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 (1) もしさとりが 出世間というごとく文字どおり この現実世界を超えたところに求められるのであれば それは 世迷いごとではなかろうか?
 なぜなら 仏性が この世界の外にあっては何にもならない。

 (2) と考えるのですが もっと精確に述べて批判する必要はありますか? おおしえください。

 (3) あるいは (1)で《もし・・・》という条件をつけたところが まちがっていますか?



 (4) 同じ趣旨でプラトンの《イデア》は もしそれがこの現実世界を超えたところに存在するとしつつも 精神において観念として捉えうるものであるのならば ちょうど観念における《唯仏是真》としての精神的なさとりと同じ世迷いごとではなかろうか?



 ☆ 哲学の道のひとつとしてのように精神主義があると思われているとすれば これの横行を 社会として 早く卒業したいという思いがあります。
 いづれにしましても 明解なご回答を賜われ得れば ひじょうにありがたいと思います。よろしく願います。

A 回答 (11件中1~10件)

先生お元気で何よりです。


私も先生の元気を少しいただきたいぐらいです・・・

歴史に残る言葉には、その背景というものが必ずあるようです。
太子の言葉も例外ではないと思います。
世間虚仮 唯仏是真 という言葉は
日本仏教の黎明期に刻まれた名言であることは間違いないでしょう。

空海の 即身に法如を証す、という即身成仏
親鸞の 善人往生す、いわんや悪人をも、という南無阿弥陀仏
みな歴史的背景があります。
時代が人を生むごとく、時代が名言を生むと、いったものだと思います。
今の時代においての宗教的名言は見当たらないようです。
そうした言葉を発する人がいないのです。
先生が礼文の末尾に仰られた力強い言葉がその証明でもあります。

科学の発達した現代においては、無宗教の混沌とした様に、既存の宗教のすべてが呑込まれてしまっているかの如くです。
今の世に宗教家として立つには、最新科学のすべての疑問に答えられなくては、その資格が無いとすら言えるのではないでしょうか。
それが現代に求められる宗教であり、宗教家の姿であると思います。
過去の宗教をいくら取り上げても、もはや通用しないのです。
そうした意味では、優れた科学者こそ悟りを得た聖者のごときであり
優れた医師こそ、徳に満ちた救済者のごとくに見えるものです。

もはや宗教は不在です。
不在であり不必要だと思う人にとっては、宗教はその役目を終えたのです。
必要だと思う人にとってのみ宗教は残されている、といってもいいでしょう。
現実の苦しみの解決には宗教は役に立たないものである、という認識が一般化しています。
歴史化された学問としての確かな生命線が残されている状態なのでしょう。

しかしながら、宗教の違いを越えて、「信心」というものの一端に触れることのできた者にとっては
何にも勝る心の支えである事には変わりありません。
教理はただの言い訳であり、信仰は盲目である、というような見方をされようとも、変わることのないものです。
仏徳とは、一隅を照らす、というごとく慎ましいものである事が、信心を持つ者にとっては相応しいように感じられます。
信心や悟りに応じた行いであれ、という事でもあるのでしょう。

先生から見れば言い訳でもありましょう。
言い訳ではありますが、嘘ではないつもりです。
カリスマは弥勒菩薩に期待する、ということでご容赦願います。
それでは。
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この回答へのお礼

 ううーん。そうですね。自然科学のちから ですか。
 まづは 大先生 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 じつは 自然科学に明るくないものですから えっちらおっちらの歩みです。たとえばちょうどいま

 【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6797352.html
 
 を問うていますが そこでのやり取りも自然科学にかかわっています。回答No.1に量子論による議論が出て 回答No.5でその解説をいただくというかたちになっています。

 ★ ~~~~~~~~
 科学の発達した現代においては、無宗教の混沌とした様に、既存の宗教のすべてが呑込まれてしまっているかの如くです。
 今の世に宗教家として立つには、最新科学のすべての疑問に答えられなくては、その資格が無いとすら言えるのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《資格が無い》状態ですら 果たす役割があるという話をします。

 1. 人と人とのまじわり(交通・コミュニケーション)において 科学部門における――論理的な筋道にも情感の筋道にも逆らわないかたちでの――合理的な共通の理解を得ることとともに じつは人の境地部門における合理的な和解を得るということ これが 務めだと考えます。

 2. 情感の筋道に逆らわないかたちでの科学的に合理的な相互理解だけではまだ 人と人との――あるいは 《わたし》にとっての社会との――和解は十全には得られ切らないのではないでしょうか?

 3. ★ ~~~~~
 しかしながら、宗教の違いを越えて、「信心」というものの一端に触れることのできた者にとっては 〔* その信仰というものは〕何にも勝る心の支えである事には変わりありません。
 ~~~~~~~

 4. 科学は わたしにとっての世界の暗闇を照らしてくれますし 或る種の仕方でわたしの心の内の暗闇をも――身については医療として心についても心療として――照らしてくれます。しかもおそらくわたしの心の燈心をともしてくれるのは 境地にかかわる信仰部門の務めであるように捉えます。

 5. ★ ~~~~~
 仏徳とは、一隅を照らす、というごとく慎ましいものである事が、信心を持つ者にとっては相応しいように感じられます。
 ~~~~~~~

 6. とは言うものの この境涯についてすら科学としての筋道は その力が及ぶ限り必要だとも捉えるべきようです。人・自然・社会・世界そして宇宙について神秘や驚きやあるいは畏れを扱うのも 科学の目が必要です。
 その科学の目をもってすれば・もしくはその科学の目を持てるようになること自体として 世界や――ここで取り分け焦点を当てたいこととしての――《わたしとは別のわたしたち》についての畏れも身につけることが出来るようになるかとも思われます。
 《他者》の問題であり 他者へのウヤマヒ〔としてのわが境地〕 他者とのユヅリアヒ〔としてのわが境地〕の問題です。つまり わたしにとっての わたし自身との和解 あるいは わたしたち(つまり社会や世界)との和解のもんだいです。

 7. これが 神への畏れの問題だと見ます。神との垂直的な縦の関係が 他者との横の関係と同じ内実を持つという見方です。
 わが心に非思考の庭が成るということ。無根拠ということ。
 和解をこのように表現する道において捉えつつ 信仰部門のことがらの一端をになおうとしています。

 8. 果たしてこの信仰部門をも 科学が担当し得るか?
 ★ ~~~~~~
 過去の宗教をいくら取り上げても、もはや通用しないのです。
 そうした意味では、優れた科学者こそ悟りを得た聖者のごときであり
 優れた医師こそ、徳に満ちた救済者のごとくに見えるものです。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 果たして どうか?

 9. ★ 今の世に宗教家として立つには、最新科学のすべての疑問に答えられなくては、その資格が無いとすら言えるのではないでしょうか。
 ☆ たぶんこのときの《最新科学のすべての疑問に答えられなくては》の具体的な内容が吟味されなくてはならないように思います。
 科学は・つまりは人間の知解(認識)能力は 限りがあると考えます。《すべての疑問に答えることは出来ない》のではないか?

