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柴田勝家という武将はどのような、人ですか?

A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>柴田勝家という武将はどのような、人ですか?

出自:

尾張国愛知郡社村(現:愛知県名古屋市名東区)で大永2年(1522)、または、大永3年(1523)に斯波氏の一族である柴田勝義の子として生まれた・・・と言われていますが確証はない。

前半生:

勝家は織田信秀(信長の父)に仕えていたらしい。
そして、織田信長の弟である織田信勝に仕えた。
その後、信秀が死亡すると、信勝は自分の家臣であった林秀貞らにそそのかされて信長を廃絶しようとたくらんだ。
おそらく「尾張のうつけ」とまで称された兄の信長が尾張を統治することに不安を感じていたと思われる。
勝家は、この計画が成功すれば信勝の家臣として自分もまた、より高い地位につけることは間違いがなく、勝家は信勝に協力して「稲生原の戦」で信長軍と戦った。
しかし、勝家の軍を初め信勝軍は惨敗をし、末森城で籠城の構えを取りました。その時、信長の生母である「土田御前」が、
「信勝らを許してやってはくれまいか」
との懇願で信長は、それを受け入れ、信勝や勝家らは剃髪した上で信長の元へ行き許しを請い許された。
だが、その一年後信勝は再び謀反を画策したが、勝家は、今度はその計画を信長に密告した。
信勝は、
「病が重いので家督を譲る」
と言う信長の言葉にまんまとはまり、信長の居城である清洲城へ赴いたところで謀殺され、勝家は以来信長の家臣として働くこととなった。

信長時代:

当初は、信勝の家臣であったことも響いてか、信長の「尾張統一の戦」や「美濃斎藤氏攻め」などにはもちいてもらえず、信長の上洛の動きが取りざたされる頃になって、やっと、「畿内平定」(勝竜寺城の戦など)や永禄12年(1569)1月の「本國寺の変」で武功を上げ重臣の一人に数えられるようになった。

元亀元年(1570)3月、信長は朝廷より天下静謐の権限を与えられ、5月には六角義賢が琵琶湖南岸に進出し信長の岐阜への道を断ったため、南岸確保に勝家は長光寺城に配属され、下旬には戦闘となったが、佐久間信盛と共に撃退した。

元亀2年(1571)、最初の長島攻めに参戦するも戦局不利で攻撃を中止し信長軍は撤退することとなり、勝家は殿(しんがり)を努める。しかし、困難を極め負傷をし、旗指物まで奪われた。このため、氏家直元に交代してもらうが、氏家は戦死してしまった。(長島一向一揆)。

天正元年(1573)2月、信長と将軍足利義昭が対立して義昭が石山と今堅田の砦に兵を進めると、勝家らは攻撃をして陥落させた。そして、4月信長の命令の元で勝家が総司令官となって町に放火をして焼き払わせた。しかし、義昭はまたもや槙島城に立て篭もったため、勝家らは7万の大軍で義昭を降伏させた。

天正2年(1574)、3回目の長島攻めに参加し、三手攻めの内右翼を佐久間信盛と共に指揮して勝利を収める。

天正3年(1575)頃、一向一揆が盛んであった越前国に信長は総軍を率いて出陣し平定。勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現:福井市)を与えられ、越後の上杉謙信の動きを封じるべく最前線基地司令官役を申し付けられた。さらにその際、前田利家や佐々成政、不破光治らを与力として付けられ、90年余りの一向一揆で荒れた加賀の平定を任され北陸方面軍総司令官となった。

天正8年(1580)3月、信長と本願寺とで講和が結ばれたが、これに反発した一向一揆は北陸方面で活発化し、勝家は一向一揆の拠点であった金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を加賀、越中まで進めた。
11月、加賀一向一揆を制圧し、さらに、能登や越中にも進出を果たした。
また、佐久間信盛が失態で失脚すると勝家は、名実ともに織田家の筆頭家老となった。

