子供たちが病んでる。それは学校が病んでるせいだ。学校の病が、子供達を、突発的な暴力に、あるいは自閉症的な内向においやっているのだ。ほとんど毎日のようにこの種の紋切り型ほどいらだたしいものはないです。それとともに語られる「学校のあるべき姿」というのも、ほとんど時代遅れのステレオタイプの反復にすぎず、

そもそも、「あるべき姿の学校」などというものは歴史上いつどこに存在したというのだろうか。私達の考えるような学校というものは最初から大変な無理をかかえこんだものではなかったのか?今この時代が経験しつつあるのは、学校の病である以上に、学校という病のひきおこした末期症状なのではあるまいか?

学校は大変な無理をかかえこんでいました。現在その無理をささえることが、できない状態です。学級崩壊を、先生、生徒のせいなのですか?

A 回答 (15件中1~10件)

人間も自然の一部分.


自然から人間が乖離し始めた当然の結果.
教育の仕方がどうのといった小手先の問題ではない.
いじめの質が陰湿なのも同根.

いじめなどなくなるわけがない.
大人の社会で自由に闊歩しているのだから.
それが解らなかったらよっぽど無神経かいじめている張本人だろう.

質が変わっただけ.
おおらかさがないのもみいんな同じ.

誰のせい?
誰でしょうね.
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 これで回答は最後です。

学校が崩壊している、それは今に始まったことではありません。いつでも崩壊しています。人が人を教えると言うことは、それ自体が欺瞞です。むしろ、必要のないことなのです。しかし、あえて教育を受けた方が、100人の人間にとって良いのです。教育はたった一人の天才を生み出すためのものではありません。天才は、しかも、99人の凡人がいて意味を持つだけのことで、それ以上の何の意味もありません。
 これは、もっとも典型的な「教えるー教えられる」という欺瞞に満ちた例ですが、言葉を話せない人は、感情や理性をもっと良く伝えるために、手話とか点字とかを習わねばなりません。必要に迫られる以上、仕方がないのです。だからと言って、誰が、そこで教えられたことが、必ずやその人を幸福にする、と誓えるでしょうか?
 しかし、不幸になっても、私は知った方が良い、と考えます。そこには様々な強制が働きます。強制する人は、そこにおびえながら「教えなければいけないのです」。
 そうした意味をかみしめることは、大切なことです。そうして初めて、人は
「教えるー教えられる」という連鎖が「教えられるー教えられる」という連鎖であったら、どんなに気が楽か、と思い知らされるでしょう。
 どこかの有名人が「学校は必要ない」と言った。
 そういうことは、論議と一切関係のない問題です。あなたは何故、「学校」が必要ない、と自信を持って語るのですか?
 そして、私が「人殺しまで起こっている学校に対して、それでも必要だ」と言っている意味、「人殺しはこうやって削減したい」という論議に何故加わらないのですか?
 それから「学問の中心」はどこか?私は「学校」にはない、と何度も語っています。
 あなたもわたしも「99人の凡人」だ、ということを喜び合う必要があると思います。

この回答への補足

ひと殺しはこうやって削除したいという議論にのれば、学校という空間は、人と人との物理的な距離、精神的な距離がすごく近いです。10メートル四方に、40人の子どもがいて、8時から3時ぐらいまで、その中にいる。こんなことは、会社や現実にもまれで、特殊性にみちています。人と人の距離がちかずくと、暴力的になることです。その暴力をのりこえるてめに、組織化と秩序が必要になります。組織化と秩序が生成する過程において何ものかを、排除する暴力的作用がみられます。

眠いので明日書きます。

補足日時:2001/05/06 00:55
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この回答へのお礼

学校、病院、お寺は、そもそも無縁の場所で、外の世界で、日本語のわからない外国人、病気の人、罪をおかした罪人などを受け入れて、もう一回外の世界にだす。もう一回外に出る時は、病気は癒され、罪をつぐない、外国人は、日本語をしゃべれるようになる。学校、病院、お寺は、外に開かれたアジール空間として機能するなら学校は必要だと思います。しかし「教えるー教えられる」という権力関係があまりにも長期間継続するのは修羅場とかしてるんじゃないでしょうか。

