プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

カルト宗教とよばれるからには、それ相応の理由があるのだろう。
が、宗教に興味もなく知識もない僕には、すべて同じに見えます。
統一教会の友人もいますが、頭も良くて礼節もわきまえています。
エホバの証人の知人もいますが、みんないい人です。

同じキリスト教であるのに、カルト宗教とよばれるのは、中世の
異端審問みたいに、権力者が自分らの意に沿わないものたちを、
迫害しているように思えてなりません。
みなさんどー思いますか?

A 回答 (20件中1~10件)

 ANo.15


 私はそう思います。オーム真理教は知りません。
 そういう欺瞞をどう克服していくかが私たちではないでしょうか。しかし、カルト的になるがそれは地上的存在と経験をどう超越するかの問題だと存じます。
 以下はご参考:全ては夢、画像だと私たちのSelf-Realization Fellowshipは教えています。
 (http://www.yogananda-srf.org/
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そうですか、残念です。


実は私もどういうものか、よく理解できていないので、もし関東圏の方
なら教えていただけるのかと期待したのですが。

「ニッチなところにどっぷり浸かってのる」というそれ自体が目的なの
かもしれません。わかんないけど。

「シャレでのる」とか「しらけながらのる」のは、もうださいんでしょ
うか。(おにゃんことかきっとそうじゃなかったかなと思うんだけど)

一昔前はどっぷり派のそういうオタク趣味は一人でほくそ笑むのがだい
ご味だったと思うんですが。今はそこに連帯感がプラスされている気が
します。

カルトの方は私のうちにも前は割と頻繁にいらっしゃってたのです。
草食動物も肉食動物も仲良く暮らすユートピアを理想だとおっしゃるので、

「素敵なファンタジーですね」というと、
「ファンタジーじゃありません。現実になるんです。」
「でも、これでは食物連鎖が」
「動物はは野菜や植物を食べて成り立ちます」
「ところで今はお肉は食べないんですか」
「食べます」

それ以来ぱったりいらっしゃらなくなりました。
たぶんなにか水を差したことを言ってしまったのだと思います。
理屈に合わなくても盲信することに意義があるのだと思います。
教祖が黒を白といったら白みたいな。とにかく浸かりたい浸かるのが
楽しいっていう。

オタクはどっちかっていうと知らず知らずに浸かってしまっていた
ですから、多分そういう楽しみ方とはちょっと違いますね。

なんだか私にはたぶん一生分からない気がしてきました。
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差別という言葉が適当かどうかは議論の余地がのこりますが、既得権益を擁護するためにありとあらゆる手段をとるということは確かでしょうね。

さもないと伝統的商売はお客がおらなくなるでしょう。

一方、ニュービジネスの方が、規模の利益が無い分だけ、もっとえげつなく伝統的商売を攻撃せにゃならん。

日本中をカバーして安定しているDocomoに対して、どこでもつながらない通信回線を売るためにぁ、人間を犬にして笑わせたりしなきゃならんのだよ。隣の国では犬は市場で売っている食糧だからね。無線電話の価値とは全く関係のないところで古典的商売を攻撃しないとニュービジネスは伸びないし、生き残れないんじゃ。
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伝統的商売とニュービジネスの違いじゃないかな。



どちらにも良い人と悪い人の両方がおるじゃろ。

この回答への補足

と、いうことは伝統的商売の人たちが自分らの利益を
まもるために、ニュービジネスの人らを差別している。
ということですか?

補足日時:2011/06/11 18:20
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カルト宗教は「蕩尽」という人間の本能を巧みに利用した


「ビジネスモデル」であり、「楽しいお祭り騒ぎ」である
と思います。

しかしあまりにも道義的に問題がある場合は、悪い意味合い
を込めてカルトと呼ばれてしまいます。

偶像が「造形美」からしだいに「教義内容」、「人となり」
に関心が高まっていく時にもそれは起こりえるんじゃないか
と最近思っています。

基本的に日本人はいい意味でのカルトには大らかな心持が
あるんじゃないかと思います。
多分大衆芸能好きはそういうことじゃないかと。

AKBと少女時代を比べればそれは明白でしょう。

この回答への補足

AKBは日本の恥なので、早くなくなってほしい。

補足日時:2011/06/11 17:03
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 ANo.14


 宗教者、信仰者ではりますが所詮は此の世、地上界の産物です。カルト宗教といえ何といえ。宗教でなくてもすべてが。
 従って所詮は、欺瞞と嘘でないものは何もありません。

この回答への補足

と、いうことはキリスト教のカトリックやプロテスタント、
はたまた仏教などもオウム真理教と似たよーなものですか?

