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国風暗黒時代の後の和歌の歴史について質問です。
仮名が和歌の繁栄のおおきな原因だと思うのですが、
では、何故時の権力者である、宇多天皇や藤原時平が和歌を好んだのですか?
当時の社会状況や政治体制が関係しているのでしょうか?
詳しい方、ご教示お願いいたします。

A 回答 (4件)

仮名が和歌の繁栄の大きな原因であったことはその通りですが、和歌をはじめとする国風文化の成立には中国文化の受容・消化が大きな要因でした。

和歌に関しても早くも白鳳期に漢詩文の受容を通じて形式の整備がなされたとされています。
さて、国風暗黒時代との表現を使っておられますが、現在、国風暗黒時代という名称そのものが適切ではないとの説もあるほどです。「万葉集」は4期に分けられますが、第4期と「古今集」との連続性・関連性が指摘され、万葉集の時期から古今集へと和歌の継続性が認識されつつあります。つまり、国風暗黒時代言われた時代にも当然と言えば当然ですが、和風文化は併存したとされます。これは奈良時代・平安時代前期の文化は中国唐朝の文化の影響の中に成立した文化ではあっても、和風の文化も重視する姿勢が強くあったことです。
勅撰漢詩文集の「経国集」が、魏の文帝の「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」の言葉に由来していることは有名ですが、平安前期の弘仁貞観文化ではこのような文章経国の考えのもとに漢詩文が隆盛を極めますが、漢詩文の隆盛や勅撰漢詩文集の編集は、律令体制の整備、漢文の歴史書の編集と並んで中国世界における現代風に言えばグローバル・スタンダードであって、国家的な体面の上に構築されたもので、漢詩文の流行も政治的な面が強くあると思います。
そのような中国文化の影響(半島経由のものを含め)は飛鳥時代から顕著であった反面、同時に和風文化も尊重・重視されており、現代的に言えば日本のアイデンティティーというような思いも強かったのではないかと思います。後の時代になりますが、平安時代中期の王朝文化期には「三舟(船)の才」という言葉がありました。漢詩・和歌・管弦の三つの舟のどれにでも乗れる、つまり、どの道にも優れている人物が最高の教養人であるとのことですが、漢詩と同様に和歌も尊重・重視されていたわけです。
さらに和歌について言えば、和歌の持つ側面の中には会話の側面があります。恋愛するにも和歌の贈答は欠かせませんし、手紙代わりに和歌を贈ることもあります。生活に根差したものであったわけです。和風重視もあり、和歌は漢詩文の隆盛の時代にも尊重・重視され、詠まれて、愛好されているわけです。

政治的に言えば、古今和歌集の勅撰を行った醍醐天皇(宇多天皇の皇子で次の天皇)の時代は律令体制、特に律令制度下の個別人身支配体制維持のための最後の努力が行われた時代でもあります。律令制度というと公地・口分田・班田収授に代表されるように土地支配のイメージがありますが、その実態は戸籍・計帳をもとにした個人の特定により口分田の班給と、徴税・雑役・出挙などの負担をさせる個別人身支配を支配体制の根幹としていました。しかし、重い負担・不安定な生活などから逃亡・戸籍を偽る(負担が重い成年男子を避ける)ものが続出するなど制度の根幹を揺るがします。また、国司・郡司の不正、班田収授の手続きの煩雑さなどから、律令体制は行き詰まりを見せていました。このような中で桓武天皇は農民の負担の軽減、国司・郡司の不正の摘発などにより律令体制の再建を図り、この政策は醍醐天皇の時代まで曲折はあるものの引き継がれます。
醍醐天皇の治世は前半の時平政権と忠平政権に分かれますが、時平政権下では個別人身支配体制維持・再建のための努力が進められ、その過程で延喜2年(902)に有名な延喜の荘園整理令と最後の班田が実施されます。それらの再建策も行き詰まり、個別人身支配体制から土地支配への移行が始まったのが醍醐天皇治世下でも時平没後の忠平政権下と言われています。
公領を名(みょう)という徴税単位に分割し、田堵と呼ばれる有力農民に耕作を請け負わせる形に変化します。名は耕作および徴税請負人の名(な)がつけられたために田堵を負名とも呼びますが、この田堵が平安後期の院政期に成長して名主となり、中世の武士階層などに転化することが多い階層となります。このような土地の請負化は公領だけでなく、荘園でも進行し、荘園公領制と呼ばれる社会と、識の体系という重層的な支配体制を作りだし、中世世界を形作っていきます。(奈良時代でも口分田以外の乗田と言われる公田の賃租があった。また、平安前期には公営田・官田と呼ばれる請負制の試みが行われている。)
また、地方の体制も、それまでは中央政府である朝廷の監督のもとに国司が行政にあたり、郡司が徴税・文書の作成にあたるという中央集権型の体制から、国司に中央への規定の税の納入を請け負わせ、その他の統治は国司に任せる一種の請負体制に移行していきます。国司の中でも任国に実際に赴任する最上位者である受領が大きな利益を得、「受領は倒れるところに土をもつかめ」と言われるほどの強欲さを発揮していきます。

長々と書いてしまいましたが、醍醐天皇の治世は日本史の中で一種の分水嶺に当たる時代でもありました。中国から導入した政治体制・文化などが日本的に換骨奪胎されたり、中国文化の消化・吸収から在来の日本文化が刺激を受け、国風文化という日本の風土に合い、日本人の嗜好・心情にも合致した文化を形成したものです。このような変化は飛鳥時代から徐々に進行したものですが、政治や文学だけではなく、思想(宗教)・美術・服装など多岐にわたっています。仮名の発明による、日本人の微妙な感覚や感情を表現することが可能になったことにより、和歌や文学の発達が促進されたわけですが、この文章もそうですが漢字仮名混じり文であることにも、国風文化が在来の日本文化だけではなく、中国文化の受容・消化の上に融合形成された文化であることを表しているように思います。

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

大変詳しい説明ありがとうございました!とても参考になりました!

