プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

例えばド田舎の道でそこに信号があったとする。
道を渡りたいが、信号が赤である。
しかし周りを見渡しても誰もいないし、もちろん車など
走っていない。
信号が青になるまで待っておく必要があるのだろうか?
時間の無駄だし、ここは赤でも渡っていいのではなかろうか?

例えば雨の日の外出中に、いきなり小便がしたくなったとする。
いわゆる立ちションだが、雨が降っているので立ちション
しても誰にもわからない。とする。
塀にされた相手(被害者)も気づかないのなら、それくらい
いいのではないだろうか?

みなさんどーおもいます?

A 回答 (16件中1~10件)

 私も回答しようとしましたが、hakobuluさんが上手く回答してくださいました。


 
 法律は人の行動を縛り付けるものですが、本来は活用するものではないでしょうか。

 現代人は自分たちで作った法律に、振り回されていますね。

 訴訟社会なんていうのは、法律を悪用していると言ってみたくなります。
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「不正」の意味が拡大してしまうとキリがないので、信号に関してだけ述べます。



信号が赤でも渡って良いと思います。
質問者さんとは少し違って、たとえ車が来ていても渡って良いと思います。
要するに自分が車にぶつからずに渡ることができれば良いのです。

しかし、この考え方が是とされ定着すると、車にぶつからずに渡れるかどうかの判断が自ら適切にできないのに赤で渡ってしまう人が出てくるでしょう。
ですから質問文のように、車が視界に入っていないなら赤でも渡って良い、とするのが適切です。
そして、この段階ですでに、社会的規則の及ぼす他者への影響を考慮していることになります。

これをさらに発展させると、
小さい子供が近くにいる場合は、真似をしないように、車が視界に入っていなくても赤では待つ。
ということになるでしょうし、実際わたしはそのようにしています。
ただ、このカテは誰が見ているかわからないので、本当はこのように回答すること自体あまり好ましいことではありませんね。
正しくても声を大にして言えないこともあるという良い例です。

信号にせよなんにせよ、規則本来の目的を忘れると思わぬ間違いもおきます。
わたしは赤でも渡りますが、たとえ緑でも、赤信号で車は停止しているか、及び右左折車が停止・減速しているのか確認してからでなければ踏み出しません。
    
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人の行為において、どこまでが不正で、どこまでが正しいなどと、


きっちり分かれている訳ではありません。
最も世の中を害する行為から、最も世の中に貢献する行為まで、
連続的に変化するに過ぎず、ある集団におけるルールにおいて、
「適当に」法の線引きをしているだけです。

その意味で、世の中に害を与えないなら、ルールを破ってもいい
とも言えるし、「ルールを破る」というのを許容すると、また「どこ
までが破ってもいい範囲の害か」といった問題が生じるので、
厳密に適用すべきだとも言える。
その「線引き」もまた「適当に」定まるものです。
(この「適当」の最終判断者は、政治家でも神でもなく、
淘汰である。無茶を通せば、その集団が消えるだけ)
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こっそり(よくないこととと知っている)ならいいのです。


賢い人はみんなやっています。
他人様に迷惑をかけなければいいのです。

「法律に書いてあることに違反しているから駄目だ」という人は、
「法律に書いてないからいい」という風になりがちです。
実際の社会では、法律以前の常識で判断して行動すべきです。
それは要するに他人様に迷惑にならないようにです。

例えばこのサイトで「○△)」という漢字の熟語に関することで、その中の「○」という字について質問してきましたが、ある回答者は○はそっちのけで、△について蘊蓄?を傾け始めました(しかしその説明は稚拙)。
この回答は明確なルール違反と言えないかもしれませんが、自分の知っていることは何でも喋って博識?を自慢したい自己チューそのものです。
質問者には迷惑です。

他人様に迷惑をかけなければいいのです。

犯罪或いはそれの類似行為だからしないという人は、
馬鹿正直・くそまじめ ・ 愚直 ・ 実直 ・ (人間が)退屈 ・
ドロ臭い ・ 融通がきかない ・ 要領が悪い ・ お人よし ・自己チュー おバカ
などと陰口されています。
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良くないといったのは



>少しの不正なら、してもいいのではないか?