 10. 仮りに科学がすべての疑問に答えることが出来ても なおその《認識》によって人と人とが和解しうるかという問題があります。身と心との医学が 認識によるだけではなくその実際の治療としても答えることが出来たとしても 人と人とが互いに心をふつうに照らし合えるか? 平均寿命二百歳を実現させたとしてその健康で健常な状態にあれば 人は互いに他者のことが分かり合えるか?


 11. ★ ~~~~~
 もはや宗教は不在です。
 不在であり不必要だと思う人にとっては、宗教はその役目を終えたのです。
 ・・・
 現実の苦しみの解決には宗教は役に立たないものである、という認識が一般化しています。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 組織宗教あるいはその教義についての見方でしょう。(3)や(5)の引用文に言うごとく 個人の信仰という境地部門がおそらく科学の担当しがたい世界だと思われます。科学は 誰が考えても誰がおこなっても 同じ内容同じ現象が得られる場合を担当するからだと思われます。
 
 12. 神はえこひいきをする存在であるようで――風は気ままに吹き いつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれむ―― 人にとってのこのいわゆる現世という一生涯の時空間にあっては 人びとのあいだに違いがあります。格差が現われています。

 13. この格差――つまり 世間ですね――を科学はどうしようと考えるか? これを担当しうるか?

 14. この不平等を前にして《世間虚仮 唯仏是真》という命題を最終の答えとするなら それは根本的なマチガイです。現実から逃避せよと言うだけではなく そこに仏性を見てしかるべき現実をけっきょくないがしろにせよと 血迷ったことを言っているからです。
 現実に対する或る種のたたかいにおいて自分は勝てなかったという負け惜しみを言っているだけだったとしても その負け惜しみの言葉がよろしくない影響を与えています。

 15. 科学は――人文科学をふくめて―― この命題はマチガイだとは言わないですね。価値判断からは禁欲するとか言って。

 16. いまここなる弥勒菩薩は はっきりとマチガイはマチガイだと言うはずだと思います。

お礼日時:2011/06/14 23:58

>その境地と言えば ただ世間の人びとを裏病んだ心しか感じられません。

おれの学識における天才ぶりをようく分かれと言っているのみです。つまり 境地がきわめて低い。

まことに先生らしい高遠で鋭いご意見であります。
と、
そう結論づける前に少し史実を辿ってみてはと思いまして・・・

橘夫人・天寿国繍帳銘文

歳は辛巳に在る十二月廿一日癸酉の日入に 孔部間人母王 崩りたまう 明年の二月廿二日申戌の夜半に 太子 崩りたまいぬ 時に多至波奈大女郎 悲哀(かな)しみ嘆息(なげ)きて 天皇の前に畏み白して曰さく
「之を啓(もう)すは恐れありと雖も心に懐いて止使(やみ)難し 我が大王と母王と 斯りし如く従遊まして 痛酷(むご)きこと比なし 我が大王の所告(のたま)いけらく『世間は虚仮にして 唯仏のみ是れ真なり』と其の法を玩味(あじわい)みるに 我が大王は 応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う 而るに 彼の国の形は眼に看がたき所なり 稀(ねが)わくば図像に因りて大王の往生したまえる状(さま)を観(み)んと欲(おも)う」
と天皇 之を聞こしめして 凄然たまいて告曰(のりたま)わく
「一の我が子有り 啓す 所誠に以て然か為す」
と諸の妥女等に勅して 繍帷二張を造らしめたまう


橘夫人が太子を失った悲しみと発願を述べているわけです。
ここで
「世間は虚仮にして 唯仏のみ是れ真なり」
が、太子の言葉として出てきますが、事実としてはこれのみでありまして
太子が語ったという保証はどこにも無いのです。
どちらかというと、橘夫人の思いの表れのようにも感じとれます。
また、太子には三人の妃がいて、橘夫人はその中でも一番年小であったようです。
年小の妃が、天寿国繍帳によって、その存在感を示したかったのではないかという推測もあるようです。
太子も橘夫人も共に、熾烈な権力争いの中にいたという事が、この言葉の背景にはあるのかもしれません。

太子は仏の世界に安らかに変わらずにいる
いて欲しかったのでしょうね。
この言葉が別離の悲しみの中から出てきた事は確かですし、どちらかというと、そうしたところにおける所産であった可能性が高いように思えなくもないのです。
と、まあ、太子の言葉であったというのが一般的な受け取り方ではあるのですが・・・

翻って、太子の仏教観はというと・・・
利他行の実践を重んじるという、菩薩の道を示されたようです。
勝鬘経義疏 「自度を求めず、物を済うを先となし、仏果に等流するを称して大乗となす。」
自分だけの解脱を求めず、衆生を救うことを先決問題とし、みなともに仏果に帰入する、ということが大乗であるとなす。
そして
「行善の義は、もと帰依にあり。いまひろく万行の道を明さんと欲するが故に、帰依をもって首となすなり。」
「一称の南無も、これ善に非ずということなし」
と、善行のすすめを述べておられます。
南無・・・となるとやはり親鸞でしょう。
太子への憧れを強くもっていた親鸞との比較になってきます。
その辺のところを、玉城康四郎先生の文をお借りする事にしましょう。

「親鸞自身が、大衆のなかにあって、大衆と共に生き得る道として、南無阿弥陀仏を感得したのである。
その方法はきわめて明白である。
大衆の方法は、単純であるばかりでなく、明白な形を持つことが要求される。
しかし南無阿弥陀仏は明白であるだけに、大衆にとって、ややもすればその内容が充実されるかわりに、形式に堕する危険をもはらむであろう。
これに対して、太子の南無あるいは帰依は、単純であり、普遍的であり、かつ出世間的ではあるが、明白な形にまで成っているとはいえない。
常住の如来に南無し、帰依することが太子の主題ではではあるが、方法として確立されてはいない。
したがって太子の宗教は、事実上大衆に浸透しがたい面を有する。
大衆の心情にその精神の焦点が合わないからである。
しかし、それが明白なかたちを持っていないだけに、形にとらわれる危険からは免れるであろう。
むしろ太子の方法は、明白な統一性になりかかろうとしている宗教の道の動態に、その生命がかかっているのではなかろうか。
・・・・・・・」

とあります。
太子の時代において、仏教がどこまで理解されていたのかは知るよしもない事ですが
少なくとも、太子ほど仏教を理解していた人物は他にいなかったと思われます。
そうした点からも、解よりも善という万行・易行をすすめた一因があったようにも思われます。
また、そうした事が精一杯であったと見るべきなのかもしれません。
裏を返せば、その辺の孤独感もあったのではなかろうか・・・というようにも思えます。
世間虚仮のなかに、仏性を見つつも、嘆かざるを得なかったという事ではなかったのかと思うのです。

