プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

江戸時代の海運において、静岡県のとある場所で、江戸から物を運び出すことは出来なかったと聞きました。
その為そこでは、
(1)静岡県の天竜杉を船で江戸へ
(2)何も船に積まずに伊豆へ
(3)伊豆で伊豆石を積み、駿河湾などの荒波を乗り越えた

との事です。
どう考えても無駄な気がします。
もしそんな規制があったとしたら、私だったら天竜杉で船を作り、材木らと共に江戸へ。
もしくは船の修理を一手に引き受け、やはり同じく江戸へ。
江戸で材木も船も売り払い、荷を積んで陸路を通り静岡に帰ります。

本当にそんな事があったのでしょうか。不思議でなりません。
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、どうか教えてください。

A 回答 (4件)

当時の日本の物流はかなりの制約がありました。


まず、陸路において
・大井川などの軍事要所には橋がかかっていない
・箱根などの関所改めに時間がかかる
・一般民は馬も馬車も利用できない
ということと、

海路においても鎖国政策の影響で
・三角帆が利用できない(ヨットの帆のような風を自在に受けたり受け流したりする帆)
・甲板構造が作れない
・舵が1枚しか装備できない
という制約がありました。

そのため、日本の船はどんなに大きくても、1枚帆で甲板のない船になったのです。

帆が1枚しかないと風を自由に受けることができません。特に風が強くなってきて危険が大きくなっても、帆が大きいので強い風を受けすぎると降ろせなくなり、そのまま沈没したり破壊されたりします。それをさけるためには帆柱(マスト)を切り倒して、船が沈まないようにするしかありませんでした。また甲板がありませんから、嵐のときに水がどんどん船に入り、結局沈んでしまいます。
当時の日本の廻船は遭難する危険がとても大きかったのです。

これらの危険をさけるために、日本の廻船は日和見をしながら荒天をさける港々によって、時間をかけて運行していました。
ところが、静岡県の一帯は遠州灘という難所があり、ほとんど港がありません(港というのは風をさけらられるように丸く囲われている必要があります。)
また遠州灘一帯は黒潮の流れが速く、空船で喫水が上がった状態ではうまく操船できないのです。
さらには、江戸時代の廻船は「江戸に運ぶ」というのが主な目的で「江戸から運ぶ」というものは殆ど無かったのが特徴といえます。
一応、江戸から輸出する数少ない商品に「古手の着物」などがあったのですが、どちらかというと東北地方に流れていくため、廻船は北周りで江戸から離れていったのです。

つまり、廻船は新潟や金沢などの米どころで米を積み、大阪で酒などを積み(灘の酒)、江戸に輸送して儲け、空船で黒潮に逆らって移動するのは危険も大きいので、古手の着物などを積み込んで仙台などで降ろし、そこで購入できるものを積み込んで津軽海峡を廻って日本海側に帰る、という一方通行的な廻り方をしていたのです。(東北周りだと、今度は親潮に逆らうのですが、九十九里と鹿島灘以外は良質の港がたくさんあったので、比較的安全だったのです)

ですから、わざわざ江戸から静岡に物を運ぶということは殆ど無く、技術的にも難しくお金もかかるため(つまりだれも行かないので、わざわざ専用にチャーターすることになるため)、天竜杉を江戸で売って(これはものすごく儲かる)そのお金で船をチャーターし、伊豆まで行って、駿河湾(遠州灘)を乗り来るための重石を積んで移動した、ということになります。

>江戸で材木も船も売り払い、荷を積んで陸路を通り静岡に帰ります。
一番最初に書いたように、日本では通常馬車を使っていません。また道も整備されていませんし、馬車を引く馬のための整備場(夜馬が休めるところや馬のえさなどを売ってくれるところ)も充実していません。(ちなみに、幕府の早馬用の設備はありました。それを駅というのです)
ですから、物を運ぶのは人力に頼ることになり、箱根を越えるためには莫大な費用がかかったのです。
それに比べれば、大量に物を運んだり、大きくて重いものを輸送するには、手間がかかっても船のほうが有利だったため、ご質問のようなこともしたのです。
ただし、先ほども書いたように基本的には商品を得るには、生産地である関西から江戸に向かう船が立ち寄っておろしてくれたので、十分に賄えたはずです。着物も関西の古手か関西の新品が買えたのです。

ご興味があれば、司馬遼太郎著「菜の花の沖」という小説を読むと、当時の廻船のダイナミックさが分かると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

考えてみれば疑問は図書館ないし、資料館ないし、自分で調べるべきでした…。
不思議だなぁ…で質問した足らない私の疑問に、大変丁寧に答えて頂きまことに有難うございます。

回答者phj様のお陰で、当時の時代背景に興味を持ちました!
菜の花の沖、是非とも読ませていただきます。有難うございました。

お礼日時:2011/08/04 06:53

船に関しては論考がないが



http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F …

無名子という方が要約しているように、既得権の保護で陸上での大八車が普及しなかったというのはありませう。
海上でも有り得る話。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど、勉強になります!
現代も江戸時代でも、同じように組合等の力が強かったのでしょうね…。

お礼日時:2011/08/04 06:44

何も無駄じゃないです。

もしかして伊豆七島と勘違いされていませんか?伊豆石の伊豆とは伊豆半島のことです。静岡から江戸への航路は伊豆半島をぐるっと回るルートしかないし、何度も途中で寄港します。伊豆石は古墳時代から伊豆半島から切り出されていて港のすぐ近くに石丁場があるのです。寄港のついでに石を積み入れるのは何でもない話です。

asahi.com 石丁場遺跡に石碑建立、由来を説明 伊東 - マイタウン静岡
http://mytown.asahi.com/areanews/shizuoka/TKY201 …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

伊豆半島については理解していました。
ですが、私には回答者さまの言う当たり前の知識が無いのです…。

当時は航海の技術そのものはかなりの水準だったと予想されるのに、何故なのだろうと。
回答有難うございます。

お礼日時:2011/08/04 06:49

そのような規制があるのに、江戸で船が(妥当な値段で継続して)売れると思いますか



質問者の考えでは採算が取れないから、例示されたような方法がとられた と受け取るべきでしょう
    • good
    • 0
この回答へのお礼

勿論その通りです。ですから、何故不可能なのか知りたかったのです。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/08/04 06:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!