学校、病院、お寺などは、外の世界から逃げ込んで、隠れられる空間というのが健全な学校の姿だと思います。

お礼日時:2001/05/06 00:53

 あなたの言われるとおり、学校は神話です。

あなたがそう考えることもあなたに
とっての神話です。人は愛する愛さないにかかわらず、神話を描いて生きていきま
す。いや、生かされている、といった方が良いでしょう。
 私が、「学校」に望みたいことは、「生きる最低限の機能訓練です」当然、教師
が語る「人生論」には意味がないと思っています。
 その上で、私が望みたい=神話したい、のは、学校でナイフをふりかざしたり、
人を傷つけたり、人の身体上の欠陥を言い合って、誰もそれを止めない事実です。
 今、学校は、私たち一般人が考えている以上にすさんでいます。生命の危険が
あふれています。学校はそうした実態にありながら、「警察導入」をためらってい
ます。
 しかし、そうは言っても、いまの社会において、「差別」があり、人はここで
様々なことを諦め、「テキトー」に「平凡」に生きることが、「ボチボチ」なんだ
ということを知る場所は、「少年の矯正施設」でもなければ「児童保護施設」でも
ない、ましてや「家庭」でもない、という事実です。
 好き放題、自由闊達、素晴らしい言葉です。しかし、それは、同年代の少年少女
と触れあい、喧嘩をしあうなどする、という経験を通してしか学ぶことが出来ない
のです。なおかつ、日本は、これを「税金」という形で保障しています。
 「学校」がなくなることは「差別」の拡大で、金のあるもののみが、自分の子ど
もを「教育」出来るようになります。
 「社会的偏見」=(常識で判断してください)は、知識と同じく必要な学習事項
です。それでなければ、人は、他人を傷つけるのは気持ちよいが、自分が傷つけら
れるのは、気持ちの悪いことだ、ということすら、わかりません。
 最低限、近代的な人として自律する知識は必要です。貧乏な子どもが、貧乏で終
わらない奇跡も知識には隠されています。そして、それは、現在のところ、今の
学校というシステムが保障をしている、ということです。
 「学校」なんてなくなれば良い、という論理には、「子どもは生きているだけで
素晴らしい存在だ」という学卒の新米教師の楽観主義です。
 「子ども」はそれだけで実に手強い相手です。だからこそ、私たち大人が悪党に
なって、「じっと耐える必要性」「挨拶をする礼儀」、あってもなくても良いこと
を教えてやらねばならないのです。
 そして彼等が大人に成ったとき、「この悪党!」と怒られたら、じっと黙って反
省していれば良いのです。
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この回答へのお礼

こんなに無理なシステムがなぜ動いてるのか不思議です。壊れるべき物は、壊れるべきだと思います。天才がなぜ学校から生まれてないのか?野球だったら、イチローは、コーチの言うフォームで打ってないし。映画監督の青山真治は学校からでてないし。矢野顕子、坂本龍一、村上春樹、彼らは、学校教育を必要としていない。そのような、知識のあり方。人生の可能性はあると思います。

最低限、近代的な人として自律する知識は必要です。貧乏な子どもが、貧乏で終 わらない奇跡も知識には隠されています。そして、それは、現在のところ、今の 学校というシステムが保障をしている、ということです。

このことも終身雇用がささえてた考えと思います。例えば、インドに言って、僕、東大卒だけど、仕事あるって言っても、パードンって、言われるだけで。学校というシステムが保証してる学歴は、日本だけでしか通用しないことだとおもいます。どこでも通用する実力と学校を結び付けるのは、あまりにも、学校を信用しすぎです。

寺小屋っていう江戸時代の教育のシステムがあったし、論語の孔子みたいに、師匠の家に集まって、師匠と雑談してもいいし、図書館でかったぱし本を読んでもいいし、学問の可能性の中心は学校にあるとは思えません

お礼日時:2001/05/05 01:04

 学校ってなんなんでしょう?