親鸞の
「この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。」
という言葉から太子の言葉を見返すとき
太子の心には
世間虚仮のなかに、仏への信心や仏性の芽生えへの祈り、といったものがあったのではないでしょうか。
仏性を知らざる世間への虚仮という嘆きであった。
嘆きではあったかもしれないが、それのみのただの嘆きではなかった、というのが私の結論です。
また、橘夫人の言葉であったかもしれないという可能性も残されてはいます。

太子の存在なくしては、後の日本仏教の展開がなかったかもしれません。
そうしてみると、やはり偉大な先駆者です。
倫理観、道徳観にも多大な影響をおよぼした事も確かです。
あまりに偉大すぎて、少しケチすらつけたくなりますね。
でも、世迷いごと、と一蹴してはバチが当たるかもしれません。
気をつけましょう(お互いに)
それでは。
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この回答へのお礼

 ○ バチは当たりません。ゼッタイに。

 へたのすけさん こんにちは。さすが へたのすけさん これぞコミュニケーション――それは 《生きる そして共に生きる》の縁起共生なる動態――です。ご回答をありがとうございます。


 【Q:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6759902.html

 このような質問をわたしは挙げていますが そこでは単に頭の中であれこれ想像しただけの文章を《虚数部》にたとえ それはけっきょくコミュニケーションに成らないと問うています。しかり・いや否 あるいは あれだ・いやこれだ・あるいはあれもこれもだ といったように問いに対してしかるべき答えを用意しなければ それは問答にならずコミュニケーションを成り立たせないと問うています。
 そして問答は しかるべき結末にまでたどり着かせておくのが 互いの礼儀であるでしょうと。
 しかもこのことは 哲学のイロハのイです。

 ところで――さらにもう少し回り道をしますが―― そのイロハのイがなぜ出来ないのかとも問うています。

 【Q:日本人に《考える》を望むのは無理か?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6787534.html
 
 そこでたとえば次のやり取りを この《世間虚仮 唯仏是真》なる命題の品格を問う主題にからめて持ち出してみます。
 すなわち ひどっちさんという方は――わたくしも同じ見解なのですが―― 多くの日本人が問いと答えを弁証法的に積み重ねつつ互いに一段と高い境地を目指して繰り返しやり取りするというそういった《考える》動態に乏しくなっていると認めつつ しかもそのような人びとも《目覚めるときには 目覚める(つまり ブッダの状態になる)》との回答を寄せておられます。
 それと聖徳太子(もしくは 橘夫人の心の中のその太子像)の見解とくらべてみてください。太子の境地は たとえば次のようだということなのでしょう?
 ★ 世間虚仮のなかに、仏性を見つつも、嘆かざるを得なかったという事ではなかったのかと思うのです。
 ☆ ひどっちさんもわたくしも むろん嘆いています。しかも怒っています。あきれています。わたしは口がわるいので――ひどっちさんは よほどのことでなければそうはなさいませんが――《あほばか状態》だとも言っています。
 けれども その嘆きや怒りに終わることはありません。ときを俟ちます。ときに俟ちます。という見解および境地をみづからが示しています。少なくともこの表現・この表明は 必要でしょう。そうでなければ 仏家だとは認められません。世間であほばか首相とただののしっているのと変わりません。

 ★ ~~~~~~
 仏性を知らざる世間への虚仮という嘆きであった。
 嘆きではあったかもしれないが、それのみのただの嘆きではなかった、というのが私の結論です。
 ~~~~~~~~
 ☆ これだけでは 満足ではありません。満足し得ません。少なくともその《それのみでなかった》ところの《可能性・潜在能力》のことを表現しなければうそです。ただの入門仕立ての新弟子の状態程度でしょう。
 ★ また、橘夫人の言葉であったかもしれないという可能性も残されてはいます。
 ☆ いえいえ そうではなく 誰の言葉であったかはここで問題ではありません。もちろん質問者は 聖徳太子に引っかけて問うていますが 質問趣旨に太子のことは触れなかったように 誰が言ったかは問題ではありません。この世間虚仮うんぬんで検索をかけてみてください。いくつかを見ましたが そのサイトではブディズムに則ったただしい命題だという解説が並んでいます。その思想情況を問題にしています。ゆゆしきかな ではありませんか!!

 ひとえに へたのすけさんが むつかしい教理や実践に相いはげんでおられるあいだに 世間は 虚仮を通り越して もはや再起不能の一歩寸前にまで来ている。と言っても言い過ぎではないのではないでしょうか? なぜ 先生は この現実を放っておかれるのですか? 見て見ぬふりをなさるのですか? 
 仏教界を挙げて――国政が超党派で一致協力してこの局面にあたって欲しいのと同じように―― 一致団結してマチガイを正す しっかりと正し切る ということをなさらないのですか? 死んだも同然ではないですか? 

 ★ ~~~~~
 でも、世迷いごと、と一蹴してはバチが当たるかもしれません。
 気をつけましょう(お互いに)
 ~~~~~~~
 ☆ こんなふるくさいことを まだ言っているのですか。お遍路が済んでいなかったので 内閣の命運も短かかったなどという縄文人の原始心性をまだ抜け切れていないのですか?
 輪廻転生も因果応報も まったくのでたらめであり 仏罰があるなどという《世迷いごと》をどこまで引きずるのですか? 日本はそんなことを言っている場合なのですか?
 ここで目覚めなければ むしろバチがあたるでしょう。(へへっ)。


 人と人とのあいだでは

   こんにちは!

 のあいさつで その互いのあいだのマ(間合い)が 宇宙大に広がるのです。融通無碍の自由において互いに自己表現をして行けます。


   なむあみだぶつ!
 
 このひとことで 《ひとり》としてはその心はやわらげられ 自由なる融通無碍となります。ブッダのたましいが開けます。
 つまり

   即身成仏

 ではないのですか?!?!
 なぜそう言わないのですか? なぜ この目覚めをニ千年も遅らせるのですか? インチキ宗教が出るのは 表現の自由や結社の自由による限りは仕方がないとしても そのインチキ振りをしっかりとなぜもっと分かりやすく 人びとに説き続けないのですか? それこそが おのれの修行なのではないのですか?
 さもなければ きょうただちに仏教という仏教は死んで欲しい。みづから消えてしまって欲しい。百害あって一利無しではありませんか?