お礼日時:2011/12/05 13:37

大学生のとき、新古今時代の和歌を専攻しておりました。

平安期は一通り学んだ程度で、手元にある資料も古本で買えた古いものばかりなので、最新の研究に即した回答にはなりませんが、お答えします。

桓武天皇は帰化系氏族の人であったといわれています。また、平安京の造営には同じく帰化人である秦氏の協力があったことは有名です。当然、平安初期の政治は外来文化(唐の律令制度)の影響が色濃く反映されることになります。特に嵯峨天皇は漢詩の吸収がそのまま日本の政治力の伸張につながると見ていた節があり、『凌雲新集』や『文華秀麗集』を選定させ、続く淳和天皇の時代にも『経国集』が選定されています。和歌が詠まれなくなったわけではありませんが、皇権の強まりとともに漢風尊重の雰囲気が強まったわけです。

ところが、その後、藤原氏の勢力が回復してゆきます。良房・基経が摂政・関白に任ぜられるにおよび、天皇を凌駕しかねない権勢を振るうまでになります。人臣である藤原氏が摂関として政権を担当する前提として天皇家と外戚関係を結ぶ必要があったため、必然的に後宮が重視されるようになります。そうなると、女の文学である和歌が重んじられる風潮が生まれるわけです。

大雑把にまとめます。「天皇家による親政=漢風」「摂関政治=国風」と捉えることで宇多期に漢詩から和歌へのシフトが起きたことが理解できるのではないでしょうか。ちなみに記録上に残る歌合せの最初は885年の在民部卿家歌合で、宇多天皇の即位の2年前ですから、この点でも上記の理屈が当てはまります。

ちなみに、宇多天皇が個人的に和歌を好んでいたかどうかは私自身は知りません(猫好きは知っているんですけどね)。日記が残っているんで、それを読めば分かるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

単純に唐風依存からの脱却ということだけではなく、摂関政治への移行が文化の移り変わりにも影響していたのですね。
わかりやすい説明ありがとうございました!

お礼日時:2011/11/04 02:03

 古代の日本は文字がなく、大陸から漢字を取り入れてきた、いわば「借り物的な」文化でした。

貴族を始め知識階層の文化や知識・教養のよりどころは大陸にありました。大陸の書物にどれだけ精通しているのかが、知識の価値基準でした。ですので文学作品も大陸の二番煎じの域を出ることはできませんでした。しかしその後、時代が進むにつれ、漢字から仮名が作られ、「自国の」文字で読み書きができるようになると、和歌などの日本固有の文学作品が、日本の独自路線を進むようになりました。自分達の文字が確立すると、何も大陸文化をまねる必要はなく、文化的には独立して別の方向へ進む力がついたのです。

 これと同様のことは、ヨーロッパでも見られます。ローマ帝国から広がったアルファベットが地方まで伝わると、地方の知識階級が最初に覚えようとしたのはラテン語でした。学術書を読み書きする時は、自国語を捨て、ラテン語を使いました。しかし、それもある時期を過ぎ、自国語をラテン語由来のアルファベットで表記することを覚えたら、次第にラテン語の呪縛から開放されていきました。それまで伝承文化しか知らなかった人々も、数々の記録を文字で残すようになりました。その知識欲が自国の文化を発展させる原動力になったのです。

 つまり(1)外国の文字を取り入れ、(2)外国の学問をまねて、(3)その後自国の文化を発展させる、というのは人間が洋の東西を問わず共通にたどってきた道ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

借り物の文化から、自前の文化への移行は洋の東西は問わないということですね!
わかりやすい説明ありがとうございました!

お礼日時:2011/11/04 02:05

国風暗黒という言い方がありますが、それは奈良時代の一時期漢詩文が流行していた状態を指すのであって、和歌の伝統が全く断絶したわけではありません。

和歌はずっと知識階級の教養であり続けていました。ですから平安時代の天皇や貴族が和歌を好んでも特に不思議はなかろうと思います。古今和歌集の奏上は905年、命じたのは醍醐天皇、撰者は紀貫之ほかであるという事実がそれを物語っています。

ご質問の、「仮名が和歌の繁栄のおおきな原因だと思うのですが、では、何故時の権力者である、宇多天皇や藤原時平が和歌を好んだのですか」という部分は、「和歌は仮名で書く。仮名は女が使う。権力者は男。だから権力者は和歌とは縁がないはず。」という意味でしょうか。

この回答への補足

御回答ありがとうございます。
何故、それまで漢詩が流行していたのに、わざわざ和歌集を編纂しようとしたのか、という点に疑問があります。
「仮名が和歌の繁栄のおおきな原因だと思うのですが、では、何故時の権力者である、宇多天皇や藤原時平が和歌を好んだのですか」というのは、和歌が繁栄する理由は、仮名の流行以外にも、何かほかに理由があるのかというつもりで書きました。伝わりにくい表現でもうしわけないです。
よろしければ、再度ご回答お願いいたします。

補足日時:2011/11/01 01:44
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この回答へのお礼

お礼のつもりが補足のところに書いてました。
大変失礼しました。
回答ありがとうございます!

お礼日時:2011/11/04 02:06

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