常の情報や認識に共通部分が少ないですから、あいまいな表現をしていては意思疎通ができなくなってしまうでしょう。ですから、フランス人や中国人で大陸に住んでいる人びとは、あいまいな表現を避けて、直接的な表現を使用せざるを得ないのでしょう。

日本人やイギリス人は地球上の国境の壁が低くなった現代においても、あいまいな表現、婉曲な表現を好んで使うものですから、地球化の時代にはついてゆけなくなってしまうのですね。たまたまイギリス人は自分たちの言葉が世界に普及したので優位を保てるのですが、開放性に欠くという点では日本人と大変よく似ていると思います。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。イギリス人も曖昧な表現が好きようですね。まったく知りませんでした。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 20:13

日本文化の根底には、「ジャポニカ米稲作農耕文化」=土地に


定着し、労働集約的な通年の作業で収穫を得る(単位収量が
多く人口密度が高い)ために、協調性の高い集団主義的文化と、
「島国文化」=固定的で閉鎖的なコミュニティによる、遠慮や
思いやりといった自己抑制的文化の重なった、世界でも稀な
強力な集団主義的性格がある。

大陸的(自己主張)&遊牧文化的(自分勝手)な、議論好きで
自我のぶつかり合いによる妥協点の模索という方法論は、
閉鎖的な狭いコミュニティや、計画的な協調作業の求められる
社会において機能を阻害する。
そこで、相手の気持ちを思いやり、自主的に自己抑制して社会
行動をとるべく、「以心伝心」「不言実行」「沈黙は金」といった、
「後ろ姿で語る」「言われなくてもやる」慣習になったのだ。
そこで敢えて「ストレートにものを言う」のは、そうしたルールを
乱す事であり、集団の異端者となるのだ。

中国でも、江南地方になるとジャポニカ米稲作農耕が盛んで、
多少協調性がある(大陸的な自己主張性が伴うので日本ほど
ではないが)ので、工業化における大量生産の集約労働に
転用でき、北部に比べて工業化が早かった。
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この回答へのお礼

 ご丁寧に教えていただきありがとうございます。とても参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 20:06

まず、素晴らしい日本語で驚きました。

聡明な方なんだろうと思います。このような分野の専門家ではございませんが、独り言と思って読んでみてください。

私ども日本人も遠回しな言い方をしているなと自覚しています。一番の原因は日本が島国であるということではないかと常々考えています。地形や天候はその環境下にある文化には考え方に影響を与えます。その考え方に基づいて言語が発せられます。

仮にご質問者さんが周囲5km程度の島に住んでいて100人ほどの人しか住んでいないとしたら、どんなことが起こると考えるでしょうか。まず考えられるのがお互いをよく知っているという横のつながりをいつも感じる環境を想像できると思います。このような環境ではAさんがBさんに何か話したことは、遅かれ早かれ島民100人の方の共通の認識になります。このようなことが繰り返されますと、ある考え方がより強調されるような社会になります。たとえばごあいさつするときは腰を70度程度に曲げなければなりませんと誰かが言って実行すると、いつの間にかそれがあたかも島の文化であるがごとく、強制力を持ち始め、さらに繰り返してゆきますので、さらなる強制力を生み出してゆきます。

日本は長い間農業国でした。春と夏の間に梅雨があって、たくさんの雨が降ります。この時期は田植えの時期となります。この雨が終わる前に人々は田植えをしなければならないので、農民は皆さんこの時期に助け合って自分の田んぼ、他人の田んぼにも手伝いにゆきます。ここに家族でもないのに家族のような付き合いが生まれてきます。日本では人間関係が濃密です。そのような環境は島国であり、天候に依存する農業国であった長い歴史により育まれてきました。

日本語でのコミュニケーションは一言話して10を伝えることができるほど、お互いに共通の認識を持っていますので、人々は単刀直入に述べる必要がないということが第一に言えると思います。CさんがDさんにそろそろ稲刈りをしようかなといえばDさんは明日はおにぎりを持ってゆくことにしようとつぶやくと、Cさんがそんなに気を使うなよなどと言います。単刀直入にいえば以下のような会話です。

C:明日稲刈りがあるのでてつだってくれ、
D:昼飯はどちらで用意する?
C:俺のうちで用意するから心配するな、

日本語では主語がほとんど用いられないという理由も高度の共通認識によります。第2の理由としてはその言語にあるように思います。日本語は長い間続いて封建制度のもと、言葉を間違えると命が飛ぶような非常に抑圧的な社会が長く続いたという歴史がありますので、おのずと、直接的な物言いは避けてきたのではないかと思います。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。興味深く拝見させていただきました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2011/06/19 19:27

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