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特に楽市・楽座令、関所撤廃についてです。
双方とも先例があるのにも関わらず、なぜ信長が評価されているのでしょうか?
やはり全国支配を強めたからですか?

A 回答 (5件)

 信長以前と信長以後での大きな違いの一つに「権威の否定(=中世的権威の否定)」があります。


信長と対立した相手を考えてみるならば、そこにあるのは比叡山であり一向一揆といった「中世的権威による支配」に裏付けられた組織でした。
 これに対し「楽市・楽座」に象徴される商業活動と物流による経済交易の拡大はそれまでの大名領国制と称される「一国支配」の枠からはみ出し全国規模での経済掌握を全階層を通じて意図した点にあります。たとえば「楽市楽座」の事例は今川氏にもみられますが、その規模は駿河国の一国国内に限られ、信長の楽市楽座とは性質も異なります。
 但し信長が「権威」として残したものに「東大寺」があります。これは東大寺に伝わる蘭奢待の存在が根拠であるとも説明されていますが、東大寺は他にも全国に展開する荘園の存在や朝廷(天皇家を含む公家)の基盤でもあるとの鎮護国家としての古代寺院の流れそのものもあります。信長は実力で武家支配を試みましたが、それにはやはり経済基盤である寺社の所領や新たな経済活動の中心である「座」を構築する背景にある寺社に仕える下人層身分(神人・供御人)などの職掌に携わる階層を掌握する必要性もあったからです。大山崎の油座神人に見られる経済交易活動と利益の分配などの問題は中世商業史の中でも一つのエポックとされています 。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/17 19:09

いくら先にやっても、それで結果を出さなければ


評価はされません。
信長は、結果を出したのです。

それに楽座を押し進めた程度は、彼が
最も大規模ではなかったですか。

だから、坊主が敵に回って、さすがの
信長も苦戦したのですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/17 19:09

徳富蘇峰あたりが始まり。



近世日本国民史
という100巻に渡る書籍を1952年に34年かけて書きました。
大正から、昭和の第二次世界大戦後までかけて。

蘇峰は、近世日本は信長から始まるとして、信長を評価したのです。
それまでは、実際に天下統一した秀吉と徳川幕府を開いた家康のツートップ人気です。

信長の人気は、実に戦後から始まります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D% …
だから 立川文庫でも信長は人気がない
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/17 19:08

漫画やゲームやドラマのおかげです。



歴史上の人物の人気や評価というのは、「残っている作品」が全ての判断材料となり得る芸術作品や文学作品などとは違い、本来そんなもん・・・本当か嘘か、何が凄かったのか、駄目だったのかもよくわからない性質のものなのです。
にも関わらず、あたかも「見てきた」かのようにやたら持ち上げられたり貶されていることは現代では珍しくありませんが、そういうのは大抵、漫画やドラマなんかのフィクションの影響ですね。それが全てと言っても過言ではないです。

歴史というのはそんな、現代人に振り回され、足元が不確かで、悲しいものなのですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/17 19:08

今も昔も弱肉強食の世界なのさ。



一般市民が考えた内容と同じことを国の総理が考えたとして評価されるのは国の総理に決まってる。

それは国の総理の方が強いから。

要は影響力の違いですよ。

織田信長の影響力は全国まで轟いていましたしね。

その辺の農民が考えたとしても誰も聞く耳を持たないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/17 19:08

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