お礼日時:2011/06/11 14:17

お互いに先生と言い合って、座布団を引っ張りあうのはやめましょう・・・


座布団が破けて・・・(失礼)

太子が悟っていたかどうかなどと・・・まことに怖れ多いご意見です。
仏の教えは四生の終の拠り所、と言われた方です。
その拠り所とすべきものに至った方なのでしょう。
生きとし生けるものへの深い慈悲心に至った、と見るならば
やはり顕教の理のみの悟りとは思われない。
また、名高い業績を残された影には、仏徳の現れともいうべき人を動かす力があったようにも思うのです。
一言一句、挙手投足に人を惹きつけるものがあったのではないのか・・・
これはまた、空海においても同様の事なのですが
空海の場合には、真言禅というものを前面に打ち出していますが、太子の場合には、行なるものは一切語っていません。
伝説では、禅定により中国の様子を見てきたとかの話もありますが、実際の太子の仏道修行は不明です。
一度に十の話を知るとかいうのも、空海の修した求聞持法の効能にも比すべきものかもしれません。
両者とも文法や筆法に長けていたことは事実ですが、それらも仏徳の現れかもしれません。
密教でいうところの、成仏の段階の最上階である、顕徳の成仏の境地において発揮せられた業績なのでしょう。

とまあ、そう見ると余りにも高くて遠く感じます。
まばゆくて、目がくらみそうだと言った人もいます。
こんな立派な人が過去にいた。
それでいいのではないでしょうか。
世間虚仮 唯仏是真、と、スパッと言い切った
表現においては、空海よりも鋭い感じさえします。
空海も性霊集という素晴らしいものを残していますが、太子も洗練された文言を残しています。
こうしたものを仰ぎ見る時、やはり仏果の世界といった感じがします。
それらは、人によってどう解釈されようとも、批判されようとも、輝きを失う事はないと思います。
その事はすでに歴史が証明済でもあります。
証明済の輝きを素直に味わってもよいのではないでしょうか。
世迷いごと、という味だけでは、もったいないと思うのですが・・・
世迷いごとと仰る、凡夫の愚痴には私も同感を持っているのですが・・・
それでは。
先生お元気で。
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この回答へのお礼

 ううーん。神話伝説の――ご回答をありがとうございます――たぐいではないか? と尋ね返すのもはばかられるほど決まり文句じみていませんか?

 ★ 世間虚仮 唯仏是真、と、スパッと言い切った
 ☆ その境地と言えば ただ世間の人びとを裏病んだ心しか感じられません。おれの学識における天才ぶりをようく分かれと言っているのみです。つまり 境地がきわめて低い。

 このように申しています。
 《常識》がいかにいかさまかの典型例であるかと考えます。
 それに対する有効な反論は出て来なかった。こう理解します。
 わづらわせ申しました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/09 22:12

 ☆☆ 世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?


 ☆ けっきょくこれは 世迷いごとである。でいいですよね?

はい、OKと思いますが、一言付け加えておくなら、人間の心は『肯定』と『否定』で出来ています。その肯定する心が『命そのものの働きの意志』です。

この心が湧き上がると同時に、僅かに遅れて『否定』する心が見え隠れしています。この心が自我意識です。

もう一つの言い方をするなら、一念がもう一つの意識の考え方です。湧き上がる二念が自我意識の考え方です。

一念は無意識からの答えです。二念が自分の意識の考え方です。

もう一言言い添えるなら、自我意識は左脳に存在する意識です。無意識の意識は右脳に存在する意識です。悟ると言う『心の作用』は脳の機能から言うなら、右脳の意識と左脳の意識が手を結ぶことを意味します。或は『ホットラインが開通する』と云う事を意味します。

人間の行為は全て、二つの意識が上手く交替する事から『正常』を保っています。その交替制が崩れた場合を『障害』として感じています。心の矛盾として感じていると言う意味ですが、全ては自分自身が分かる時解決します。

その時には『自分が生きる意味とか、人間の生きる事の意味』などの問題も全て解決します。人間が障害と感じている事は、自分自身への深い洞察力を養うための試練かも知れません。

全ての疑問は『自分自身が』自分自身へと問題を提起している事を意味します。自分自身の心の中へ、深く入ってゆく場合のみ解決出来る問題かも知れません。二つの意識は心の奥底では未だ一つとして働いています。意識が芽生えるその場が『全ての根源』と思います。

意識の根底では未だ言葉では無いものを媒介として交信しています。言葉に拠らないコミニュケーションを学ぶ事が『禅』の要諦と感じます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございました。
 賛成に一票としてうけとりました。

