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私は無という状態も存在しないと思います。

その例を3つ考えました。

例えば、仮に、1立方メートルの『無の空間』があったとして、その『無の空間』に普通のボールを投げ込んだらどうなるか?
という事を3つ考えます。


(1)無の空間にボールを投げ込むとボールが消え失せてしまう場合。

これでは、無の空間がボールの存在を打ち消してしまうという、性質を持っていることになり、存在(ボール)を打ち消す力を持つ、という性質を持つ存在(有)になってしまう。


(2)無の空間にボールを投げ込むと、ボールが無の空間の中へ飛んで行き、放物線をかきボールは無の空間の中へ落ち、ボールは存在し続けた場合。

これは、言わずもがな、無の空間ではなく普通の空間である、ボール(存在)を存在させるという性質を持った存在(空間)である。

(3)無の空間にボールを投げつけると、ボールは無の空間に入らず跳ね返ってしまう場合。

これでは、無の空間が物体を跳ね返えす、抵抗力または斥力という性質を持っていることになり、抵抗力という性質を持った存在(有)になってしまう。


結局、無という空間を想定してしまうと、何らかの性質を持たざるを得なくなり、何らかの性質を持った存在になってしまう。


また、『無とは不可知だ』、と言ったところで不可知な性質になってしまい、不可知な性質を持った存在になってしまう、それは不可知な有(存在)である。
また、無という状態というのも、存在を一切存在させないという性質を持った有(存在)になります。
そもそも、無が存在したら矛盾な気もします、無いのに存在すると言うのは。


ということは、つまり、無は存在しないのでしょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

無、という言葉に惑わされているだけの


ように思えます。

前の回答者さんの指摘にもあるように、
有があるから、無という言葉が必要に
なっただけでしょう。

哲学にはこの種の誤解が多くあります。
それが言語哲学が出てきた一因でも
ある訳ですが。

現実の世界に、それこそ何も無い無、というのは
存在するか、といいますとおそらく
存在しないと思います。

例えば重力です。
あれはどんな遠くても、どんな物質の内部にも
浸透していますから。
どんな空間?にも重力は存在する訳です。
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 「無」といった瞬間、「無」というが存在しますから


 その場合、何も言わない状態になる。それも含む。
 しかし「無」という単語は現実に「存在」して「使われている」
 それさえ存在しないなら、この質問も出ないはず。

 いろんな意識レベルで分けて考えれば、「ある」と「ない」では、簡単にいえば「人の見える範囲」の存在は「ある」といい、人が見えない部分を「無い」という。
 これはそのレベルの意識レベルで答えが変わる。

 ですから質問者さんの答えは、今のあなたの意識レベルでの答え。というしかない。
 ですから、途中の状態だと認識します。
 深いですから最後は自分勝手な答えだったりしますね。
 対象にもとりますし、関係性にもよる答えが出てくるのは予想済み。
 無という存在とでもしておけばいいのでは

 またこの世界は矛盾で成り立ち、その矛盾を調和する力が働いてます
 つまり、矛盾はアクセルとブレーキだったり、男と女だったり、矛盾を受け入れて現実をみると、
 次の意識レベルで調和が見えてきます。

 ですから大人は矛盾を現実の中にあるものとして理解し受け入れます。
 あなたは子供だから、矛盾がいけない。矛盾だ。矛盾が存在してる。というのは当然のことでしょう。
 思春期あたりでよく気にする言葉が「矛盾です」
 
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「無という状態も存在しない」というより、「存在自体が無」


なのですから。
存在について厳密に把握せずに、感覚的(現象表面的)
にとらえて、それを除く事で「無」という概念を得ていますが、
その「存在」自体を原理的に確定化しようとしたら、無に
還元した(物事を表面的に捉える(絶対確定化しない)事で
有限的存在性は派生していた)のです。
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私たちが「右」を意識できるのは「左」を知っているからです。


「上の方」ってのが分かるのは「下の方」を知っているからです。

「無い」という概念も「有る」を知っていて、有る物が無くなるということを知っているからです。

私たちは、とりあえず、ものごとを相対的にしか理解し得ないようです。
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不思議ですね。



なぜ 何も な~~~にも無くてもいかったはずなのに  いつしか気が付いたら私たちは 何故?何故? こんなにも無限に豊かな大地に 息をし、意識をしていたのでしょう。  

これほど 豊かな》有《の中に?

