満州事変は侵略ではありませんよね?
満州事変は侵略ではありませんよね?
1911辛亥革命
これ以降、一国多政府の時代に突入、天下大乱の時代が始まる。
1915年 二一箇条要求
日本が清と結んだ条約を、清が消滅したので中華民国と正式に締結し直す必要があった。
中華民国は旧清朝の領域の継承を主張したが、各地に軍閥が跋扈し治安維持能力がなかった。
1919年3月 コミンテルン結成、直後に北京で五・四運動
それまでの中国の伝統や歴史を一切否定する西洋化運動、そして排日運動
四年たってから二一箇条要求がやり玉に挙げられる。
1922年 九カ国条約締結
日本だけが違反したのではない。
蒋介石は1927年米英と紛争を起こしているし、張学良は1929年ソ連と紛争を起こした。
要するにそもそも中国側が違反していた。
1928年 六三カ国で不戦条約締結
米英が重要な点において留保を行うなど実質的に空文となった。日本は自衛戦争については留保していた。
1931年9月18日 柳条湖事件(満洲事変の発端)
中華民国が満州事変を日本の連盟規約違反として国際連盟に訴えたが、国際連盟は日本を侵略国と認定していない。
張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、
海外資本の提供をうけて、満鉄の平行線を建設し始めると、両者の関係は悪化しました。
当時中国は日本との条約を次々と破り、無知な住民を煽って暴力的なボイコット運動を起こさせ、
商鉱農工業妨害、日本国民の命に関わる圧迫行為、反日教科書などの侮日行為、
居留民襲撃や鉄道運行妨害など数百件のテロ行為を重ねていました。
満州には清や列強から承認された日本の特殊権益が存在しました。
日露戦争で日本がロシアに勝たなければ満蒙はロシア領になっていたはずです。
中華民国や張作霖は日本の勝利に何も貢献しなかったのに
日本が10万の戦没者、20億の戦費を費やして得た権益を
「満州は中国だから出て行け」というのはとうてい受け入れられません。
それに満州は万里の長城の外であって満州族の土地です。
もともと、満州に合法的に駐留していた関東軍はそれを守ろうとしただけです。
中央政府の中華民国も現地軍閥の張学良も犯罪に対する治安維持能力と条約遵守能力がなかったのです。
こういった事情から関東軍は権益を自衛するためには満州全土から匪賊同然の奉天軍を追い出す必要があると判断しました。
これは侵略に当たりません。
外国人への犯罪が放置され責任を持って対処する政府が存在しない。
これは国際法的には「無主の地」です。
責任を果たさないのに権利・主権など主張できない、という慣習国際法である。
こうしたなかで不法行為を黙って許容しているとそれを認めたことになります。
ラストエンペラー溥儀の英国人家庭教師であったジョンストンはリットン報告書の
”満州独立運動が日本による教唆によって発生した架空の民族運動であった”
という点を全くの事実誤認であるとして批判しています。
溥儀の忠臣たちは満州族による帝政復古運動を展開していた。
満州事変は日本がこれらにさんざん隠忍自重した末に起きた事件です。
満洲事変は侵略ではなく自営のための軍事行動であったのです。
戦乱と飢饉の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって満州国こそ最後の駆け込み寺でした。
年間百万あまりの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことがその何よりの証拠です。
毛沢東はかつて「かりにすべての根拠地を失っても東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。
実際戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占、中華人民共和国を支えたのは満州国の遺産であった。
豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は
「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。
満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。
参考)黄文雄、岡田英弘、宮脇淳子、倉山満
歴史にお詳しい方、私が調べた上記の記述でどこかおかしいところはありますか?
