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万葉集の作者のうち、防人の歌や東の歌の作者は漢字を知らず、歌を漢字で紙に記録したのではないと思われます。ではどのようにして歌が編者に伝えられたのでしょうか?

A 回答 (3件)

万葉集の成立については諸説がありますが、持統天皇の時代が最初の編纂時期ではないかとされています。

持統天皇の治世下を含めこの時代を白鳳時代としますが、この時代の文化の特色として漢字文化および儒教思想の受容の拡大があります。中央豪族は漢字文化および儒教思想の受容の段階を超えて、中国的教養を受容し、漢詩文をつくるまでになっていますが、地方豪族(郡の大領・少領及び国造など)も漢字文化および儒教思想の受容が進んでいました。これは律令的中央集権国家の形成過程にあって組織の形成が地方まで浸透し、それに応じて受容が進んだものとされています。それは律令制の地方組織は、中央の監督のもと国司が行政にあたり、郡司(大領・少領)が文書作成・税の徴収運搬の実務にあたることに対応しているからです。このように中央集権体制が整備されるに従い、中央・地方を問わず、官人層に漢字の受容が進んでおり、このことが歌の採録に大きな力となったと考えられます。
少し後(30年程)になりますが713年に風土記の撰進が命じられ、ほぼ全文が残る5か国の風土記は国によって編纂の形が違い(常陸国風土記は特に口承的な記事・和歌が多い)、逆に各国の国司、郡司が主体的に記録できる漢字力を持っていたと考えられます。風土記に限らず白鳳から奈良時代にかけては日本書紀・古事記の編纂が行われ、資料の採録の中に詩歌の採録も含まれていたものと考えられます。この両書に記載された歌謡を記紀歌謡と呼びます。
この歌謡ですが、音楽性を伴った和歌で、口承文学として口伝えに語り継がれてきた和歌群であり、この歌謡が日本書紀・古事記・風土記の採録・編纂過程や万葉集の成立過程で採録されたのではないかと考えられています。(なお、歌垣に類するものは照葉樹林帯に属する中国雲南地区などの少数民族に現在も同一形態が残っています)
なお、歌謡を含め日本書紀・古事記・万葉集に記載される和歌は万葉仮名を用いているわけですが、万葉仮名の成立は7世紀と考えられています。また、記録については紙が同じく7世紀には伝えられ、8世紀には使用されるのですが、紙は貴重品なので木簡を用いたと考えられます。
さて、東歌・防人歌の採録ですが、防人歌は防人を各国から大宰府まで引率する防人部領使(さきもりことりつかい)が採録したとされています。防人部領使は国府に属する役人ですが、この防人部領使が引率する防人から歌を聞き、採録したようです。また、防人の出身地域が遠江以東の東国であり、東歌の国々と重なり、東歌の採録も防人部領使の関与があったとする考えと、運脚夫(うんきゃくふ・庸調を諸国から都まで運ぶ正丁・正丁の中から選抜され、自弁で輸送した)や衛士(えじ・宮中の護衛のために諸国の軍団から交代で上京した兵士)の時に運脚夫・衛士の宰領者が採録したのではないかとの説もあります。
以上が主な説ですが、8世紀には漢字の受容が意外に進んでおり、中央のみならず地方の豪族クラスにも受容されていたことが採録を助けたものと考えられます。さらに、万葉仮名の成立も後のひらがな、カタカナのようにはいかないまでも、和歌を採録する上で寄与することが多かったと思います。

歌垣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%9E%A3
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この回答へのお礼

専門的な回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/15 23:56

 こんにちは。

万葉集が編纂された奈良時代にはまだ仮名文字は作られてなかったとの前提に基づいてお話しをさせていただきます。
 仮名文字が誕生したのは平安時代のことであり、奈良時代の文章表記がどの様に行われていたかと申しますと、公的文書は全て漢文で記されていました(例を挙げれば『古事記』や『日本書紀』といった記紀をはじめ『律令』などです)。漢字はその性質上、音声言語の側面と表示言語としての性質があります。音声言語とは文字どおり「音声をそのまま文字にあてはめたモノ」一方、表示言語とは「文字となった元々の形や意味」に由来するモノといえばお判りいただけるでしょうか?。
 現存する様々な写本や伝本(殆どの書物の原書は既に散逸してしまっていて現存しないのが普通です)はそれを保管もしくは後世に伝えるために筆写されたモノです(この頃にはコピーなどなかった)。
 万葉集は現在の所では大伴家持によって編纂されたといわれ、彼を含め相当数の人間がその作業に携わっています。つまり東歌や防人歌などの作者とそれを選んだ選者が異なり、民間の人間が自らの作品を記したということではないのです。作者の作品が一度どこかの場所(各地の群衙や国衙などの役所)に集められた時点、若しくはその作業に従事する書記のような職掌の人間が「聞き取り」を行う形つまり口誦の形を採りそれを代筆したことで作品として収録された。
 よく俗本で「古代文書」と称するインチキなモノを採り上げて日本に於ける文字文化の形成をより遡らせるなどの愚にも付かない珍説を展開する方々がいますが、少なくとも彼らには古文書学や音声学などの学問領域による成果に基づくベースはありませんので、この様な見解は最初から除外しても問題など何処にもありません。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2011/12/05 19:44

誰かの歌を聞いた人が書きとめたものを集めたもの、なんじゃないですか?


歌の会をする以上、その場にはそれなりに高貴な人がいて、そこの参加者が「どこどこの某氏がこんな歌を作って、たいそう感動いたしました」とか言ったら、それが記録として残るんだと思います。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2011/12/04 23:57

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