無くてもよかった  《はず》  の状態を 私たちは「無」と呼んでいるだけだと思う。

つまり 《有る中》に生きている以上 やっぱり無いものは無いし 無いものからは何も生じないわけだし、
最初から何かが《有り》つづけていたことだけは 確かなのでしょうが。




わたしに 解ることは  ほんの弱い生物でありつつ、 感じる側 星たちの空間の大きさや 逆に小さな花に感動する心の側の存在が  無限に豊かな可能性を確かに持ってるということ。

実は 私 味も何も 五感が感じられない病気のようなものに3年も苦しんだことがあります。

これは 疲れ果てたのか ともかく川原で ドテ^^と寝転がっていた時 数時間たったころ せせらぎの音に気が付くようになり そこから快復していきました。  その時までは すべてが灰色のようだったのが 青空が青いのも 雲が白いのも 感動というのではなくですが 見えてきました。

その後 ほんとうに 大自然に感動するような出来事もあり、 私は舞踊家を目指す者となりました。

いまだプロではないですが^^。

何も感じなければ 《有》って 何なの という感じです^^。

もし動物が 言葉を《有》に限り理解したとして それって何? という笑い話の世界。

そこにあるのは 無意味という暗闇だけです。

しかし その逆の可能性を人間の脳が見出した時には、その可能性は無限です。


この?  この不思議さ と言う時の 私の感覚はそれなのです。

説明がむずかしいのですが、

この感覚の中の《有》からは、 無とは そのはずだった《はず》としてのみ 心の中にその限りそんざいする概念を言葉化したもの。

概念に過ぎないので 実際にはもちろん無い。 でもその心の中の《無》は 有の有意義さがわかるほど強烈に、 《心の中には》概念として存在する!

同じに たった「今」、こうして不思議な《有》の中に生きて 言葉を交わしあっているのですから 言いたいこと解ってほしい!  のですけど^^♪
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透明人間が現れる。

というのと同じで、
現れないのが透明人間であり、存在しないのが
無なのでは?
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なんか面白いです!


感動します!


1立方メートルの「無」が有ると仮定した時点で「無」ではないですよね。
つまり、「無」とは、一つの存在としても成り立たないものだと思うのです。つまり、「無」の存在は不確定かつ根源的な存在のため、我々が「無」について考えても、矛盾が起きてしまいます。

「無」は、不確定性があり、有るとも無いとも言えない存在です。つまり「有」も、実は、有るとも無いとも言えない確定出来ない存在だと言えるでしょう。何故か。

例えば、

目の前に、本という「有」があるとします。しかし、一人は、目を開けて普通に「本があるやん!」って、存在を確認できます。しかし、この事実上、本が有る部屋に、目隠しして連れて来られた人に、本の有無を聞いたらどうなりますか?実際は本が有るのに、有るかどうかが分からないですよね。
この逆が「無」。つまり、見た目は何も無いので分かりませんが、ただ「無」というのは存在する。

このように存在の有無は、確定出来ず、人間は存在観念が有る無しだけしか認識出来ない生き物なので、そう言わざるを得ないのだと思います。存在は確率でしか現せれない存在なのです。





と、一つの意見(受け売り)を述べさせていただきました。すいませんm(__)m
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ANo.8です。



究極からすれば、我々も宇宙も存在しません。

存在が知覚されているからと言っても、
それが実在の証明になる訳ではありません。

本当は、何も無くて、
ただ知覚(大いなる意識)と、
存在と言う「嘘」があるのみ。


・・・と、言うのが私の持論です。
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この回答へのお礼

ご回答して頂きありがとうございます!

私なりに解釈させてもらい、感想を書きたいと思いますが、ただの蛇足と思って下さい。


>究極からすれば、我々も宇宙も存在しません。

確かに、存在の定義がはっきりとしない以上、『我々人間も宇宙も確かに存在しているのだ』と、永遠に言い切ることは不可能なのでしょう、ただ、何か有るとは感じていたとしても。


>存在が知覚されているからと言っても、
それが実在の証明になるわけではありません。


確かにそう思います、知覚=存在というのが正しいのか証明できません、どんな知覚にせよ、我々の意識というのは、例えば、赤い色を見たとき、赤色という名前は決まっているが、しかし、「赤色とは何々だ」と、はっきりと言い切ることも、証明することもできません、しかし、赤色を見て最低限は「何か有る」、「何とは、はっきりと言えないけれど、何か有る」とは最低限言える知覚があるのに、その知覚が存在なのか、無なのか、はっきりと決められません。そして、一方で、『存在しないもの(無)は、存在しない』ということに全く矛盾は無いと思うのにです。。


>本当は、何も無くて、
ただ知覚(大いなる意識)と、
存在と言う「嘘」があるのみ。


私個人としては、無が存在してはそれこそ矛盾だと思うので、無いものは、存在しないので、おっしゃられる「本当は何も無くて」というのは、何も無い状態が存在すると解釈しました。
とすると、やはり何処までも「存在は本当に存在するのか?」と問い続けても、逆に存在は無になることが絶対出来ない気がします。