よろしくお願いします。
回答(6件)
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ここは歴史のカテゴリーなので、歴史学を学んだ者として意見を述べます。
質問者は、ご自分が調べた上記の記述を列挙されていますが、歴史学で調べるという意味は、原史料や同時代の記録に当たって確かめることです。資料の出典すら明記していない書き流しの読み物の孫引きは、調べることにはならないと思われます。
次に、参照された文献は、どれも現代史専門ではない著者、それも右翼のかたの著書に限られます。学界でその所説が認められるには、学会報告なり学会誌への登載が前提になります。こうした手続きを経ていない主張は、素人の思いつきを出るものではありません。少なくとも、意見が分かれる問題について、特定の主義主張に凝り固まった参考書だけを取り上げるのは歴史家の目からみると危険な方法です。
なお、参考にされた著者のなかには、専門領域で立派な業績を挙げられている方もおられます。
最後に、少年時を大陸で過ごした回答者の個人的回想では、侵略以外の表現が思い浮かびません。産業化も、インフラ整備も、究極は日本の利益につながるものでした。
この回答へのお礼
あなたの言うように”原史料や同時代の記録”をもとにあなたのご意見をいただきたかったのですが。
満州の少年が当時の歴史の何を目の当たりにしたのでしょうか?
歴史学を学んだのにそういったことを披露なさらないのは”特定の主義主張に凝り固まった”人なのかと推測されます。
歴史と言うものは勝者の作成した解釈で、中国の歴代の正史を語源としたものです。
日本で言えば、当時の勝者であった天皇家が作った日本書紀から始まるもので、確かにそれを今の価値判断から言ってもしょうがないですが、カイロ宣言は同一世紀どころか、同じディケイドの中で行なわれた事です。
ムッソリーニニのエチオピア侵攻や、ナチスのラインラント進駐に関しても、黙認されていた訳ですし、ケリが着かないで他国全てが侵略と認めたのは、イラクのクエート侵攻だけでしょう。
それでもフセイン側には、歴史上の権利が主張されましたし、確かに中東の今の線引きが行なわれ始めたのは第一次大戦後ですから、まったく歴史的領土権がなかったとは言い切れません。
当時の日本には満州において歴史的領土権を主張する歴史事実は皆無であり、従って旧清国皇帝の血統を利用したので、それが傀儡であったなら侵略と言う定義は揺るぎようがありません。
当時の国際連盟は第一次大戦の勝者である日本に気を使わざるを得ない状況であり、それはソ連のアフガン等への侵略を公式に非難できなかった現国連と変わりません。
従って、その黙認をもって侵略でなかったと言う論理を敷衍すれば、イラク侵略以外の侵略は無かった事になります。
事態にケリが着く前の資料(カケラ)を幾等かき集めても、逆のカケラもあるので、歴史上の評価はケリが着いた後のカケラをもって行なわれます。
どんな侵略にも言い分はありますし、本来「侵略」と言う言葉は善悪とは別の意味合いのもので、他者のテリトリーとされている処に入っていく事に過ぎません。
欧米が揃って侵略競争をしていた第一次大戦までは、侵略が非難される事も無く来ていたが、欧米外の侵略者である日本が登場し、欧州得意の新ルールに因る縛りを造った処で、その日本と敗戦国であったドイツが引っかかっただけの事です。
特に第一次大戦を惨禍なく利用した日本は、極めて外交音痴になっていて独りよがりで、今では北朝鮮でもしない国連脱退まで突っ走ったのですから、歴史の評価が芳しくないのはしょうがないです。
また、ベトナム戦争においては、米国は北ベトナムの侵略と言い、北ベトナム・ベトコンは民族解放戦争と言っていましたが、ご存知の様に北ベトナムの侵略と言う意見は公式に言う国は無くなりました。
この回答へのお礼
意見のごり押しはもう結構です。
ありがとうございました。
満州の問題は非常に複雑な問題ですね。
共通の歴史認識を得るのは無理でではないでしょうか?
歴史的背景の複雑性
満州自体が当時、誰の領土であったか?
