最近、中公新書で『江の生涯』を読み、その中で家光の生母は『江』ではない、
という主張をみました。
資料を丹念に見て論証していますが、個人的には結論ありきで、それに資料を
あわせているのでは?という気が致しました。
もし、家光の生母が別にいたなら、なぜ、表われないのか?
逆に家光を嫡子として認めるならば、あべこべ忠長を偏愛する事自体、しては
いけない、しない行為だと思います。
誕生日を言わないよう命令した、日程から推測して(ただし、引用資料に間違いが
ないとも限らないが)家光を出産するのは苦しいのでは?というところから
家光の生母ではない、と結論付けるのは極端な気が致しますが
専門的な知識をお持ちの方はどのように、考えますでしょうか?
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
一応歴史学をかじっている者として回答します。
春日局母親説は論外ですが、
江の実子ではないとする福田氏の説は説得的だと思っています。
・産み月の不足
・嫡男決定に時間がかかりすぎている。
・リチャード・コックスの日記による通説とは違う誕生祭記事。
・江の生存中は極秘とされていた家光の誕生日。
という史料に基づいたいくつかの事項による説ですので、一般論では否定できません。
・産み月は足りていたことを示す史料や解釈。
・誕生日が極秘とされていた原因についての別の解釈。
などが否定には必要でしょうか。
反証する史料を持たない専門外の人間としてはとりあえず異論を出す余地がありません。その是非は今後の専門家による批判を待つしかないでしょう。
これまであまり疑われてこなかった家光の出生について、異説を提示したことは、批判によって最終的にそれが間違いとされたとしても、その議論の課程でより真実に近づくことですから非常に有益なことと思います。
ちなみに福田氏は江が忠長を鍾愛していたことを記していますが、偏愛していたとは書いておりません。
忠長を偏愛したという通説の根拠も気になるところですね。
ご回答有難うございます。
確かに、家光の母が江ではない、というのは、真面目な話としては
あまり議論されて来なかったと思います。
ただ、普通は正室ではない生母の名前が、ほとんどのケースでは残っています。
保科正之の場合でも、母の名前は側室としては言えなくても残っています。
他の将軍も生母の名前は、きちんと伝わって残っています。(ほとんど正室の子ではありません)
となると、江の場合でも、根本的に、あえて生母の振りをする必要がない、
誕生月が極秘、とする必要も全く無い気がします。
産み月・・・10月10日というのは30日で数えず28日で数え、しかも最終月経から数えます。
通常、排卵日から266日後が予定日で、多少の前後はあたりまえですから
産み月が本当に不足しているでしょうか・・・?
誕生日・・・極秘にしているのは、本当のこどもじゃなから・・というのは論理が
飛躍しているような・・・例えば呪詛をおそれて・・なんていうのも
当然あるんじゃないでしょうか・・・
やはり、状況からすると論理的には飛躍しているように思えます。
ただ、多くの議論を聞きたい気がします。
ご回答有難うございました。
No.5
- 回答日時:
私も江の子供だと思っていますが、「違う」という意見がある事も確か…
その理由は、これまでの回答者の方々がおっしゃる様々な理由があるわけですが、
一つ、まだ登場していない事があるので、回答させていただきます。
それは江戸城の『紅葉山文庫』に収蔵されていた(現在は東京の京橋にある図書館に保存されているらしいです)『松のさかえ』という文書
ここに
「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局」
と記述されているのだそうです。
竹千代君は家光の事、「御腹」というのは「産んだ人」って事ですね。
ただ、私は専門家ではないので、この文献がどれほどの信用度があるのかまではわかりませんので、そこのところは、専門家の方々のご意見を参考になさってください。
ご回答ありがとうございます。
ただ、春日局が母親というのは、ちょっとありえないと思います。
まず、第一に前年に稲葉正利を出産していること。絶大な権限を最初から持っているわけでなくて当初は乳母としての採用で、可能性としては『母乳』の担当と推測されるので、前年出産して、すぐに妊娠して家光出産というのは、無理じゃないかな・・という気がします。
また、乳母募集のタイミング、京都で募集されたこと、秀忠と接点を見出すことができません。
やはり、春日局が家光の生母というのは、ありえない、というのが結論じゃないでしょうか・・・。
No.3
- 回答日時:
専門的知識を持っているわけではないのですが、家光の誕生について父母についていくつかの異説があります。
母親についてはNO2さんも言っておられるように春日局説。父親については家康説、秀忠説があります。これらの説の疑問点はいくつかあります。
家康説
家光の生年が慶長9年(1604年)ですが、家康の子の頼宜が慶長7年、頼房が慶長8年となっており、仮に家光が家康の子としても家光だけがなぜ秀忠の子とされたのか不思議ということになります。特に慶長6年に家康が将軍職に就任していますので、このような時期に内紛が起こる可能性があることをするのか疑問です。また、家康は頼宜を特にかわいがったとの資料がありますので、なおさらです。
