Q質問

 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?


 ほかの人からの評価についても 知りたいです。
 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。
 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。

 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

質問者からの補足コメント

  •  すみません 不勉強を省みず――もしくは 不勉強であるゆえに―― 大胆な尋ね返しをおこないます。

     ご説明にしたがうならば その内容は 例のプロティノスの弟子であったポルピュリオス(234~305以前)の書いた『イサゴーゲー』における分類論(カテゴリア論)と同じであるように思ってしまうのですが いかがでしょう? (新プラトン主義の系譜ですね)。

     ▲ (ポルピュりオス:イサゴーゲー) ~~~~~
      類とは何か 差異とは何か 種とは何か 特性とは何か 付帯性とは何かを知ることは・・・定義を下すためにも また総じて区分と論証の仕事に対して これら(五つのもの)の考察は有益でありますから・・・手短に いわば入門書(イサゴーゲー)風に・・・試みましょう。
      ・・・

     1 類(ゲノス)について
     ・・・
     種を異にする複数のものに対して 何であるか〔という問いに対する答え〕の中で 述べ帰せられるものが 類である。例えば 動物がそうであると。

     というのは 述べ帰せられるもののうちで あるものは一つのものだけについて述べられる。例えば ソクラテスやこの人やこのものなどだけについて述べられる。

     しかし他のものは 複数のものについて述べられる。例えば類や種や差異や特性や付帯性は 特定の何かにではなく 〔多数のものに〕共通的に帰せられる。
     類とは例えば《動物》 種とは例えば《人間》 差異とは例えば《理性的》 特性とは例えば《笑える》 付帯性とは例えば《白い》《黒い》《坐っている》である。


     このように類は一方において 複数のものに帰属せしめられ述べ帰せられるという点で ただ一つのものだけに対して述べ帰せられるものとは異なるものであるし
     他方において 複数のものに対して述べ帰せられるものに比較するならば
     まづ種とは なるほど種も複数のものに対して述べ帰せられるのではあるが しかし種において異なるものにではなく数(* 個・個体)において異なるものに対して述べ帰せられるという点で 異なっている。

     例えば人間は種であって ソクラテスやプラトンに述べ帰せられるが この両者は種において相互に異なるのではなく 数において異なるのである。
     また動物は類であって 人間や牛や馬に述べ帰せられるが これらは単に数においてだけでなく 種においても相互に異なっている。


     次に特性と比較すると 特性はただ一つの種――つまり特性がそれの特性であるところの種――と この種の下の個に対して述べ帰せられる。〔例えば《笑える》は人間という種だけと 個々の人間に対して述べ帰せられる〕のに反して
     類は一つの種にではなく 複数の異なる種に対して述べ帰せられるという点で 類は特性と異なる。


     さらにまた差異および共通的付帯性と比較するならば この二者が種を異にする複数のものに対して述べ帰せられるけれども しかし《何であるか》〔という問いへの答え〕の中で述べられるのではないという点で 類はこの二者とも異なる。
     というのは この二者が述べ帰せられる当のものが――今言ったように――《何であるか》の中でではなく むしろ《どのようなものであるか》の中で 述べられるからである。例えば《人間とはどのようなものであるか》という問いに対して 《理性的な》とわれわれは答えるし また《からすはどのようなものか》に対して《黒い》と答える。
     このばあい《理性的》は差異で 《黒い》は付帯性である。他方《人間とは何であるか》と問われたばあいは 《動物》とわれわれは答える。動物は人間の類であった。


     かくして類は 複数のものについて述べられるという点で ただ一つの個体だけに述べ帰せられるものから区別され 
     また種を異にする複数のものに述べ帰せられるという点で 種としてあるいは特性として述べ帰せられるものから区別され 
     さらに《何であるか》の中で述べ帰せられるという点で 差異および共通的付帯性から区別される。
     この両者は 両者が述べ帰せられるところのそれぞれのものが《何であるか》の中でではなく 《どんなものであるか》 あるいは《どのような状態のものであるか》の中で述べ帰せられるのである。
     したがって 上であたえられた類の粗描は 少しも余計なものを含まず また欠けたところもないのである。

      2. 種(エイドス)について
      ・・・
     
      (水地宗明訳)
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


     ★ ~~~
     【現象学では・・・
     微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】
     ~~~~~
     ☆ というようですと 知覚をも引きこんで本質観取すると考えられますが その点ではポルピュりオスの場合 イサゴーゲーなる小冊子では そのことに無頓着のようです。

     ▲ (ポルピュリオス 前掲書・まえがき) ~~~~
     例えばそもそも 類と種に関して 
     1. それらが客観的に存在するのか それとも単に虚しい(対応する実物のない)観念としてのみあるのか 
     2. また存在するとしても 物体であるのか非物体的なものであるのか また〔非物体的であるならば〕離在可能な〔物質から独立して存在しうる〕ものなのか
     3. それとも感覚対象の内に これらに依存しつつ存在するのか
     という問題については 私は論じることを回避するでしょう。このような仕事はきわめて深遠で もっと大きな探究を必要とするからです。
     ~~~~~~~~~~~



     ★ ・・・何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】
     ☆ ポルピュりオスらは この純粋意識と呼ぶこともなく 概念整理のために類・種・特殊・個といった分類論を得ているのでしょうね。

     次の知覚の問題にも触れないということのようです。
     ★ ・・・ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】
     ★ 明証なき実在の知覚の事態
     ★ 知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず

     ☆ この中で 《明証性》の問題については 議論が分かれましょうか?
     類・種・特殊・個の分類じたいにつていは 明証性をどこまでも求めるのかも知れませんから。分類された一つひとつの概念が 実際にそのものごととどのように対応しているのか これについては 触れないということですから 明証性を問わない。



     リンゴは赤く丸いというとき――揚げ足取りっぽい議論になりますが―― 丸くないリンゴはないでしょうけれど 赤くないリンゴ たとえば王林のように熟したあとでも薄い緑のリンゴもありますから 現象学的還元には ポルピュりオスらのカテゴリア分類論は 必要であるように思うのですが これはいぢの悪い見方でしょうか?
     もし詳しく細かくみれば フッサールもこうした分類理論についてとうぜん触れているということでしたら どうぞお見逃しのほどをお願いいたします。




     * 何だか このような《返り討ち》をねらって ご回答を要請したかたちになったかにさえ見えます。

     * 《志向性》が扱われることは おおきな違いでしょうか?

     * 《直観》というよりは ふつうの概念整理であるように捉えられます。それゆえにも《観取》といった表現を用いるのでしょうか?

     * せっかくの修復にふたたび傷が入るようでしたら 削除しようかとも思いましたが すべては学問のため ひいては日本の復興のためとお考えいただくわけにはまいりますまいか? (でもわたしのこの物言いは すでにいやというほど浴びせられているのでしょうね。わたしが知らないだけで。だとしたら その辺のことをご説明願えるかとも)。

     * あぁ 最後の決断としまして 清水の舞台から飛び降りましょう。
     

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/09/27 07:54 通報する
  •  ★ 普遍論争
     ☆ には興味がないのですが――たぶん その名前だけのことだと見てもよいと思っていますが―― 絶対としての普遍について どうもフッサールも触れてはいるようですね。
     つまり むろん 神の問題です。
     《超越論的領域》のことであり それを《括弧に入れて》言わば仮象としての言葉で代理するかたちで まづは捉え扱うのだと。
     
     ▲ (超越論的領域) ~~~~
     ( a ) 超越論的問題の発見によって初めて 世界すなわち現実の世界および可能的な世界一般と超越論的主観性との区別が可能になる(そしてこの区別によって初めてラジカルな哲学が始まりえた)のであり

     ( b ) そしてこの超越論的主観性は 世界の存在の意味を自己の内部で構成する主観性として 世界の存在に先立つものであり 従ってまた世界の実在性を 自己の内部で顕在的および潜在的に構成された理念として 完全に自己のうちに保持しているのである。

     ( c ) 確かに 世界のうちにあらかじめ与えられているすべてのもの 換言すれば《それ自体としての存在》を主張して現われるすべての超越的なものについての 普遍的な判断中止と超越論的‐現象学的還元とによって初めて 具体的な超越論的存在領域が開示され そしてそれと共に構成の諸問題 とりわけ《括弧に入れられた》超越が《超越論の手引き》として機能することによって展開される構成の諸問題への道が開かれたのである。

     ( d ) 次いで 超越論的に還元された自我の内部で行なわれる《他者》の構成の解明は 現象学的還元と超越論的領域を超越論的相互主観性(超越論的自我全体)へと拡大させる結果となった。
      (『論理学』 FTL.237 立松弘孝編『フッサール・セレクション』2009 p.140-141  前身は『世界の思想家19 フッサール』1976)
     ~~~~~~~~~~~~~~~
     
     ☆ 1. 《超越論的主観性》( a )は わたしの理解では 《ヒラメキ――イメージ直感および観想(理論)直観――》のことだと見ます。あるいはさらにその奥の《非思考の場》です。

     2. これが《世界の存在に先立つものであり》( b )というのは 非思考の信仰がと言わずとも(つまりそれは ブラックボックスに入れておくとすれば) 直感および直観のヒラメキが 理性ないし思考に先行するということだと見ます。

     3. そのときの《理念》は おそらく《ヒラメキ》と《理性ないしコギト》とのあいだに位置するのかも分かりません。
     
     4. 《〈それ自体としての存在〉を主張して現われるすべての超越的なもの》( c ) これが《理念》やあるいは《まだなお混沌とした状態にある直感イメージ》のことを言っていると。

     5. つまり《それ自体としての存在》は 最も奥にあるとされる《もの自体》のことではないようです。

     6. ( d )で《自我の内部に〈他者〉が構成される》というのは つまりは《超越論的相互主観性(超越論的自我全体)》と言っているところは 何ともまだ分かりかねます。


     ☆ この本 つまり立松弘孝編『フッサール・セレクション』は さわりの部分を断片的に編んだもので きわめて横着な読みであることをおことわりしておきます。きょう図書館から借りて来たばかりです。
     ですから 《絶対としての普遍》については フッサールにおいてもまんざら捨て去られているものではないということ そこまでの確認に成り得るかと思います。この覚え書きをおぎないました。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/01 21:59 通報する
  •  お礼欄をおぎないます。

     唯識論は くわしいことは知りませんが その《三性論》に沿って捉えると 本質直観もあるいは図式的な理解として分かりやすいかも知れないと思いました。
     次のような現象学的還元です。

     1. 遍計所執性:要するに対象世界〔におけるもろもろの事象を捉える〕

     2. 依他起性:そこで事象は 互いに因縁となりつつ起こると見る。

     3. 円成実性:《われ》もその事象関係の中に生き動きする存在であるが
           これは 《超越論的主観性》にまで還元され得ると見る。 

     ☆ どうなんですか? どうも次のように捉えると やはり分かりやすいと思えて来ているのですが?

     ○ 超越論的主観性 ~~~~~
      (1) まづ敢えて 大雑把に見た独我論が来ると見る。(デカルトの《われ考える》でもよいのでしょうけれど)。

      (2) 世界のすべてをうたがう。現実の何もかもが根拠のあるものとは思えないし思わない。

      (3) 信用せずうたがう《われ》のみに拠る。

      (4) この独我論的《われ》に その究極の相として《超越論的主観性》が見出されると見る。そこにまで現象学的還元が成され得る。

      (5) 《わが志向性を持ちつつ 世界とその事象をあるがままに見ている》その主観――円成実性――。
     ~~~~~~~~~~~~~~~

     ☆ 唯識派は 仏性を認めないそうですが 類型的にみれば 円成実性の境地はすでに仏性のはたらきだと言ってよいように思われます。超越論的主観性のばあいは 《志向性を持つこと》が 特徴的でしょうか。(ただし この解釈がただしいかどうかは保証の限りではありません)。

     独我論的《われ》を想定すると 例の《間主観性》が あくまでおのれの主観の内部における他者とのかかわりを言うという性格を分かりやすく伝え得るかも分かりません。

     このくらいに脚色してみないと つぎのご説明の内容も ただ《わたしは わたしおよびそれを取り巻く世界を わたしという存在としてその生きる動態において 見る》と言っているのみで なんでそんな分かり切ったことを言うのだろうといぶかしみたくなるのですが?
     ★ また、《純粋意識(超越論的主観性)》でございますが、確かに、人間の経験や世界像一般を可能にする第一の原理という意味程度であり、それ以上でも以下でもございません。

     ☆ この〔独我論的《われ》による・ないし〕超越論的主観性における本質観取に明証性がどれほどあるか? その明証性の不確かさは
     ★ ただし、繰り返される[現象学的]反省により、それを克服しようと考えていたようでございます。そして、「事象そのものへ」という立ち返りを常に求めていたのかと考えております。
     ☆ 本質観取ないしその明証性に段階があるということでしょうか? 

     ただしもしそういうことでしたら ブディズムの
     ○ 即身成仏 / 即得往生 / 頓悟 / 本覚思想
     ☆ の見方とは そのままでは同じではないようにも考えられます。即時に本質直観にいたると言っているはずであり あるいはつまり すでに生まれたときからの自然本性において ただちに《目覚めた状態》に成りうるというのだと思われますから。



     ★ 量子論による認識論との関連性でございますが、量子論によるものは不確定性を訴えた認識論でございますので、どれほどの関連性があるのかは、愚生にはわかりません。
     ☆ この趣旨は こうです。不確定性の状態を確定するのは 観測ないし認識によるとするのならば その主体の主観が世界の主役であると言っていませんか? それが 現実世界において どこまで当てはめられるのか? これも残念ながら分かりません。


     ○ 志向性
     ☆ という前提を わたくしは 過大に扱ったかも知れません。ひどっちさんは 超越論的主観性にしてもそれを ふつうに価値(人の意向)中立の状態として捉えておられるかに思われますから。



     さてさて 扱う対象世界の幅は広く むしろ広すぎであり しかも要領としてはきわめて素朴に《わが主観》の動態に注目しつづけている。といったところでしょうか?
     要するに世界認識ということであり そこに色をつければ《さとり》といったような境地の問題をあつかおうかという出で立ちであるとも思えます。

     もう少し問い求めはつづきましょうか?

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/02 21:06 通報する
  •  § シェーラーの現象学
      http://en.wikipedia.org/wiki/Max_Scheler

     1. フッサールの規定する現象学に 見解を同じくはしなかった。
      
     2. フッサールは 現象学を 厳密な意味で《方法》であると規定したが これに同意せず 思考では得られえない(その意味での霊感としてヒラメキを得る)直観( spiritual seeing )の境位であると見た。

     3. 現象一般に限ることなく 《原体験ないし根源的経験 original experience 》なる現象をも想定する。あるいは《経験に先立つものごと( essences or values as a priori )》が 人間に所与として・動態として そなわると。つまりは 経験科学ないし哲学がもとづく経験合理性なる判断基準によって把握される現象に明らかに先立つものごとの領野を想定している。

        * ヒラメキ直観より以前の・ただし同じくインスピレー
        ションに属するイメージ直感をも視野に入れているのかも
        分からない。

     4. この根源的な体験なる現象は 経験であるからには その行為主体がいるが その対象としての現象 もしくは 経験じたいは その現象もしくは経験がおのづから起きると見ている。その自然の生起を人は待つのみ。

     5. 原体験の起こるのを待つ人間の態度としては 自己が日常に慣わす生活態度( a moral attitude )のことである。また それのみである。と同時に この生活日常の姿勢は――おそらく 他者の存在が想定されることから―― 基本的に《かかわり( love )》と言ってもよい。

     6. あらゆる現象との遭遇(仕合わせ)や他者との交通(まじわり)が 世界をかたちづくっているが その世界においてわが人間存在の根底における根源的経験は カカワリ(相互主観性)を基礎とする生活態度において その直感および直観として生起し その現象じたいのほうからわが主観にやってくる。
      
       *意訳しました。英訳文:
        Scheler describes the essence of philosophical
       thinking as "a love-determined movement of the
       inmost personal self of a finite being toward
       participation in the essential reality of all
       possibles."

     7. プラトンのイデアに倣って 原本質( Urwesen / primal essennces of all essences )が想定されるかも知れない。シェーラーのばあいは カカワリ(愛)の問題であるようだ。

     8. ただし 概念として認識の対象となって把握しうるというようなモノやコトではないらしい。むしろ 理性は お呼びでないと言ったほうがよい。

     9. 原体験を得て それが愛(カカワリ)にもとづくと自覚したあと おそらくやっと 理性や論理がそのことを認識する。それとしてなら 哲学知としても言葉で表わし得る。

     10. (勝手に自説を交じえます): 愛に対する概念として 憎しみ( hatred )が立てられているが これは おもしろくない。愛が カカワリなら むしろその対極は 無関心であるはずだ。

     11. 言いかえると 憎悪は カカワリを絶やさないなら 大きく《愛》である。敵対関係は 大きく 愛の関係である。なぜなら おそらくそこで人は原体験をあじわうであろうから。

     12. けれども カカワリの放棄としての無関心は 端的に言って 死である。もはやそこでは 人間にとっての根源的体験は 得られないと思われる。この死の固定した状態(固定した死の状態)は 一般に悪魔と呼ばれる。そういう人間存在がいるということではなく そういうハタラキが想定されるものと思われる。

     ・・・

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/12 14:14 通報する
  •  おぎないます。
     §1 真善美は一致しているという見解にひとつの説明を与えます。 

     §2 その基本的な考えのもとに それらの一致するところの言わば《わたし〔の自然本性における記憶なる秩序作用〕》の中で 特には美的経験の内容が 人によって逆転し対極にさえなってしまっているといった現象――醜悪にも美があるといったひとつの見方が現われていること―― これについて その事情を説明します。




     §1 あえて今 《真善美の一致》という主題について 

       (【Q:現代における審美の可能性】その回答No.16より)
        http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html

     大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《〔社会ないし人類の〕全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。

     人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。

     その程度ですが そのように傾向として決まったと思われるような美(美群)は その美をめぐる個人の志向性として・またはその美じたいが指向するその先の何ものかとして おそらく人びとの黙契としてはたらくような善悪判断にかかる善と一致すると見ます。

     そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。

     さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。

     人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実とふたつの真実》を含むと捉えます。

     《美》は 見た目ということであればそれとしてのほんの一片の知覚であり しかもヒラメキとしてなら認識し得ない真実として非思考の庭がわが心に成るという意味での真理(したがって ほとんど まぼろし)に近い直感であるとも見ています。

     このことをも――ただしこれは ほとんど論証のむつかしいことだと思いますが――いま述べて進めることとしました。


     §2 美の構成力に内部変化および錯綜や倒錯が起きうるということ

     (【Q:われらが審美眼は 劣化したか】No.42お礼欄) 
      http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html

      生きることは それ自体に意味があるといういみで《善》です。何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。
     《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。

     さてひとの感性には 善も悪もありません。感性は 第一次的な知覚そのものを言います。
     われわれは記憶の中からあれこれを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときむしろ精神の秩序作用としての記憶に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりすると われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。

     これが 第一次的なかたちにおける善かそうでない悪かの分かれ目だと捉えます。この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。

     人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。しかも 基本的なかたちで 《うそ・いつわりを言わない》が善であり《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。



     話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。
     《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞と連れ立った)動きだと考えます。

     実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて問い求めているのではないだろうか。ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。



     けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか?
     それは 生きた過程としてのその人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてなぞの美ないし真理〕を求めているかが違って来ます。審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程に沿ってあらたに作られていくと見ます。

     一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。
     そして どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが 千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

     これが 理論です。理論どおりに行くかどうかの分かれ目を説明しています。簡単に言えば へその曲がり具合いによって その人の美学が そのつど おのれの姿(もしくは心)をあらわすかのように決まって来るものと考えます。
     ~~~~~~~~~~~~

    No.39の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/16 11:14 通報する
  •  おぎないです。

     ○ 芸術が死んだかのように 美の感じ方が さまよっているという現象。

     についてさらに話を伸ばします。あるいは

     ○ 構成力としての良さ。その配置されたかたちどうしの全体としての成り立ち。あるいは そこからさらに美や何か真なる求めるものの表象を喚起する力。――この美の力としての中身が まるでさ迷ったかのように ついに 一般に醜悪だと思われる(思われていた)ものにまで求められるようになった。その原因もしくは事情は どういうことか?