天正10年(1582)6月10日、織田信長が「本能寺の変」で死去するが、勝家はその頃、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城攻めの真っ最中であり、越中国から一歩も動くことができなかった。

信長の死後:

織田家の後継者問題では、勝家は信長の三男・信孝の烏帽子親を務めたこともあり信孝を推したが、明智光秀を討伐しての軍功第一の秀吉が信長の嫡孫の三法師丸を擁立し、衆議でもそれが認められ秀吉は三法師丸の後見役としてのしあがり、勝家と対立した。
また、遺領配分でも河内や丹波、山城を増領した秀吉に対して、勝家は北近江3郡と長浜城を得るにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転をしてしまった。(清洲会議)。
その後、信長の妹・お市の方と結婚をし、天正10年(1582)10月、信長の百か日法要を執り行うが、秀吉は、信長の葬儀が行われていないことに目をつけ、京都・大徳寺で信長の葬儀を大々的に挙行。天下人への足がかりとし、勝家との対立はますます深まった。
なお従来は、勝家とお市の方との結婚は、信孝の仲介による、とされてきたが、秀吉の書状が発見され、秀吉が勝家とお市の方との仲介役をしたことが明らかになった。

勝家は、やがて、滝川一益や織田信孝と手を組んで秀吉に対抗するが、天正11年(1583)、賤ケ岳の戦で秀吉に破れ、越前北ノ庄まで追い詰められお市の方と共に自害した。享年62(63)歳。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。助かりました。ぜひ参考にしたいので回答のご参考になられたサイトや本のお名前を教えていただけるとうれしいです.

お礼日時:2011/08/20 10:25

柴田勝家は武骨で(馬鹿)正直者というイメ-ジが


ありますがそれだけでしょうか。

勝家が一向衆に苦しみながら平定した越前の大半
五十万石を織田信長より与えられ、北陸抑え役として
城を築いたのは、朝倉氏の一乗谷ではなく、北の庄いまの
福井市でした。城下町の栄えは今に至っています。
また暴れ川の九頭竜川には橋が無く、住民が難渋して
いるのを知り、直に橋を架けさせました。
どちらも防衛上はマイナスですが、住民のためを思う
やさしさがそうさせました。
一向衆制圧でも、前田利家が捕えた頭分十数名を
釜炒り(釜ゆで)にしたのは有名ですが、勝家は敵対
するものには容赦しないが、そいう残酷なことはしません
でした

注・利家の行った厳刑は、信長の意向に沿って、止む
を得ず行ったものでしょう。

また勝家は利家が信長の不興を買い、浪人していた時
いろいろ面倒を見たともいわれます。
藤吉郎が重臣のはしくれになり、先輩の柴田勝家、丹羽
長秀から一字づつ貰い「羽柴」を名乗ろうとして頼んだ時
許したのもやさしさ(おおらかさ)の表われです。
(羽柴では柴田が下になる?)

ところで当時いわれていた信長の重臣の評で、
「木綿 藤吉、米 五郎左、掛れ柴田に、退き佐久間」
藤吉は木下藤吉郎(羽柴秀吉)、五郎左は丹羽長秀、
柴田は勝家、佐久間は信盛のこと。
木綿は絹の派手さはないが、用途が広く使い勝手がよい。
米(兵站)は地味だが無くては困る。
先陣で部下に掛れと号令して敵陣に突っ込む勇猛果敢な男
退きは退却で難しい殿軍をうまくつとめる。

掛れ柴田とはかっこういい良いですね。
しかも前記のやさしさも持っています。
織田信孝がお市の方に、縁談を持ち込んだ時、速やかに
承諾したのは、勝家の人柄を知っていたからでしょう。
(秀吉が持ち込んだとの説もありますが、先に話をしたとは
思えません)
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元来、武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている。