秀忠説
江が秀忠に嫁いだのが文禄5年(1595年)です。もし秀忠が江以外の女性に子供をつくらせたとなった時には後年の慶長16年生まれの保科正之と同じ運命をたどった可能性があります。その存在がしばらくの間伏せられた可能性があります。また、織田信長の例(庶兄として織田信広が存在する)もありますが、戦国時代であっても正室腹の長男子は庶兄があったとしても嫡子として扱われます。もし、家光が江以外の女性の子とした場合、正室腹の長子は忠長となり、忠長が嫡子として扱われた可能性が高くなります。
最後に、乳母の件ですが、この権威は高く、乳母および乳母子(めのとご)は側近として重用されることが約束された存在です。その反面乳母子は主君に最後まで付き従い、主君討死の際は共に死することが求められます。木曽義仲に対する今井兼平は有名ですが、信長の乳母子の池田勝入も乳母子ゆえに出世の糸口となったことが知られています。また、秀頼の乳母子の木村重成、大野治長も大坂方の中では出世しますが、最後は秀頼に殉じています。さらに、乳母の場合、単なるお乳の人ではなく、母親代わりに主君を教育する役割を負っていますし、主君の代わりに使者の役を務めることも大いにあります。大阪の陣の契機となった方広寺の鐘銘事件では秀頼の使者として乳母の大蔵卿局(大野治長の母)が駿府まで出向いて家康と対面しています。
一般に嫡子の場合、母親の手元を離れて乳母に育てられるのが一般的でした。その分母親との結びつきは疎遠になりやすく、また嫡子の側にも乳母だけではなく側近が付きますので、派閥が作られやすくなります。これに対して正室腹でも次子は嫡子ほどの扱いはされません。中には正室が直接育てた例もあるほどです。そのようになると自然に派閥ができ、対立抗争するようになります。徳川将軍家の事件のその根底に譜代層と出頭人と呼ばれる新興層の対立がどの時代にも見られます。徳川将軍家で正室腹で将軍となったのは家光と慶喜の二人ですが、慶喜は水戸家の正室腹で、純粋に将軍の正室腹は家光ただ一人です。また、正室の出生の男子が2人いることもありません。更に、秀忠自身が正室腹でも長子ではなく、家康の後継者となるに対して、兄の結城秀康のような有力な存在をあったことなどから家光・忠長の対立が激しくなったのではないでしょうか。その結果家光は江の子ではないのではないかとの憶測をよんだものではないでしょうか。
ご回答有難うございます。
実際のこの中公新書の『江の生涯』の場合
一部の事実から、より大きな推測を結論ずけているのでは、と
思います。
家光が江の子でない、ということを
決定的な資料なしに大胆に決めるのはどうかな・・という気が致します。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>家光の生母ではない、と結論付けるのは極端な気が致しますが
確かに、家光は江の子どもではない・・・と言う説が存在することは事実です。
その中でも一番有名なのは、
*乳母である春日局と家康の子どもだとする説。
これには、
(1)竹千代(家光)が生まれるとすぐに乳母である春日局に育てられた。
(2)春日局は家康の愛人であった。竹千代は実は家康と春日局との間の子どもであった。
(3)竹千代が次期将軍と認められるために、春日局は伊勢参りを口実に駿府の城で隠居していた家康に、いとも簡単に面会できている。長子相続を願い出ている。
(4)一介の乳母が大御所さまに簡単に面会できるのは家康の愛人だったからだ。その後もたびたび家康に面会に行ったと言われている。
(5)その後、大御所は江戸に出向き、ご機嫌伺いに参列した将軍秀忠の家臣たちを前に、床の間から竹千代を呼び菓子を与えた。
(6)それを見ていた国松(忠長)が、同じく床の間へ上がろうとした時、家康は「国松、そなたはこの床の間に上がる立場ではない。お前は、いずれ竹千代の臣下になるのだから、席を同じくすることはあいならぬ」と、長子相続を決定付けた。
(7)竹千代は生来の吃音障害(きつおんしょうがい=どもり)があったため江が聡明な国松を可愛がり次期将軍にしようとした。
このような話がまことしやかに囁かれていますが、私としては江の子どもであったと思います。
ご回答有難うございます。
でも、個人的には春日局と家康の子であったというのは
三面記事のたぐいで、真面目な話としては、ちょっとありえないと
思われます。
No.1
- 回答日時:
こういう話はよくあることです。
元々歴史って、異論を差し挟む余地があることがほとんどですから。個人的には家光は江の子供だと思っています。二人とも実子でありながら、次男の忠長を可愛がったというのもあり得る話で、他にも似たような例はいくつでもあります。
やはり家光の乳母との確執は大きな影響を与えてると思いますし、そのように家光よりも忠長を可愛がったからこそ、家光は江の産んだ子ではないのでは?という異論が出るんだと思います。
ご回答有難うございます。
昔だったら子供も幼少期にたくさん亡くなりますから、
言葉はわるいですが『スペア』はたくさん必要だったと思います。
秀吉や家康は晩年まで側室をたくさん抱えていました。
ところが、秀忠には側室がいません。これは不思議ですね・・・。
(保科正之だって、公的には認めていませんから、当然、生母・静(志津)は
側室ではありません)
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