     です。いささか抹香くさい話を交じえます。

     ▼ (マタイによる福音 6:19-21) ~~~

     19: 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
     20: 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

     21: あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
     ~~~~~~~~~~~~~
     ☆ イエスの言葉ですが ここから類型を取り出すようにして 次の命題としてまとめます。


     § 美のありかは 人によって変わるか。 ~~~~~~

     1. あなたが美と思うところに あなたの心もある。

     2. 事実ないし現象を超えたところに美があると思うなら その――まぼろしとしてのような であってもその――主観真実のうちに あなたの心とそれが思う美がある。(超越論的主観性に 美なら美がある)。

     3. 事実ないし現象の中に美があると思うなら その現象のうちにあなたの美とともに心もある。この場合は 《本質直観》は もうどうでもよいと見做されたことを意味する。

     4. おそらくこの(3)なる心的現象は おのれが良しとして問い求めた宝を得ることが出来ず その意志行為の挫折をつうじて この現象世界に心が引きとどめられたような結果である。

     5. ただし そうは言うものの じつはこの現象世界ないし《生活世界》にこそ (2)で問い求めたその意味での宝があるのだし 心もあるという見方も ひるがえって 提出されている。(煩悩即菩提。娑婆即浄土)。

     6. さすれば いかに吾人は考えるのがよいであろうか?

     7. たとえば 次のように命題を書き直したら どうか?
        
         《あなたの宝(また美)があるところに わたしはいる。》
         とイエスは言う。

     8. イエスとは 道であり生命であり真理である。

     9. そうなれば もし仮りに醜悪なものに美を感じるとすれば そこにナゾの無根拠であるキリスト・イエスがいるというからには そのものをやはり醜悪だと――エポケー作業をしつつ・白紙において――人は見止めることが出来る。(既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る)。

     10. これもそれも やはり 主観内の体験に属する。そして もし人びとに共通感覚があるとすれば このそれぞれの美についての主観体験は 互いに交じわることをとおして互いに練り直されて行く。現象学的・超越論的反省が行なわれる。

     11. この単純な推理とその薄い根拠にもとづき こう言えまいか?

        うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が
       大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知
       覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向
       性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーさ
       れ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰るこ
       ととなる。

     ~~~~~~~~~~~~~

     《わたしがわたしであること》。
     
     《最もわたくしなるものは おほやけに通じる》か?

     つねにあやまち得るスサノヲ人間語は そのむしろ自己の中心なるところで アマテラス科学語およびアマテラス人格語に通底してゆくか?

     アマテラス普遍性は 真善美につながっていると見てよいか?
     
     


     エポケーについて 白紙還元という説明は あまりしないのでしょうか?
     タブラ・ラサという言い回しも あるようですが。

    No.38の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/16 14:58 通報する
  •  覚え書きです。

     ▼ (§ 超越論的哲学と現象学的観念論) ~~~~
     (1) 純粋な明証性の領域で具体的に遂行される純粋な《自我の自己解明》は 根本的かつ本質的に新しい意味での超越論的観念論になる。

       *(ぶらじゅろんぬ註) 《わたし》なる存在のあり方ないし
       自然本性の成り立ちが 解明されると言う。

     (2) ただしこの観念論は 心理学的観念論 すなわち無意味な感覚与件から有意味な世界を導出しようとする観念論でもなければ 物自体の世界の可能性を少なくとも限界概念としては保留しうると信じるカント的な観念論でもない。

       * 両者とも わたしはよく分からない。いづれにしても 《わ
       たし》の成り立ちを 明らかにしてくれればよい。

     (3) むしろこの〔現象学的〕観念論は 体系的な自我論の形式をとって一貫して遂行される存在の意味の自己解明 すなわち自我としての私に対してまさに意味をもちうるとされる。

       * 《わたし》が解明されれば そうなる。

     (4) しかもこの観念論は 実在論との弁証法的論争を通して戦利品として獲得されるような 遊び半分の論証の産物ではない。

       * こうまでして ほかの方法との違いを まづ先に=予告編と
       して〔のみ〕 述べなければならないのだろうか? たとえ
       《遊び半分》のものであっても その中身がよければ万々歳だ
       という見方をも忘れないほうがよいと思われる。

     (5) むしろこの観念論は (経験を介してあらかじめ自我に与えられている)自然 文化および世界一般の超越に即した実際の研究を通して遂行される 超越の意味の解明であり しかもそれは〔存在の意味を〕構成する志向性そのものの体系的な開示でもある。

       * 《超越》については けっきょく《わたし》の自然本性と
       経験行為の中核となっていたやはり本性とにたどり着くために
       エポケーとして捨象するべきものではなかったのだろうか?
         《根源的主観性》のほかの余分なもののことを わたしの
       外部として《超越》と呼んでいたのではなかったか?
         それとも 世界におけるものごとに対する批判的観点のこ
       とを単純に言っているのか。
         いま述べた《経験行為の中核となっていた本性》とは 意
       志であり それとして志向性とも呼べる。それが 《存在の意味
       を構成する志向性》だと思われ これが《体系的に開示される》
       と言う。むろん(1)が予告して目指していたものである。

     (6) すなわち現象学そのものを一貫して遂行することが そのままこの観念論の論拠を示すことになるのである。(『デカルト的省察とパリ講演』H.I,33f.)

       * 《論拠》を示すことが 優先されているらしい。予告編を
        つづける意味は そこにあるということか。

     ▼ ~~~~~
     (7) 超越論的‐現象学的観念論と 実在論がその正反対のものとして反駁する観念論との間の根本的かつ本質的な相違を明確にしておくことも必要である。

       * 予告編よりも ずばりそのものを示したほうが早いとは思
       われる。

     (8) 何よりもまづ 現象学的観念論は実在的世界(まづ第一に自然)の現実的存在を否定するものではない。

       * 《自然》は 人間の身体をも含めて 事実としてあると
       言えば 済むものを。

     (9) 従って世界の実在をあたかも仮象であるかのように考えて 自然的態度の思考や実証科学的な思考は それとは気づかず その仮象に欺かれているのだと主張するのでもない。

       * 《唯識論》のようにまで 《意識など》の取り立てをす
       るのではないということだろうか? 
        でも唯識論に立たずとも 空観であれば 一たんは色即
       是空として事実ないし実在を《仮象》として見るようなの
       だが。
        けれども どうもこの主張は あやしい。

     (10) 現象学的観念論の唯一の課題と成果は この世界の意味を 精確に言えば この世界がすべての人にとって正当な権利をもって真に存在するものとして妥当する場合のその意味を 解明することである。

       * じれったくなる。どうもフッサールは じらしの名人で
        ある。《世界》の意味とは もちろん《わたし》の成り
        立ちの解明であろうと期待する。

     (11) 世界が実在していること 常に普遍的 無矛盾的に統一される連続的な経験の中で 世界が《存在する統一的宇宙(ユニバース)》として与えられていることは 全く疑う余地がない。

       * 《わたし》の成り立ちが 必当然的な明証性のもとに解
       明され開示されたならば そのような根源的な中核におい
       ては おそらく《無矛盾的な統覚》が 主観の動態という
       過程の中で 捉えられるかも知れない。
        ただし《世界が実在していること》という表現で言って
       もよいのだろうか? それについて《全く疑う余地がない》
       と。
        《統一的宇宙》なる《わたし》こそが 求めるべき《所与》
       だとすれば 早くその中身を明らかにして欲しい。じれった
       いったら ありゃしない。

     (12) しかし〔われわれの日常の〕生活とは全く別のことである。〔・・・〕

       * 果たして そうだろうか? 生活世界は まだこのとき
       には打ち出されていなかったのだろうか。

     (13) この実在世界と およそ想定可能な実在世界一般の在り方の意味を現象学的に解明した結果 明らかになったのは 超越論的主観性のみが絶対的存在という存在の意味をもち この主観性のみが《非相対的》であり(すなわち 主観性は主観性自身に対してのみ相対的であり) それに反して実在世界は確かに存在してはいるが しかし超越論的主観性に対して本質的に相対的な存在であるということである。

       * ここまで《主観性》を持ち上げるのなら あたかも唯識
       論にまでなっていると見られてもおかしくない。
        しかもその《超越論的主観性》とやらの内実を どこまで
       すすんでも明らかにしない。のではないだろうか?
        《わたし》は どのように成り立っているのか?
        おそらく この《わたし》とても 《相対性の世界》に属
       しており 《非相対的》などと言って取り立てる意味は ど
       こにあるのかと疑いたくなる。

     (14) ではなぜ実在世界は相対的な存在であるのかといえば 実在世界は存在する世界としてのその意味を 超越論的主観性によって構成された志向的な形成体としてしかもちえないからである。(『拙著《純粋現象学と現象学的哲学のための諸考察》の後記(あとがき)』H.V,152f.)
     
       * 《天上天下唯我独尊》というところか。
        このあと 《相互主観性》や《生活世界》が導入されてく
        るのだろうか。かろうじてほころびを縫い合わせるという
        ことだろうか。

      (立松弘孝編『フッサール・セレクション』 2009 pp.147-149)
     ~~~~~~~~~~~~~~~~
       
     

    No.44の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/19 16:09 通報する
  •  ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

     ★ 〔* 音楽は音を聞かせるという作品として〕同じ時間芸術と解しますと、〔* 音を出す手段つまり楽器が違っていても〕同じもの。一方、楽器特性からしますと、別のもの、と考えております。
     ☆ ありがとうございました。ピアノの音は バイオリンのそれとは違って 劣化するとか聞きました。すぐに消えるということでしょうか。打楽器でもあると指摘してもらいました。
     ピアノは 高い音がいい音色のように感じます。バイオリンは むしろ反対で 時々低い音が入るといいように感じます。
     交響曲の音から 聞きたいという欲求が少しづつ離れて行くのは―― BGM でしたら 大丈夫ですが―― なぜでしょうか。
     人の声つまりうたが入ると また音楽としても別のジャンルになるような気がします。
     民謡の音階の構成は 世界中どこへ行っても 同じなようですね。音楽も スサノヲ語とアマテラス語との違いがありましょうか?

     ★ ”端的考察的知覚作用” / 内的時間意識の現象学
     ☆ 次は この概念をめぐる研究書についての感想というだけのことですが もしそこに指摘されていることがらが的を射ているとしたなら さらなる広がりがあるかと思われ掲げます。
     ● (内的時間意識の現象学) ~~~
      http://fry.asablo.jp/blog/2009/01/21/4071782
     フッサールは、「現象学」の創始者である。・・・

     人は、「クオリア」(感覚質)を経て、現象を「意識」として認識する。その様な認識の積み重ねで、「心の志向性システム」を作り上げる。

     「心の志向性システム」に適った現象が合理的であり、真理であると錯覚しているだけである。

     さて、「クオリア」では、現象の存在における基本的要素である「時間」をどの様に認識しているのだろうか。それは、「内的時間意識の現象」として認識される。

     アリストテレスの哲学における現象の認識は、静止した時間として捉えられがちであったが、中世のキリスト教哲学者アウグスチヌスは、(1)「想起された現在」、(2)「現在の直観」、(3)「予期された現在」として、意識時間の創始者である。これは、あたかも部派仏教がアビダルマとして体系づけられたことに比肩している。

     フッサールは、実は、意識は、こうした様に断片化された時間の中に存在するのではなくて、連続性・流動性を持って存在していると考えた。全ての客観的真理されていることがらは、全て、流動性を持っており、常に変化し続けている「心の志向性システム」の一部であるに過ぎないのである。この考え方は、ある意味詭弁の様に受け取られがちであるが、仏教の中観思想に通じるところがある。

     しかし、客観的真理が存在しないのならば、どうして私たちは、認識を共有・意思疎通が出来るのだろうか。

     それは、言語表現(表象性)によるものである。しかし、言語には、位相があり、恣意的な性質を持っている。つまり、私たちが共通して認識している現象は、決して、同じ現象として認識されているのではない。それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。

     フッサールは、表象性が一定の志向性を持っている状況をノエマ、ノエシスとなずけている。このノエマ、ノエシスは、質的な段階を持っている。最も高次なのが、「純粋ノエシス」(純粋意識の方向性)であり、これが全ての表象性の根底に存在している。

     「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。この位相とは、「自我」、「他我」の区別に拠る認識の相違である。しかし、デカルトの「純粋理性」とは、異なり、純粋ノエシスでさえ、普遍の真理ではないのである.....

     この本(『シリーズ・哲学のエッセンス フッサール 心は世界にどうつながっているのか』門脇俊介,2008)の惹句にある様に、「世界が私に現れ出るという謎」という言葉で仏教思想を学ばれた方は気づかれるかも知れないが、これは、「本覚」という考え方に近い。認識→心→純粋ノエシスの先にあるもの、それは、「世界」そのものなのである。

     つまり、現象の世界では、様々な位相によって客観・不変の真理が存在しない様に見えても、私たち全ての存在の中で、純粋ノエシスによって位置づけられ、心の中で、共有された世界は、一つの純粋な存在に収斂されるのである。

     それは、「仏性」に相通じるものがある。菩薩の修行を経て如来となった修行者には、「自我」も「他我」ももはや存在せず、あらゆる位相はなくなり、純粋な光の塊の中に不変の存在となり得るのだと思う。

     私達を導く純粋ノエシスは言い換えれば、アラヤ識の様なものかも知れない。
     ~~~~~~~~~~~~~
     ☆ 主題を抜き出すなら:
     ( a ) ノエシスないし《純粋ノエシス》

      ( a-1 ) 純粋ノエシス――それにしても 《純粋》だとか《根源的》だとかの究極概念が好きなようですねぇ――は だとしたらわたしたちのヒラメキ定理に引き寄せれば 《ヒラメキとしての 世界観なる直観あるいはイメージ直感》(そしてさらには インスピレーションとしてですが お望みなら 《天使》の概念)に呼応しているように思われます。
     次の事項にも見るように インスピレーションですから 向こうからつまりナゾのほうからやって来るというところが ミソでしょう。知覚は もともと 受動的作用でしょうが。

      ( a-2 ) その先に――つまりは 絶対なる隔たりを介して しかも《絶対》なるゆえにその絶対のほうから 無理なくわれわれ人間におとづれるかに思われるところの――直覚を言おうとしているとの指摘です。仏性にまで広がりつながるか。

      ▲ (フッサールの最後の思想的境位) ~~~~
       ★(回答No.44における 新田義弘著『現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として』よりの引用) 

     フッサールは、この意味における(* 《目的論的合理性の働く》という意味におけるその)根拠を神と名付け、神が生の内に働く極限イデーとして合理性を可能にしてくるのだと考えていったようである。
     ~~~~~~~~~~~

     ( b ) 《自我・他我》という〔わたしには〕分かりにくい用語を使っているけれども 要するに人間にとって《わたし》とは 何か? どういう成り立ちで どういう動態か?

      ( b-1 ) 自我と他我とでは 世界について見える位相が違うという。それでも
     ● それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。
     ☆ 知覚的志向性が 人によって違うであろうことは そのまま受け止められる。では 《言語行為の志向性》とは 何ぞいや? 同じ言葉を使っていても その意味の取り方が人によって 多少は違うことか? 
     多少は違っても おおむね共通の概念を持ち得て意志疎通は出来ると言えるのかどうか? 意味論一般に広がりましょうか? (わたしは言語学の中で もっとも苦手が この意味論です。以前 あまがっぱさんが 触れておられましたけれど)。

      ( b-2 ) ( a )のインスピレーションとしての純粋ノエシスは:
     ● 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。
     ☆ というのなら その( a )で出て来たように 仏性やらさとりの問題にすでに入っている。これをどこまで哲学が扱えるものか? (質問者はすでにイエス・キリストによる心の燈心の着火なることにまで言い及んでいましたが)。
     つまりこれを わたしたちそれぞれの《わたし》において扱わねばならないように思われる。

     ( c ) 《わたし》の動態――自己表現の過程――にとっての《時間》論が 取り上げられましょうか?

      ( c-1 ) ● あたかも部派仏教がアビダルマとして体系づけられたことに比肩している。
     ☆ というときのアビダルマについては わたしはこれから学ばなくてはなりませんが そのようにたとえられたアウグスティヌスの時間論は 
     ● フッサールは、実は、意識は、こうした様に断片化された時間の中に存在するのではなくて、連続性・流動性を持って存在していると考えた。
     ☆ と言うほどの《断片化された時間》であるとは とても思われないと ひとこと言っておきたいと思います。それは 《現在の永遠》ではなく 《永遠の現在》を言っていると思われます。つまり現在時の心理的な断片化でもなく そのそれでも――のっぺらぼうのままでも――どこまでも続くかに思われる永遠性でもなく 現在時の直観ないし自己表現が 永遠の現在で〔も〕あるというなら・言うのですから
     ● 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。
     ☆ と同じ志向性を持つと言っておかねばならないと考えます。むしろフッサールは 《あとから来た者》であるのですから 先達らに敬意を表さねばならないでしょう。《時空を超えた〈認識〉》は 《認識》が思考(コギト)を思わせるとすれば むしろやはりヒラメキ直観に限定すべきでしょうね。
     人それぞれとしての《位相》の違いを超えた《永遠の現在》と直感した主観は それでもこの世界における差異を・つまり人びとのあいだで位相の違う時間的なるものをどう捉えるか? 互いにどう捉えあうか?

    No.45の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/20 11:08 通報する
  •  意味論についてです。

     ですが じつはよく分かりません。そのわけは 意味論という分野があってそれがどういう仕事をしているか という問題よりも 意味論のその仕事が どういう志向性のもとにおこなわれているか という問題でよく飲み込めません。しかも 現象学にかかわっての問題です。

     わたしに分かるのは たとえば今回のご回答の文章に即して考えるなら 次のようです。
     (なお 数学のほうでも意味論があるようですが それについてはよく分かりません)。

     ★ ~~~~~
     例えば、リンゴを見た際、「赤い」、「まるい」などは、リンゴという物の様々な知覚された面のみならず、リンゴの様々な概念、意味としての面もあろうかと考えられます。 
     さらに、わたくしはリンゴが「赤く」、「まるいもの」だと考えることができ、言葉(人によってたとえ多少の意味の取り方が異なりましても)によって誰かに説明も可能でございます。つまり、「物の知覚には必ず様々な概念が含まれており、それは言語によって表わされる」ことを意味します。
     ~~~~~~~
     ☆ ここでの意味論は こういうことかと思います。つまり 色は赤のほかにも緑や黄色もあるのに《赤》をリンゴの概念を表わす特徴として取り上げるのは ある種の仕方でその赤で代表させている。そういった《意味》の社会的な用法だと見られると思うからです。
     そうしますと 今度はそういう意味論によるそのモノの規定は 認識論とはどういうかかわりを持つのか? これが 分かりにくくなります。

     ★ 言語には、位相(特定の場所を意識させるもの)があり、恣意的(わたくし固有のもの・主観的なもの)な性質を持っている。
     ☆ 言葉は だいたい人びとに共通の一般的な意味があり しかも実際の用法においては使用する人の主観がそこに込められ 或る程度意味が広がる(または ちぢまる・ゆがむ)といった慣用があります。つまり そういう意味論もあると思います。


     この意味論は 質問者つまりこのわたしが持ち出した論点なのですが 的を射た指摘ではなかったかも知れません。
     
     あとは ご指摘のあるのを俟ちます。なければ 保留としておきます。

    No.49の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/22 19:31 通報する
  •  お礼欄よりのつづきになります。

     § 3 インタメッツォ

      § 2からはたとえば 次のように言えるかも知れません。

      ○ 人は ほかの人びととともに ことばの海に浮かんで生きている。その宙ずりの不安定さが おのおの《わたし》の中核になっているかも知れない。宙ずりというのは 《神の至上命令と動物の一義的な行動形式とのあいだの空中浮遊》です。

     あたかもそのような不安定さとしての自由が 自由の度合いを深めているのかも知れません。つまりは次のようにご指摘のあった音楽や美術のたのしみ方であろうと思いました。
     ★ ~~~~
       ☆ ・・・曲の表題は いっぺんエポケーして音楽を聞いたほうがよいですね。〔あるいはぎゃくに表題の伝える〕そのテーマに沿って 想像をたくましくして 音楽の展開をたのしむということも ありなのでしょうけれど。


     もちろん、そういう楽しみ方もございますし、詩をメインに楽しむ方法もあろうかと思われます。これは、各々の皆様が「これはいい!」とお思いになられる方法で楽しんでいただければ、と思っております。

     ★ ~~~
     最初は、すべてをエポケーして、つぎには、画家の生涯および作成されたときの背景を知りながら鑑賞してみる。そして、自分の最も楽しめる、感動できる方法を選んでいただければ、と思っております。
     ~~~~~~

     § 4 生活世界

     ★ 生活世界とは、フッサールの最後の境位とも言えようかと考えられます。

     ★ ~~~~
     (1) ”静的現象学(もしくは”記述的現象学”)”
       ・ 当初は自我を中心としてきました

     (2) ”発生的現象学”(または、”説明現象学”)
       ・ ”意識の一切の作業の所産に「意味の発生」を見て、すべての対象も意味の歴史を既に担っている以上は、これを逆に発生史的にもとの原初の経験まで辿り着ける”と考えたようです。

       ・ つまり、「前もって与えられたもの」は、超越論的ノエマとして、それの構成に参与した一切の志向的作業も、歴史としてそこに含まれており、”顕在的”対象意味も”潜在的”志向性の指標として、歴史に沈殿した志向性も露呈させていくことが可能と考えるようになったとされています。

     (3) さらには”生活世界”へと思索的推移をしていった訳でございます。
     ~~~~~~

     ▲ (フッサール:世界の構成) ~~~~
     (4) 《客観的世界》という存在の意味は 私の原初的世界(私の自我がいわば独我論的な立場で最初に構成する世界)を基盤にして 幾つかの段階をへて構成されるのである。

      *(ぶらじゅ註) ひとつに《客観的世界》を初めに持ってくると
      話はややこしくなるように思われる。
       《客観》ということ自体が ただそのように想定した概念だから。
       独我論に落ち入りかねない間違った思想(意志行為)は 《原初
      的》というよりも 《われあやまつ》として落ち入るエアポケット
      というくらいに捉えてみては どうか? そのあやまちからわれに
      還るところが 自己還帰としてならむしろ原初的なわれであろう。

       この《はじめのわれ》は 自然本性ということでもあるが・だか
      らそのままでは 《世界との和解》はあやしいのであるが それで
      もそのわれは 想定された客観的世界とはげしく接しているはずで
      ある。ヒラメキにおいては その世界が分かると言ってもよい位置
      にあるはずである。
       ゆえに 傲慢のそしりを幾万回受けてもくじけない質問者として
      は 順序がぎゃくであると言わなければならないと思う。すなわち
      《生活世界》は フッサールにおいても 自然的態度としてはじめ
      にあったとしたら そしてもし最後にも到達したのだとすれば ま  
      とめとしては 《生活世界》が最初にして最後のわれらが基礎であ
      ると言ってしまってよい。のではないか?