の発言であって

もしこれが「少しの不正位ばれないなら悪いと言えるか?」
というのなら「微妙だね」と答えます。
例えば警察に捕まるというのを良くないと定義する場合は良くないとなりますが
警察に捕まらなかったらどうなの?と言われれば無事故なら「まあ良いとは言わんけどまあね暗黙の了解で別に良いじゃないの?」と答えます。

もし後者の感覚でしたらNo.11の回答は改定です。
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良くないです。

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 ANo.8です。

ANo.9の方からのメッセージに1つの知見を得て思い出した言葉があります。
『レ・ミゼラブル』の主題である「神の摂理(=道徳とも呼びうる価値)」と「規範としての法の意味」の相関関係のことです。
 ジャン・バルジャンは教会から銀の燭台を盗み出し警察に捕まった。警察は燭台の変換と共にジャン・バルジャンを犯人として捕縛したことを告げる目的で教会に彼を連れて行った。がしかし司祭の言葉は警察の想定外だった、「この燭台は教会のモノではありません。神がここを訪れる全ての人に与えるために私達はここで預かっていたにすぎないのです」としてジャン・バルジャンの釈放を求めた、との話です。
 キリスト教的な価値観からみれば路頭を彷徨い自らの生命を絶つことが神に対する最大の罪と理解できるかもしれません。その意味で彼は世俗の罪を許されたのであり、生きることを自らが拒んだならば教会は許さなかったかもしれません。ヨーロッパ的な表現で言えば「神の法」と「国家の法」、東洋の表現で言えば「倫(ひとのみち)」と「規矩」にあたる2つの法をどう理解するか。ご呈示の事例ならば僕は先述のように許すことはできないが、この一線を越したら途轍もない将来をもたらしかねない危険性を含む法があった、或いは作られようとしたならば、僕はその法規に対して自らの旗幟を鮮明にする。
 ここにはいつの間にやら「長いモノには巻かれろ」や「風が過ぎるのを待つ」として自分を安全な立場に置いてモノを見るようなスタンスの人が登場しているけれど、それは一番卑怯な姿だと思う。自分の身に降りかかった時も逃げ足早く別の高台で観察するだけならばその人には処世術はあってもポリシーの欠片すらないと思われます。嵐が過ぎ去り後片付けが済んだ時に「やあ、ごくろうさん」と当事者の苦労も知らずに現れる自己チューでしたり顔の大人にだけはなりたくないですね。
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誰かが言いました。



この世の法律に反したからといって、それが神の目から見て罪になるとは限らない。
世間には規則に縛られたがる人間が居るものである。
自由な人をうらやみ蔑み、規則の奴隷になっている自分を正義の素晴らしい人間だと思い悦に入る。

最終的には自分の道義心に従えばよいとおもいます。
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 頭が固いと言われるかもしれませんが、2つのケースは「道路交通法」と「軽犯罪法」に抵触する行為です。

法が市民生活を守るための安全装置として一定の役割を果たしていることを踏まえるならば、些細なこととして規範に悖る様な行為に目を瞑る様な姿勢が容認されると僕は思いません。
 「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」は同時に「茹で蛙 気付いた時には 手遅れさ」との危険を孕んでいることも忘れるべきではないと僕は思います。ただ近年の最高裁判所が同時に特別裁判所の性格を持ちながら、その本来の仕事を何処かに置き忘れているような判断を下すことも懸念材料ではありますが。
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>みなさんどーおもいます?



そんなこと問わないで、黙ってして下さい。
賢い人はみんな、こっそりやっています。

犯罪或いはそれの類似行為だからしないという人は、
馬鹿正直・くそまじめ ・ 愚直 ・ 実直 ・ (人間が)退屈 ・
ドロ臭い ・ 融通がきかない ・ 要領が悪い ・ お人よし ・ おバカ
などと陰口されています。
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