それは、もちろん勉強する場っすよね!
教育水準の向上。

 学校の付加価値ってなんなんでしょうか?
それは、共存するうえで大切なモノ学べることだと思います。

 話は、ぶっとびますが、共存リスクってあるじゃないですか
例えば、お金が欲しい銀行強盗が行員を襲って金を奪う
そして行員の生命すら奪ってしまう。これは、人間の欲が生む
共存リスク。

 そして、過失的なリスク。車で運転してたらハンドル操作をあやまって
人をはねてしまった。

 人間と共存してるとさまざまなリスクがつきものです。

話をもどしましょう。

 学校において、多くの人たちと集団で勉強をして
喧嘩して泣いたり、笑ったり、多くの
共存リスクそして多くの共存してるからこそ得られる
楽しさや、喜びをしるとおもいます。

 僕は学校という場が、共存してるうえでの
共存の仕方を身をもって学べる
義務教育の期間を人間の一生の時間という中で
もっとも大切な時間だと思います。

 では本題に入りましょう。

 学級崩壊ってものが何故、起きるか?
人間というのは、変なふうに受け止めてほしくないんですが
「動物」なんです。動物が仲間(人)と共存するため
に最初につく教師が親なんです。親から共存するための
ひとが共存リスクを緩和するためにつくった時代時代のルールを
教わります。

 ですが、どうでしょう? 親=最初の教師は、どれだけのことを
教えてるのでしょうか? これは僕の私見ですが 最近の親が子供なので
人生最初の教育というものが成立してないと思うのです。

 そして学校という場に直面し、果たして子供達は
どういう行動にでるでしょうか? まっ これも一つの
学級崩壊に対する要因と受け止めていただきたい。

 もう一つの要因、これが一番ネックかもしれません。
教師というのがいろいろな犯罪をやりすぎている
誤解しないでいただきたいんですがあくまでも、少数の教師です。
ですがマスメディアの普及にともない、小数の教師の
行動がテレビや新聞で取り上げられ、ワイドショウやなんかで報じられ
人々は、その少数の教師が自分の子供をうけおってる担任だったら
という不安をかんじます。

 教育において、多少の暴力は必要不可欠です。
ですが現状が現状なだけに多少の暴力が大きな反感をうみ
一人歩きをしはじめ、社会問題までに発展してしまいます。

 こんな現状下、前述した「親に最初の教育をきちんと受けなかった子供」を
制御することなどありえない話です。
他にも連鎖的な要因がありますが、後者の要因をなんとかできれば
学級崩壊なんてものは、なくなります。

 このような社会現象をなんとかする
それも、今ここに書き込みをしてる方々の課題に
するのもいいかもしれませんね!

 みなさんの書き込みを見てたら胸が熱くなりました。
これだけの熱意があればきっと抜本的な解決方法を
みいだせるはずですよ!!
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この回答へのお礼

マンザイでいうボケ、ツッコミの方法で答えます。

学校ってなんなんでしょう?
それは、もちろん勉強する場っすよね!

あほか、近代教育は、学問と学校が共存したことなんてないねん。

学校の付加価値ってなんなんでしょうか?
それは、共存するうえで大切なモノ学べることだと思います。

共存の意味知らんのか。嫌いな奴でもそれなりにうまくやるのが共存やで。仲間内のナアナアでやってるのは、共存ちゃうねん。

学校において、多くの人たちと集団で勉強をして
喧嘩して泣いたり、笑ったり、多くの
共存リスクそして多くの共存してるからこそ得られる
楽しさや、喜びをしるとおもいます。

ありもしない物語かったて、あほちゃうか。そういうのを、紋切り型って言うねん。

 僕は学校という場が、共存してるうえでの
共存の仕方を身をもって学べる
義務教育の期間を人間の一生の時間という中で
もっとも大切な時間だと思います。

縄文時代は共存していませんでした。義務教育がないから。弥生時代もね。もちろん平安時代はもちろん。江戸時代は、義務教育ってあったけ?やっぱ義務教育ないと、共存できないよね。幸せだな。義務教育のおかげで、言葉の通じない外人と仲良くできるし。