     (5) その第一段階としては 他我(アンデレ)もしくは他我一般 すなわち私自身の具体的存在(原初的自我としての私)から排除された〔他者の〕自我を構成する層が剔出されねばならない。

      * 《原初的なわたし》は むしろ自然本性の中でも《本質直観》
      を得ることのできる本性としてとらえておいたほうがよいと 前項
      で考えた。
       言いかえると この本質直観を得ることのできる《わたし》は
      すでにそのまま(自然本性において) 自己とも他者とも カカワ
      リ(関係性)を持っている。あとは 生活世界においてマジワリ
      (交通)を持つのみだ。
       他者と自己との区別は 時が経てば いやでもおとづれるゆえ 
      惑うことはないと思われる。しかもその区別からおとづれるのは
      《自我》ではなくて 《本質直観としてのわれ》であるはずだ。
       順序をぎゃくにして述べているだけではなく 本質直観というも
      のを分かっていないのではないか フッサールは?

     (6) そしてこの層が明示されると同時に それが動機になって 私の原初的世界の上に《普遍的な意味》の上層が構築され そしてこの上層に媒介されて私の原初的世界は ある一定の客観的世界 すなわち私自身も含めた万人にとって同一の世界の現出となるのである。

      * 自然のままの(生まれたままの)自然本性は たしかに母親と
      の一体感が特徴的であるように 一般の他者ともまだ世界が未分化
      であるかも知れない。
       けれども 人間の単位体としての個人すなわち《わたし》は 放
      っておいても 分かれていくであろうと思われる。精神の三つの機
      能のうちの意志能力が おのおのの固有の意志であるかどうかをつ
      ねに思っているからだと思われる。二人や三人が集まってやっと意
      志を形成するということは あり得ない。
       自他の分化は 自然史過程として起こる。その分化の前に・原初
      的に《わたし》は 普遍的なあり方をしていたし していると考え
      られまいか? そうでなければ わざわざ現象学的還元をする意味
      は うすれる。
       言いかえると 超越論的反省を繰り返してたどり着いた超越論的
      主観性に 相互主観性をも捉えてそこでやっと 普遍的な共同主観
      を得るというわけ(その順序)ではなかろう。
       もしその順序での作業じたいはあり得るとすれば そのときにも
      むしろ《自然的態度の混沌としたわれ》は それでも《他者との対
      等にして自由な関係を結びあえるわれ》のことを 直感的に知って
      いて それゆえにこそ その還元という作業を繰り返すことを欲す
      るのだと思われる。

     (7) 従って本来第一の他者(フレムデ)(最初の非‐自我)は他の自我であり そしてこの他我が他者(=私以外のすべてのもの)の新しい無限の領域 すなわちすべての他者と私自身を含む客観的自然と客観的世界一般の構成を可能にするのである。

      * おそらく世界の構成は はじめからそう成っているものと考え
      られる。もしそうでないとすれば 人の自由意志という命題は 消
      えてしまう。
       《人は 社会にあってほかの人とともに 言葉の海に浮かんでい
      る。不安定ながらもそこに――すなわち神の至上命令と動物の本能と
      しての一義的な行動とのあいだに位置づけられて 不安的ながらも
      その位置関係にあって―― 自由意志の発揮されうる世界を 互いに
      同等の立ち場で捉えている》 この自由意志の世界は 消えてなく
      なる。
       フレムデというように普遍的な原初の《わたし》から疎外されて
      いくわれもしくは他者をこの世界において見なければならなくなる
      のは ほかでもなく自由意志そのものによっている。原初のわたし
      から 人は自由意志そのものの行使によって へそを曲げ自分から
      逸れてしまうからである。
       この《発生的現象学》は どうなっているか?

     (8) 純粋な(まだ世界の意味をもたない)他者から出発して上昇するこのような構成の本質には 次のことが含まれている。すなわち 私にとっての他者はいつまでも孤立した状態にあるのではなく むしろ(もちろん私自身の固有の領域においてではあるが)私自身を含む自我の共同体が 相互扶助的に共存する多数の自我の共同体として構成され 最終的にはモナド共同体が構成されるということ しかもこのモナド共同体が (その共同化された構成的志向性によって)一つの同じ共通世界を構成するのだということ が含まれているのである。(『デカルト的省察』H.I,137)

      * モナドを持ち出すのなら 《立ち帰るべきわれ》であったりある
      いは《アートマン》であったりしてもよいはず。
       でもモナドは ややこしい定義があるようで 措いておきます。
       言いかえると 個体としてのわたしに モナドを見るだけではなく
      社会ないし共同体にも 《モナド共同体》が構成されると言おうとし
      ているようだ。定義によっては そう言えるのかも知れない。むつか
      しい。
       質問者の立ち場は 《純粋な(まだ世界の意味を知らない)》むし
      ろ《われ》において 自由意志があるのならば 最初で最終の《世界
      の構成のあり方》は潜在しているであろうということ。そこに亀裂を
      生むのは やはりその自由意志の自由な行使によるということ。この
      きわめて単純な世界観であり そこに存在する《わたし》を推し出す
      ことです。

      ~~~~~~~~~~
     

    No.50の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/23 15:38 通報する
  •  お礼欄から続きます。

     水野論文も 承前となります。
     ◆ (水野:他者構成の問題) ~~~~~~~~~~~
        ・・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.22-24
     
     しかし〔* カニンガムが 言語習慣といった事象を取り上げそれに拠ってそのような日常の現象としての生活世界を前提とすることに関して そこに見られる・〕《超越論的態度》の放棄を度外視しても 〔* その〕マーシュやカニンガムの素朴な前提は いまひとつの現象学的フィルターを通過しないかぎり 一般的に承認されうるものとはなりえない。

      ☆ たぶん 出発点で 見解の違いがあるからだろうと思われ
       ます。言語交通ないしそれの行なわれる生活世界を前提とす
       ることは すでに超越論的還元を経たあとの本質直観として
       得た内容だと見る見解がありうると こちら側は言い張りま
       す。

     それは 科学の《自然主義的成果》によって身体と言語を《説明》するのか それとも その科学的成果そのものが《人格主義的態度》から出発して《理解》されうる意味形成体なのかどうか という《自然的態度》における現象学的区別の検閲をうけなければならない。

      ☆ この一文の内容を理解するために 次のくだりを引きます。

      ◆(水野同論文 pp.20-21 ) ~~~~~~~
       《自然的態度》のパラドックス・・・。・・・〔* それに
       対して〕フッサールの基本的な意図〔は〕あくまでも《超越
       論的態度》にある・・・。
        《自然的態度》をとりつづけるかぎり 主観と世界との間
       に逆説的関係が現われる。主観は 認識するものとしては世
       界を対象化する以上 世界の外に位置する。ところが 実践
       するものとしては主観も世界の内に存在する。・・・
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
      ☆ すなわち ここでもすでに出発点での見解の相違が見られ
      ると言わなければならないように思えます。逆説はないという
      見方もありうると。
       主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世
      界を事象として捉える。ただこれだけのことだと こちら側で
      は考えているからです。
       主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。し
      かもその主観はその自然本性(≒《自然的態度》)においてす
      でに相互主観性を宿していると。

     自然科学と社会科学の成果によって 精神物理的な自我論をキネステーゼ的身体論の背後に予想する立論は 現象学的方法からの二重の後退になるからである。

      ☆ われわれは――と勇みこんで―― すでにじつは初めの《自
      然的態度》(つまり反省をおこなう以前の態度)においてすで
      に白紙の状態にあると言う。そこに 予備的な道しるべとして
      も事後的な後づけとしても じつは 何らの理論を用意してい
      るわけではない。
       《身と心から成る人間存在としての〈わたし〉》を捉えるこ
      とのみから出発する。そこでは 一方で個体としての社会的な
      独立性にかんがみ モナドとしてのわたしを捉えそのとき同時
      にすでにモナド共同体性をも見ようとしている。
       他方では 《わたし》たちの言語交通のならわしを捉えてそ
      こにすでに 単位体の主観は 互いに主観であると同時に客観
      (他者の存在とその主観を見止めざるを得ないというほどの意)
      でもあると見る。
       キネステーゼは この《わたし》の機能である。そして《自
      我》と呼ぶほどの何かを見ようとしていないし そんなものは 
      《わたし》を離れて存在するものではないと言っている。

     超越論的視点を度外視したとしても 個別身体と言語共同体に関する現象学的記述を堅持するためには 少なくとも《人格主義的態度》を放棄することはできない。

      ☆ モナド存在としてのわたしが言語共同体をすでにその主観
       において構成するという視点は 初めの自然的態度にして
       おわりの本質直観のものでもある。こう言い張っています。
        《人格主義的態度》の放棄いかんは その見方においては
       かかわっていないと。

     超越論性を含まないこのような現象学的基礎学は 新手の《哲学的人間学》といわれている。

      ☆ たぶん《新手》ではないと思われる。人間の存在を《コギ
      ト》という部分的なハタラキに還元してしまう以前の――古代の
      ――の哲学について見れば 新手ではないと分かるはず。

     その代表的旗手はシュッツとワルデンフェルスである。シュッツは 超越論的自我の必当然的固有性の説と 超越論的に構成された私の身体と他の身体との類似性に基づいて他者主観を《移入》によって知覚する説とは 両立しないという。

      * シュッツ: Schütz, A., Das Problem der transzendentalen Intersubjektivität bei Husserl, 1957

      ☆ この経験的にして相対的な世界について 要素還元の手法
      によって分析して得られるその究極のものは 《超越論的自我》
      であるとして想定する仮説じたいは あり得るであろうけれど
      そこでそれ自体について さらになお《必当然的な固有性》を
      証明しようとすることは おそらく議論が堂々巡りになると思
      われる。
       相対的な事物や事象に その根拠は見つけられないからであ
      る。どうしても相対世界を超えた絶対の領域を想定せねばなら
      なくなる。想定したとき それは――人間には分からないナゾで
      あるのだから―― 無根拠だということになる。

       言いかえると ただの現象としての《モナド個体》および
      《言語交通》の説についても けっきょくは 無根拠にもとづ
      くというかたちで 同じ手法ではある。
       すなわち 《超越論的態度》の放棄や《人格主義的態度》の
      やはり放棄をしていたとしても その自然的態度は 本質直観
      にたどり着いたという最終の条件をすでにじゅうぶんに構成し
      ていると踏ん張りたい。

     シュッツの人間学的解釈に対してワルデンフェルスは 生活世界の現象学の登場が超越論的主観性を撤回する理由にはならないとしながらも 独我論の解消法は 観念論か生哲学かのいづれかをとるしかないと考えている。

      * ワルデンフェルス: Waldenfels, B., Phänomenologie in Frankreich, 1983

      ☆ つづくところを聞こう。

     《私の内( mein Innnen )》から世界構成へ進む道は ラディカルではあるが観念論であるのに対して 《世界的外部( das Weltliche Außen )》から出発する道は 人格主義的ではあるが自然的な立場へ帰る道である。ワルデンフェルス自身は みづからの学問的原領域を 《自然的態度》のなかで醸成される《対話的中間( das dialogische Zweichen )》に見いだそうとしている。

      ☆ つまり どうしても要素還元をした上でなければ 議論に
      (学問に)ならないと思っている節がある。
        われわれは 《自然的態度》そのままでよいと考えるが 
      そ《のなかで醸成される〈対話的中間〉》という立ち場がある
      という。それは 次である。

     これは 《自然性》と《超越論性》の階位の差異と 哲学にとっての《超越論性》の不可避性と生存にとっての《自然性》の不可避性とを同時に満足させる場所は 日常のロゴスの交流のなかにしか見いだされないと考えた結果であり 日常のロゴスの交流点を《原領域》とするならば 学問的ロゴスの導出も可能であろうと考えた結果である。

      ☆ たぶん はじめに全体があったと見た結果であろうと わ
      れわれの立ち場からは 考えられる。全体とは このちっぽけ
      な存在である《わたし》のことである。その主観である。
       《ロゴス》と言うと そぐわない側面が出て来るけれど 要
      するに 社会性としてどうしても意志疎通を図らねばならない
      ヒトなる動物の絶対的条件(与件)としての言語交通のことで
      ある。
       別に《日常のロゴスの交流点を〈原領域〉とする》までもな
      いとは思われる。生活世界は 逃げては行かないし 消えてな
      くなるものでもない。

     しかし ワルデンフェルスがいかに対話的ロゴスを原点にしようとしても 素朴にロゴス的な仕方で自然的態度へ還帰することは 結局 自然的態度以外への関心(超越論的関心)がないことを意味している とアギレはいう。

      * アギレ: Aguirre, A., Genetische Phänomenologie und Reduktion, 1970

      ☆ この批判の意味は 次のように水野によって説明されてい
      る。

     しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。・・・出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。

      ☆ 要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことに
      なる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれ
      ば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。

       *

    No.57の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/26 14:50 通報する
  •  水野和久論文を取り上げ これまでのやり取りにおける探究をさらに検証します。No.57補足欄からの続きです。

     ◆ (水野:相互主観性の超越論的根拠) ~~~~~~~~~~~
        ・・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.24-26

     ◆(No.57補足欄の再掲) しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性〔*――すなわち 《自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間〉》なる原領域――〕は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。

      ☆ 要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことに
      なる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれ
      ば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。

     ◆ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求は 出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。

      ☆ 《次元のメタ性に無関係に》 対話の相手と互いにその見
      解を明らかにしその異同を確認し 対立点については さらに
      総合的な見解を互いに模索するということ このことは 暴力
      によって――つまりは 対話の席を切れて立ったり 相手の言い
      分を無視したりすることを含む暴力によって――無力にされる。
       されるけれども その対話の姿勢――相互主観性の保証力――
      は つねに有効である。暴力という無効のちからが 社会的に
      有力になっても 有効な態度とその意志は つねに有効である。

     ◆ 対話の中間追求だけでは暴力を制するメタ性をもつことはできない。かくして 人間学的な知〔*――モナドとしての主観および共同体といった思想――〕も対話的中間も 超越論的メタ言語を代行する資格はないといわなければならない。

      ☆ 《超越論的メタ言語を代行する》ことがなくても 本質直
      観はあり得ると見るのである。
       《汝みづからをよく知れ》ということばに触れて そのまま
      本質直観に到るという寸法である。
       その《わたし》は 《超越論的主観性》と同じく 《相互主
      観性》を持ち得ていると。
       ただし そうは考えない場合 次のごとく課題を引きずると
      いう議論である。

     ◆ 残された道は フッサールのテクスト群のなかから 可能なかぎり一貫した形で超越論的志向を《読み出す》ことである。その典型をわれわれはいま ラントグレーベとヘルトに見いだすことができる。

      ☆ 議論に就こう。

     ◆ ラントグレーベは フッサールの必当然的な超越論的意識の優位性を 交換不可能な個体の絶対的事実性へ読みかえようとする。

      ☆ 《モナドとしての主観》に似ている。

     ◆ ラントグレーベにとって 自己存在の《絶対的事実性》は 対象的カテゴリーのなかで偶然性と対比されるような必然性によって規定することのできない《現存在》の背進不可能な零点の規定であり それは歴史的時間のなかに位置づけられた個体の交換不可能性である。

      ☆ たぶん その事象にかかわる《わが主観》がみづからの意
      志としてえらんだ道を その途中でそれまでの意志内容とは別
      のかたちに変えることのできないそのときその場の位置関係の
      ことか? 
       人生において 誰かの連れ合いになるという選択は 互いに
      それ以外の道を選択しえない位置関係に ひとを置く。
       相対世界における出来事ではあるが 意志行為は そこまで
      の《絶対的事実性》を帯びる。或る人の連れ合いの座を その
      歴史的時間なる現実を全面的に別のかたちに改めたあとでない
      と ほかの人が 交替するということは出来ない。

     ◆ ところがフッサールにおいては 《自己責任 Selbstverantwortung 》はあくまでも超越論的認識への決断であって 内世界的実践の《自己責任》を必ずしも意味する必要はない。

      ☆ 実際の生活日常の世界から一たん離れたところで 相互主
      観性から要請される責任というものを考えているということだ
      ろうか? 
       それは おかしなことだが。

     ◆ それは 究極の《無前提性》に基づいて知を再編しようとする普遍的基礎づけを使命とする 哲学する自我の《自己責任》である。

      ☆ たぶん 依然としておかしな話であると思われるが 迂回
      しつつ《超越論的主観性》を模索しているというのであろう。

     ◆ フッサールにあっては この《自己責任》は 共時的には《超越論的相互主観性》として 通時的には《超越論的目的論》として遂行されるのである。

      ☆ 《共時的には》 迂回しつつも やがて《相互主観性》を
      持つことになると言うのだろうか? 
       《通時的には》 きわめて無責任な議論である。人間の究極
      の《目的》が 究極においては 面倒を見ると言おうとしてい
      るか?
       ところが ただし:

     ◆ 私の超越論的自我が他の超越論的自我とともに形成する超越論的共同世界の形成過程は 知の基礎づけの目的論的達成過程を意味するだけであって 現実世界の時代状況のなかで人類全体の究極価値が実現されてゆく歴史過程を意味するのではない。

      ☆ 迂回という条件を除けば 無責任である。

     ◆ それだけにかえって フッサールの《超越論的目的論》はラントグレーベの不満を解消しきることができなかったように思われる。

      ☆ そりゃあそうだ。

     ◆ ラントグレーベのこの不満を解消させるためには 個体的《現存在》自身に超越論的性格を見いだすことができなければならない。

      ☆ そうすれば《通時的》にも 相互主観性の風が 即時にで
      はなくても そのうちに個体の主観に吹き込まれるというのだ
      ろうか?

