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時間の流れは、それを観察する主体があって初めて意味があるのではないか?
物質の変化のような時間があっても、生命体(時間観察主体)のない場合、時間の存在意義はないのではないか?

A 回答 (10件)

全く別の次元にあって時間的空間的に間接的にさえ影響を与えない場合(a)でも、同時間の連続空間で生命体(時間観察主体)が観察していない物質の変化がある場合(b)でも、『意味とか、存在意義とか』は、だれが付与し、だれが認知するのかを明確にしてからお考えになってはいかがでしょうか。


hekiyuさんがご回答のように、主体を抜きには意味とか意義を決められません。
単なる因果や生成消滅結合分離変成のような変化は、それが(同時間帯に生じていても、異なる時間帯で生じていても)、(その影響を受けていても、影響を受けていなくとも)、何かの主体が認識し意味や意義を付与しなければ、意味も意義も出現しません。
そのように思います。

150年前に私の親の系統の誰かがどこで何をしようと、私が今だれに何をしようと、今24歳のニューギニアに住む誰かさんは2日後でも、また一生の間でも、私の親の系統のだれかさんや今日の私のしたことやその影響等に関して、なんの意味も、存在意義も感じないし、そうしたことの存在自体を知らないでしょう。
 
意味とか存在意義などという問題や視点を無視して、時間の流れと物質の変化との関係を考えるのであれば、『変化は、経過・時間の流れとしてしか記述できない』というpsytexさんの回答でも十分ではないですか。
時間の流れ(=時間)の存在と変化(物質の変化や位置の変化など)の存在はセット野茂のでしょう。どちらか一方のないものを想定定義できないと思います。
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 ★ 物質の変化のような時間があっても、生命体(時間観察主体)のない場合、時間の存在意義はないのではないか?


 ☆ 人類がまだ誕生していなかった頃のことは どうなりましょうか?

 このいまの人間が いまその頃のことを知る。こうなります。果たして
 ★ 時間の存在意義は
 ☆ どうなのでしょう?
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先日、宇宙は無限とか、ビッグ・バン はギ゛ャグだと主張している。

質問に。
すべては、表裏一体として、存在している。時間も二つに分けることが出来る。
また、無の認識にも二つある。一つは、ゼロ、の概念であり。もう一つは「×1」の概念である。
というような事を簡単に説明したのち。
有×無=1(いっ)と老子の考え方を紹介したら。
あまりにもブータン的じゃないけ。有×無=ゼロ、に決まっているじゃないけ。と言ってました。
蛇足です。
さて、時間、にも二つある。とは。
物質の変化のような時間。と言われているように。

一つは、変化=時間=物質と一体の、(×1、として)実体のない、能力、方向性、
これを「時間」と名付けます。
もうひとつは、その時間=変化、時系列という、架空(時間は常に、今、しかない)の中で。
変化、度合い、を比べる、物差し、として地球の自転を一日と、人間が決めた、時、分、秒です。
これを「時計」と名付けましょう。

時間の流れは、と言う時、の感覚は、時計認識、になるのでは。

時計認識にも二つあります。
一つは、陽が昇り、また、夕日が沈む。というような、時、分、認識であり。
もう一つは、あなた自身が
空間(物質構造体)×時間(心が移ろい、肉体を変化させる能力としての、実体のない精神)
=人間の個体 であり。
あなた自身が、空間かつ時間。としての存在であり。
あなた自身の「時間」が外界の変化の、物差し、として「時計」の役割を果たします。
時分、と違うのは。起きている時と眠っている時では、時の流れの認識は全く違うはずです。

認識主体がない場合。時間の存在意義はないのでは。との考えは。
眠っているなら。時間の存在意義はないのでは?との質問と同じような事になるのではないでしょうか。
諸相無我 我がなくとも世界はある。でいいのでは。
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時間は、記録(記憶)か予測の何れかに頼らない限り認識できないと思いますが、記録、予測、認識の主体は必ずしも生命体でなくても良いと思います。


宇宙の始まりか何かを起点とする「時刻」であれば、別の意味があるかもしれません。
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時間はその生命体に「与えられた」感覚(=間隔!)



時間と空間は一体不可分。

その生命体の進化段階に相応しい時空間が時間感覚と共に「与えられて」いる。
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お礼ありがとうございます。


主語は生命体(時間観察主体)だとして回答すると、全く影響を与えない状況ですと物質の変化は意義がないとなると思います。
本人も意義を感じないのはもちろん、客観的に観ても因果関係がかすりもしないわけですから意義はないです。
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 こんにちは。



 ★ 観察主体がない場合
 ☆ と仮定しているあなたが存在しています。

 ★ 時間の流れは、それを観察する主体があって初めて意味があるのではないか?
 ☆ といま考えているあなたの存在があります。

 ★ 物質の変化のような時間があっても、生命体(時間観察主体)のない場合、時間の存在意義はないのではないか?
 ☆ さて どうでしょう?
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意味がある無い、てのはその主体によって


決まると思われます。

人間にとって意味があるか、と問うのであれば
人間が未来永劫永遠に存在しなければ、
こと時間に限らず、総てのモノは
意味がない、ということになるでしょう。

現在、人間が存在しなくても、時間を掛ければ
生命体、人間が出現する、という意味なら
時間の存在意義はあるということになるでしょう。

人間以外にとって意味があるのか、と問うので
あれば、その問い事態の意味が問題になると
思います。
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時間観察主体が知らないだけで深層で影響している場合と全く別の次元にあって時間的空間的に間接的にさえ影響を与えない場合があると思います。


どちらでしょうか?
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この回答へのお礼

全く別の次元にあって時間的空間的に間接的にさえ影響を与えない場合を想定していますが、
両方の場合について、回答いただいても構いません。

お礼日時:2012/01/22 06:18

物理的には、時間(経過)は現象的にしか記述できず、存在として特定する事はできない。


よく時間軸の本質(経過)として、「エントロピー増大」が挙げられるが、エントロピー増大が法則性を持つのは、統計力学的な現象表面的な定性化においてであり、たとえば、「コップに赤インクを落とすとピンク色に拡散する」とか、「トランプは切るほどにランダムになる」というのはもっともそうだが、1から3のカードを切るなら、1・2・3と並ぶ事など稀ではない‥‥エントロピーに時間を依存するなら、その度に時間が逆行しているのか?という話になる。

相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っている。
客観的時空や絶対的存在というものはなく、認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になる、というものだ。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束(相対的には宇宙膨張)の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのだ。

換言すれば、最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事によって生じており、自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙なのです(無の無限の闇に対する自我の射影)。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完なのだ。

ひるがえって、先に述べたように、時間軸が「意識=経験=過去」に依存した、自我仮設(記憶=時間的流れ)と時空仮説(空間的広がり)の相補分化に依存している時、その「相補分化」は任意であり、つまり昨今言われる「認識される事による、量子的な不確定性無限からの収束」は、ホログラムのようにオーバーラップしたパラレルワールドを意味している。
たとえば相対性理論においては「運動する物体は時間が遅れる」とされるが、そこにおいて運動は相対的にあり、「相対運動=互いに相手が遅れる」事を意味し、あらゆる相対運動ごとに異なる世界が派生しているのだ。

その「自我仮設(記憶=時間的流れ)と時空仮説(空間的広がり)の相補分化」において、「時間」と「自己」は、同じ本質に依拠すると言える。
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