 ★ 無意識
 ☆ については 保留します。

 ★ ~~~~~
 もう一つの言い方をするなら、一念がもう一つの意識の考え方です。湧き上がる二念が自我意識の考え方です。

 一念は無意識からの答えです。二念が自分の意識の考え方です。
 ~~~~~~~
 ☆ 《無意識》と言ったとしても けっきょく《意識》なんでしょ? つまりこのように言葉で説明しているかぎり 意識ですよね? ただその場合 その意識の前の段階として無意識を想定しているということ それだけのことだと考えます。
 おそらくそう言うべきです。無意識を見たり捉えたりした人は 誰もいないのですから。
 いいですか。意識として上がってきたものがあるではないかと言っても そのように《上がって来た》というその意識と無意識とのつながりは 誰も証明できません。
 分かっていることは 《意識していなかったのに 行動してしまっていた》ことがあるとか あるいは《これこれの意識は おそらく記憶の倉庫にしまっておいたものが 想い起こされて現われたものであろう》と捉えてみるとか そういった範囲までのことでしょう。

 えらそうなことを言ってはいけません。

 ★ 意識の根底では未だ言葉では無いものを媒介として交信しています。
 ☆ これは これだけでは 哲学ではありません。ただのオカルトです。わたしは受けつけません。

 ★ 言葉に拠らないコミニュケーションを学ぶ事が『禅』の要諦と感じます。
 ☆ ご勝手にどうぞ。

お礼日時:2011/06/09 09:28

話が尽きませんので、『 ☆ 人の存在を身と心のふたつに分けて見ているからと言って・世の中を男と女の両性に分けて捉えたからと言って そのことまでは《妄想》だとも言えないのではないか? 揚げ足取りですが。



この事にのみ答えたいと思います。

人間の意識は、心に湧き上がる感情を『感じている存在』という言い方が出来ます。ですが人間には『自覚出来難いながらも、もう一つ意識が存在しています』その意識は『無意識界を統率している意識です。』

そうしてその他にも働きがあります。その働きとは『脳の働きの一つとも言える働きですが』櫻がその種類ごとにその種類としての桜の花を、季節も違わずに、その色も違わずにその種としての働きをする遺伝子とも言うべきものを兼ね備えている事に通じています。

動物にも昆虫にも全てその種としての記憶ともいえる『働き』が存在しています。その働きを釈迦様は『仏性』と名を付けたものと思います。

燕が同じ季節に同じ行動をする記憶に近いものです。蜘蛛がその種類ごとに同じ蜘蛛の巣を張る事に通じています。

人間にも人間としての記憶に近いものがあります。その働きは『命が芽生えた瞬間から働き始める働きです』具体的に言うならば、細胞分裂をする事を知っている働きから始まっています。

生れ落ちるや、泣く事も笑う事も、腹が減った事も、水分が欲しい事も、怖い事も、不安である事も、安心する事も、『学校などで習う必要がありません』

成人になってからは、感動する場面では教えてもらわなくとも、泣く場面では泣くように、笑う場面では笑うように働く働きといつも一緒に働いています。その働きを『仏性』といっています。

暑い時は汗を流す仕組みです、寒い時は血管までも収縮させる働きです。寒い時には火を求めさせる働きです。納期が来た時には『焦った感覚』にさせる働きです、スピードを出し過ぎた場合には『身も心も』ちじみ上がらせる働きです。

怖い物を見た瞬間では『身の毛を逆立てる働き』もしています。その場合には心臓も早くしたり、呼吸も速く出来る働きです。命に関する全てを取り仕切っている働きと言う言い方も可能です。ホルモンや腸の働きでさも自在に出来る働きと言う言い方でも可能です。

早い話が『命そのものの働き』という言い方が一番合っていると感じます。自我意識に対しては『心も身体も』全て牛耳っている存在という言い方も可能と思います。身も心も一つのものとして働かせている働きです。

健常者と言う人にはその存在は余りにも『自然に働いているために』尚更自覚でき難く働いています。ですが病院に行こうとしている人の中には『気が付いている人が多くいると感じます』

心を病む場合『心に違和感を抱いて』医師の元へ行く事になります。その違和感を『心の異常』として訴えています。この場合何処にも異常が在りません。検査をしても何処にも異常が見つけられません。

神経症なども同じ事ですが、神経症の場合は『自分の行動に違和感を感じています。』ですが、検査をした場合には何処にも異常が見つけられません。

或は身体に違和感を抱いて医師の元に逝く場合もあります、ですが何回検査をしても何処にも異常が見つかりません。この場合『自律神経失調症』と医師は判断します。

今言った『違和感』を何処に感じているかで、病院の種類を変えていますが、本当は同じ事が原因です。『心に矛盾』を感じている事を意味します。どの症状を訴える場合にも『心に圧迫感』を感じています。

それは仏性『命の働き』と『自我意識』が強調でき難くなった事を意味しています。心に加えられる圧迫感は『無意識からの』圧迫です。言い換えるなら『自身の働きそのもの』を恐れている事を意味します。

健常者はその者と上手く協調できているために、今言った障害を持つ人の『生き難い想い』は想像出来ませんが、心を病む人と、神経症の人や、自律神経失調症の人達には『共通した生き難さ』となっています。

人間が何処に『心の矛盾』を感じているのかで、その症状は違っています。

その生き難い想いを、お釈迦様は『一切皆苦』と表現しています。それが『意識地獄』と云う事になります。意識が停滞していることを意味します、或は『心の停滞』と言う表現でも可能です。

その解消した姿が『心の矛盾の解消した姿です』もう二度と、自身の心同士が争う事をしなくなった状態です。心は飽く迄も静寂を保っている事を意味します。その境涯を『涅槃』と表現しています。


『人の存在を身と心のふたつに分けて見ているからと言って・、、、』とお書きになっていますが、全ては『命の働きの下に働いています』上手く言っている場合には、身も心も自我意識も一つになって働いています。

その上手く働いている様を『神の僕となって、、、』と表現しています。自我意識の怖い事も安心する事も全ての環境の情報を(生きてゆくための、感情が湧き上がる情報として)常に送っています。その情報を分別脳が好きと嫌いに分けて見て、現実の一つしかない真実を、二つにして見ています。

それは何処にも現実にはない(検査をしても何処も悪く無い事)を、分別意識の作用で『自分自身で頭の中に作り出している事を意味します』

そうして自分で作った妄想の世界を恰もあるように錯覚をして、『身も心も』実際に反応しています。身も心も緊張に打ちふるえている場合、その原因が分かる時(二つの意識が出会う場合)全ての緊張から解放されます。

その現象を心身脱落、脱落心身といっています。心の矛盾が開放された瞬間です。

『今更お前は誰かと聞く必要が無かった事』が分ります。それが悟りです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ 世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?
 ☆ けっきょくこれは 世迷いごとである。でいいですよね?

 ★ 早い話が〔* 仏性とは〕『命そのものの働き』という言い方が一番合っていると感じます。
 ☆ であれば 質問については しかり 世迷いごとであるという賛同をいただいたと受け取りました。

 ★ 『命そのものの働き』
 ☆ の そのままを言うとすれば 人間の場合には その同じはたらきの中で 自由意志によって人はへそを曲げ みづからの心にさからう意志をも思い描きさらにそしてこれを実行に移すことがあります。その意味で 心に従順な善とそれにさからう悪と ふたつのはたらき(その具体的なあり方)があります。
 この善と悪とをまとめて仏性という人間の意志(ないし人格ないし境地)が大きくは包み込むと言ってよいのかどうか。あとは このあたりでしょうか 探究して明らかにしておくと なおよいと思われることは。

 と考えました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/09 01:01

私も歳をとったので手短に追加させていただきましょう。


長くなるとやはり疲れる・・・

世間虚仮 唯仏是真 は

三界ハ客舎ノゴトシ 一心ハ是レ本居ナリ とまったく同じでしょう。

仏果という山の頂きから、この世を振り返って見た光景なのでしょう。

しかし、世間虚仮の中で必死に生きている者にとっては、何ともやり切れない感じさえ受けますね。
私達凡人とは余りに隔りがありすぎます。
その辺が、世迷いごとではなかろか・・・となるのでしょう。

菩提心を因とした、従因向果の果の世界だと見るべきなのでしょう。
上り坂があれば、下り坂もありますから
従果向因の風景もあるわけなのですが、そちらは語られる事もなく、実践という形で残されているようです。

仏性や悟りというものをどう捉えるのかは自由だと思いますが
従因向果の世界から見るのと、従果向因の世界から見るのとでは違うように思います。
やはり、仏果という山の頂きに登ってみなければ分からないのかもしれません。

即事而真と言い切れれば本物なのでしょうけれども、悲しいかなそう言い切れません。
少し感じる程度です。
感じるとは、やはり出鱈目な言い方で、これも世迷いごとと叱られそうです。
そんなところで、あとは先生にお任せいたします。
それではお元気で。
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この回答へのお礼

 ★ そんなところで、あとは先生にお任せいたします。
 ☆ いつから へたのすけ先生は――おっと ご回答をありがとうございます―― 大蛇にも龍にもお成りあそばされたか?
 歳の所為とは言わせまい。

 ▼ 乾坤は経籍の箱
 ☆ とか言うのでしょう? 虚仮なる世間も 乾坤のことですよね? 経籍というごとく顕教だから だめだということでしょうか?

 ならば
 ▼ 即身成仏
 ☆ はいったい どこへ行ったのでしょう? あぁ えぇ
 ★ 即事而真
 ☆ つまり
 ★ 即事而真と言い切れれば本物なのでしょう
 ☆ ということですよね?

 きわめてかんたん・単純な話だと思うのですが?

 ★ けれども、悲しいかなそう言い切れません。少し感じる程度です。感じるとは、やはり出鱈目な言い方で、これも世迷いごとと叱られそうです。
 ☆ だったら 従果向因すればいいのぢゃないですか。
 ★ 従因向果の世界から見るのと、従果向因の世界から見るのとでは違うように思います。
 ☆ というのは こっちのセリフです。つまり 聖徳太子宛てにです。

 もし太子がすでにさとりに到っていたとすれば きわめて重大なちょんぼです。こんな中途半端な言葉を遺して行くとは。
 もし太子がいまださとりを得ていなかったとすれば そうはっきり言わなければいけません。世迷いごとにしか過ぎんと。


 では とどめを差しておきましょう。
 ★ ~~~~~~~
 即事而真と言い切れれば本物なのでしょうけれども、悲しいかなそう言い切れません。
 少し感じる程度です。
 感じるとは、やはり出鱈目な言い方で、これも世迷いごとと叱られそうです。
 ~~~~~~~~~
 ☆ いかにそのおのれのアートマンを誇る姿かな。ブッダも大師をも隅に置いておいて。ぢゃないですか? (あぁ 何と慈悲にあふれたわが心よ)。