     ◆ ラントグレーベのそのような志向が この点において ハイデガーの《現存在》の規定に依拠していることは明らかである。

      ☆ よく分からないが そうだとしよう。

     ◆ 《現存在》とは 自己自身の《存在の意味》を自身で問うことのできる《存在者》であり まさしくその点において 内世界的な物体的な他の《存在者》とは区別されている。

      ☆ 現存在が 自然的態度において《みづからの存在の意味》
      を問うことがなくても 生活における相手との対話のなかで
      互いに対立関係を克服していけるように みづからの思想を
      うちに省みることができさえすれば 《相互主観性》を持ち
      得て 共同主観をかたちづくることも出来るはずである。
       その意味では 《物体的な(?)存在者》などは 世の中
      にいることはあるまい。

     ◆ ハイデガーが《現存在》を 《存在者の存在》を解明するための特権的な手掛かりにしたのは 《現存在》の自問する自己還帰的《超越論性》に着目していたからである。

      ☆ すでに冗語が目立つように見える。もう少し行こう。

     ◆ しかし ラントグレーベの要求にこたえるために 《超越論的意識》の《自己責任》から《現存在》の《自己責任》への懸隔を埋めるには 理論的な架橋が必要であろう。

      ☆ 相互主観性の生起のことではないのか?

     ◆ それには 超越論的意識の体験流の根源性のなかに 《被投的企投》の原初形態として 《受動的構成》の先行性を見いだすことができるかどうかを検討する必要があるであろう。

      ☆ なおもあくまで迂回するという腹積もりであるらしい。

     ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。

      ☆ 《超越論的意識の体験流》の《流》に 専門的な意味
      があるのかも知れない。
       けれども《匿名性》は おそらく生活日常の対話ないし
      言語交通におけるおのおのの《主観》がそれだと言いたい。
       《目的論》を どうしたものか? 観念的すぎまいか。

     ◆ ラントグレーベの解釈を正当化するためにも ヘルトの掘り下げが必要であったのである。

      ☆ そうかも知れないが なかなか遠い迂回路であるかと
      思われる。
       このあと 次のようにつづけられている。追わないが。

     ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・

      ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?
      ~~~~~~~~~~~~~

    No.58の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/27 14:54 通報する
  • れあれるげんさん こんにちは。ようこそ。ご回答をありがとうございます。

     § 1 余分なことですが 《 atman 》の語源は?

     あまがっぱさんの質問【Q:本質観取と仏教】( a )への投稿でわたしは 《息 breath 》としています。

     *( a )http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7011950.html 回答No.1

     つまり次の資料( b )などにもとづいていますが そのあとに掲げるウィキペ( c )では 《最も内側( innermost )》なる意味が原義だと言います。

     ▼( b )( Online Etymology Dictionary: atman ) ~~~
    http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_f …

     1785, from Skt. atma "essence, breath, soul,"

     from PIE *etmen "breath" (a root found in Sanskrit and Germanic, cf. O.E. æðm, Du. adem, O.H.G. atum "breath," O.E. eþian, Du. ademen "to breathe").

     ▲( c )(ウィキペ:アートマン) ~~~
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC% …

      [概要] 最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、
     ~~~~~~~~~~

     § 2 現象学は 東西と古今にわたる哲学思想の原点をめぐって展開されているか?

     コギト(思考)だけに限らず インスピレーション(直感および直観のヒラメキ)をも扱い なかんづくその《主観》の扱いは 《わたし》とは何か? である。つまりは存在論であることにおいて世界史を 思想の原点として つらぬいている。か?
     《存在 ないし〈わたし〉》は 古代には 《かみ》一般とつらなって捉えられた。このつながりは――絶対的な隔たりを介してのつながりは――現代にまで インスピレーションという見方に残る。

      ☆☆上記( a )を参照されたい。
       ・プシュケー・コスムー(宇宙霊魂)が《われ》に宿る。
       ・=アニマ・ムンディ(世界霊魂)

       ・主宰神ブラフマンとアートマン我との一体(梵我一如)

       ・諸法無我ととなえつつ《無い神》の想定による世界についての空観(縁起共生)
       ・その空観のまま 人(有情)には仏性というアートマン霊が宿るとした。

       ・《あなたは 神の霊の宿る神殿である》
       ・《エフヱフ アシェル エフヱフ》
         =《 〈 I am. 〉――that is who I am.》。
         《〈わたしはある〉 それがわたしだ》。
       ・《ヤフヱフ》=《 He makes be. 》。
         《かれ(神)は〔われと世界を〕あらしめる》(一訳例)。
       ・《イムマ・ヌー・エル》=《 With us 〔 is 〕 God. 》

     § 3 タウマゼイン:《観る――驚く》!!

     タウマゾー(おどろく)は タウマイ(見る・見つめる・不思議がる)から来ているそうです。
     けれども――よく引き合いに出すのですが―― 雨の落ちる暗い空から光を発し大きな音をとどろかせるなら そりゃあ昔の人びとは 《かみ》だと思ったことでしょう。
     ただ良いほうに解釈しようとしただけなのか分かりませんが この神鳴りという現象は――あたかも現象学的還元をほどこすなら―― われらが生活の糧である米を成らせる力だと見た。稲光であり稲妻なのだと。つまりその光の射すことによって 光と稲とはつるむのだと。かくして神鳴りを 稲つるび( b ∽ m ;さびしい∽さみしい)と呼んだ。

     《タウマゼイン》には おどろきのほかに 実質的に言って ヒラメキも伴われていてよいと思いますし あるいはその前にやはり《おそれ》があり得たはずです。《神をおそれること(イーラフ;フォボス)は 知恵の初め》とさえ言われました。

     § 4 タウマゾー(われ見る / おどろく) ―→ファロール(われあやまつ)―→コギト(われ考える)―→?

     その以前に ともかく世の中を見渡して 逆に言えばおどろきを重ねた結果 それらの驚きを超えて わが身とわが心を捉える。わが存在を見つめる。そこで 《エフヱフ アシェル エフヱフ》あるいは《すでに何ものかナゾの力によってあらしめられたわたしは ある》を得て その表現のかたちが来ていたかとも思います。
     あるいはさらにその前には ただ《行け。親の里を去って 行け》という言葉を受けた《行くわれ》がいるかも知れません。
     その前には 素朴に《われ かみをおそれる(ヤレー ハ・エローヒーム)》が来ていたかも。

     あるいは ただ《あはっ!》と言って世界を知る《もののあはれ》が来ていたかも知れません(*)。すべてをエポケーしたところには――ワビ・サビに到達したところでは―― むしろ神々しきわれが見出されたこともあるかも知れません。《所を追われ 漂白する神(人)》。これは 人の存在じたいが社会からエポケーされた(もしくは 自分からエポケーした)事例であるかも分かりません(**)。
     確かに《タウマゾー》から発しているように思われます。

      * cf. ( d )【Q:日本語とはどういう言語か。】
       その趣旨説明では 《あはっ》もしくは《はー》という息の音
      ないし声から 言葉つまりは自己表出と自己表現が生まれたと見
      るその過程を仮説しています。
       http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html
     
      ** 漂白の人:~~~
        心なき
        身にも あはれは
        知られけり
        鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ
       ~~~~~~~~~

     § 5 デカルトを出すなら クリスチアニズムについてその神学を明らかにせねばなるまい。

     キリスト教という組織宗教が・つまりローマ教会などの団体が出す見解と 聖書が伝える信仰ないし神学とは 区別せねばならないと考えます。
     ★ キリスト教徒にとって人間は神に似せて創られた存在です。だから人間の肉体感覚には真実を見抜く力が当然に宿っているはずです。
     ☆ 《真実を見抜く力》とは何か? 経験世界の事象がすべて その人間による事実認識というかたちにおいてである限りは 知り得るということでしょうか? あるいはその事象や現象が 神の秩序としてあるはずだといったことを言おうとしていましょうか?
     経験合理性にもとづき 事象認識とその思考は限りなく続けられていくと考えます。神の秩序にかんしては 知り得たとしてもそれは ヒラメキ直感においてのみだと考えられます。それ以上・それ以外のことを含むというのは クリスチアニズムではないと言ってよいのではないでしょうか?
     つまりもしそうなら 間違った内容としてのキリスト教教義を前提としていて 人びとはこれに振り回されていた。ただこれだけのことだと見ます。

     ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

     ☆ この内容を図式において示したものです。

     ○ (三位一体なる神とひとと社会とについての図解) ~~~~~~~~~

     光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
     三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
     ____________________________
      スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
     ____________________________
     身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
     [S者/S圏]
     個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
     社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
     経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
     政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
     [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
     社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
      〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     ☆ あとは――つまりこの図式は 《志向性》として中立な認識ですから―― 人それぞれの意志行為がどうあるか といった問題だと見ます。
     つまりは アマテラス精神とスサノヲ身体との二元論だとでも見てしまったのでしょう。
     

    No.65の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2011/10/31 15:50 通報する

A 回答 (66件中11~20件)

 こんにちは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

 愚生の文筆力の稚拙さのため、いろいろな誤解を目泣きましたこと、深くお詫び申し上げます。

 おそらくフッサールの主張の大元を辿りますと、誰でもが、可能な方法を提供した、これに尽きるのかもしれません。今は情報化社会でございます。様々な情報が飛び交っております。もちろん、そこでは、発信者にとりましては何かしらの意図があるといってもいいすぎではないものと考えております。
 そんなとき、エポケーして、とりあえず自分がかけている”色眼鏡”をはずしてしまい、純粋に対象からの表象を見つめてみる、これはある意味、現代社会でも有用なものと考えております。

 とりとめのない話となってしまい、誠に申し訳ございませんでした。

     
 愚生こと ひどっちは、療養に専念致したく、本日をもって、退会させていただこうと思っております。

 誠に勝ってな言い分かとお思いになられるかもしれませんが、他の場所にて、いろいろなことに取り組んで参りたいとそう思っております。

 この場をお借りしまして、 bragelonne様はじめ、皆々様には感謝の気持ちで一杯でございます。
 また、愚生の駄文をお読みいただきました方々にも、お礼を申し上げたく存じます。
 愚生を早く追い出したいとお思いの方々には、これで気が済んだかと。もはや邪魔者はいなくなった訳ですから。

 ですが、わたくしにとりましては、いろんな方達とお話でき、とても楽しかったことは紛れも無く事実でございます。
 ほんとう、ほんとうに愚生は果報者かと・・・
 

 末尾ながら、お世話になりましたbragelonne様、そして応援賜りました皆様には厚くお礼申し上げます。
 どうもありがとうございました。


ひどっち 拝

この回答へのお礼

   それでは その理性的な魂がすでに不可変的で永遠の真理を分有し
  ているような賢い人を心で考えてみよう。

 とアウグスティヌスのえがく共同主観者の像を ここで補足しておかねばならない。(ちなみに 《真理の分有》とは すべてを理性的な魂すなわちアマテラス者精神で 律することではない。律する力を得たということを意味しない)。

   その人はその行為をあげて この真理に諮り 真理において為すべ
  きであると認識しないことは決して為さず そのため真理に服従し真
  理に聴従しつつ正しく為すようになる。このような賢い人が もし心
  の耳でひそかに聞く神的な正義の最高の理法に諮って その命令に基
  づき或るあわれみの業(わざ)を引き受け 身体を労働によって疲れ
  させ 病気に罹り 医者に相談したところ 或る医者からは病因は身
  体の乾燥であると言われ 或る医者からは過剰の液であると言われる
  なら それらの診断の一つは真実の病因を語り 他方は誤っている。
  しかし両者共にただ直接的な つまり身体的な病気の原因に触れてい
  るのにすぎない。

   しかし身体の乾燥の原因が さらに問い求められ あの自発的な労
  働のことが考えられるなら そのとき より高次の病気の原因に到達
  したのである。その原因は魂に起因し 魂が管理している身体に影響
  を与える。ところが それもなお第一の究極的な原因ではないであろ
  う。第一の原因は疑いなく より高いところ すなわち不可変的な知
  恵そのものにあったのである。

   賢い人の魂はその知恵に愛をもって仕え 言詮を絶して命令するそ
  の知恵に聴従しつつ あの自発的な労働を身に引き受けたのである。
  かくて神の意志そのものが あの病気の第一原因であると極めて真実
  に認められるのである。

  〔しかし もし為すべき敬虔な仕事において この賢い人が善き業に
  協力する他の人の奉仕を採用するとき・・・〕
   (三位一体論 3・3・8)

 ここでアウグスティヌスは 《病気にかかる》といったネガティヴな現象を例にあげて アマアガリするスサノヲ者の共同主観行為過程を指し示した。
 しかもそれは 方法としてであるだろう。誰も 病気に罹れとは言っていない。必然の王国をわたりゆく愛の王国を例示しようとしている。
 《もし人間的なものの支配と管理とが この賢い人びとや神に対して敬虔に全き仕方で服従した人びとの手中にあるなら――この状態はまだ存在していないが―― このような人びとの交わり(革命的な連帯)が存在する家についても あるいは都市 または世界についても考え得る》とかれは考えたことになる。

 けれども このような共同主観国というほどの形態的な・或る意味で独尊的な資本関係=やしろの生活については それが《とこしえより据えられて》おり すでに現在するからと言ってのように その実現が 保留されているのだと考えられる。微妙な・また誤解を生むような言い方ではあるが この認識が 神の国の歴史的な進展にかんする後退ではなく 前進なのである。どういうことか。

 なぜなら実際 この《賢い人びと》の内なる秘蹟――第一の死の引き受け→復活(ほんとうのアマアガリ。その約束)なる回転――と 外なる模範――必然の王国を含めて他の人びとの協力を採用するという仕事――としての《キリスト・イエス》は 人間として すでに 出現しているからである。

 わたしたちは 

   神の国と地上の国これら二つの国は この時間的な世界にあっては
  絡み合い 相互に混じり合っている。(神の国について11・1)

 ことを知った。しかも人間キリスト・イエスは 

   《わたしの国は この世に属していない》(ヨハネ18:36)

 と言った。この二つの視点がただしいとわたしたちは考える。そうでなければ 神の国の歴史的な進展(《お前たちは出かけて行き すべての民族をわたしの弟子にしなさい。そしてかれらに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け・・・なさい》(マタイ28:19)は 起こらなかったし 必要ではなかっただろう。

 それでは なぜ 《賢い人びとの交わりの存在する家 都市また 世界》の実現が保留されているとわれわれは認識するのか。自由の王国は 必然の王国に取って代わる新しい歴史的な世界なのではなく 《この世に属していない》愛の王国が 同時に《この世》に寄留しつつ この必然の王国をわたるための必要な限りでの理論なのであるというのは どういうことか。

 思うに 

   主(復活した人間キリスト・イエス)は 《私に触れるな。また私
  は父の御許(みもと=神の国)に昇っていないから》(ヨハネ20:
  17)と言われるのである。それは 接触は いわば認識の目標をつ
  くるからである。(三位一体論1・9・18)。

 ここで 形態的な自由の王国の認識が 《接触》であり それは 自由の王国〔なる理論体系〕が われわれの信じるべき対象なのではなく われわれの信じているのは 神(もしくはなんなら自己)であるのだからと言われているようなものである。

   それゆえ 主は ご自分に向けられた心の目標が 見たものだけを
  思うというようにご自分に置かれるのを欲せられなかったのである。
  〔しかし 御子が御父の許に昇られることは 私たちの心を満たす直
  視の目標が そこで達せられるために御父に等しくあり得るようにみ
  られることであった。〕(三位一体論 承前)

 と言われる。これは 愛の王国を 自由の王国として経験科学的に理論しようがしまいが 愛の王国(その信仰)に立って むしろわれわれが 後ろ向きに 前進することを促されていることであると思う。

 それゆえ 自由な人びとのやしろにおけるかつ資本関係としての連合は 《正義が裁きに変えられるまで》 留保されているのである。それは つねに保留されていると認識するまでに つねに前進を見ているものであり かつそれは すでにその実現を見たかのごとく後ろ向きに 進んでいると解しなければならないのだと思う。

 だから 《ここがロードスだ。とべ》と言って 前向きに進むのではなく ましてや前向きに後退する(先送りする)のではなく 《ここがロードスであり わたしはすでに跳んだ》と言ってのように その後の地点に立って 後ろ向きに前進を開始するであろう。
 

   *

 勝手ながらにて。

 

お礼日時:2011/11/05 22:58
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しばらくぶりに失礼します。rearerugenです。
自分なりに考える現象学を哲学史にそって?整理してみました。

今までの議論の流れに乗った回答ではないのでかえって混乱させてしまうかもしれません。その場合は無視してやってください。何らかの議論のたたき台にでもなれば幸いです。


※そもそも西洋哲学は観る学問でした。客観世界をただただ観察して存在の発見に驚く。こんなものがあったのか。あんなことが起きるのか。ヒラメキというより発見の驚きや喜びが基盤にあります。

でもガリレオが望遠鏡を通して地動説を立証すると学問に革命が起きます。この立証は決定的なのです。なぜならガリレオはただ観ただけではないからです。望遠鏡を「作って」観たのです。そうしたら、ただ観た世界と全く逆の世界が発見された。

衝撃です。キリスト教徒にとって人間は神に似せて創られた存在です。だから人間の肉体感覚には真実を見抜く力が当然に宿っているはずです。でも望遠鏡を使って観ると肉体感覚と真逆の真実が現れた。それは、人間の観る能力はもちろん、その能力を与えた神の善性まで疑わざるを得ない発見なのです。キリスト教会がガリレオを異様に敵視した理由はここにあります。

そこでデカルト懐疑です。彼はとにかく観るもの、感じるもののすべてを疑って疑って疑いぬいた。そうしたら、「疑っている」という理性の動きだけは疑いえないことを発見した。理性は確実に存在し、なにより神から分け与えられたすぐれものだと。

ここで重要なのは理性の確実性の発見はもとより、理性が向かう客観世界の存在をデカルトは露ほども疑っていない点です。疑いぬいたのは、もっぱら観る「能力」の方であって、観る世界の存在自体は当然のものとして受け入れているのです。そしてデカルト以後の西洋哲学は確実な主観と当然な客観の一致に悩みに悩むことになります。

この当然の客観世界が初めて疑われたのはニーチェの時代です。ニーチェの「神は死んだ」は形而上に対する信頼が失われただけでなく、客観世界の存在そのものが死んだことを示しているのです。

ニーチェ以前の哲学は客観世界を観て分析するのが仕事でした。真理に満ちた客観世界は現実世界とは別個に存在していて、我々は現実を観て真なる世界を想起し、まねるだけだというプラトン型。または、真理は現実世界にDNAのように組み込まれているから、現実に従って生長していけば、真理にたどりつけるというアリストテレス型。このどちらかに西洋哲学は分類することができました。でもニーチェ以後はそれができないのです。なにしろ分析すべき対象たる客観世界がないのですから。

対策は大きく3つに分かれました。まず、世界は存在しなくても理性の「運動」が在ることは確実なのだから、その因果の流れを分析して人間にとっての利を追求すればよいというプラグマティズム。次に、理性の考える仕組み「論理」を分析すればよいという分析哲学。そして現象学です。

現象学は客観世界の存在をとりあえずエポケーします。客観世界なんてないと決め付けるのではなく、一時的に判断を停止します。そして、世界があろうとなかろうと、どちらにしても我々がその存在を感覚として感じているという事実は疑っても疑いえないことに注目するのです。デカルトは感覚の正確性、その真なる世界を見抜く精度を疑いました。でも、客観世界の存在を一度判断停止にすると、その正確さはどうあれ「感覚がある」ということ自体は確実だという点が浮かび上がってきます。我々の感覚にはあらゆる存在がその存在を主張してくるではないか。それが真実かどうかの判断はとりあえず不要だ。感覚があるという事実自体は確実なのだから。デカルト懐疑で学の基盤とすべきは理性ではなく、この「感覚」ではないか。フッサールはこのように考えたのです。

この感覚の集まりこそ超越論的主観(純粋意識)なのです。超越論的主観はすべてを感じ取らなくても感じた部分から全体を類推します。顕在している部分から潜在している部分を補って全体へ超越します。この超越する力こそ志向性であり、超越が訪れることこそ直観なのです。ヒラメキといっていいのかもしれません。そして超越により確信が訪れた存在の集まりこそ生活世界なのです。顕在だけの超越論的主観の上に、潜在部分を含んだ生活世界が覆いかぶさるイメージです。

さらに、確信した存在にはぴったりの言葉が、これまた言葉の部分的集まりから超越してきてその存在を主張します。この言葉がぴったりだよと。これが本質直観なんだと思います。

ニーチェ以後、客観世界を失った西洋哲学は観ることをやめてしまった。「世界を観て考えて」行動していたのに観ることをやめてしまった。その後はただ「考えて」行動することが正義となった。考えて行動して考えて行動して…。まるで自分の精神パターンや考え方を探っているようだ。永遠の自分探し。そこから学べることは理性が「できる」ことだけであって「なぜ生きるのか」「なぜ世界は存在するのか」については何も学べない。

