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サド侯爵の小説に「悪とは自然な状態であり、善とは不自然な状態である」とありました。
だが本当にそうなのでしょうか?

野生動物を題材にしたドキュメンタリーを見ていると助け合って生きているように見えます。

A 回答 (10件)

>悪とは自然な状態であり、善とは不自然な状態である」とありました



これは真理だと思います。今の文明を自然のなかに放置すれば100年経たずに全てが崩壊してしまうと言われています。人間はそれを悪と位置づけ、文明の維持発展を善とし、それを志向しているからこそ懸命にその方向へ努力をつづけているのでしょう。

サドは徹底して自由人でしたから、自然を愛したのだと思います。結果的に悪に踏み込んだのでしょう。

>野生動物を題材にしたドキュメンタリーを見ていると助け合って生きているように見えます。

彼らも破滅を恐れます。仲間同士で助け合って彼らなりに生命維持と繁栄を志向しているのだと思います。その状況は基本的に”自然”ではありません。生命はいあわば自然の中の奇跡なのです。
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この回答へのお礼

>サドは徹底して自由人でしたから、自然を愛した
彼の著作を読めば読むほど自然への愛を感じさせてくれます。
この考えは思い至らなかったです。ありがとうございます。

お礼日時:2011/12/04 02:56

間違いです。

不調和の悪と、調和の自然は、対立した関係です。だから自然が無いのが、不自然が、悪です。この世界は、仮の世界です。善と悪、神と悪魔、調和と不調和、自然と脳が、交わる事が目的で作られた世界です。だから不完全です。宇宙の太極は、完全調和の世界です。調和の世界が、成長拡大するためには、まわりの周辺部の、不完全、不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が創られました。ここで不調和世界の脳と、調和世界の自然の心である神が、出会う事になりました。そこへ調和の世界から、宗教で言う神の子の無我が来て、不調和世界の脳の自我と、合体して、人が誕生しました。だから人の心は、自我と無我が合体して出来ています。最初の頃は、無我が強く自我が小さいので、神の超能力がありました。だから神と人の合いの子である、神人と呼ばれていました。アトランチス古代文明頃までいました。神人がピラミッドを創りました。現代は、人は、自我が強く無我が小さいので、神の超能力はありません。そして人は、脳が自我が自分だと勘違いをしています。人は本当は、無我の神の子です。しかしいよいよ仮の世界が、終わる時が来ました。終わると、仕切り直しになるので、人の心は、脳の自我と、神の無我が、解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。脳の自我は、不調和世界の脳の世界へ、神の無我は、完全調和世界の神の世界へ帰ります。人は、神の子だから神の世界へ帰ります。
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>悪とは自然な状態ですか?



 不自然です。
まず『悪』と自覚してる時点で不自然です。自然なら『悪』と認識しないでしょう。
自然な状態とは世間的に言う『悪』と『善』が混ざり合った根っこにある自然状態の事を言います。
他の表現をするなら『悪』や『善』になりうる要素とも言えると思います。

この回答への補足

古くから原書の混沌を悪と考えられていたと思うのですが・・・。

補足日時:2011/12/04 02:54
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自然が粗暴なものであるとは、プラトニスムがあった、遥か昔から言われてきたテーマです。

たとえば、野性の動物が助け合うこともあれば、傷つけあうこともあるでしょう。また、他に例を上げると、人の顔も、自然のままでは、綺麗な目を持っているが、鼻が曲がっているとか、玉石混交のままでしょう。
自然は、美しさと醜さという、二つの側面を持っています。だから、劇作家や画家は、悪い方を描かないようにするべきだとか、醜い点を美しく修正するべきだ、などと言われてきたのです(古典主義)。「善とは不自然な状態である」とは、純粋な善とは、人が数ある自然の要素にあるものを取捨選択し、作り出さない限り存在しない、という意味です。
しかしサドの場合、悪を強調したというべきですね。こういう態度を、大きくは、レアリスムというのです。レアリスムの中にもまた、精神の輝き、すなわち美があるのですよ。
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野生動物は、食物連鎖の只中にあり、厳しい生存競争に


晒されています。
しかし、肉食動物が草食動物を捕食する事を悪と言うでしょうか?
善悪の概念自体、分業化=社会性の成立した中での組織原理
において生じるものであり、その集団の外に対して射影して
云々する事に意味はない。
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 こんにちは。



 サドくんは
 ★ 「悪とは自然な状態であり、善とは不自然な状態である」
 ☆ と世界を捉えると 自分にとってもほかの人にとっても 生きるのに善いと考えたのでしょう。
 かれも ふつうに・つまり自然に 善を志向していることでしょう。

 世の中には ひねくれ者やへそ曲がりがいるということだと考えます。表現を変えてみたりするということではないでしょうか?
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善というのは秩序にプラスに働くモノであり


悪とはその反対で、秩序にマイナスに働くモノと
定義します。

ひとは基本的には己だけで己の生存が第一の
利己的存在ですから、秩序とは矛盾し、悪とは自然の状態である
と言えると思われます。

従って、善とは不自然な状態である、という
ことになると思います。

悪が自然なのだから、善という道徳や法律で縛らないと
どうにもならないのが人でしょう。

だから、戦争などで、人を縛っている鎖が外れると
何でもやってしまうのです。

宗教などを使って、道徳を内面化しておかないと
誰も見ていないときには悪いことをしてしまうのです。

誰も見ていないときの貴方、その時の貴方が
本当の貴方です。
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「悪」とは、その世界を滅ぼしてしまう方向。



「善」とは、その世界を発展させていく方向。

 
 どちらも、「戦い」なので、根っこは同じです。

  戦わなければ、「悪」に負けてしまいますし。


   『どちらも自然な状態』ではないでしょうか?



野生動物は、助け合って生きているように「見える」だけでしょう。
 或いは、そのドキュメンタリーのディレクター(製作者)が、そういう風に仕立て上げたのかもしれません・・・。

  野生動物は、『生存競争』が、大原則でしょう。(多分・・
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生まれながらに善である→性善説


生まれながらに悪である→性悪説

性善説の方が人気がある気がする
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確か倫理で習った時、


「人間は生まれながらにして善である」と対になった「生まれながらにして悪である」というものがあったような…

この2人は師弟関係だったかと思います。
孟子と荀子…かな?

善である、という人を思いやる心、というものにも頷けましたし、悪である、という子供の頃、むやみに虫を踏みつぶしたり、蟻の巣を埋めたり…と。
教育によって初めて善を教えられるという事を思えば、生まれながらの悪というのも妙に納得した覚えがあります。

結局はどちらも必要ってことなんじゃないでしょうか。

生まれたても、生まれてからも。
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