 是が非でも この世界のちんたらムードを払拭せられたし。

お礼日時:2011/06/09 00:47

こんばんは、siryuanです。




☆ この《万物の本性》これが分かりません。

★そもそもアタマで理解出来る様なものでは無いのだから、
分からなくて当然です。
リンゴを食べた事の無い人に、
言葉で味を伝えられはしない様に、
我が身で「直知」するしかないものだからこそ、
坐禅瞑想などの修行をする人が居るんです。
だから(2)で己が身を以って証する以外に、
他はありません、と申し上げたのです。


☆現象世界を、みづからの心の現われと見て 
その心を超えることを 出世間と言う。
このとき《万物の本性としての仏性》が、
その心にこそかかわっているのではないのでしょうか
だから 無明から明知へと転換することが出来る。
縁起の過程が 好循環となる。
つまり われは空観に立つことが出来た。
――というのではないのですか?

★・・・。


☆むしろ《なぜ 心や現象世界 つまり虚仮なる世間を超えたところに〔のみ〕
仏性を求めるのですか?》

★テレビの映像の中に被写体が存在しない様に、
心や現象世界の中に真実(仏性)は存在しないからです。
人は真実を認識する事は出来ず、妄想する事しか出来ないんです。
悟りが難しいのは、順を追って理解を深める事が出来ない為に、
いきなり真実の直中に飛び込まねばならないからです。


☆ というのぢゃないのでしょうか? だってどこか知らないところに――つまりは言ってみれば観念の浄土において――仏性があると言ったところで どうなりましょうか。死んだらそこに行けるということでしょうか? でしたら 誰にも仏性があるのなら 生前には何もしなくてもその極楽に誰もが行けるということになります。わざわざ《唯仏是真》という必要などさらさらないぢゃありませんか? 《世間虚仮》と言おうが言うまいが 何の違いもありません。

★本当は、極楽浄土には、誰もが既に居るんです。
本当は、誰もが既に救われているんです。
本当は、弥陀の本願は既に成就しているんです。

でも、煩悩多き人間には、それが理解出来なくて、
浄土の直中で、地獄の夢を見続けているんです。
仏性の直中で仏を求め、救いを求め続けているんです。

それも「自分」と言う名のタコツボに閉じ篭りながらね。

世界の現実は一人ひとり違いますけど、
真実(仏性)はひとつです。

そして、真理は、仏性は、
ひとつでありながら、全てでもあるのです。

それ故に、仏教八万四千の法門や、目覚めた人達の言葉は、
「目を覚ませ!」の一言に集約されるのです。
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この回答へのお礼

 ていねいなご説明をいただいたご回答をありがとうございます。

 たとえば次のくだりを再度かかげます。
 ★ ~~~~~
 ★本当は、極楽浄土には、誰もが既に居るんです。
 本当は、誰もが既に救われているんです。
 本当は、弥陀の本願は既に成就しているんです。

 でも、煩悩多き人間には、それが理解出来なくて、
 浄土の直中で、地獄の夢を見続けているんです。
 仏性の直中で仏を求め、救いを求め続けているんです。
 ~~~~~~~
 ☆ ということですよね?
 でしたら 聖徳太子は たとえば次のようにでも表現しなければならなかった。のではないでしょうか?

 ○ 世間は虚仮であるが 虚仮であってもすでにその世間にあって あなたは出世間の状態にある。だから すでにほんとうは仏国土が実現している。「目を覚ませ!」。もしくは われらはすべからく このブッダの状態に目覚めよう。しかも いま・ここで ただちに。

 ☆ と言えばよかったし そう言わなければいけなかった。《唯仏是真》だけでは きわめてマチガイの起きやすい言葉になっていませんか? 

 特につけ加えることがないと判断されるようでしたら もうだいじょうぶだと考えます。でもまとめていただいても よろしいかとも思います。どうでしょう?

お礼日時:2011/06/09 00:17

ANo.1のsiryuan(しりゅうあん=思竜庵)です。




 ○ 仏性は誰にでもやどるのではないのですか?


「悉有仏性(しつうぶっしょう)」と言いますけど、
仏性が有るとか、無いとか、宿ると言う様な表現の仕方は、
間違いではないけれど、正確だとは言えません。

仏性とは万物の本性であり、真我や如来とも言いますが、
あらゆる物事の本質的な姿の事を「仏性」と言うのですから、
本来「仏」でないものなど有り得ないのです。


 ○ つまりたとえ虚仮なる世間に生きていて、
   おのれも虚仮なる存在であっても、
   その虚仮にも仏性がはたらくのではないのですか? 
   あるいは虚仮にこそ仏性がはたらくのではないのですか?


飛花落葉を見て無常の理を悟る事を、
山川草木に宿る仏性のはたらきと見なす事も出来ますが、
基本的に仏性には何のはたらきもなく、
ただそのままに、在る様にして在るだけです。
 
仏眼からすれば、我々が現実世界と呼んでいるものは、
虚仮(真実ではないもの)に過ぎません。

何故なら、現実世界とは、
各々の心の現われに過ぎないからです。

例え同じ所に居て、同じものを見ていても、
他人には他人の現実(見解)があり、
私には私の現実がある。

でも、現実は飽くまでも個人的なものであって、
世の実相や真実と言える様なものではありません。

bragelonneさんの悟りや仏性についての見解が、
私の見解とは異なる様に、我々は異なる現実の中に、
生きているのです。

そして、個々の現実を超えて、
普遍的な真理に目覚める事を「開悟」と言い、
仏性や世の実相は、現実を超えた時に、
明らかとなるものです。

目覚めた者にとっては、道端の石ころや、
野に咲く花ですら仏性の体現者であり、
眼の前の世界は、全て真実の世界なのです。


私の方からは以上ですが、
途中で申し上げました様に、私とbragelonneさんとでは、
悟りや仏性についての見解が明らかに違います。

出来ればbragelonneさんなりの、
悟りと、仏性と、現実と、真実の定義を、
お聞かせ願いたいのですが、
宜しいでしょうか?

また、何ゆえに仏性が、
現実世界を超えた所に求められたら、
世迷い言になるのかと言う理由と、
仏性がこの世界の外にあっては、
何にもならないと言う言説ついての説明も、
お教え願いたいと存じます。
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この回答へのお礼

 しりゅうあんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★★(回答No.1) ~~~
 (1)現実(現象)世界は心の現われに過ぎず、仏性こそが万物の本性です。
   即ち「出世間」とは、心を超える事を言うのです。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この《万物の本性》 これが分かりません。

 ★☆(ぶらじゅろんぬによる要約) 現象世界を みづからの心の現われと見て その心を超えることを 出世間と言う。
 ☆ このとき 《万物の本性としての仏性》が その心にこそかかわっているのではないのでしょうか?

 だから 無明から明知へと転換することが出来る。縁起の過程が 好循環となる。つまり われは空観に立つことが出来た。――というのではないのですか?

 ★ ~~~~~
 何ゆえに仏性が、
 現実世界を超えた所に求められたら、
 世迷い言になるのかと言う理由〔を明らかにせよ〕
 ~~~~~~ 
 ☆ ということですが むしろ《なぜ 心や現象世界つまり虚仮なる世間を超えたところに〔のみ〕 仏性を求めるのですか?》

