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『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』私はこの問いをWikipediaで知りました、この問いの詳細はWikipediaに載っています、まずWikipediaの記述の一部をほぼそのまま引用します。


『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ、
神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される、

なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題である、

別の形では
「なぜ宇宙があるのか?」
「なぜ世界があるのか?」
「なぜ無ではないのか?」
などの形でも問われる。

もの事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて、現れる問いであることから、「究極のなぜの問い」またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる、解答することが著しく困難であることから「存在の謎」と言われる、
哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中で最も根本的な問い、第一の問いであるとしばしば言う。


物理学の領域ではビックバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明も答えにならない、
なぜなら、問いの形が「なぜ何もなかったのではなく、ビックバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。

ビックバンが真空の揺らぎから発生したといった説明もまた同様である、
「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐ真空があったのか」もしくは「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。

同じように何か超越的な存在、例えば神様を持ち出し、それが世界を作ったと説明しても話しは同じである、
「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」こう問いが置き換わるだけである。

こうした例を見てわかるように、この問いは因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしても、もっと過去へ、もっと過去へ、と無限後退が生じるだけでそから答えは得られないだろうと考えられている。

また、こうした時間の始まりの問題を避けるため永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解答はえられない、
「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。

この問いは歴史学や考古学のように過去の歴史を問う問題ではなく、あくまで「なぜ何かがあるのか」を問う問題である、
またしばしば同時に問われる関連した問いに「なぜ世界はこのようになっているのか」という、この世界の在り方の根拠を問う問題とは区別される。


Wikipediaには解答の候補などもいろいろ載っていますが、

上述のように、哲学や科学など、宇宙、世界、自然を観察、観測したり、そこから論理的に思考したりする手段でも、さらに宗教のように神様を全ての原因とする手段でも、解決できそうもないこの「究極の問い」を、一体どうすればいいのでしょうか?

つまり、それ(科学、哲学、宗教)以外に何か他にこの『究極の問い』にアプローチする手段があるのでしょうか?

それはもはや論理や言語や思考を超えて、人間の能力を超えた手段が必要なのでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

何故あるのか、て命題は、理由の存在を前提に


しています。

従って、なぜ理由があるのか、がその問いの前提
にあると思います。

何故、宇宙があるのか。
  ↓
何故、宇宙が存在することに理由があると考えるのか。

てことです。

理由が無くても存在する、てことは充分にあるでしょう。
理由が必要だ、というのなら、なぜ必要なのかを
論証しなければその命題は成り立たないと思います。
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似たような疑問をもったことがあります。


「一体、何が何のためにあるのだろう?」
答えは得られませんでした。

すべては、あるがままに、ある
すべては、起きるべくして起きる・・・
これでは答えのようで答えにはなっていない。

そこで、いっその事まとめてしまえ・・・という粗野な思いつきで
「自然法爾」という言葉に片付けてしまうことにした。
人智を超えた自然の摂理のままに全てがある・・・ということにした。
したのはいいけれど、やっぱり分からない。
分からないけど、それ以上の言葉が見つからない。

まあ、だいたいは合っているだろう・・・ということで
小さな脳味噌を納得させることにした。
そんなところです。
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以下 私の考えです。



『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』 と問うて 人類誕生以来今日まで
きたと思うのです。この問いの中で 果たして 知りえたモノは知りたいモノ
の何%まで達したのでしょうか。知れば知るほど%は下がっているのかもしれません。

しかし、知りたいモノの整理は出来てきたとおもうのです。大きくは論理世界と非論理世界でしょう。論理はゲーデルの不完全性定理で明らかにされたように、公理(原理原則)をたて その検証によって対象を説明するモノです。勿論、公理は10人10色であって多様な論理系が出来るのです。論理哲学、数学、物理学を始めとする科学など多くの学問とか実学が展開されているのは周知の
ことでしょう。

問題は非論理世界であって これが人類に役立っていないかというとそうではなく 大いに役立っていると思うのです。芸術(文学、絵画、音楽、など)、医学の一部、非論理哲学、経済、政治など実に幅広いと思うのです。この世界は 人の感性に訴え共鳴を得る場合が多いと思います。何かの処方箋を繰り返して同じ結果が得られれば 論理に準じるものとして受け入れられるのです。もう一つは非思考の世界です。何かを信じて安心を得るのです。

概略人類の知識はこんなところと思うのですが、重要なことは人とは所詮知識を拡大させていく動物とおもうのです。この状態で人類は問題発生させているのか問題解決しているのかです。私には例えば 人類滅亡の解決のために何をするべきか が個々に問われているように思うのですが。

しかし、質問者さんにとっては このような意見は何ら役立ない と言われると思います。が 私の答えはこんなところなのです。
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 こんにちは。



 ★ なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
 ☆ ふたつの問いに分けます。
 (1) なぜ 何も無い のではないか?
 (2) なぜ 何かがある のか?