こんな現状下、前述した「親に最初の教育をきちんと受けなかった子供」を
制御することなどありえない話です。
他にも連鎖的な要因がありますが、後者の要因をなんとかできれば
学級崩壊なんてものは、なくなります。

むかし、むかしナチスがいました。ナチスは親に最初の教育をうけてました。教養がふかくて、芸術をあいしてました。ひとりひとりは、みんないい人です。

殺人、犯罪は教養のない野蛮人がやるので野蛮人を教育しないと。啓蒙すれば、みんな芸術を愛し、教養がふかくなれば、殺人なんてなくなります。

中学の時、グレてたの小学校の時の優等生だったんだよね。頭よくて、運動できて、

お礼日時:2001/05/05 00:27

 回答に関しては、理念的な回答と現実に即した回答に分かれます。

今現に学級が
崩壊し、教師も無力で危険な問題が発生する事態の時、これは有無を言わさず「警
察権力の導入です」。そこで理念を語ることは、無意味です。私は、それほどまで
に解決は困難と見る者です。従って、こうした場合は、あくまで頑迷な保守主義者
たるべし、というのが回答です。

 もう一方で、理念的な解決を、じっくり時間をかけて考える、という場合の対処
は、「一人の教師に40名をあずけない、20名、もしくは15名前後の1学級を
あずける」というものです。

 それは、あくまでも「学校の継続」を意図しているものです。

 ですから、私の回答は、どちらかと言えば、「学校がいつから崩壊したか、崩壊
の原因は何か」という疑問とは遠いところに位置します。

 学校は、少年少女にとって必要悪で、もし存在しない場合の弊害はもっと大きい
と考えます。

 それから、「学校」は学問を教えるところで「人生」とか「愛」とか、そうした
哲学的なものを教えるところではない、と考えたい、と思います。

 子ども達がここで学ぶことは「イヤでも毎日通う」「学問は出来た方が今後生き
る上で大きな知恵となる」「学校には頭のよい子と頭の悪い子が存在する、貧乏な
家庭の子どももいれば、金持ちの子どももいる」という社会の「差別」をしっかり
自覚させるところ、というように機能主義的にふるまう場所、とするべきだ、と考
えます。

 そうすれば、差別されて最初から降りたい者は、親納得の上で降ろせば良い。
 ただし、復活が認められる余地を、精神病理に基づいて、個々人の状態を十分把
握した上で、しっかり残せば良いと考えます。

 これは、時間はかかりますが、今よりは増しな結論を生み出すものと考えます。

 その上で、言いたい、と思います。学級崩壊、といいますが、学級崩壊のない社
会はもっと不幸です。近代的な現在の社会で、知識のない者は、どのような辛い壁
をよじ登らねばならぬのでしょうか?私はそれを考えると暗然たる気持ちになりま
す。

 今も、暗然たる気分ですが。私は、学級崩壊の原因を延々と論じるより、今そこにある危機を一つでも減らしたい、と思って発言しています。
 
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この回答へのお礼

授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もとめられている振る舞いをすることによって、教師の満足を得なければ、いい生徒になれない。ここでは、知識は自由をもたらさない。

このような事を誰も疑わず、意味のあることと思っていた時期がありました。将来の為、今がんばれば、きっと役にたつ。みんなが、そう信じていれば「学校の継続」は可能だと思います。授業の邪魔するやつは、病気あつかいして排除すればいいだけです。

ところが、学校は、将来の為、今がんばれば、きっと役にたつ。という嘘が、うすうす、きずいてるかもしれません。モチベーション、0という状態で
「学校の継続」が可能なのかそれがしりたいです。学校神話が壊れた後で、再び「知識のない者は、どのような辛い壁をよじ登らねばならぬのでしょうか?」と学校の必要性の神話を築けるのか。もう学校という大きな物語りは、終わったのかもしれません。

お礼日時:2001/05/03 00:29

                                                                 