思考は自分の中だけの対話です。一者の中の二者の対話。「観て」考えることをやめると、ただ「考える」だけだと、ただ自分で自分を見つめるだけになってしまう。自分に何ができるかについては学べるかもしれないが、自分がなぜ生きるかは学べない。だから「観る」ことを忘れてはいけない。

フッサールなら言うでしょう。客観世界の存在が信じられないだって?だったらそんなのエポケーしてしまえ。感覚を信じてみたらどうだね?世界があろうとなかろうと、感覚があること自体は疑えないだろう?それを「観たら」どうかね?そして「観て」学びたまえ。そうじゃないと生きる意味は発見できないよ。と。

この回答へのお礼

 〔つまりは アマテラス精神とスサノヲ身体との二元論だとでも見てしまったのでしょう。〕
 一般的には ヒトの自然本性(身と心――心つまり精神は 記憶・知解・意志の三つの行為能力――)とそして もし言うとすれば 非経験の領域としての《霊》が来ます。

  * cf. 【Q:魂の存在について】回答No.5
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html

 経験世界にある身体と精神とは 分けたとしても 二元とは言わないはずです。旧くはマニケーイズムの善悪の――善神と悪神との――二元論がありますが そしてこの二元論が あり得ない議論として典型だと思われます。善と悪とが相容れないなら 根源(非経験の領域つまり神)がふたつあるとは考えられません。互いに対等であるなら 善と呼んでも悪と呼んでもまったく変わらないことになります。
 身と心が そんなふうに相容れないふたつの根源でありましょうや? と言いますか  もしそうなら どちらもけっきょく二つにして一つだということにもなります。
 デカルトは 歴史に必要だったとは思わないのです。

 ★ ~~~~
 ここで重要なのは理性の確実性の発見はもとより、理性が向かう客観世界の存在をデカルトは露ほども疑っていない点です。疑いぬいたのは、もっぱら観る「能力」の方であって、観る世界の存在自体は当然のものとして受け入れているのです。そしてデカルト以後の西洋哲学は確実な主観と当然な客観の一致に悩みに悩むことになります。
 ~~~~~
 ☆ 心身二元論のほかにこの《主観と客観世界との分裂》というのは どうも解せないのですが どうなのでしょう? むしろ一体だと見る系譜もあったのではないかと。
 ☆☆(上記§ 2) ~~~
   ・プシュケー・コスムー(宇宙霊魂)が《われ》に宿る。
   ・=アニマ・ムンディ(世界霊魂)

   ・《あなたは 神の霊の宿る神殿である》
   ・《ヤフヱフ》=《 He makes be. 》。
     《かれ(神)は〔われと世界を〕あらしめる》(一訳例)。
   ・《イムマ・ヌー・エル》=《 With us 〔 is 〕 God. 》
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは 経験世界における《主観と客観との分離》はあり得ても それらを覆い包む《かみ》の想定は 活きていたのではないかと単純に思われます。ですから決して 永遠の決裂としての溝を見ているのではないと考えられるにもかかわらず わざとその乖離をもっぱら探究したかったのでしょうか?
 だって 《確実な主観》が得られれば そこから《客観世界》を見るわけですから 出来るところから科学認識を行なって行けば 問題ないと思われます。

 客観世界がもし《絶対》だとでも思い込んでいたとしたら それはおそらく非経験の《かみ》と経験世界(そのイデア化・偶像なる神)との錯視であるに過ぎない。

 と考えるその理由は 例のニーチェの《神は死んだ》なる宣言にあります。その《絶対なるものの相対世界への引きずり下ろしという錯視》なる神は死んだ。あるいは《観念の神》のことです。つまりそんなものは はじめから 死んでいます。ただ移ろいゆくものであるに過ぎません。
 ★ 〔* ニーチェ以後は〕なにしろ分析すべき対象たる客観世界がないのですから。
 ☆ これは まったくと言ってよいほど 《観念》によってあたまが雁字搦めに絡め捕られていると見ざるを得ません。

 ☆☆(§ 4) 漂白の人:~~~
    心なき
    身にも あはれは
    知られけり
    鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ
   ~~~~~~~~~
 ☆ この西行のばあいは わびしさの極みにあり《観念》も錆びついてしまっているはずです。かなり《主観》の世界に閉じこもっていますが そろそろ突き抜けつつある。のではないでしょうか? 《タウマゾー あるいは ヤレー(もののあはれからの きよらかなおそれ)》と叫んでいないでしょうか?
 デカルトやニーチェは みづから蛸壺のなかに入って行ったのでは?

 § 6 あぁ フッサール!?

 ★ ~~~
 ・・・我々の感覚にはあらゆる存在がその存在を主張してくるではないか。それが真実かどうかの判断はとりあえず不要だ。感覚があるという事実自体は確実なのだから。デカルト懐疑で学の基盤とすべきは理性ではなく、この「感覚」ではないか。フッサールはこのように考えたのです。
 ~~~~~
 ☆ ただちに批判するなら どうして《身と心》をなおも分けて考える座標しか取り得ないのか?
 《あやまつなら われあり》のわたしは 感性であり理性である。あるいは ヒラメキ直観である。分かり切ったことではなかったか? なぜ分割せねばならぬか?

 ★ ~~~~~~
 この感覚の集まりこそ超越論的主観(純粋意識)なのです。超越論的主観はすべてを感じ取らなくても感じた部分から全体を類推します。顕在している部分から潜在している部分を補って全体へ超越します。この超越する力こそ志向性であり、超越が訪れることこそ直観なのです。ヒラメキといっていいのかもしれません。そして超越により確信が訪れた存在の集まりこそ生活世界なのです。顕在だけの超越論的主観の上に、潜在部分を含んだ生活世界が覆いかぶさるイメージです。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《わたしはある》のわたしは 感性からの情報を得ましょうし それらを認識したものを概念としていわば純粋化することも出来るかも知れません。場合によっては――神あたえたまうなら―― ヒラメキを得て その純粋意識なるわれをも超えて しづかにわれと世界を見つめるわたしに成っていることが出来るのではないか。
 その境地にあるわたしには やがてさまざまな生活世界の地平が見えて来る。それは § 5における《(三位一体なる神とひとと社会とについての図解)》に示すごとく 世界の分業=協業するそれぞれの分野について 《ものの見えたる》境地に到ることを示すであろう。《潜在・顕在》のあり方が 《地平》の問題としてあるかも知れないとしても。
 
 かくして――あぁ フッサールよ――
 ★ さらに、確信した存在にはぴったりの言葉が、これまた言葉の部分的集まりから超越してきてその存在を主張します。この言葉がぴったりだよと。これが本質直観なんだと思います。


 § 7 フッサールよ フッサールよ

 ★ ~~~~
 思考は自分の中だけの対話です。一者の中の二者の対話。「観て」考えることをやめると、ただ「考える」だけだと、ただ自分で自分を見つめるだけになってしまう。自分に何ができるかについては学べるかもしれないが、自分がなぜ生きるかは学べない。だから「観る」ことを忘れてはいけない。
 ~~~~~~
 ☆ 《かみをおそれることが 知恵のはじめなり》。これは かみを信じよとか言うためではなく 《すべてをエポケーしてしまえ》と言っていまいか?

 ★ ~~~~~
 フッサールなら言うでしょう。客観世界の存在が信じられないだって? だったらそんなのエポケーしてしまえ。感覚を信じてみたらどうだね? 世界があろうとなかろうと、感覚があること自体は疑えないだろう? それを「観たら」どうかね? そして「観て」学びたまえ。そうじゃないと生きる意味は発見できないよ。と。
 ~~~~~~~
 ☆ えっ? まだエポケーし足りないですって? だったら《ヤレー ハ・エル。(われかみをおそれる)》もしくは《われもののあはれを知る》に就きたまえ。《世界》も《見る》じたいをもエポケーしちゃってさ。
 ふところに抱かれつつ。聖なる甘え。究極の完全なるエポケー。だいじょうぶ。《心なき身にも あはれは 知られけり》。どん底にこそ 限りなき愛が・・・。知の原動力として。世界大のいづみ。



 たいへん失礼しました。

お礼日時:2011/10/31 17:21
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 こんにちは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。


> ☆ それでは デカルトは どの思想的系譜から来ているのか? と問いたいという意味合いを この質疑応答の中ほどあたりから質問者としてながら 持ち出して来ていましたでしょうか。
 古代も案外 重要です。全体観がありましょう。

 はい。もちろん、アリストテレス等も含まれます。通史としての全体観も重要かと考えております。



> あるいはつまり フッサールのあとの思想の継承や批判についても 出来れば大筋においてでよいから明らかにして把握したい。ということは すでに現代・現在のわたしたちの――ということは ヨーロッパだけではなくアジア諸地域を含めた世界史という大きな諸系譜のなかにあっての――観点からも捉えたい。こういうことでした。
 ですから早とちりもしくはチョンボの危険を冒してでも いちど《心身二元論》というのは 要素に還元しすぎたところからのチョンボであったに過ぎないという物言いをも差し挟みたい。こういう心つもりです。


 そうでございましたか。納得致しました。



> ★ ~~~~~
 例えば、空観思想におきましても、元来は説一切有部を論破するためのものであったかと記憶しております。
 また、”仏性”、この言葉につきましても、”仏性”を認めない上座部(昔は小乗仏教と揶揄しておりました)と大乗仏教との確執があったものと考えております。

 ~~~~~~~

 ☆ 今ではこの論争・確執は 問題にならないという見方も出来ませんか? 
 仏性は けっきょく霊性のことであり 神の霊がひとに宿るという見方と同じものだと考えます。しかももしこの仏性を認めないとしても そこには 《無い仏性=無い霊=無い神》が代わりに想定されているということにしかならない。つまりは ヒラメキ(インスピレーション)をめぐるロゴスの階梯の仮説にもとづけば まったく同じ類型において 互いに別々の信仰形態を成している。こう見るなら 議論は終わっている。と考えます。


 ”仏性”は仰られる通りかと存じます。ですが、過去の諸賢人達の激論・分派を鑑みますと、やはり、彼ら大先輩達には、頭が下がる思いでございます。
 ただ、”空”につきましては、やはり、上座部からの批判は今でも見受けられるように思えました。

参考:アルボムッレ スマナサーラ著「般若心経は間違い?」宝島社
(但し、賛否両論が激しいようではあります。主に、空論 → 虚無主義 → 神秘主義 だとしているように見受けられました。ですが、愚生はこれを否定致します。)




> これらのわたしの物言いは 哲学史や研究史をおろそかにすることになるというお叱りを受けることかと思います。じっさい この当人であるわたしの状態をかんがみれば そのとおりです。

 いえいえ。愚生は別段、何とも思っておりません。 ただ、哲学の歴史を鑑みました時に、「哲学もけんかであった」というのは、ある意味、史実かとも考えております。



> ただし 誰もが研究者であるわけではありません。おろそかにしているのではないのです。素人の見解にも耳を傾けてもよいのではないかというのみです。茶の木畠に落ち入っているのではないかと たしかに素人が言うわけですから 聞きたくないかも知れませんが だとするといまでは余計にこちらの物言いは当たっているかに思われます。


 因に、愚生も哲学に関しましては、全くの素人でございます。これは歴史好きかどうかだけの問題かもしれません。


> 竹田青嗣の事例を出しておられたのではないですか? そのあと学者と同じ地位にのぼって同じような道を歩まなければ声はとどかないということでしょうか?


 確かに、その一面もあろうかとは考えられます。文系の場合はどうかははきりとは知らないのですが、理系には確実に存在します。
 ただ、竹田氏の場合は、”開かれた学問”を追求し、さらには、優しすぎるとしてカントやヘーゲル解説書もまた非難されることがございますが、現象学の普及をライフワークとして邁進しているのを鑑みますと、今までの研究者とは若干異なるように思われます。


> ドイツ語を読めない者が何を言うかという《褒め言葉》をももらっていますが 生活世界の共同体は 研究者たちをむしろその社会の安寧と発展のために使えばよいわけだと見ます。長年の努力のあとの研究の成果を いともかんたんに市民一般は それは これこれの点でおかしいぢゃないの? と言ったなら その物言いについて摂るべきものがあればしっかりと耳を傾けてこそ よい学者であろうと考えます。


 そんなお褒めの言葉(?)をいただいていたのでしょうか。愚生も、一昔前まではバイルシュタインやアンゲヴァンテ等の情報源もドイツ語でしたので、少々かじりましたが、今は完全に忘れてしまっております。
 後段、つまり、「その物言いについて摂るべきものがあればしっかりと耳を傾けてこそ よい学者であろうと考えます。」につきましては、もちろん、意見を等しくさせていただきます。




> このフッサールなる主題をめぐって もう少し開いています。

 どうもお疲れ様でございました。



 それでは、失礼させていただきます。

この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。ひどっちさん こんにちは。

 ★ アルボムッレ スマナサーラ
 ☆ を取り上げます。

 ☆☆【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】 No.8補足欄 
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html

 ☆ ここで スマナサーラは 無神論に立つということを確認しています。

 次のところでは その性愛観を扱っています。いづれも まっが( magga )さんという方とのやり取りです。

 ☆☆【Q:ブッダの性愛観は 間違っていませんか?】No.6補足欄
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5145751.html

 ▲ (スマナサーラ:【47】 不邪淫戒/慈悲の冥想 )~~~~
 Q:私自身は現在独身なのですが、この場合、配偶者という相手がいない以上、戒を厳密に守ろうとすれば、性欲を満たすには結婚する以外ないということになりますが、それ以外は果たしてダメなのでしょうか? 例えば風俗にいって性欲を満たす場合はどうなのでしょうか? 或いは、相手が人妻である場合は不倫ですからダメだとしても、相手が未婚の女性で、真剣なお付き合いの過程で、お互いを良く知るために関係する場合には、日本の法律上は一応許されると思いますが、仏教的にはどうなのでしょうか?

 A:法律で許される行為の場合は「不邪淫戒」を犯したことにならないのです。仏教の倫理から考えると、性交は「責任」と「権利」の問題になります。完全に独立している二人が「責任」の問題も解決しているならば、性交は道徳的な行為になるでしょう。

 しかし、別の視点からいうと、女性の場合は「守られている」という概念があります。昔は女性は、結婚するまで、親に、親戚に守られたのです。いまも社会人になるまで女性を守っているのです。その女性に対する「権利」は守る側にあります。たとえ「守られている」女性の同意があったとしても、その人との性行為は戒律の違反です。

 (スマナサーラ:「ブッダの智慧で答えます」(Q&A))
  http://www.j-theravada.net/qa/gimon47.html
 ~~~~~~~~~~~



 ★ ただ、哲学の歴史を鑑みました時に、「哲学もけんかであった」というのは、ある意味、史実かとも考えております。



 ☆ ドイツ語の褒め言葉は 例のなな・・・です。

 
 ヒラメキはまだありません。もう少し待ちます。

お礼日時:2011/10/30 18:33
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 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> 困りました。今回は 合意の成ったもの・あるいは わたしの物言いが哲学史や研究史の系譜に棹差すことから離れすぎとのご指摘その他について 分かりましたとお応えするほかにあまり反応が出て来ません。

 ご心証害してしまいましたこと、深くお詫び申し上げます。

 愚生の申し上げたかったことは、哲学の述語云々ではございませんでして、ただ、その思想が生まれたところには、必ずそこには何かしらの背景が存在しているということでございました。例えば、フッサールにしましても、ハイデッガーにしましても、デカルトの心身二元論という大きな”権威”が存在していた訳でございます。

 例えば、空観思想におきましても、元来は説一切有部を論破するためのものであったかと記憶しております。
 また、”仏性”、この言葉につきましても、”仏性”を認めない上座部(昔は小乗仏教と揶揄しておりました)と大乗仏教との確執があったものと考えております。

> ハイデガーは 割り合いその多くの著書を読みましたし デカルトがどうだこうだは あらためて確認しておくべきかとも思うのですが どうも大げさに言いますと 気が抜けました。これまでには百件の回答などは ざらにこなして来ましたが 根気がなくなったのでしょうか。あるいは正直に言って 現象学は ヒラメキ理論の問題として迎え入れられると評価するものの あとは何だか拍子抜けのところも出てきています。
 一たん休憩がしたいのでしょうか。かも知れません。

 おそらく、今までも百件の回答がございましたが、今回は、回答は愚生のみだったため、単調さのみがあり、緊張感、新鮮味がなかったものと思われます。
 もう少し、シャレた言葉が愚生にございましたならば、少しは変わったのかもしれません。ただただ、申し訳ない限りでございます。


> どうでしょう? 
 この主題についての詰めがまだ甘いぞとか これこれの方面について探究をしておくべきですぞとか そういったことがありましたら 指摘していただけますか?


 いえ。愚生と致しましては、別段ございません。

> いづれにしましても 一たんお休みとしたいと思います。何かありましたら 投稿していただくこととし わたしのほうで何か出て来ましたら 補足欄にて お知らせするというかたちにしたいと思いますが どうでしょう?

 はい。何か、おもしろい内容等がヒラメキましたならば、お伝えいただければ、とそう願っております。
 

 それでは、失礼させていただきます。

この回答へのお礼

 お早うございます ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 もし早とちりのリスクを冒してでも 全体観を持ちたいという行き方からすれば 次のように反論いたします。

 ★ ~~~~~
 愚生の申し上げたかったことは、哲学の述語云々ではございませんでして、ただ、その思想が生まれたところには、必ずそこには何かしらの背景が存在しているということでございました。例えば、フッサールにしましても、ハイデッガーにしましても、デカルトの心身二元論という大きな”権威”が存在していた訳でございます。
 ~~~~~~~
 ☆ それでは デカルトは どの思想的系譜から来ているのか? と問いたいという意味合いを この質疑応答の中ほどあたりから質問者としてながら 持ち出して来ていましたでしょうか。
 古代も案外 重要です。全体観がありましょう。

 あるいはつまり フッサールのあとの思想の継承や批判についても 出来れば大筋においてでよいから明らかにして把握したい。ということは すでに現代・現在のわたしたちの――ということは ヨーロッパだけではなくアジア諸地域を含めた世界史という大きな諸系譜のなかにあっての――観点からも捉えたい。こういうことでした。
 ですから早とちりもしくはチョンボの危険を冒してでも いちど《心身二元論》というのは 要素に還元しすぎたところからのチョンボであったに過ぎないという物言いをも差し挟みたい。こういう心つもりです。

 ☆☆(No.61お礼欄) 日本の哲学思想界は 外国のそれらに振り回されているのではあるまいか?
 ☆ には 上のような意味合いがありました。分かりにくい表現で ちらっと触れただけになりました。