 (1)は もともと 何かが有ると人間が捉え人間の言葉で表わしたそのモノ・コト(つまり《何か》)が 空間を移動して もと有ったところには無いようになったか それとも時間を経て朽ちて行き無いようになったかしたに過ぎないのだから 《何も無いのではない》となります。
 つまり 有ったモノ・コトについて それらが無い状態にもなるというに過ぎませんから。

 (2)は そもそもこの認識と言葉による表現が 《何かが有る》というその事態から始まっているということだと思われます。
 その《何かが有る》のは なぜか?
 と問うのであれば 人間はその知解能力では分からないという答えになります。もっと言えば 人間に分かるか分からないか それが分からない。
 ひょっとして人間にも分かるかも知れないというのではなく つまりあるいはひょっとしていつか将来において人間も分かるようになるかも知れないというのではなく そうではなく どこまで行っても 人間には《分かるか分からないかが 分からない》事柄としてあり続けるという意味です。それとしては 分かっていいることになります。


 言いかえると これでもわれわれ人間は そのナゾを 《絶対》という――仮りの・代理の――言葉で表わしています。言いかえると これは どの言語にも持たれている《かみ》という言葉でありそういう代理表現のことです。
 かみが その絶対なる神の ひとつの代理表現にすぎないということは――経験世界における《有る・無い》という相対性における表現であるからには―― 無い神 つまりは無神論の無神 と言いかえても 同じことだとなります。



 重ねて言いかえると この人間の住む経験世界は 《有ると その状態変化としての無い》とがある相対の世界です。
 その経験世界がなぜ有るか? これが 人間には分かるか分からないかが分からないというのが 答えです。


 《なぜ何かがあるのか?》 これに対する答えは 《それが分かるか分からないかが分からない領域――すなわち かみ――》と人間との関係という場にある。
 その場は 経験世界を超えている非経験の領域――つまり かみ――を経験思考を超えて ヒラメキ(インスピレーション)において・あるいはつまり非思考の庭として わが心に成るという経験行為そのものであり その動態としてある。
 《分かるか分からないかが分からない》というかたちで 分かっているという意味であり 答えです。
 
 この不安定ないしおそれ――畏れかあるいは恐れか――が 人間の自由というものです。その条件です。存在にとっての所与です。
 人間の存在にとって無条件なる条件です。
 人間は この無根拠なる根拠のもとにあって 生き動き存在する。
 この自由は めぐみである――人間が考えたものでも作ったものでもない――と考えられます。
 このような答えを示したのは のちにキリストと呼ばれたナザレのイエスというひとりの男だったと考えます。
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Q、この『究極の問い』にアプローチする手段があるのでしょうか?


A、この手の問題意識そのものに解を与えるアプローチは無い!

 それぞれの存在対象を個々に具体的に観察、あるいは歴史的に考察するために設定されたテーマではないのが大問題。個々の存在から、それが有している具体的要素、歴史的要素を捨象して限りなく抽象化することで科学的な議論を排除。もって言葉遊びの堂々巡りへと人々を誘う観念的な存在論。『究極の問い』って言えば高尚だが、それはただただ暇人の言葉遊び。

>「なぜ何もなかったのではなく、ビックバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。

 暇人は、「ああ言えば、こう言う」で、少しでも具体的で実証的なアプローチをすれば、それを乗り越える別の問いを考える。結局は、こういう思弁的な思考は、それ自体がグルグル回りを目的としているのだから際限がない。いかなるアプローチも切って捨てる言葉遊びは捨て置くに限る。

>なぜ、山があるのか?
>なぜ、海があるのか?