 ★ 仏性がこの世界の外にあっては、 / 何にもならない
 ☆ というのぢゃないのでしょうか? だってどこか知らないところに――つまりは言ってみれば観念の浄土において――仏性があると言ったところで どうなりましょうか。死んだらそこに行けるということでしょうか? でしたら 誰にも仏性があるのなら 生前には何もしなくてもその極楽に誰もが行けるということになります。わざわざ《唯仏是真》という必要などさらさらないぢゃありませんか?
 《世間虚仮》と言おうが言うまいが 何の違いもありません。

 それとも 仏性は 一人ひとりによって皆 違うということでしょうか? ブディズムはいったい何を言おうとしているのでしょう?

お礼日時:2011/06/08 00:46

私も、世迷いごとのように感じます。


それは、自内証の世界を示す事に客観的な価値基準が存在しない、と思えるからです。
ただの独り言にすぎない、と見なされてしまいます。
たとえそれが、結果的に普遍的な意味合いを持つものであったにしても、語る事、示す事においての明確な価値は無いと思えるのです。
自らにとっては真実でありながらも、他の人から見れば真実ではないと思える事を、太子があえて語らねばならなかつた理由とは何だったのでしょう。

太子にとって仏とは、果たして本当に唯仏是真であったのかどうかは分かりません。
しかし、そう語らざるを得ない心境であった事は確かなのでしょう。
その心境とは・・・
太子は稀に見る天才であった事は明らかです。
ですが、天才とは常に人から距離を置かれて遠ざけられてしまう存在となりがちです。
また、当人においても、そうした距離感を自らが保とうとする傾向があるようにも思えます。
そういった見方からすれば、この言葉には、天才の孤独感、天才の嘆き、というものが込められているのではないでしょうか。
どうしても、そうした暗い心境というものを何らかの形で表したかった・・・のではないでしょうか。

やはり、一言で言えば、世迷いごとのようでもあります。
ただし、並みの世迷いごとではない。
世間虚仮 唯仏是真、と明確に言い切ったところに精神的な鋭さが有り余るほど感じられるものです。
そこには、天才のみが知り得た世界と、ともに、天才の孤独の悲しみがあるようにも感じられます。
孤独がさらに無常観を深めるといった感じさえします。

以上は太子の主観の世界を拙く推測したものでありますが
自内証の表現であると見た場合には、現実と真実という二極のみの相だけであり、その間においての説明が一切無い表現となっています。
諸法無我もなく、是生滅法、生滅滅巳もないのです。
説明でもなく、教えでもないところから、やはりただの個人的な感慨であり詠嘆でもあります。
日本史に残る、重く暗い詠嘆でもあります。
無常というものを、世間虚仮と言い表した素晴らしい詠嘆でもあります。
詠嘆であると見る時、そこに何らかの解釈を施そうとするよりも、そのままに受け取ってみるべきと思います。
無常の暗さと、仏の世界への憧憬というものです。
仏の世界のみ変わらぬ世界であるという、教えではなく、十分な世迷いごととしてです。
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この回答へのお礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 近年ブディズムの教理にめっぽう弱くなって来まして 文献も遠ざかってしまった感じがしており しかも今回のご回答のようにしっかりとていねいに歴史的にも人物探究としても解き明かしていただいたものにも――いま気づいたのですが―― なかなか食指が動かない。

 ていねいな叙述である以上に 懐の深さを見せている。いえ 見せつけていると形容するほどにしかも淡々と叙述がすすめられている。
 でもですね。護教論という言葉がありますが 護教論すなわちだめだとはけっして考えないわたしですが ここまでたくみに議論が展開されていますと そこに計らいがあるのではないかと やはり勘繰ってしまいます。というのが 正直な まづ 反応です。
 いやぁ 歳を取ってしまいましたかね。

 そうですね。全体として互いの主張内容をめぐる突き合わせとして反応することとしては No.1のしりゅうあんさんへのお応えになります。
 ☆☆(No.1お礼欄)~~~~
 ○ 仏性は誰もにやどるのではないのですか?

 ○ つまりたとえ虚仮なる世間に生きていて おのれも虚仮なる存在であっても その虚仮にも仏性がはたらくのではないのですか? あるいは 虚仮にこそ仏性がはたらくのではないのですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち
 ★ 自内証の表現であると見た場合には、現実と真実という二極のみの相だけであり、その間においての説明が一切無い表現となっています。
 ☆ と見ておられるとき この《二極の間の 説明がない》というよりは いえそれはそうなのですが それだけではなく それら二極は《仏性》によってつながれているのではないか? この問いです。まったく素朴かつ単純にです。《真実》はひろく《現実》に・そして現実にこそ見出されるのではないですか? この問いのみなのです。