 ★ ~~~~~
 例えば、空観思想におきましても、元来は説一切有部を論破するためのものであったかと記憶しております。
 また、”仏性”、この言葉につきましても、”仏性”を認めない上座部(昔は小乗仏教と揶揄しておりました)と大乗仏教との確執があったものと考えております。
 ~~~~~~~
 ☆ 今ではこの論争・確執は 問題にならないという見方も出来ませんか? 
 仏性は けっきょく霊性のことであり 神の霊がひとに宿るという見方と同じものだと考えます。しかももしこの仏性を認めないとしても そこには 《無い仏性=無い霊=無い神》が代わりに想定されているということにしかならない。つまりは ヒラメキ(インスピレーション)をめぐるロゴスの階梯の仮説にもとづけば まったく同じ類型において 互いに別々の信仰形態を成している。こう見るなら 議論は終わっている。と考えます。
 つまりは もし議論は終わっていないという場合には それでもいますでに議論は終わっているではないかという見方を提出して その確執を解きほぐすことは ひとつの道だと考えられます。

 

 これらのわたしの物言いは 哲学史や研究史をおろそかにすることになるというお叱りを受けることかと思います。じっさい この当人であるわたしの状態をかんがみれば そのとおりです。
 ただし 誰もが研究者であるわけではありません。おろそかにしているのではないのです。素人の見解にも耳を傾けてもよいのではないかというのみです。茶の木畠に落ち入っているのではないかと たしかに素人が言うわけですから 聞きたくないかも知れませんが だとするといまでは余計にこちらの物言いは当たっているかに思われます。
 竹田青嗣の事例を出しておられたのではないですか? そのあと学者と同じ地位にのぼって同じような道を歩まなければ声はとどかないということでしょうか?
 ドイツ語を読めない者が何を言うかという《褒め言葉》をももらっていますが 生活世界の共同体は 研究者たちをむしろその社会の安寧と発展のために使えばよいわけだと見ます。長年の努力のあとの研究の成果を いともかんたんに市民一般は それは これこれの点でおかしいぢゃないの? と言ったなら その物言いについて摂るべきものがあればしっかりと耳を傾けてこそ よい学者であろうと考えます。


 このフッサールなる主題をめぐって もう少し開いています。

お礼日時:2011/10/30 08:19
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 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> ★ 現存在とは、主体的存在であると考えられます。つまり、「存在者」を作る、決める存在とも考えられます。

 ☆ 《そこにある Dasein 》というのが 《主体的存在》であり 《〈存在者〉を作り 決める》というのでしょうか?


 厳密には、「[今]そこにある存在 Dasein」というのが、というのが正しいかと存じます。

Da-: here, there, at that time, under that circumstances.
sein: to be.


> ★ さらには、世界の中で、かような自己決定をしながら生きる存在とも言えるかと考えられます。
 
 ☆ それは 《人間》であり 個別に《わたし》だと思います。その《わたし》に自由意志があるという構成で説明するのが 正統ではないでしょうか? 


 はい、確かにそれも一つの方向性かと存じます。ただ、ハイデッガーは、「なぜ、そこに何かがあり、無ではないのか? さらには、むしろ無があるのではないのか? 」という問いかけをしました。従いまして、基本的には、存在論の形態を採っております。

 ですが、今までの哲学者とは異なり、ハイデガーはいかなる解答も、また、そもそも解決方法をも示すこともありませんでした(この問いには、そもそも答えられないと考えたのだと思われます)。そこで、ハイデガーは、「意味の問い」として捉えることにした訳です。さらに申しますと、「なぜ何かが存在しているのか」という問いに関しまして、その根拠となる事実を実証主義的に答えようとするのではなく、その意味、つまり「存在の意味」を答えるべき問いと捉えた訳でございます。


> ★ 自己決定をしながら生きる存在

 ★ 一方、存在者とは、その現存在(人間)の創造によって、生まれるとものかと考えております。

 ☆ まったく分かりません。ので 次へ移ります。


 ここは現象学の影響が出ているものと考えております(フッサールの直接の門下でしたから)。つまり、”創造により生じる:自己の主観内によって、表象され、さらに形成される”、といったものかと考えられます。
 ただ、フッサールとは異なり、”世界(ハイデッガー独自の解釈が若干見られますが)”の存在をアプリオリに認めているようでございます。もちろん、いやフッサール以上に、科学に対しましては、批判的でございます。
「ハイデガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。」
(Wikipedia ハイデッガー からでございます。)


> ★ もちろん、現存在も、「存在者」ということになります。ですが、「存在者」は、現存在が造っているわけです。

 ☆ まづ《存在》は 抽象的な概念であるはずです。よって 具象としては 《存在者》になるのではないか そしてそれだけのことではないかと思うのですが 果たして いったいどういうことが言われていましょうか。


 上述の現象学的手法を考慮に入れていただければ、幸いでございます。


> ★ 例えば、自分という存在についても考えてみますと、自分という存在は、当然、存在者であります。ですが一方、その自分という存在者は、自分の現存在が作ったものであるというわけでございます。

 ☆ こういうことでしょうか すなわち

 ○ ~~~~~
 わたしは わたしと同じようにヒトとして存在する者たちとともに しかもただしその類的存在でありつつも個別の存在として 生まれて来ており 生きつつある。
 わたしは わたしの考えに沿って意志決定を成して生きている。
 それは わたしをかたちづくっていることだ。
 わたしの自由意志による自己表現そしてその――人生というひとまとめの時空間における――過程的な動態 これは わたしの自己形成であり いわば自己の成就である。

 ~~~~~~~


 はい。少しばかり、”わたくし”と”周囲の世界”との日常的な関わり方という点を考慮に入れていただければ、その通りでございます。


> ☆ これは たぶん《出発点 ないし 踏み出し地点》と表わしたほうがふさわしいのでは?

 《原点》は まさにその生活の場としてのこの現実の世界にあるのですが それでも原点は おそらく《人間において互いに関係性を すでに初めに――自然本性として――帯びつつ おのが自由意志によって社会的に独立する主観をかたちづくりその自己表現を重ねながら生きる〈わたし〉なる存在》といったように表わしたほうが。


 非常に難しいところではございますが、「踏み出し地点」というのが最も適切かと存じます。


> この原点は 無根拠にもとづくとも添えたほうが わかりやすいのでは?
 もっと言えば

 ◆ 《生ける現在》 ないし 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》

 ☆ は 仏性を有するとか神の霊が宿るといったように説明すれば――そしてそれらは 無根拠にもとづくと言っていますから―― 哲学としても問題ないのでは?


 確かに、最終的にはヘルト自身も、フッサールの最後の境位として”神”を持ってきたと解釈しておりますから、それでも問題はないかと思っております。ただ、この生活世界というものを全面的に打ち出したかったのかもしれません(愚見でございます)。


> ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。

 ☆ 《目的論》にのみ焦点を当てます。
 人は 人生において目的を持つことが出来て 目的論として表現しておくことも出来ますが 目的が初めにあって・また目的論によってこそ 人生をかたちづくるのではない。よしんば 何かの目的が 人生をよみがえらせるまでの力を持ったり 人にゆたかな《生ける現在》をもたらすことがあったとしても それは むしろ順序がぎゃくであって 《無根拠にもとづくつつましやかな生ける現在》が おのおのにふさわしい目的を見いださせたのである。のではないか?

 なぜ 目的〔論〕を先行させようとするのか 汝 ヨーロッパ人よ。


 この問題につきましては、愚生には、わかりません。誠に申し訳ございません。



> ★  《被投的企投》: 世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)、このことを言っているだけかと思われるのですが・・・

 ☆ という人間の条件ないし人びとの生きる情況は 一人ひとりの《わたし》には百も承知のことであるのだから――裸で生まれて来て 思いっきり人生を生きて やがて土に帰るったあ 百も承知の助なのだから―― わたしたちは このような冗長な哲学を 冗長だとはっきりおしえてやらねばならない。のでは?


 こんなことを申し上げるのは、回答者としましては、非礼の極みでございますが、Wikipedia ”存在と時間”の「存在の意味と現象学的方法」と「デカルト批判と現存在」をご参照いただければ、幸甚に存じます。
 つまり、乗り越えなければならない大きな壁(例えば、デカルトの二元論等でございます)が既に存在していた、という点をご考慮に入れていただければ、どうしてこんな面倒なものを挙げなければならないのかも、ご理解いただけるものかと思ってございます。


> ★ 《匿名性》

 ☆ この能天気の場にこそ ヒラメキ直観のきっかけがあるかも分かりません。それは そこだけを特別視することのほうが 間違いなのでしょうけれど 《匿名性》というような名づけでは どうでもよいと見做しているかに感じられるところがある。のでは?


 まさしく、愚生もそのように考えております。述語の命名方法に関しましては、当地の独特のニュアンス等がございますため、何とも申し上げられないのですが、この場、におきまして、”ヒラメキ(インスピレーションも含みます)”を持って来ましても、何ら問題はないものと考えております。


> ◆ 自己責任 

 ☆ 反省における自問自答の《自答》のほう・つまり《問いに答える ant-wort 》という意味合いで使っているようですね。見直す・考え直すといった意味のようです。すなわち 日本語訳が おかしいことになるのかも知れません。《明証性》を得て 反省的思惟を責任の持てる内容にすると言っても その明証性は どこまで追究しても 切りがない。つまり相対的なものであるに留まる。


 仰られますように、一般的に用いられる日本語の用例とは異なるようでございます。ただ、
逆に申しますと、相対的なものである以上は不確かなもの、このため、それに対しましては責任を取る、ということかと考えております。


> 日本の哲学思想界は 外国のそれらに振り回されているのではあるまいか? 

 これは、自然科学(特に生命科学におきましては顕著でございます)のもあてはまるものと考えております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

この回答へのお礼

 困りました。今回は 合意の成ったもの・あるいは わたしの物言いが哲学史や研究史の系譜に棹差すことから離れすぎとのご指摘その他について 分かりましたとお応えするほかにあまり反応が出て来ません。

 まづは ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ハイデガーは 割り合いその多くの著書を読みましたし デカルトがどうだこうだは あらためて確認しておくべきかとも思うのですが どうも大げさに言いますと 気が抜けました。これまでには百件の回答などは ざらにこなして来ましたが 根気がなくなったのでしょうか。あるいは正直に言って 現象学は ヒラメキ理論の問題として迎え入れられると評価するものの あとは何だか拍子抜けのところも出てきています。
 一たん休憩がしたいのでしょうか。かも知れません。

 どうでしょう? 
 この主題についての詰めがまだ甘いぞとか これこれの方面について探究をしておくべきですぞとか そういったことがありましたら 指摘していただけますか?
 いづれにしましても 一たんお休みとしたいと思います。何かありましたら 投稿していただくこととし わたしのほうで何か出て来ましたら 補足欄にて お知らせするというかたちにしたいと思いますが どうでしょう?

お礼日時:2011/10/29 23:04
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 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。


> ◆ ところがフッサールにおいては 《自己責任 Selbstverantwortung 》はあくまでも超越論的認識への決断であって 内世界的実践の《自己責任》を必ずしも意味する必要はない。
 ☆ 実際の生活日常の世界から一たん離れたところで 相互主観性から要請される責任というものを考えているということだろうか? それは おかしなことだが。

 以下の定義から、おそらく自己の”明証”による判断、決断等のみであり、それ以外の例えば、結果責任等ではない、というものと考えております。


・フッサールの自己責任
 たとえば『危機』書の末尾では、「普遍的な自己責任にもとづく生」は理性の自己理解と自己実現を通じてのみ達成されうることが述べられているのだそうです。
 そこで、まずフッサールの理性の定義としまして、「理性の領野とは、自我によって遂行された諸作用である」のだそうです。つまり、責任が問われるのも、そのつどの自我によって遂行される”作用”に関してだけとなります。
 また、一方では、[作用の]正当化の営みについて語る際に、フッサールは”明証”の役割を強調しているのだそうです。
 従いまして、自己責任ろは、明証による(正誤等の)自己理解、判断、決断によってなされるべきものとの関わり、と考えております。

> ◆ それは 究極の《無前提性》に基づいて知を再編しようとする普遍的基礎づけを使命とする 哲学する自我の《自己責任》である。
 ☆ たぶん 依然としておかしな話であると思われるが 迂回しつつ《超越論的主観性》を模索しているというのであろう。

 上述にて説明させてもらいましたように、 哲学する自我の《自己責任》とは、哲学を探求する上での”自我の明証による決定を通じてなされるもの”と考えられます。


> ◆ ラントグレーベのこの不満を解消させるためには 個体的《現存在》自身に超越論的性格を見いだすことができなければならない。
 ◆ ラントグレーベのそのような志向が この点において ハイデガーの《現存在》の規定に依拠していることは明らかである。
 ◆ 《現存在》とは 自己自身の《存在の意味》を自身で問うことのできる《存在者》であり まさしくその点において 内世界的な物体的な他の《存在者》とは区別されている。
 ☆ 現存在が 自然的態度において《みづからの存在の意味》を問うことがなくても 生活における相手との対話のなかで互いに対立関係を克服していけるように みづからの思想をうちに省みることができさえすれば 《相互主観性》を持ち得て 共同主観をかたちづくることも出来るはずである。その意味では 《物体的な(?)存在者》などは 世の中にいることはあるまい。

 現存在とは、主体的存在であると考えられます。つまり、「存在者」を作る、決める存在とも考えられます。さらには、世界の中で、かような自己決定をしながら生きる存在とも言えるかと考えられます。一方、存在者とは、その現存在(人間)の創造によって、生まれるとものかと考えております。もちろん、現存在も、「存在者」ということになります。ですが、「存在者」は、現存在が造っているわけです。
 例えば、自分という存在についても考えてみますと、自分という存在は、当然、存在者であります。ですが一方、その自分という存在者は、自分の現存在が作ったものであるというわけでございます。

現存在:(コトバンク 現存在 からでございます)
ハイデッガーの用語,Daseinの訳。自己を人間として理解している主体としての存在者。世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)である。 


> ◆ ハイデガーが《現存在》を 《存在者の存在》を解明するための特権的な手掛かりにしたのは 《現存在》の自問する自己還帰的《超越論性》に着目していたからである。
 ◆ しかし ラントグレーベの要求にこたえるために 《超越論的意識》の《自己責任》から《現存在》の《自己責任》への懸隔を埋めるには 理論的な架橋が必要であろう。
 ☆ 相互主観性の生起のことではないのか?

 上述からもお分かりかと存じますが、超越論的(性)、つまり、一種のメタレベルからの考察と考えられます。


> ◆ それには 超越論的意識の体験流の根源性のなかに 《被投的企投》の原初形態として 《受動的構成》の先行性を見いだすことができるかどうかを検討する必要があるであろう。
 ☆ なおもあくまで迂回するという腹積もりであるらしい。

 《被投的企投》: 世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)、このことを言っているだけかと思われるのですが・・・

> ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。
 ☆ 《超越論的意識の体験流》の《流》に 専門的な意味があるのかも知れない。けれども《匿名性》は おそらく生活日常の対話ないし言語交通におけるおのおのの《主観》がそれだと言いたい。《目的論》を どうしたものか? 観念的すぎまいか。

 仰られますように、観念的すぎるかと存じます。

 《匿名性》:現象学的方法は、反省の諸作用のなかでのものですが、さらにこの下層には、方法論的に見れば、厳密に「反省」されないものと、ヘルトが定義したようであります。


> ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・
 ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?

 おそらく、”生ける現在”もしくは、”生活世界”に生きる、ということかと考えております。これらのtechnical temはフッサールの後期の思想のものではありますが、別の観点からしますと、原点ともなる思想とも捉えることが可能かと思われます。

 残りの箇所は、また明日にでもご回答致したく存じます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

この回答へのお礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 何とも言い難い思いになります。
 まだ出ていなかった術語について解説をいただきました。ありがとうございます。
 もっと早く知っておくべきでしたし まだまだ出てくるかも知れませんので そういった初期段階の勉強をしっかりしておくべきではあるのですが まったくそうなのですが ひるがえってみれば そうは言うもののまなんでしまえば どこか――いえ まったくはっきりと――観念的であり冗長でさえあると かえってがっかりするほどでもあります。

 《現存在》を取り上げて ドクターにもさからってみましょう。
 ★ 現存在とは、主体的存在であると考えられます。つまり、「存在者」を作る、決める存在とも考えられます。
 ☆ 《そこにある Dasein 》というのが 《主体的存在》であり 《〈存在者〉を作り 決める》というのでしょうか?

 ★ さらには、世界の中で、かような自己決定をしながら生きる存在とも言えるかと考えられます。
 ☆ それは 《人間》であり 個別に《わたし》だと思います。その《わたし》に自由意志があるという構成で説明するのが 正統ではないでしょうか? 

 ★ 自己決定をしながら生きる存在
 ☆ は 当たり前ですので その条件づけとしての
 ★ かような〔自己決定を・・・〕
 ☆ の内容について見てみなければなりません。すなわち《存在者》のことです。存在者を作るという《かような》であるようですから。

 ★ 一方、存在者とは、その現存在(人間)の創造によって、生まれるとものかと考えております。
 ☆ まったく分かりません。ので 次へ移ります。

 ★ もちろん、現存在も、「存在者」ということになります。ですが、「存在者」は、現存在が造っているわけです。
 ☆ まづ《存在》は 抽象的な概念であるはずです。よって 具象としては 《存在者》になるのではないか そしてそれだけのことではないかと思うのですが 果たして いったいどういうことが言われていましょうか。

 ★ 例えば、自分という存在についても考えてみますと、自分という存在は、当然、存在者であります。ですが一方、その自分という存在者は、自分の現存在が作ったものであるというわけでございます。
 ☆ こういうことでしょうか すなわち

 ○ ~~~~~
 わたしは わたしと同じようにヒトとして存在する者たちとともに しかもただしその類的存在でありつつも個別の存在として 生まれて来ており 生きつつある。
 わたしは わたしの考えに沿って意志決定を成して生きている。
 それは わたしをかたちづくっていることだ。
 わたしの自由意志による自己表現そしてその――人生というひとまとめの時空間における――過程的な動態 これは わたしの自己形成であり いわば自己の成就である。
 ~~~~~~~

 ☆ まじめにまなばねならないと同時に まなんだ結果 それらは どうもおかしい部分もある。ということを もっともっとはっきりと言うべきではないのでしょうか? 遠慮するなら 自分で自分の手足を縛っていることにすらなる。そういうおかしな部分があるのではないでしょうか? ヨーロッパの哲学思想の中には。


 ★ ~~~~~~~
  > ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・
  ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?

 おそらく、”生ける現在”もしくは、”生活世界”に生きる、ということかと考えております。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これは たぶん《出発点 ないし 踏み出し地点》と表わしたほうがふさわしいのでは?
 《原点》は まさにその生活の場としてのこの現実の世界にあるのですが それでも原点は おそらく《人間において互いに関係性を すでに初めに――自然本性として――帯びつつ おのが自由意志によって社会的に独立する主観をかたちづくりその自己表現を重ねながら生きる〈わたし〉なる存在》といったように表わしたほうが。
 この原点は 無根拠にもとづくとも添えたほうが わかりやすいのでは?
 もっと言えば
 ◆ 《生ける現在》 ないし 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》
 ☆ は 仏性を有するとか神の霊が宿るといったように説明すれば――そしてそれらは 無根拠にもとづくと言っていますから―― 哲学としても問題ないのでは?

 ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。
 ☆ 《目的論》にのみ焦点を当てます。
 人は 人生において目的を持つことが出来て 目的論として表現しておくことも出来ますが 目的が初めにあって・また目的論によってこそ 人生をかたちづくるのではない。よしんば 何かの目的が 人生をよみがえらせるまでの力を持ったり 人にゆたかな《生ける現在》をもたらすことがあったとしても それは むしろ順序がぎゃくであって 《無根拠にもとづくつつましやかな生ける現在》が おのおのにふさわしい目的を見いださせたのである。のではないか?
 なぜ 目的〔論〕を先行させようとするのか 汝 ヨーロッパ人よ。
 ◆ 根源的萌芽
 ☆ は 仏性なり神の霊なりと言わずとも 無根拠――へのきよらかなおそれ――にすでにあると まづひとこと言っておいてから 細かく要素ごとの分析をしていけばよいものを。だってその萌芽を わがメタ主観がいちいち見つけ出さなくとも すでに自己表現をして生きている生ける現在は 生き生きした息吹きにあふれているということだって いくらでもあるんだから。

 つまり
 ★  《被投的企投》: 世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)、このことを言っているだけかと思われるのですが・・・
 ☆ という人間の条件ないし人びとの生きる情況は 一人ひとりの《わたし》には百も承知のことであるのだから――裸で生まれて来て 思いっきり人生を生きて やがて土に帰るったあ 百も承知の助なのだから―― わたしたちは このような冗長な哲学を 冗長だとはっきりおしえてやらねばならない。のでは?
 というより ヤツらは 一生懸命問い求めている。われわれは その成果を しっかりとわれわれの言葉で消化して行かねばいけない。《被投企的投企》に代わる言葉を模索して行かねばいけない。のでは?

 ★ 《匿名性》:現象学的方法は、反省の諸作用のなかでのものですが、さらにこの下層には、方法論的に見れば、厳密に「反省」されないものと、ヘルトが定義したようであります。
 ☆ この能天気の場にこそ ヒラメキ直観のきっかけがあるかも分かりません。それは そこだけを特別視することのほうが 間違いなのでしょうけれど 《匿名性》というような名づけでは どうでもよいと見做しているかに感じられるところがある。のでは?

 ◆ 自己責任
 ☆ に到っては 少なくともその表現は おかしいのではないでしょうか?
 ★ ・フッサールの自己責任 ~~~~~~~~
 たとえば『危機』書の末尾では、「普遍的な自己責任にもとづく生」は理性の自己理解と自己実現を通じてのみ達成されうることが述べられているのだそうです。
 そこで、まずフッサールの理性の定義としまして、「理性の領野とは、自我によって遂行された諸作用である」のだそうです。つまり、責任が問われるのも、そのつどの自我によって遂行される”作用”に関してだけとなります。
 また、一方では、[作用の]正当化の営みについて語る際に、フッサールは”明証”の役割を強調しているのだそうです。
 従いまして、自己責任とは、明証による(正誤等の)自己理解、判断、決断によってなされるべきものとの関わり、と考えております。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 反省における自問自答の《自答》のほう・つまり《問いに答える ant-wort 》という意味合いで使っているようですね。見直す・考え直すといった意味のようです。すなわち 日本語訳が おかしいことになるのかも知れません。《明証性》を得て 反省的思惟を責任の持てる内容にすると言っても その明証性は どこまで追究しても 切りがない。つまり相対的なものであるに留まる。


 日本の哲学思想界は 外国のそれらに振り回されているのではあるまいか? 

お礼日時:2011/10/29 10:19
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 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> キネステーゼ問題:
 ☆ これも そう言ってはすみませんが 当たり前のように思われます。何もからだを動かしていなくても 人は時間過程をたどっています。坐って窓の外の桜をながめているときにも 桜のほうが動いているという側面もあります。風に吹かれれば 花びらが散ります。

 こう言ってしまえば、身も蓋も無いのですが、当然のことを言っているかと考えられます。ただ、(影響力の大きかった)デカルトの点的時間性問題を克服すべく、あえて設けた概念かとも考えております。


> こう考えて来ますと ほかの事項では合意に達したか それは当然のことではないかという見方に達したと思われ どうもこの復習の作業は あまり生産的ではないかも知れません。と思えるようになりました。

 ある程度理解してしまえば、既知のことを単に言葉をかえて述べているに過ぎない、もしくは、少しばかり内容が付加されたもの、このいずれかになってしまうものなのかもしれません。


> 《自然的態度》のパラドックス問題。主観は 世界の内か外か。
 ☆ これにつきましては まだ納得が行きません。
 ☆☆ ~~~
 逆説はないという見方もありうる。
 主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世界を事象として捉える。
 主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。
 ~~~~~~
 ☆ もしこうだとしますと このとき
 ★ 対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。
 ☆ というその意味は 或る程度において《その対象を わが主観の内に視像や概念像として認識しているというかぎりで 距離を取りつつ――或る意味で――超えたところから見ている》ということでしょうか? 
 もしそうなら 《内部・外部》という表現が ふさわしくないように思います。