無主の地、満州族のもの、漢民族のもの、中華民国のもの
様々な意見があります。
結果的には、最も当時圧倒的に人口比率の高かったのは漢民族が主権を主張する結果となりましたが、それを言えば当事のハワイは日系人が最も多いので、日本の主権を主張できるではないか?などという意見もあります。歴史的にもロシア史、中国史、日本史、朝鮮史が絡み合っているので、歴史に関する知識も半端なものでは理解できません。
歴史的な背景を十分説明できる方は、数百人に一人程度でしょう。
日本国内で言えば、NHKの番組で紹介された内容が大多数の認識になってしまうでしょうし
中国国内では政府の愛国教育が徹底していますから、
実際に満州で生活した人々の認識
満州で生活した人、建国にかかわった人たちの間でも認識は大きく異なります。
大連などで、生活し終戦前に帰国した方は満州は地上天国のようだったといいますし、開拓団でソ連軍に暴行や虐殺(佐渡開拓団事件と葛根廟事件、麻山事件)を経験した方は逆の認識でしょう。
また、建国当事の人たちは理想に燃え、現地の人々(主に中国人)と苦楽を共にした方も多かったようですが、建国後日本から来た人々の中には国粋主義的、偏狭な民族主義に凝り固まって現地の人々を軽蔑していた人も多かったようです。
中国人の中にも満州の政治に理解を示し協力した方もいます。しかし、多くは戦後の奸漢裁判で転向を余儀なくされたり、信念を貫いて処刑されたりしています。
学習レベルやスキルの差こそあれ、日本人と現地人の給与や待遇の差は大きく、不満を持つ中国人も多かったようです。特に流通などの商売では地縁を活かした独自のネットワークを持つ中国人のほうが多くの利益を得るチャンスが多く、日本から来た商売人(一旗あげたい)は警察や軍に賄賂を送るような行為があったようです。
たとえば金正日の父は、満州国警察から見れば匪賊(盗賊)のボスですが、北朝鮮では建国の父です。
20年以上前、日本軍の残虐行為を調べる目的で現地を訪問した平和運動家の女性が突然、現地の老人に声をかけられ、
「私は戦時中、満州国の警察官でした。日本の人は私たちに親切にしてくださいました。当時のご恩は忘れません」声をかけられ、非常に驚いたという話を聞いたことがあります。
満州という歴史的空間で実体験をした方も、少なくなりましたが、共通の認識を得るのは困難でしょう。私たちは当事生活した人々の記憶や思い出をジグソーパズルのようにつなぎ合わせて、当事を推測するしかありませんが、その内容はばらばらで、つなぎ合わせた姿は主観が大きく影響すると思います。
政治的な問題
これはいまさら言うまでもないのですが、NHKの放送でも「満州」といったあとには必ず「中国東北部」と付け加えていますね。中国政府としては日本の政治や国営放送にまで圧力をかけて「満州」という言葉や記憶を消し去りたいという強い信念を感じます。
満州の問題は、主観や先入観によりどのようにでも解釈可能だと思います。
その分、資料も多く、武勇伝、苦労話、中国人との軋轢や信頼、多種多様の人間ドラマもあり、興味は尽きません。
別の視点で書かれた本や、当事の思い出を綴った出版物(古本)を読むと面白いですよ。
技術や経済で中国に抜かされつつある日本ですが、当時の日本人の勇気や強い信念は希望を失いかけた我々に新たな勇気を与えてくれます。
この回答へのお礼
参考になるご意見ありがとうございます。
また機会がございましたらどうぞよろしくお願いします。
過去にも似た様な質問があり、不毛な遣り取りがありましたが、国語の項目にこの質問があれば、侵略の定義からは明らかに該当しますよね。
歴史においての質問なのですが、歴史とは現在の評価になりますので、カイロ宣言での「日本の侵略を制止し、」と言う部分が、それ以降に覆されたと言う事実が無い限り、それ以前のピースは何の意味も持ちません。
仮に侵略だという主張が全く無かったら別かも知れませんが、並列で主張が存在したのですから、その決着は後日「歴史が決める」事になります。
歴史の問題として正確な表現をすれば、「当時は侵略でないとの意見も公式に存在した。」と言う事で、現在は「侵略であった」と公式にされていると言う事ですね。
この回答へのお礼
歴史は当時の価値観、慣習、国際法で評価しなければいけません。時代の変化によって価値観やルールは変わります。第2次世界大戦当時の行動を二一世紀の今のルールで評価するなどありえません。
No.2ベストアンサー20pt