 ★ ~~~~
 太子は稀に見る天才であった事は明らかです。
 ですが、天才とは常に人から距離を置かれて遠ざけられてしまう存在となりがちです。
 また、当人においても、そうした距離感を自らが保とうとする傾向があるようにも思えます。
 ~~~~~~
 ☆ というとき なぜ《距離感を自らが保とうとする傾向》を持ったのか? これです。
 きわめて同じことの繰り返しになるのですが 《仏性》はそのへだたりを埋める力にならないのでしょうか? なるのでしたら そのことを忘れたりないがしろにしたりするのは 天才だとはとても思えません。

 ★ ~~~~~
 そういった見方からすれば、この言葉には、天才の孤独感、天才の嘆き、というものが込められているのではないでしょうか。
 どうしても、そうした暗い心境というものを何らかの形で表したかった・・・のではないでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ ならば ふつうの人間です。誰もがそういった孤独感をあじわうはずです。

 というよりは 主眼はほかのところにあります。
 天才も凡人も けっきょくは どんぐりの背比べであり 悪い意味でも良い意味でも五十歩百歩なのだと思われます。学識の問題として格差はあるかと思いますが 境地としては誰も差をつけられる気づかいはない。はずです。なぜなら 仏性がひかえているからです。それとも 仏性は抜きであるほうが ほんとうのブディズムなのでしょうか?

 ★ 無常の暗さと、仏の世界への憧憬というものです。
 ☆ 憧憬に終わるものだとは とても思いません。イデア論は けっきょくそのイデアの視像とそこに生まれる信念〔の実践〕に終わると思われます。仏国土も イデア論なのでしょうか?

お礼日時:2011/06/08 00:28

世の中の見方を二つにしてみている世界が『妄想です』この妄想の世界での考えが『世間虚仮』という言葉になっています、そうして『唯仏是真』と云う言葉になっています。



その二つにして世の中を見ている見方から離れて『ただ真実のみを見る見方が出来た時』第三の目が開けたと言います。それが『悟りです』

出世間と言う意味ではありません、この身このままでそれで良かったという意味です。全てが法に適っていたという意味です。死ぬ事でさえ全てがそのままで受け入れるべきもの、もっと言うなら『有り難く頂戴するべき事』と了解する事を意味します。

災難を避ける法とは、死ぬ時には死ぬるべき事を(心の底から)了解する事を意味します。迷いとは死ぬ時に死なない自分を『妄想として頭の中に描く事』を意味します。

その妄想が『恐怖』と云う事になります。二つの世界を頭の中に描く事によって『地獄を自分で頭の中に描いています』現実にはない恐怖を頭の中に作って『身体と心が現実に反応しています』この現象を妄想といっています。

心を病む人も自律神経失調症で身体の症状を作り出している人も、検査をして異常がない段階で、『頭の中に症状を作っている事を意味します。』

世の中を一つに見ることで完治します。それが第三の目が開くという意味です。それが悟りです。在るがままに眼の前を見る見方です。計らいを捨てて世の中を見る見方です。眼の前の世界は全て真実の世界です。

計らい(意識する事)が一つしかない真実の世界を、眩ませています。悟った時『因果の世界の真実が分かります。』それが『不昧因果』です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 一方で――たしかに基本的なことですが―― 世界を二分法で見るその見方があまり生産的ではないということを指摘しておられます。
 あるいはもっと精確に言えば 二分法というのは 陰陽の双対や 善と悪・精神と身体・理性と感性などの二項対立 あるいは生と死ないし一とゼロとの二値的論理に還元する見方を言っていますが とりわけだめなのは 現象と本質に区分してその本質が 善神と悪神ないし神と悪魔という二元から成るという見方なのでしょう。
 そうしてさらには 現象と区別した本質について そのように理性の作用によって精神的に捉えたかたちのままこの本質を世界の根元だとする一元論 これも建設的な見方ではないのでしょう。

 したがって 建設的で妥当だと思われる世界観は――質問者ながら触れておきますと―― 根元がいくつあるかと問えば ひとつ に決まっている。なぜなら その一はすべてを意味する根元であるから。
 しかもこの一元論としての根元が 本質かと問えば この唯一の根元は 現象と本質とに区分した世界の全体をそもそも超えている。つまり言いかえると ただひとつの根元である神は 無根拠だということになります。

 このような基本を言おうとされていると受け取りましたが 他方では わたくしから見てまだなおあいまいな見方をなさっている。こう考えます。

 ご説明を よろしければ 申し上げます。
 ★ 世の中の見方を二つにしてみている世界が『妄想です』
 ☆ 人の存在を身と心のふたつに分けて見ているからと言って・世の中を男と女の両性に分けて捉えたからと言って そのことまでは《妄想》だとも言えないのではないか? 揚げ足取りですが。

 ★ この妄想の世界での考えが『世間虚仮』という言葉になっています、そうして『唯仏是真』と云う言葉になっています。
 ☆ そうでしょうか? ここからはまんざら揚げ足取りでもありません。世の中はすべて移りゆくもの(こと)ではないでしょうか? この身もそして心でさえ 人間に関するかぎり 移ろいゆくものです。と見ざるを得ません。しかもそれは空観の起こる始めであるとも考えられます。
 つまりいちおう《世間虚仮》なのではないですか?
 もし変わらざるもの・変わり得ないことを想定するのなら つまりたとえばそれを仏性とすれば この仏性をどこに位置づけるか それが問題なのではないですか? あるいは 仏性のはたらく空観において世界を見るようになり得たならば その境地は ブッダ(目覚めた)という状態であるのでしょう。

 たとえば上のように述べましたが そのこととたとえば次のご見解と どのように同じでどのように違っているのか さらにあるいは両者をどのように突き合わせ照らし合わせればよいのか これが分かりづらいです。
 ★ その二つにして世の中を見ている見方から離れて『ただ真実のみを見る見方が出来た時』第三の目が開けたと言います。それが『悟りです』。
 ☆ 《虚仮なる世間》と《虚仮ならざる仏性 あるいはその仏性のはたらく世界観=出世間=空観》との《二つにして世の中を見ている見方》《から離れて》しまう必要はありますか?
 わざわざこの《世間と出世間》との見方をさらに超える《第三の目》とおっしゃいますが まさかそれが《本質》と言うのぢゃないでしょうね? それが《本質の本質》だと言うのではないでしょうね?

 《『ただ真実のみを見る見方が出来た時』》というその《真実》とは ふつうに生活日常における《空観》のことではないのですか? しかもそれは縁起共生ですから 動態です。それをわざわざ《第三の目としての真実》と言ったって どういうもの(こと)ですか?
 世間は残念ながら移ろいゆくもので無常であるという見方は ひとつの《真実》ではないのですか? それでも人には――また世界にも――仏性がはたらくという見方 これも《真実》なのではないですか?
 しかもそれらから離れて第三の目が開けるのですか?
 たとえばそれが プラトンのイデアなのではないですか?
 観念の神なのではないですか?


 ★ 迷いとは死ぬ時に死なない自分を『妄想として頭の中に描く事』を意味します。
 ☆ 《死ぬ時》には 何を想像してもあるいは妄想しても 死ぬものは死ぬでしょう。
 普段において死が観念としてあたまに残るというときには 何か考えるにたとえばおのれの人生においてその道半ばで果てるといったことについては 人はふつうにおそれを抱くものではないでしょうか? 
 なんで
 ★ 在るがままに眼の前を見る見方
 ☆ で満足しなければならないのですか?
 ★ 計らいを捨てて世の中を見る見方です。
 ☆ という見方に従うとすれば 《計らいを捨てる》という計らいがありますよね? 《あるがまま》という言葉を想起したときにも人は 何らかの計らいを持ちます。

 そういう問題を何ら顧みないで
 ★ 眼の前の世界は全て真実の世界です。
 ☆ だとは よくも言えたものですね?
 聖徳なるぼんくら太子と同じように 唯仏是真という言葉つまり観念の世界にすべてをゆだねた そういうイデア教なのではないでしょうか?
 世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないですか? 
 これは 愚民化政策なのでは?
 もしそうだとしたら これはゆゆしきもんだいです。
 こういう問いを問うています。

お礼日時:2011/06/07 12:06

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