 愚生はそのように理解しております。
 ただ、もしかしますと、メルロ・ポンティの「世界が意識や主体の外部にあるのではなく、意識とは世界の内に生きることによって定義されるようななにかであり、意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。」との対比を示したかったのかもしれません。


> ★ [人格主義的態度] ~~~~
 ここで、自然主義的態度は人格主義的態度に従属しており、自然的態度が理論的分析をはじめるやいなや自然主義的態度に陥ると、人格主義的態度は忘却されて自然主義的態度が独立性を獲得し、そのことによって自然は不当に絶対化されてしまうこととされています。
 ~~~~~~~~~~~~ 
ふうーう。ややこしいですね。

 とにかく、フッサールは考えては、新たな術後を用いていくタイプの人ですので、致し方のないものとして、諦めております。
 この“人格主義的態度”を抜きにして、理論分析してしまいますと、自然を誤って絶対化してしまう、との危惧感をしめしているものと考えております。

 ○ ~~~~
> 1.自然的態度:日常生活において 自然および社会をそのまま捉えたその認識にもとづき みづからの考えを決めその判断に従って行動するその態度。

 “自然主義的な態度”とは、(物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)を意味しております。このため自然と呼ばれうるものはすべて物理的自然に基盤を持っていることとなります。これは、イデーンIIにて述べられている言葉ですが、この対義語である”人格主義的態度”は、その後の”危機”の”生活世界”と同じ意味内容のように察せられます。

> 2.このように定義するなら じつはそのときにもすでに 他者はいます。社会は 人間関係から成ります。おのれの考えとは違った考えをするほかの人間がいるとわたしは知ります。すでに相互主観性の芽は生まれています。

 はい。そこでは、相互主観性も生まれるはずでございます。 

> 4.ただしもしどうしても《現象学的反省》を 自然的態度は持たないというのであれば それは 思惟をめぐらす主観そのものを 同じ主観が捉えるということをしないと言っていましょうか? 

 “自然主義的な態度”に基底をおき、《現象学的反省》がなされれば、おそらく、”人格主義的態度”に通ずるものと考えております。


> 5.そうであっても 自然的態度はすでに 相手を主観どうしとして受け留めて互いの考えを突き合わせそれらをまとめようとしていると言える限りで 相互主観性を帯びる。こう考えてよいのではないか?

 相互主観性を帯びる、とみなしてもよろしいかと存じます。

> 6.このような日常生活における一般的な自然的態度にかんして そこから 《自然主義的態度》や《人格主義的態度》が出て来るのでしょうか?

 対義語としまして、《人格主義的態度》が出てくるようであります。

> 9.人格主義的態度というのは この規範にもとづこうとする考えなのでしょうか? 主義というからには その人格の内容を規定した規範ないし道徳がすでに体系化されていましょうか?

 いえ。日常世界に基盤をおくという、”科学主義的自然的態度”とは逆の概念でございあます。従いまして、敢えて申しますと、≪環境世界≫とさまざまにかかわりあいを持つ、といったものかと考えております。

> 10.自然主義的態度は ぎゃくに規範にはもとづかず 経験の積み重ねにもとづきつつ そのつど人格ないし人格関係としての人間関係をかたちづくりつつ 社会をいとなむ。といった考え方でしょうか?

 上述”1”をご参照くださいませ。

 
> (水野:相互主観性の超越論的根拠) ~~~~~~~~~~~
・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.24-26
 ◆(No.57補足欄の再掲) しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性〔*――すなわち 《自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間〉》なる原領域――〕は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。
 要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことになる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。

 ある意味当然のことを言っているとしか・・・

> ◆ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求は 出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。
 ☆ 《次元のメタ性に無関係に》 対話の相手と互いにその見解を明らかにしその異同を確認し 対立点については さらに総合的な見解を互いに模索するということ このことは 暴力によって――つまりは 対話の席を切れて立ったり 相手の言い分を無視したりすることを含む暴力によって――無力にされる。されるけれども その対話の姿勢――相互主観性の保証力――は つねに有効である。暴力という無効のちからが 社会的に有力になっても 有効な態度とその意志は つねに有効である。

 中間追求:《物理学的自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間の追求〉》と解しますと、もちろん、根拠たるものを問うものではなく(事実は問うかもしれませんが)、「次元のメタ性に無関係に(超越論的意識へのメタ性の変化なしに)」移動するしかない、と言えるかもしれません。


> ◆ ラントグレーベは フッサールの必当然的な超越論的意識の優位性を 交換不可能な個体の絶対的事実性へ読みかえようとする。
 ☆ 《モナドとしての主観》に似ている。

 お者られる通りかと存じます。

 ◆ ラントグレーベにとって 自己存在の《絶対的事実性》は 対象的カテゴリーのなかで偶然性と対比されるような必然性によって規定することのできない《現存在》の背進不可能な零点の規定であり それは歴史的時間のなかに位置づけられた個体の交換不可能性である。
 ☆ たぶん その事象にかかわる《わが主観》がみづからの意志としてえらんだ道を その途中でそれまでの意志内容とは別のかたちに変えることのできないそのときその場の位置関係のことか? 人生において 誰かの連れ合いになるという選択は 互いにそれ以外の道を選択しえない位置関係に ひとを置く。相対世界における出来事ではあるが 意志行為は そこまでの《絶対的事実性》を帯びる。或る人の連れ合いの座を その歴史的時間なる現実を全面的に別のかたちに改めたあとでないと ほかの人が 交替するということは出来ない。

 個体の交換不可能性:個体(各人の)の固有性、唯一性、ととらえたのですが、いかがでしょうか。

 さらに、フッサールの「自己責任」、さらに前期ハイデッガーにも及んでいきますが、本日はここまでで、お許しくださいませ。誠に申し訳ございません。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

この回答へのお礼

 生兵法は怪我の元。新しい術語には警戒してあたらなきゃだめ。というわけで ちょんぼをしでかしました。

 ひどっちさん こんにちは。ご回答とご指摘をありがとうございます。

 ○ 世界の内と外:
 ★ ~~~
  ☆ 《内部・外部》という表現が ふさわしくないように思います。

 愚生はそのように理解しております。
 ただ、もしかしますと、メルロ・ポンティの「世界が意識や主体の外部にあるのではなく、意識とは世界の内に生きることによって定義されるようななにかであり、意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。」との対比を示したかったのかもしれません。
 ~~~~~
 ☆ 《意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。》 これの意味は必ずしもはっきりしませんが 要は 研究史に就けという問題であるようです。あるいは フッサールの原典から出発せよということのようです。



 ○ 人格主義的態度
 ★ ~~~
 とにかく、フッサールは考えては、新たな術語を用いていくタイプの人ですので、致し方のないものとして、諦めております。
 この“人格主義的態度”を抜きにして、理論分析してしまいますと、自然を誤って絶対化してしまう、との危惧感をしめしているものと考えております。
 ★ ~~~
 “自然主義的な態度”とは、(物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)を意味しております。このため自然と呼ばれうるものはすべて物理的自然に基盤を持っていることとなります。これは、イデーンIIにて述べられている言葉ですが、この対義語である”人格主義的態度”は、その後の”危機”の”生活世界”と同じ意味内容のように察せられます。
 ~~~~~
 ☆ ややこしいようです。

 ○ 自然的態度:思考や判断はおこなうが その主観を見つめる主観(そのメタ性)という考えはしていない。

 ○ 自然主義的な態度:精神=物理的な態度(?)。
   ★ (物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)

 ○ 人格主義的態度:自然的態度が世界における現象を扱うに際して 身体やものごとの物理的自然としての基盤を問わないかたちを採る。ただし 《反省》をすでに織り込んでいるとすれば 自然的態度から主観のメタ性へと移行している。
   ★ “自然主義的な態度”に基底をおき、《現象学的反省》がなされれば、おそらく、”人格主義的態度”に通ずるものと考えております。
   ★ 敢えて申しますと、≪環境世界≫とさまざまにかかわりあいを持つ、といったものかと考えております。


 ○ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求 / ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求
 ★ ~~~~
 中間追求:《物理学的自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間の追求〉》と解しますと、もちろん、根拠たるものを問うものではなく(事実は問うかもしれませんが)、「次元のメタ性に無関係に(超越論的意識へのメタ性の変化なしに)」移動するしかない、と言えるかもしれません。
 ~~~~~
 ☆ それでも――と ただちにわが田に水を引きますが―― 言語交通説では 意識ないし主観のメタ性に直接にかかわりないままに 主観はみづからの中に相互主観性をそなえて 共同主観をもかたちづくりうると言おうとはしています。

 《反省》を 主観のメタ性において捉えなくても そうでなくても おのれの主観と他者の主観との異同を認識したあとに その矛盾や対立の関係をおのが主観の内に省みて それを超えようとして次元をあらためるかのごとく まとまった見方をかたちづくろうとする このことに限定したとしても 相互主観性を備えていると見る。

 極端な言い方をすれば 相手との見解のあいだの隔たりにかんして単なる《中間追求》をしたとしても それによって 相互主観性の欠如を指摘しきるということは出来ないであろう。《中間追求》――足して二で割る――といった解決策しかなかったという場合は たとえメタ主観を駆使して本質直観に達して思考したとしても 同じ結果が現われることは いくらでもあると考えられる。

 ぎゃくに もっと次元の高いところで解決策が見つかるとすれば それは・それも メタ性抜きでの反省においても 得られるはずだという見方です。
 本質直観こそが つねにただしく 優位性を保つといった観念には与したくありません。つまりは 無反省においても 直観ヒラメキは 人に起きると考えます。


 ○ モナド
 ☆ という概念は 扱いよいようで それでよいのだろうかと不安を残すようにも感じられます。(議論を展開しようとしてではありません。感想です)。

 ちょうどその個体をめぐってですが:
 ★ 個体の交換不可能性:個体(各人の)の固有性、唯一性、ととらえたのですが、いかがでしょうか。
 ☆ だとしたら 所謂る存在についての《掛け替えの無さ》のことだと思われます。


 ★ さらに、フッサールの「自己責任」、さらに前期ハイデッガーにも及んでいきますが・・・
 ☆ よろしくお願いいたします。

お礼日時:2011/10/28 13:56
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 前項からの続きでございます。


> それは 科学の《自然主義的成果》によって身体と言語を《説明》するのか それとも その科学的成果そのものが《人格主義的態度》から出発して《理解》されうる意味形成体なのかどうか という《自然的態度》における現象学的区別の検閲をうけなければならない。
 ☆ この一文の内容を理解するために 次のくだりを引きます。
 ◆(水野同論文 pp.20-21 ) ~~~~~~~
 《自然的態度》のパラドックス・・・。・・・〔* それに対して〕フッサールの基本的な意図〔は〕あくまでも《超越論的態度》にある・・・。《自然的態度》をとりつづけるかぎり 主観と世界との間に逆説的関係が現われる。主観は 認識するものとしては世界を対象化する以上 世界の外に位置する。ところが 実践するものとしては主観も世界の内に存在する。・・・
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち ここでもすでに出発点での見解の相違が見られると言わなければならないように思えます。逆説はないという見方もありうると。主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世界を事象として捉える。ただこれだけのことだと こちら側では考えているからです。主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。しかもその主観はその自然本性(≒《自然的態度》)においてすでに相互主観性を宿していると。

 「主観は、認識するものとしては世界を対象化する以上、世界の外に位置する」の”世界の外”の表現が微妙かと見受けられます。対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。したがいまして、こんな世界の内部・外部的存在というパラドックスが生じてしまった、と述べているのかと推察してございます。

・ 超越論的態度:主観を基点として世界をあらためて対象化するという態度


> 超越論的視点を度外視したとしても 個別身体と言語共同体に関する現象学的記述を堅持するためには 少なくとも《人格主義的態度》を放棄することはできない。
 ☆ モナド存在としてのわたしが言語共同体をすでにその主観において構成するという視点は 初めの自然的態度にしておわりの本質直観のものでもある。こう言い張っています。《人格主義的態度》の放棄いかんは その見方においてはかかわっていないと。

 確かに、以下に概略を示させていただいておりますが、人格主義的態度の重要性は認めますが、超越論的視点を度外視してもよいのかどうかの判断はつきかねます。


[人格主義的態度]
 私達が自己をとりまく環境世界のうちで様々な行為をしているとき、私達はすでに理論的な反省以前に私達に共通するところの世界を知っている。この私達が日常採用している態度をフッサールは人格主義的態度と名付けたのだそうです。これは明らかに自然主義的態度と異なるものであり、「人格として生活するということは、自分自身を人格として措定し、意識の面で自分自身が「環境世界」とさまざまにかかわりあい、それらの相互関係に身を置くことである」としています。
 ここで、自然主義的態度は人格主義的態度に従属しており、自然的態度が理論的分析をはじめるやいなや自然主義的態度に陥ると、人格主義的態度は忘却されて自然主義的態度が独立性を獲得し、そのことによって自然は不当に絶対化されてしまうこととされています。

> 超越論性を含まないこのような現象学的基礎学は 新手の《哲学的人間学》といわれている。
 ☆ たぶん《新手》ではないと思われる。人間の存在を《コギト》という部分的なハタラキに還元してしまう以前の――古代の――の哲学について見れば 新手ではないと分かるはず。

 はい。《新手》は誇張が含まれているかと存じます。


> その代表的旗手はシュッツとワルデンフェルスである。シュッツは 超越論的自我の必当然的固有性の説と 超越論的に構成された私の身体と他の身体との類似性に基づいて他者主観を《移入》によって知覚する説とは 両立しないという。
 ☆ この経験的にして相対的な世界について 要素還元の手法によって分析して得られるその究極のものは 《超越論的自我》であるとして想定する仮説じたいは あり得るであろうけれどそこでそれ自体について さらになお《必当然的な固有性》を証明しようとすることは おそらく議論が堂々巡りになると思われる。相対的な事物や事象に その根拠は見つけられないからである。どうしても相対世界を超えた絶対の領域を想定せねばならなくなる。想定したとき それは――人間には分からないナゾであるのだから―― 無根拠だということになる。
 言いかえると ただの現象としての《モナド個体》および《言語交通》の説についても けっきょくは 無根拠にもとづくというかたちで 同じ手法ではある。すなわち 《超越論的態度》の放棄や《人格主義的態度》のやはり放棄をしていたとしても その自然的態度は 本質直観にたどり着いたという最終の条件をすでにじゅうぶんに構成していると踏ん張りたい。

 仰られますように、《超越論的自我》、それ自体について さらになお《必当然的な固有性》を証明しよう(見出そう)とすることは おそらく堂々巡りになると思われます。
 そもそも、この文言の意味するところが不明瞭に思われます(もう少し説明が欲しいところでございます)。


> これは 《自然性》と《超越論性》の階位の差異と 哲学にとっての《超越論性》の不可避性と生存にとっての《自然性》の不可避性とを同時に満足させる場所は 日常のロゴスの交流のなかにしか見いだされないと考えた結果であり 日常のロゴスの交流点を《原領域》とするならば 学問的ロゴスの導出も可能であろうと考えた結果である。
☆ たぶん はじめに全体があったと見た結果であろうと われわれの立ち場からは 考えられる。全体とは このちっぽけな存在である《わたし》のことである。その主観である。《ロゴス》と言うと そぐわない側面が出て来るけれど 要するに 社会性としてどうしても意志疎通を図らねばならないヒトなる動物の絶対的条件(与件)としての言語交通のことである。別に《日常のロゴスの交流点を〈原領域〉とする》までもないとは思われる。生活世界は 逃げては行かないし 消えてなくなるものでもない。

 仰られますように、「日常のロゴスの交流のなかにしか見いだされないと考えた結果であり」、これはある意味当然のことを言っているに過ぎないと考えかれるのですが・・・


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

この回答へのお礼

 確認などの作業をつづけます。

 《自然的態度》のパラドックス問題。主観は 世界の内か外か。
 ★ ~~~~
 「主観は、認識するものとしては世界を対象化する以上、世界の外に位置する」の”世界の外”の表現が微妙かと見受けられます。対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。したがいまして、こんな世界の内部・外部的存在というパラドックスが生じてしまった、と述べているのかと推察してございます。

 ・ 超越論的態度:主観を基点として世界をあらためて対象化するという態度
 ~~~~~~
 ☆ これにつきましては まだ納得が行きません。

 ☆☆ ~~~
 逆説はないという見方もありうる。

 主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世界を事象として捉える。
 主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。
 ~~~~~~
 ☆ もしこうだとしますと このとき
 ★ 対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。
 ☆ というその意味は 或る程度において《その対象を わが主観の内に視像や概念像として認識しているというかぎりで 距離を取りつつ――或る意味で――超えたところから見ている》ということでしょうか? 
 もしそうなら 《内部・外部》という表現が ふさわしくないように思います。
 還元や反省は 超越論的だという意味で 世界なる対象を わが主観は《超えている》状態にあるかも知れない。こういった意味合いなのでしょうか?

    *

 ★ [人格主義的態度] ~~~~
  ・・・
 ここで、自然主義的態度は人格主義的態度に従属しており、自然的態度が理論的分析をはじめるやいなや自然主義的態度に陥ると、人格主義的態度は忘却されて自然主義的態度が独立性を獲得し、そのことによって自然は不当に絶対化されてしまうこととされています。
 ~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ふうーう。ややこしいですね。

 ○ ~~~~
 1. 自然的態度:日常生活において 自然および社会をそのまま捉えたその認識にもとづき みづからの考えを決めその判断に従って行動するその態度。

 2. このように定義するなら じつはそのときにもすでに 他者はいます。社会は 人間関係から成ります。おのれの考えとは違った考えをするほかの人間がいるとわたしは知ります。すでに相互主観性の芽は生まれています。

 3. もし自然的態度においてわたしは 考えの違う相手と互いに折り合いをつけようとするとき その考えをめぐらすなら それは 反省的に( re-flectively )つまり内面へ折れ返って おこなっていると言えるはずです。

 4. ただしもしどうしても《現象学的反省》を 自然的態度は持たないというのであれば それは 思惟をめぐらす主観そのものを 同じ主観が捉えるということをしないと言っていましょうか? 

 5. そうであっても 自然的態度はすでに 相手を主観どうしとして受け留めて互いの考えを突き合わせそれらをまとめようとしていると言える限りで 相互主観性を帯びる。こう考えてよいのではないか?

 6. このような日常生活における一般的な自然的態度にかんして そこから 《自然主義的態度》や《人格主義的態度》が出て来るのでしょうか?