はい、満州事変は侵略ではありません。ただし適切な外交措置であったともいえません。
二一箇条要求そのものは決して無法な要求ではありません。ポーツマス条約でロシアから譲渡された満州権益の有効性を、辛亥革命後に成立した北京政府(北洋軍閥政府)に承認を求めたものです。しかし、その内容は列強の利害に抵触する部分もあり、列強の利害に関する配慮に欠けたものであった。
また狡猾極まりない袁世凱の目論見を見抜けなかったのが失敗でした。袁世凱は二一箇条要求を利用して反日ナショナリズムの高揚を図った。元々中国は日本と違って条約を遵守する国ではない。一度結んでもそれを無効化する悪巧みを持っています。そういう中国の伝統的体質を見抜けずに、中国に国際ルールが通用すると考えていたのが大間違いだったということです。所詮、純情・単純な日本に扱える相手ではない。二一箇条要求を推進したのは加藤高明外相の暴走であり、日本国内の支持も取りまとめたものではなかったのです。また北京政府(北洋軍閥政府)も脆弱な政権であり、中国国内の支持も取り付けていません。条約を結んだとはいえ、満州権益は極めて不安定なものであり、日本としては反って手に追えないやっかいな問題を背負ってしまったということです。
そして蒋介石の北伐で北京政府(北洋軍閥政府)が倒れた。こうなると満州権益はいよいよ風前の灯です。まだ政権基盤の固まっていなかった蒋介石は、日本の満州権益を尊重する態度を一旦は示したとはいえ、そのまま引き下がる相手ではないのです。蒋介石は満州に深入りすることなく、その後軍閥勢力・共産勢力の打倒を目指して政権基盤を固めようとしました。満州は北洋軍閥の分派である張軍閥の実効支配下となった。このように国としての体を為していない中国で、満州権益をどう保全するのか。これは大変な難題であった。こういう中国情勢の変化に日本政府は対応しきれなかった。
幣原外交は、国際協調路線といいながら在満日本人を無為無策に見殺しにするような外交であった。
中国人の排日テロ被害に泣く在満日本人の訴えを幣原外交はことごとく握りつぶしたのだ。
そもそも歴史は表に現れた事象だけを見ても理解できないのではないか。表に現れない「為すべきことをしなかったこと」にも、スポットライトをあてるべきではないのか。私はそういう認識も持っています。
当時、日本は国際連盟の常任理事国でもあった。国際協調路線というなら国際連盟に中国の非道を訴えなければならなかった筈です。政治が国民の問題を解決しようとしないなら、国民は政府を見放して軍部に解決を期待するようになるのは当然の流れです。これが満州事変に至った根本的な問題でした。
しかし満州事変は日中紛争を解決することにはならなかった。張学良が蒋介石に合流するのを助けただけだった。
リットン報告書の裁定は、満州国建国は日中紛争の解決にはならないというものであった。
私は満州事変が侵略かどうかを論じることにどれほどの意味があるとも考えていません。
国際協調路線といいながら無為無策の幣原外交が国際協調を壊し、日本をさらなる苦境においつめてしまった。国際協調路線といいながら幣原外交は日本の立場を国際社会に訴えようともしなかった。
日本外交はこの後、ひとりよがり、独善的な松岡外交によって奈落の底に堕ちて行きました。
確かに満州事変は、自営の為の軍事行動ではあった。しかし、そもそも不法行為を黙って許容していた幣原外交に重大な非がありました。国際連盟の常任理事国としての責務を果たそうとしなかったことに関して、国際社会からの非難を免れ得ないと私は考えています。在満日本人に泣き寝入りを強いた日本政府は既に機能喪失といわれても仕方が無い。
この回答へのお礼
外交面は問題があったでしょうね。コミンテルン結成後、スパイ工作が横行した時代を、武士道精神で正々堂々と戦った日本が罠にはまったという印象です。
歴史にお詳しい方私が間違っている点や見落とした点など教えを乞いたかったのですが、そうでない方が紛れ込んでいらっしゃって残念です。
mekuriyaさんの貴重なご意見が救いです。ありがとうございます。
いいえ侵略です。
人の家に土足で入り込んで行って、「ここは俺の家だ」と言えば侵略でしょう。
平たく言えばこうでしょう?
爺の独り言より
この回答へのお礼
人の家、とおっしゃいますが、満州は誰の「家」でしょうか?盗賊であった張作霖・張学良親子ですか?かれらは満州族ではありませんよ。
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