 多分、一万年も前の古代人にとっては、かかる問いが「なぜ宇宙があるのか?」に等しいものであったと思われる。現代では、この問いについては多くの科学者が答えを示すことができる。しかし、その答えもまた完全なそれではない。あくまでも、現代科学の到達点にたった相対的に正しいそれに過ぎない。「なぜ宇宙があるのか?」の答えもまた、同じようなもの。科学は相対的な答えしか示せない。これをもって不可知と断ずるのか?それとも、相対的な答えの探求を続けるのか?そこが問題。思弁的な哲学者は、不可知の根拠探しに没頭するだろう。それは、それが趣味だから誰にも止められない。しかし、はっきりしていることは、彼らの不可知の根拠探しの努力は、それはなーんにも我々の精神世界と現実世界には恩恵をもたらさないこと。そんなことに付き合っていても「おなかすくし・・・」は、けだし名言。

と、私は思いますね。
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ベルクソンの言うように、有る、有る、有るという世界観が正しく、全ての存在が無いというのは妄想にすぎません。

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「無」というのは「有」の反対の概念として生まれただけです。


そして、「無」から「全ての存在が無い」とう想像上の概念が生まれただけです。
太さの無い直線と同じく頭の中で存在するだけです。別の表現をすれば、微細な太さやギザギザを知覚できないか無視しているだけです。
話を戻すと、万物が無常に永続変化している宇宙は、なぜ全ての存在が無の状態ではないのかという問いは、直線は太くギザギザだが、なぜ真っ直ぐで太さが無いものでないのかという問いと同じでしょう。
答えは、概念にすぎず現実ではないからです。
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「無」を感じられるとしたら、その「感じる」主体があるので、真の無ではありません。


逆にいえば、「無を感じられない」ことの中に、ある形で「真の無」はあるのです。
「ある形」とは、その「存在するのではないか」という意識を、本質的に無に還元するような物理法則をともなう環境です。

全ての存在は量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しく
なります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化=宇宙の膨張=時間の経過)を想定すれば相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのです。

無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補としての「時空仮説性」。
「相補」というのは、絶対時空を否定し、認識体との相対においてしか時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が現象表面的に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的存在性は生じるとする不確定性原理といったものを伴う時空、ということです。

我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。
相対性理論の四次元時空の式において、時間項は虚数になっており、そのために空間軸と時間軸の等距離点に、“ゼロの面”ができます。
それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。

「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。

その認識体(現在=光速)による大ざっぱな認識=階層現象表面的定性化における非光速性に基づく時空仮説に対する、無の射影が存在=光量子なのです。
即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
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科学、哲学、宗教以外にこの問いにアプローチする手段?


そんなのもちろん愛ですよ、愛。それともちろん、努力と根性です(笑)

何かがあるのは、「何かがある状態」に比べて「何もない状態」のほうが不安定で、「無」の状態が維持できなかった結果。
もちろん、すでに何かがある状態から何もない状態に戻すには安定化を助けるだけのエネルギーが必要なわけで、既にあるこの世を「ない」状態に移行するには「ない状態」から「ある状態」に移行したとき以上のエネルギーを要するけれど、そんなエネルギーの供給源がないから「あり続けて」いられるわけでしょう。

~~
似たようなので、「何もない」くせに「ある」のが時間ってやつですね。
時間ってのは存在せず、ただ永遠の「今」と、今は「ない」過去との連続体として概念的に理解されるにすぎないものです。
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難しい事はさっぱり分りません。


でも、既に宇宙の解明において物理的見地からでは解明の限界に至ろうとしていることは確かです。
そこで量子の世界を物理の世界と一体化させようという試みが始まっています。
そもそも物理と量子が別の法則というのも可笑しな話ですけどね。

私達はこれまで、ビッグバンの前の状態は無だと教えられてきました。でも今科学者でそんな事を言う人はいません。
未だに物理科学だけに囚われている人が多いようですけど、科学は最早、そんな段階ではなくなっているようです。均一な混沌にゆらぎが生じ、それが加速度的に広まっていく状態がビッグバンです。
宇宙を形成するに必要なエネルギーの大きさはピンの先より小さなものだそうです。

ホーキンズ博士もまだ、その両方の法則の関連付けに着手したばかりだそうですから、物理の世界の端っこに触れるか触れないか程度の凡人の考えなど及びも付かないでしょうね。

でもそれも「仕組み(How)を解明する」に留まっており、理由・意義・動機・・(Why)を解明するものではありません。
私は常々「[Why]と[How]を混同してはならない」と言っています。
しかし物理学者はもちろんの事、殆どの人もこれを混同しているので、ほとんど研究も進んでいないのが現状でしょう。
そして[Why]の解明には「仕組みの解明(How)」が不可欠な事も確かです。
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