                                        
        きっとそれは、担任教師がなめられているのでしょう。今になって叫べれてますが、以前から、ふにゃふにゃした教師は生徒からいじめられ、学級が成り立たない状態はありましたし。肝試し大会の時、ここぞとばかりにある小学生が、「オバケ役」の女性教師を傷だらけになるほど殴ってました。(脅かした時に「コワイよ~ボコッ!ボコ!」ってその女性教師は殴られてました)。そのような事態に対処するのが、生徒の鼓膜をやぶるようなある男性教師でした。

ところで、今の子達もそうですが、そもそも、学校が休みになると、我々の大半の人は喜んだでしょう?
又、例えば給食は、居残りさせられてでも無理やり食べさされ、たくさん食べたい人は、おかわりにありつけませんでした。

わたしが思うのは、「学級崩壊はよくないことなのか?」という点です。「いいじゃない?」と、ポジティブに考える人も少なくないと思うのですが。。
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>学校に適した子どもを育てる自体、無理があるのではないでしょうか。



すごく「無理」があるように思います.「無理」だらけじゃないでしょうか.

「学校に適した子ども」とは,一般に言う場合,多くは典型的な「良い子」のことですよね.自我を薄めて規範力の濃度を高め,欲望を激しく抑圧させる良い子.親や先生の言うことをよく聞き,規律を護り,礼儀正しい子供.理想ですよね.でも「誰」から見た理想でしょうか?少なくとも子供自身ではないと思います.

そんな「学校適応児」の大量生産方式は無理じゃないかというpassagen22さんの意見にわたしは賛成します.子供の自然を破壊しながら,適応児を作ることに躍起になっている親,学校,社会になんともいえない胡散臭さを感じるからです.「適応児」を無理して作ろうとするとき,同時に「不適応児」を一生懸命作っていることに誰も気付かないんですから,(わたしも含め)大人はたぶん「バカ」ですよ.もちろん個的に見ればそうでない場合もあるでしょうが(子供と良い関係を築かれている親御さんや先生方はたくさんいらっしゃいます),大きな括りである学校という「制度」が存在する以上,その胡散臭さから抜け出すことは難しいのではないでしょうか?(不可能?)

だから「ゆとり」だの「自主性」だのをうやうやしく持ち出してきても,いまの学校制度の枠に装填された時点で,それらは死にます.それらがもともと有していた豊かさは,胡散臭さと不信の濡れ衣を着せられを静かに息を引き取ることでしょう.

とはいえ,私は学校を否定したいわけじゃないんです.いまの学校的価値に染まりきった社会システム(学校化社会)を否定したい(いまは学校的価値を捨て去ろうという動きが活発になっています.反面それを抑圧しようという動きも活発になっています.教育問題はこれからも見逃せないですよ).で,学校に関しては,まず学校を公教育から開放しましょう.今ほど大きな意味を持たないものとして,あり続けることが,新しい意味になるのではないかと思います.何故って,いまの世の中,世界に「隙間」が無さ過ぎます.息が詰まる.学校はそんな閉塞社会のオアシスになることはできないでしょうか?それが本当の「ゆとり」だろうし,本当の「自主性」を育てることになると思います.

とんでもない戯言を書きました(特に終わりの方).個人的な妄想に過ぎません.お気に障った方があればどこぞの変人がくだらないことを言っている…そう思って読み流してくださって結構です.では,失礼しました.
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この回答へのお礼

その中でしか通用しない、正義。その正義も小さいだけの小さい正義を生産してるにすぎない。

近代のすべての学校は、国家に属している。国家に許可された教科書、カリキュラムなどです。そこでは、力と知が一体になっています。国家の中でしか、通用しない歴史認識などです。日本でしか通用しない英語の単語。などで、国家的な力を背景にした、知識の伝達と訓練によって、若い精神を一定のフォルムに型にはめていくことが、学校の教育の第一目標だった。授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もとめられている振る舞いをすることによって、教師の満足を得なければ、いい生徒になれない。ここでは、知識は自由をもたらさない。その中でしか通用しない、正義。その正義も小さいだけの小さい正義だから。学校での知識は、むしろ支配や優越の道具にすりかえてしまう危険を、たえずはらんでる。