補足日時:2011/06/11 17:01
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 私たちにキリスト教や仏教などの素晴らしい教えがもたらされて、しかもそういうおしえを経験しながら歴史では無道、非道なことが世界の各地で行わてきましたし、今も行われております。


 このことを指摘されれば信仰者としてはさぞ辛く、また言葉がないでしょう。
 美しい言葉で反省し、悲嘆し、祈る。そしてともに疑問と悲しみを表明する。
 しかしそういう問題であろうか。そのような通過が可能なのか。
 そうだろうか?
 私たちはもっと率直に真正面から向かい合い、底にある事柄を認め合いたい。
 宗教は社会的には無力だ。悪用はされうる。権力や勢力、そして社会と結託しうる。
 バチカンは本当に今も無辜であるのか。
 全ては人間の歴史の中の存在であり、事象であるなら同じ波風の中の存在を免れる筈はない。
 言い訳はやめよう。それは直ぐに壁に突き当たる。
 自己の中に自己をどう存在させていくかという、宗教の自己探求が必要ではないか。
 私はそういうことから、30過ぎてからここ40数年今はラージャのヨガに傾倒してきています。
 宗教ですので、人から見ればカルトかもしれないが、言い訳をしている閑はないのです。
 参考:Self-Realization Fellowship(http://www.yogananda-srf.org/
 
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補足いただきありがとうございます。

プロテスタントのクリスチャンとして、日本の社会では不都合なことに多々接しているものとして、このようなご質問をあげてくださり、何らかの意見を述べることができる機会を与えてくださってありがとうございます。

>>ある異端の教会では脱税で米国に入ることもできない教祖がおりますし・・・・

>でも、バチカンも第二次世界大戦中のナチスのユダヤ人に対する迫害を、
みてみぬふりをしていますよ。所詮は同じ穴のムジナのよーな気が・・・

確かにバチカンの罪がキリスト者全体の罪と敷衍して考えますと、同じ聖書を読む者として時代を超えてその罪の一端を担うものと言えると思います。また日本人として中国に攻め入って多くの人々の命をあやめてしまったことは同様に時代を超えて日本人一人一人の罪として背負ってゆかねばならないと思います。

また現在日本で起きている多くの犯罪や正義とか自由から程遠い環境を構成しているというのもその責任の一端をこの回答者もになってゆかねばならないと感じています。

>所詮は同じ穴のムジナのよーな気が・・・

聖書にあるモーゼの十戒の6番目の戒めは「汝、殺す無かれ」となっています。またイエスは自分の言葉で以下のように述べています。

「イエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。・・・・』」(マタイ16:24~25)

聖書では人を殺してはならない、むしろ人々のために命を捨てなさいと述べていますので、諸外国でプロテスタントとカソリックがともに互いにお互いを攻撃しあって血を流しているのは日本人のクリスチャンとしては理解に苦しむところです。日本の仏教のように長い間に本来の教義が忘れ去られて真の仏教徒が消滅した結果と同じように、真のキリスト者がいなくなってしまった結果ではないかと想像いたします。このように記載しても真の仏教徒や真のクリスチャンは赦してくださると思いますので、このまま書き進めます。

もしキリスト者が聖書を文字通り信じていなければ「所詮は同じ穴のムジナ」と言われても返す言葉が無く、事実その通りと申し上げるしかございません。

もしお時間がございましたら、お近くのプロテスタントの教会の牧師と話してみてください。そのために牧師はおりますので、喜んでいろいろな疑問に答えてくれると思います。

話が飛びますが、モルモン教、統一教会、エホバの証人等のいわゆるプロテスタント系教会からは異端とされる集団に属する方々も皆さん個人的には素晴らしい素質と人格をもっておられるというのはまさにその通りだと思います。この点につきましては異論はございません。オウム真理教の中にも素晴らしい方がおられたのではないかと思います。

異端とカルトということを考えますと、その教団がどのような教義を持っているかというのは重要なことだなと改めて思わされます。
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教義では、無限後退な欺瞞に終始するか、超合理の信念を自己覚知しているかの違いかと思います。



活動では、経験した修羅場の数だけ、論理を磨く機会が在るかと思います。恵まれた国の恵まれた生い立ちと生活では、自己満足と自己欺瞞を手に入れるのがせいぜいでしょう。
こんな話があります。
ある貧困地域で、宣教師が地域の子どもたちに「労働の尊さと収穫の喜び」を知ってもらおうと、一緒に畑を作って作物を育てたそうです。
果たして待ちに待った収穫の日、喜びいさんで畑に向かった宣教師と子どもたちを迎えたのは、夜中にすっかり刈り盗られた丸坊主の畑だったそうです。
そりゃあ教義も練り直されるかと思います。
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カルトという言葉は非常に曖昧であり、明確な違いはないと思います。



質問者様のいうカルトは、邪教という意味でのそれであると思われますが、この場合は、ある宗教が正しいことを前提とし、それに反する宗教をカルトと位置づけます。
しかし、何を正しいとするかは、究極は当人の信条の問題であるため、特定の宗教が正しいとする前提が成り立ちません。

次に、カルトという言葉は、反社会的という意味において使われる場合があります。この場合は、当該社会のルールが正しいことを前提としています。
しかし、社会的ルールは多数意見の反映であって、本来信仰というものは、少数であっても保護されるべきものであるはずです。極論を言えば、人を殺すことを教義とするものでさえ、刑法上罪に問われるかどうかは別として、宗教であると認めざるを得ないのではないかと思います。

また、カルトを、非宗教的という意味において使う場合もあります。この場合は、宗教という言葉の意味が明確である必要がありますが、宗教を明確に定義することは出来ません。

よって、カルト宗教とそうでない宗教の違いは、単なる切り口の違いであって、どちらも宗教であるという点では異なりません。
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