また、私なりに解釈しますと、おっしゃられる「本当は、何もなくて」とは、確かに、我々の体(嘘)と意識(嘘)は、結局のところ、素粒子の集合体であり、本当に存在するのは素粒子の方であって、我々(嘘)はただの現象に過ぎないとも思いました。そういう意味で、我々(嘘)は本当に存在するのか?いや、本当に存在するのは素粒子ではないのかという気がしました。

しかし、素粒子は結局エネルギーなので、素粒子すらも嘘で、エネルギーが本当なのなのかもしれないと思いました。

ありがとうございました、以上蛇足でした。。

お礼日時:2011/08/28 16:00

これは ひとつの仮説なんですが


有をプラス1として 宇宙の始まりをゼロとします。
そうすると無は マイナス1にならないでしょうか。
マイナスの概念なら 有っても邪魔にならないでしょう。

例えば 株式会社は マイナスの概念の象徴といえます。
元々がマイナスなので どっからでも資金を持ってこられます。
ただし 物を持ってこられても困るので 現金化して受け入れ
します。そして 株を発行します。実に能動的ですね。

そう考えれば 無(マイナス)の空間に ボールを投げれば
素粒子に分解されて吸収されるんじゃないだろうか。

原理的な概念は 単純であればあるほど 楽に生きられるん
ですが いかがでしょう。参考になさってください。
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この回答へのお礼

ご回答して頂きありがとうございます!

私個人の解釈による蛇足(駄文)となりますので失礼します。。


>これは ひとつの仮説なんですが有をプラス1として 宇宙の始まりをゼロとします。
そうすると無はマイナス1になはならないでしょうか。

私なりの解釈になりますが、『プラス1』は、この物理法則(秩序)を持つ宇宙と解釈しました。
次に、『マイナス1』は、この宇宙の力が反対という物理法則(反対の秩序)を持つ宇宙と解釈しました(例えば、重力や時間が逆になっている)。

次に、『ゼロ』は、混沌(無秩序)で、限りなく無のイメージに近い宇宙で、「プラスの宇宙もマイナスの宇宙も存在しない」という状態が存在する混沌(無秩序)の宇宙、つまりプラス宇宙とマイナス宇宙の力どうしが互いを打ち消し合っている状態(つまり、無いという状態が有る)か、または、プラスとマイナスの間の平衡状態で振動(混沌)しているのではないか、と解釈しました。

上記の『プラス』も『マイナス』も『ゼロ』も存在(有)でしたが、しかし、三つの中に『無』は登場しませんでした。

つまり、『無いという状態』(この場合、無のイメージに近い混沌の宇宙)とは、そういう状態の存在になり、それは存在(有)でありますが。

『無は存在しない』と思うのです、無が存在しては文字通りそれこそ、矛盾になると思います。


>無(マイナス)の空間に ボールを投げれば
素粒子に分解されて吸収されるんじゃないだろうか。
無の空間という時点で、無という性質を持った空間という存在(有)になります。

仮にその無の空間にボールを投げて、ボールが分解されたら、その無の空間はボールを分解するという性質が確認でき、確認出来るということは、何かが存在ないし有るということが分かるので、もはやそれは無ではないということになります、「ボールを分解する性質を持つ空間」が存在するとなるのではないでしょうか。


以上蛇足(駄文)失礼しました。。

お礼日時:2011/08/28 18:41

>『無とは不可知だ』、と言ったところで不可知な性質になってしまい、


 不可知な性質を持った存在になってしまう、それは不可知な有(存在)である。

そんな感じと思います。
無は無限の有をも飲み込めるほどに超高次元空間?存在なので、
高次元から低次元は認識しえますが、
低次元なままに高次元の世界を理解させることすら不可なのです。

なので無の超高次元空間に入った三次元ボールは、
同じく三次元世界の人間ごとき!?持てる感官や作った装置では認識出来なくなるという意味で。
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この回答へのお礼

ご回答して頂きありがとうございます!

私個人の解釈になりますので、蛇足(駄文)と思って下さい。。


>無は無限の有をも飲み込めるほどに超高次元空間?存在なので、

無が存在しては矛盾なので、無は存在しないといということになりますので、ということは、それは「無限の有をも飲み込める超高次元」な性質を持つ無のような状態の存在(有)ということですね、つまりそれは存在となると思います。


>なので無の超高次元空間に入った三次元ボールは、
同じく三次元世界の人間ごとき!?持てる感覚や作った装置では認識出来なくなるという意味で、


無の超高次元空間に入ったボールが認識出来なくなれば、結局は、その高次元空間にボールを投げ込むと「認識出来なくなる」ということが認識できるため、その空間には何か不可知な力が存在することになり、その無の空間は存在ということですね。

以上蛇足でした。。

お礼日時:2011/08/28 17:02

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