子供の自然を破壊しながら,適応児を作ることによって作られた、知識は、暴力を内蔵してます。もちろん小さい正義も暴力を内蔵しています。

お礼日時:2001/04/27 09:38

>結局は、ただの人の父と、ただの人の母が、雑多な人間を一つとみなす、学校に適した子どもに育てられないのは、バカだからなのか。



この「学校に適した子ども」ですけど、passagenさんはおおよそどう言った性質を持つ「子ども」を想定されていらっしゃるのでしょうか?
よろしければお教え下さい。
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この回答へのお礼

「学校に適した子ども」は、簡単にいうと、授業時間中に、自分の椅子に体をくくりつけて、教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もとめられている振舞いをすることによって、教師の満足をえることのできる子どものことです。

お礼日時:2001/04/27 09:05

>なぜ学級は崩壊するのですか?


親がバカだから。学校の教育の前に、人間として家庭で育っていない奴等は学校でどう教育されてもダメです。
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この回答へのお礼

親がバカだから。ってすごく説得力あります。親が子供を再生産する。気がついたら、自分のコピーのようになってる。

微動だもせずにそそり立ち、子どもにいくらでも胸を貸してやることのできる父と、いつでも家の中に待っていて、学校で疲れた子どもをほどよくつつみこんでやることのできる母。外の世界の荒波に鍛えられ、重みのある言葉で子どもの胸を打つ事のできる父と、自然なほほえみを絶やすことなく、何もいわずとも子どもの心をわかってくれる母。

こうした理想を求めるというのは、ほとんど滑稽とも言うべきアナクロニズム以外何ものでもない。

結局は、ただの人の父と、ただの人の母が、雑多な人間を一つとみなす、学校に適した子どもに育てられないのは、バカだからなのか。

学校に適した子どもを育てる自体、無理があるのではないでしょうか。

人間として家庭で育っていない奴等。子どもは動物といっしょだから、たたかないとわからない。人間として家庭で育っていない奴等については、むずかしい問題なので、答えられません。

子どもは動物といっしょだから、たたかないとわからない。これは、小学校において体罰をする先生を支える考えでした。

お礼日時:2001/04/25 23:48

どこかの新聞の社説のなかの言葉に『縦の秩序』と『横の秩序』というのがありました。

社会全体がこれまで、縦社会で流れてきたかのように思います。個人より組織を第一に重視してきたかと・・・・この国の時代の流れをみていますともうそんな時代は終わり組織よりも個人の横社会に踏み出していくんだろうなと、また、そうなってほしいという願いを強く抱きます。

戦後、この国の教育において平等のみを強調してきたせいで個人の個性をある面、摘んでしまった。それによって、無気力、無関心、無感動な人間を多く生み出してしまったともいえるとはおもいませんか?ここ数年よく耳にする『学級崩壊』という言葉。なるべくしてなったとも思えるのですが・・・いち教師、生徒のせいでこのような状況に至ったとはとても考えにくいです。学校も含め取り巻く社会全体に責任があると考えます。なぜだか、改善策を練るときに大元の社会のありかたを変えようとはせずに一部分だけに手を加えることによって、例えば、学級崩壊の原因が教師のみのせいまたは生徒のみのせいと責任を転嫁させることで、社会のありかたを改善することはしてこなかった。縦の秩序が正しいものとでも思っていたのかどうかはわからないけれど・・・変革を恐れていたのかもしれませんね。そうすることは、タブ-という意識がはたらいていたんだと考えます。民主主義の国であっても見方かえると社会主義の国とよけかわらん~
バブルの崩壊、相次ぐ大手といわれる会社の倒産それに伴うリストラ・・・・
やっとこさ、この国も尻に火がついていままであたりまえにまかり通っていた、縦の秩序を考え直そうと思い始めたみたい。・・・・思うことは、だれにだってできる。実際に行動に移すことができるか、否か。その結果、末期症状で死んでしまうか、または、新薬が開発されて奇跡的に再起できるかもしれませんね。そのときは、横の秩序があることが前提です。

またまたいつものトンチンカンな回答になっていたらごめんなさい。
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