[10]。
信長の朝倉氏攻めの際、長光寺城に籠城した柴田軍は、朝倉氏と同盟を結んだ六角承禎(義賢)によって水を絶たれた。しかし、勝家は馬の体を水で洗うなどして余裕を示し、城内に潜入している六角氏の間者の目を欺く。そして出撃を前に城内の奮起をうながし、六角氏を打ち破ったことことから瓶割り柴田と呼ばれるようになったと言われている(これは『武家事記』による創作であるともいわれる)[11]。
前田利家は「柴田修理(勝家)は信長に仕えてから戦功およそ二十四度ありと誇った」と語ったとされている(『武家事記』)。
信長に一度反抗した人物にも関わらず、信長は勝家の武略を高く評価して厚い信任を置いた。また、勝家の信長に対する忠誠心は絶対であったとまで言われている。
ルイス・フロイスは著書『日本史』で「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」と記している。
生涯を通して合戦での活躍が目立つ勝家だが、政治家としても優秀な人物であり、善政を敷き、領地をよく治めたといわれている。だからこそ、織田家で最も多くの領地を有したと考えられている。
一流と呼べる実績を残した勝家ではあるが、同僚時代の羽柴秀吉や配下である佐久間盛政に軍事命令を無視され独断行動をされたり、従属大名的な存在であった前田利家の秀吉方への寝返りを容認するなど、人の使い方において少し脇が甘い部分もあった。
お市の方と結婚した時、勝家は50を超えていたが初婚であった。当時の戦国武将としては早婚(十代での結婚や一桁代での婚約)が当たり前であったため大変珍しいものであった。
一般には秀吉とは性格が合わなかったというイメージが定着しているが、ある合戦で手勢を秀吉に分け与えたとも言われている。しかし清洲会議以降の確執は修復できないものがあった。
ある時、信長が勝家を先陣の大将に任じようとすると勝家は辞した。信長はさらに強いて大将にした。その後安土城下で勝家の隊の行列に信長の旗本が衝突、勝家はこの旗本を無礼と殺した。これに信長は激怒したが勝家は「だから私は先に辞退したのです。先陣の大将たる者にはそれほどの権威を持たせて下さらねば務まるものではございませぬ」と答え、信長もこの勝家の道理には負けて言葉を返せなかった(『常山紀談』)。
勝家が加賀平定を信長に報告するために上洛の翌日、茶会の席で、信長より織田家伝来の姥口の茶釜を賜ったという。
賤ヶ岳の戦いで敗北後、前田利長の居城府中城で前田利家と対面し、先に撤退した利家を責めなかったばかりか、数年来の骨折りを謝して勝家は利家に対し、「秀吉と仲がよいのだから必ず降るように」と語ったという[12]。
北ノ庄城落城のとき天守閣の九段目に登り「修理が腹の切り様見申して後学に仕候へ(勝家の腹の切り様を見て、後学にして欲しい)」と叫び、老女一人を残してお市や侍女たちを一突きにしたあと、切腹して果てた。80余名の家臣たちも、あるいは自害して、城内の者ことごとく果てたという。勝家は自害の直前、お市に城から逃れるように勧めたが、市は「浅井落城で逃げてまたもや」と拒絶したという。このとき、勝家自身は腹を十文字に割いて自害したといわれている。



Wikiより。
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さすがに人柄とかは難しいとは思いますが


元織田家家臣です 信秀(信長の父)から織田家に仕えています。
亡くなった後信勝を後継者にと信長と争うことになりますが 信勝の死後 信長に仕えることになります
信長亡き後なんですが三男信孝の烏帽子親をしてたってのもあって 推すのですが
織田家筆頭家老にまでなっているんですが光秀を破った秀吉の発言力が大きく家督は秀吉が
推していた秀信が継ぐことになり そのご秀信に仕えています

ちなみに正室はお市の方です。 なんとお市の方と結婚したのは50歳だったらしいです
当時一桁 遅くても10代での結婚が普通だったのでかなりの晩婚ですね

最後は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害してます

鬼柴田の二つ名のとおり 戦場では鬼人の如くだったそうです
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