 7. 自然的態度において多かれ少なかれ相互主観性にもとづき あるいはさらに互いに共同主観(いわゆる常識)にも到達しているとき その人びとの思想ないし生活態度は 広く捉えて《人格》を有すると見ることになる。

 8. この《人格》は 生活態度ないし思想として ひとまとめに認識したものが出来上がれば その言葉による規定が ある種の仕方で規範にもなる。低次元から高次元まで 幅広い中身をもって いまこの《人格》を考えている。

 9. 人格主義的態度というのは この規範にもとづこうとする考えなのでしょうか? 主義というからには その人格の内容を規定した規範ないし道徳がすでに体系化されていましょうか?

 10. 自然主義的態度は ぎゃくに規範にはもとづかず 経験の積み重ねにもとづきつつ そのつど人格ないし人格関係としての人間関係をかたちづくりつつ 社会をいとなむ。といった考え方でしょうか?

 11. どうなんでしょう いまひとつよく分かりません。
 ★ フッサールは、・・・「人格として生活するということは、自分自身を人格として措定し、意識の面で自分自身が「環境世界」とさまざまにかかわりあい、それらの相互関係に身を置くことである」としています。
 ~~~~~~~~~~~
 
     *

 あとは それほど問題はないと思います。吟味検証していただきました。ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/27 11:00
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 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。


> 《自我》もんだい:
従いまして 開かれて行って欲しいです。

 はい、各分野間には派閥等による独特の閉塞状況が見られます。是非とも見直してを進めていただければと、そう思っております。


> 《間主観性がもともとそなわっている》問題:
☆ ええ 言語能力について触れ忘れていました。記憶・知解・意志の自然本性を 道具としてでしょうか 言語がつらぬいていると思われます。志向性のもとに 意味関係が得られているかたち。
> 生活世界の《いま・ここなること》:
 ☆ このことの確認は 重要であるように思いました。
 超越論的反省を加えなくても 自然的態度が すでにエポケーを経ているという場合だってあるのだと。
 生活世界の根拠は? で 無根拠に行く着くことの確認がありました。

 ご賛同いただきまして、どうもありがとうございました。


> 《自我》のほかに 《無意識》なる用語も どうもおかしいという問題:
 ☆ 事由と例示は 言わば捨て身で書かれていますので 引用は二度も三度もしないほうがよいと見ました。

 愚生も少し言い過ぎてしまったかと思っております。ですが、意見の一致が見られましたこと、とてもうれしく思ってございます。

> 自由意志:
 ★ 《わが自由意志による選択と判断》、これは人類の営みの中での基本かと考えております。もし、これらがないがしろにされてしまいますと、人類の営み、歴史、諸賢人からの所産等、全てが消えうせてしまうものかと考えております。



 ☆ メルロ-ポンティは この自由意志の問題を扱っていないのではないかというような――勇み足の――疑いがあります。

 後ほど、触れる機会があろうかと存じますが、自由意志なるものは愚生が知る限り言及はされていないものと記憶してございます。


> おかげでここまで来ました。今回は 互いにさらなる現象学的還元と反省を重ねつつ 或る程度の合意を見て 共通の見解に達したところが少なくないと思います。
 ポストモダンの流行の問題にも触れていただきました。

 誠に、光栄に存じます。


> 直前のお礼欄(No.56)でも触れましたが 次の研究書に就いて あらためて主題ないし課題を取り上げしっかりと復習して行ければと考えました。

 了解致しました。


> いきなり水野論文から 次のくだりを引きます。No.56お礼欄における《モナド》問題の項を参照ねがいます。
★(回答No.56) ~~~
 (無数の各個人により、無数の世界が存在している)この世界は、それぞれのモナド(構成させている各個人)が、相互扶助的に共存する多数の自我の(個人の主観的な)共同体として、さらには最終的には(間主観性による)モナド共同体が構成されるということを述べているものと考えております。
 ~~~~~
(水野和久:他者構成の問題) ~~~~
  ところが ここで超越論的自我が身体化された自我から区別しても思考可能であるかぎりでは 超越論的自我が超越論的他我を構成するときに 身体化された他我を媒介として要求する必要はないはずである。
 ☆ 《超越論的自我》とは 《モナドとしての個人・その超越論的主観性》と解して間違いではないと思います。まづは 《身体》をもエポケーしうるかも知れないという議論のようです。

 そうでございましたか。とても勉強になりました。

> この点を追究したマーシュが導出しようとする帰結は 《超越論的自我の構成能力にとって身体化は必然的だ》というのである。
☆ 質問者としましては 身体と精神とを分ける必要はないという立ち場に立ちます。《わたし》が統覚しています。

 仰られますように、《わたし》が統覚していることは事実かと考えられます。と申しますよりも、当然のことを言っているに過ぎないと思われます。

> ただし その身体は所有の対象でもなく 道具的手段でもなく 運動感性(キネステーゼ)的主体である。
☆ 《わたし》に感性がはたらくと言ってしまえば よいのではないか。

 ブッディズムを想起させる表現でございますが(前半部分でございます)、愚生が考えますところは、後半部分のみでよろしいかと考えられます。五感を感ずるシステム(目、耳等でございます)、これらが、道具的手段では“ない”とは断定しかねるからでございます。

・キネステーゼ:運動を示すギリシア語キネーシス+感覚を示すギリシア語アイステーシス;一例:散歩したとき、バラや桜が、その見え方が変化しても、バラや桜であることには変わりはありません。
つまり、ひとがさまざまな事物を認識できるためには、ひとの側に一種の運動性の要素が備わっている必要があると、考えることができます。


> マーシュのねらいは ここから超越論的自我の観念論的性格を払拭し 自然的相互主観性の日常性へ還帰することにある。
☆ この原点および出発点として 先の《モナド》説が《言語交通》説と並んで 取り上げられるようです。《生活世界》というからには・またそう言っていても そこに 《存在の原点》も《意志疎通の出発点》も共に同時に宿している。わが主観は 相互主観性をすでに宿すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同体性をも持つと。

 仰られますように、「わが主観は 相互主観性をすでに宿すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同体性をも持つ」、つまり、「自然的相互主観性の日常性の重要性を主張することにある。」ぐらいでよろしいのではないか、と思っております。


> マーシュの帰結をさらに徹底化したことになっているカニンガムの戦略は 言語の社会性への着目である。
☆ 《〈わたし〉と自称するわたしたち》から 日常世界ないし生活世界は成る。この言語交通が 主観における相互主観性の契機を保証している。に通じるか?

 断じかねますが、「言語の社会性への着目」につきましては、異論はございません。


> 自我の習慣的持続性を支えるに必要な条件は言語であり 言語は私的ではありえない以上 すでに構成されて通用している言語が話されている当の社会が前提されないかぎり あらゆる自我について語ることはできない というのである。
☆ へへっ! ついにわれわれの議論に追いついたか。それにしても 《自我》とは いやはや分かったようで分からない。のではないだろうか。

 仰られますように、マーシュさんやカニンガムさんも、至極まともなことを言っている、とそう受けとめさせていただきました。


> マーシュはカニンガムの帰結は 身体化と言語的社会性がすべての知の究極の前提であることを確認することであった。
☆ そのとおり。ところが そこにも落とし穴があるということらしい。次につづく。
> この前提そのものの素朴性に対する超越論的反省は ここではもはや必要とされない。その意味では 彼らの見解は超越論的探究の放棄を前提としている。
☆ この《前提》は 人間存在の所与そのものであって大前提である。つまりは 超越論的還元および反省を重ねて到ったその本質直観に属する。単なる目の前の日常世界に焦点を当てるに過ぎないという反論だと思われる。超越論的探究に行き詰まったというのであろう。この単なる現象としての生活世界が 無根拠という根拠にもとづくと見るその本質直観があるということ これを見落としてはいまいか?

 “前提そのものの素朴性に対する”超越論的反省、とのことでしたら、別段問題はないものと考えておりますが・・・


 字数制限のため、次項に移らせていただきます。

この回答へのお礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 メルロ-ポンティ問題:
 ★ ~~~~
   ☆ メルロ-ポンティは この自由意志の問題を扱っていないのではないかというような――勇み足の――疑いがあります。

 後ほど、触れる機会があろうかと存じますが、自由意志なるものは愚生が知る限り言及はされていないものと記憶してございます。
 ~~~~~~
 ☆ そうなんですか。確認するたのしみは のちに取っておくことにします。

    *

 キネステーゼ問題:
 ★ ~~~~~
 ・キネステーゼ:運動を示すギリシア語キネーシス+感覚を示すギリシア語アイステーシス;一例:散歩したとき、バラや桜が、その見え方が変化しても、バラや桜であることには変わりはありません。
 つまり、ひとがさまざまな事物を認識できるためには、ひとの側に一種の運動性の要素が備わっている必要があると、考えることができます。
 ~~~~~~~
 ☆ これも そう言ってはすみませんが 当たり前のように思われます。何もからだを動かしていなくても 人は時間過程をたどっています。坐って窓の外の桜をながめているときにも 桜のほうが動いているという側面もあります。風に吹かれれば 花びらが散ります。

   *

 こう考えて来ますと ほかの事項では合意に達したか それは当然のことではないかという見方に達したと思われ どうもこの復習の作業は あまり生産的ではないかも知れません。と思えるようになりました。

 というわけで 気が向いたら・またはもう少し復習の過程を伸ばしておくのがよいと考えましたら 補足欄にて その作業をおこないたいと思います。

お礼日時:2011/10/27 10:16
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 前項からの続きでございます。

> もしよろしければ 次の考え方について再度吟味していただけないでしょうか?

 微力を尽くしたく存じます。

☆(No.53お礼欄) ~~~
 § 12 生活世界は つねに目の前にあります。
> 煮詰めた議論としましては 目の前の生活世界において《わたし》と自称しつつ互いに意志疎通をおこなっている人として 《わたし》は それぞれ互いにとって《自己》であり《他者》であると言えます。《〈わたし〉という自称が指し示すその存在》は と言いなおしたほうがよいかも知れませんが このような社会的な《わたし》どうしの関係 これが 生活世界であるとも言えまいか?

 生活世界の基本はその通りかと存じます。


> その意味は――このような言語交通という切り口から世界や事象を見ることの意義は―― 《わたし》においてすでに主観でもあり 言うとすれば客観でもあるかたちになっている。誰もが みづからの《わたし》において そう見止めるかたちになっている。

 はい。《わたし》においてすでに主観であるものの、同時にまた無自覚にも客観をも形成している、誰しもがそのようにみなしている、と考えております。


> そのうえで 自分とは違う存在として《わたし》を自称する者を 他者と呼ぶことにすればよい。そのような共通項としての《わたし》をわざわざ《自我》だのと呼び変える必要は生じていない。そんなことをしたら かえってややこしくなりはすまいか? だってこのように考えることをしているのは 《わたし》なのだから。それともわたしの脳の神経細胞のどの部分かを突き止めなくては 納得しないのだろうか? それを《自我》と名づけて 自我大明神としてたてまつるというであろうか。
 ~~~~~

 原則、“わたし”、“わたくし”、よろしいかと思われますし、それでじゅうぶんかと考えております。確かに、仰られますように、脳神経のどこかにその意識部分等を探り当てたいという人たちもいようかと推察されます。これは諸説あるようでございますが、意識なるものを全て、物理(反応・信号)に還元できるとは、今のところ考えられていないようでございます。


> ○ ~~~~
 他者は わが個体(つまり自分なる存在)と ヒトとしての自然本性において通底しており 《わたし》という自称行為を 言語習慣として・しかもおそらく社会生活にとって必須のコミュニケーション行為として 共有している。
 そのうえで おのおのの自由意志による思惟および行動についての取捨選択とそこにおける判断 これを――自由という基礎のうえにであるからには――異にしうるという存在およびその共存のあり方をしている。
 しいて言うのなら 自己のわれと他者のわれとは 共通我と非共通我とを持っている。
 ~~~~~~
☆ こう言わなければならないのではないか? 《非我》と言っただけでは 分かりづらい。

 その通りかと存じます。《非我》、これはおそらく学術用語なのかもしれません。ただ、この語彙が、日常化してしまい、全く異なった意味合いを持つことは懸念してところでございます。

> なぐり書きのところがあるかと思いますが 考えてみれば これだけ批判している場合には ていねいに表現すると かえっておかしな印象がついてまわります。
 つまり よほど腹に据えかねて 企むところがあるのではないかと見做され疑われるおそれが 出て来ます。これを回避するためにも 独り語りのごとく きつい表現にて 批判を表わしています。
 波風を立たせようと思ってなら こんなきつい捨て台詞のような言い回しはしなかった。赤き血の流れていることだけは 示したかった。・・・

 実を申しますと、愚生も真剣に回答させていただきました。これは、デリダらによるフッサール批判、さらには、竹田批判に肩入れしてしまった愚生の過去に対する反省によるものでございます。振り返ってみますと、今でも印象に残っておりますのは、フッサールだけというありさまでございます。竹田氏は確か在日の方で、その当時は一文芸評論家に過ぎませんでした。そして、病的なまでに「ロゴス中心主義」、「差延」等の陳腐な言葉の繰り返しをしていただけのポストモダニズム(ニーチェとフッサールの焼き直し+自然数論の一部分に過ぎないものです)に対して、竹田氏は批判を唱えた訳でございます。ですが、浅田や柄谷らからは、現代哲学を理解できない無能力者として小馬鹿にされていました。そこで、今回、過去の自分の反省を致したく、尽力してみた次第でございます。

 
 いつもながらではございますが、最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

この回答へのお礼

 おかげでここまで来ました。今回は 互いにさらなる現象学的還元と反省を重ねつつ 或る程度の合意を見て 共通の見解に達したところが少なくないと思います。
 ポストモダンの流行の問題にも触れていただきました。

 直前のお礼欄(No.56)でも触れましたが 次の研究書に就いて あらためて主題ないし課題を取り上げしっかりと復習して行ければと考えました。

  ◆ 新田義弘・常俊宗三郎・水野和久編著:『現象学の現在』
       (世界思想社 1989)
  
  序 / 現象学における《思惟の事象》についての所感:新田義弘
  
  I 現象学の方法と目標
  1 現象学の方法論:水野和久
    ○ 構成/超越論的態度/他者構成/相互主観性

  2 学問論としての倫理学:常俊宗三郎
    ○ 多様体論

  II 経験的世界の構造
  1 経験の基礎――根本の輪郭 :小川侃
    ○ 現出性と地平性

  2 時間と存在をめぐって――生き生きした現在の謎と内‐存在論
   の試み:斎藤慶典
    ○ 反省の構造/《生き生きした現在》(《生ける現在》)
     
  3 身体――受肉せる主体:宮原勇
    ○ 《私の身体》ということ/人称的自己身体意識

  4 鏡と眼差し――自己意識の現象学のために:魚住洋一
    ○ 引き裂かれた自己

  5 地平――世界生の動的構造:工藤和男
    ○ 志向的対象の地平/経験の地平/生世界の地平性地平志向
     の機能/地平の創設

  III 現象学の諸問題
  1 対話における言葉について:品川哲彦
    ○ 言葉の意味のイデア性話し手・聴き手の異他性・/対話的
     存在としての人間

  2 芸術作品:梅原賢一郎
    ○ 音楽における身体の抑圧・身体の発見/絵画における身体
     の抑圧・身体の発見/・・・
  
  3 人格と価値:湯浅慎一
    ○ 人格の時間性/人格的同一性とその自己性/人格の絶対価値
     と社会性/人格・明け開け・価値/人格・交わり・自由

  4 生と責任――現象学における遂行と自己責任:谷徹
    ○ フッサール現象学における倫理的問題の位置づけの変遷
 
  5 現象学と社会の危機理論――危機の概念と批判の概念:引田隆也
    ○ 《理性》批判――カントとフッサール/生活世界と理性の危機

  6 歴史的世界の基底――歴史を歴史化するもの:伊藤徹
    ○ 《いまなお何のための歴史学か》/歴史を歴史化するもの

    * ○ のしるしのあとの項目は 引用者が勝手に拾ったものです。



 いきなり水野論文から 次のくだりを引きます。No.56お礼欄における《モナド》問題の項を参照ねがいます。
 言語交通における《わたし》どうしの関係 これとしての社会 こういう切り口とは別に 《モナドとしての〈わたし〉 そしてその主観としてのモナド共同体》といった切り口が提出されたとのくだりです。

 ★★(回答No.56) ~~~
 (無数の各個人により、無数の世界が存在している)この世界は、それぞれのモナド(構成させている各個人)が、相互扶助的に共存する多数の自我の(個人の主観的な)共同体として、さらには最終的には(間主観性による)モナド共同体が構成されるということを述べているものと考えております。
 ~~~~~
 
 ◆(水野和久:他者構成の問題) ~~~~
  ところが ここで超越論的自我が身体化された自我から区別しても思考可能であるかぎりでは 超越論的自我が超越論的他我を構成するときに 身体化された他我を媒介として要求する必要はないはずである。

   ☆ 《超越論的自我》とは 《モナドとしての個人・その
   超越論的主観性》と解して間違いではないと思います。
    まづは 《身体》をもエポケーしうるかも知れないとい
   う議論のようです。

 この点を追究したマーシュが導出しようとする帰結は 《超越論的自我の構成能力にとって身体化は必然的だ》というのである。

   * マーシュ:Marsh, J., " An Inconsistency in Husserl's Cartesian Meditations" in: The New Scholasticism, vol.LIII, 1974, N.4
   
   ☆ 質問者としましては 身体と精神とを分ける必要はない
    という立ち場に立ちます。《わたし》が統覚しています。

 ただし その身体は所有の対象でもなく 道具的手段でもなく 運動感性(キネステーゼ)的主体である。

   ☆ 《わたし》に感性がはたらくと言ってしまえば よいの
    ではないか。

 しかもキネステーゼ的身体は習慣性によって自己同一的持続を支えている。

   ☆ 《わたし》がであろうと 物言いをおこなう。

 マーシュのねらいは ここから超越論的自我の観念論的性格を払拭し 自然的相互主観性の日常性へ還帰することにある。

   ☆ 質問者の物言いにおいては 《生活世界が 初め(非
    反省的態度)においても途中(超越論的還元および反省
    を加える過程)においてもおしまい(本質直観が得られ
    る瞬間)においても わたしの目の前にあり それは常
    に大前提である》です。
     とにもかくにも 《わたし》はすでに《生活世界》で
    もあるということであろうし そこにはすでにわが主観
    が 他者と自然本性において通底しているといった意味
    で相互主観性をも宿しているとも見ている。
     これは 原点ないし出発点だと思われる。意志疎通に
    とっても出発点であり 人間存在がその基底において
    《わたし》としてあるために最低限必要な条件という意
    味で原点であると。
     この原点および出発点として 先の《モナド》説が
    《言語交通》説と並んで 取り上げられるようです。
     《生活世界》というからには・またそう言っていても
    そこに 《存在の原点》も《意志疎通の出発点》も共に
    同時に宿している。わが主観は 相互主観性をすでに宿
    すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同
    体性をも持つと。

 マーシュの帰結をさらに徹底化したことになっているカニンガムの戦略は 言語の社会性への着目である。

   * カニンガム: Cunnnigham,S., Language and the Phenomenological Reductions of Edmund Husserl, The Hague, 1976

   ☆ 《〈わたし〉と自称するわたしたち》から 日常世界
   ないし生活世界は成る。この言語交通が 主観における相
   互主観性の契機を保証している。に通じるか?

 自我の習慣的持続性を支えるに必要な条件は言語であり 言語は私的ではありえない以上 すでに構成されて通用している言語が話されている当の社会が前提されないかぎり あらゆる自我について語ることはできない というのである。

   ☆ へへっ! ついにわれわれの議論に追いついたか。
   それにしても 《自我》とは いやはや分かったようで
   分からない。のではないだろうか。

 マーシュはカニンガムの帰結は 身体化と言語的社会性がすべての知の究極の前提であることを確認することであった。

   ☆ そのとおり。ところが そこにも落とし穴があると
    いうことらしい。次につづく。

 この前提そのものの素朴性に対する超越論的反省は ここではもはや必要とされない。その意味では 彼らの見解は超越論的探究の放棄を前提としている。

   ☆ この《前提》は 人間存在の所与そのものであって
   大前提である。つまりは 超越論的還元および反省を重
   ねて到ったその本質直観に属する。
    単なる目の前の日常世界に焦点を当てるに過ぎないと
   という反論だと思われる。超越論的探究に行き詰まった
   というのであろう。
    この単なる現象としての生活世界が 無根拠という根
   拠にもとづくと見るその本質直観があるということ こ
   れを見落としてはいまいか?

   *

 一たん休みます。(補足欄へ)。
   

お礼日時:2011/10/26 11:38
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