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 中国人の一つの言い分だそうです。
 
 著作権の問題です。
 果たして 著作権は 権利なのでしょうか? と問います。

 言いかえると 創作者はただその創作者としての名誉を博するのに甘んじるだけというのが 正解なのではないか? という極論で問います。




 表題の事件は つぎのようだそうです。
 ▼ 中国、コント盗作疑惑に「漢字を盗んだ日本人のアイデア使っても大丈夫」 / 産経新聞2月4日(土) ~~~~
 http://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0204/san …

 【矢板明夫の中国ネットウオッチ】 中国国営中央テレビ(CCTV)が今年の旧暦大みそか(1月22日)の夜に放送した国民的人気番組「春節聯歓晩会」で、人気芸能人によるコントが、「日本のお笑い芸人の作品と酷似している」と指摘され盗作疑惑が浮上した。うんぬん。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 表題は 次のような中国人のあいだのいくつかの反応のうち 最後のものから採ったものです。
 ▼  ~~~~~~~~~
 〔* ネットユーザーのあいだでは〕
 1. 「笑いを誘う場所は全く同じだ」
 2. 「13億人の大国として恥ずかしい」
 3. 「中央テレビの知的財産権意識はどうなっているのか」

 といった意見が多く寄せられた。

 一方、
 4. 「たまたま一致した可能性もある」
 5. 「お笑いだから大目に見ようよ」

 と言った擁護論もあった。
 
 6. 「日本人は漢字をはじめ多くの中国文化を盗んだわけだから、彼らのアイデアを使っても大丈夫だ」
 
 と言った開き直りの声も。
 ~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ つまり著作権は 資本主義そのものの発想であって 何でもカネになる・何でもカネにできるという開き直りから現われた鬼っ子であるに過ぎなくはないか? と問います。

 ご見解をお示しください。また 専門的な捉え方をご教示ください。

A 回答 (15件中1~10件)

ブラジェロン様おはようございます。


NO。10 です。
昨夜はあまりに意気投合してしまったようで、恐れ多いことでした。朝ちょっと反省し、仰るご思想についてもう少し現実に即して考えてみたく思います。
アメリカ主導でこの100年はあまり現状は変わらないだろうと書きましたが、中国の台頭で、これもどうなるか、予断は許さないといった感もいたhしますし。

結局、経済活動に秩序が必要なことは確かです。ようはそれが万民に平等であるかどうかということ、社会正義にのっとっているかということでしょう。不自然なものはいずれ安定な方向へ変化していきます。
文化活動が経済活動と結びつかなければ、これを規制の枠にはめるのは既に時代遅れという先進国間の合意がなされています。しかし文化活動が経済活動と合体すれば、それが巨大ビジネスになって世界制覇へいたるというのは、これが何のための法秩序なのか?逆の意味で社会悪そのものになってしまうのではないでしょうか。強者のための秩序作りとはひとむかしまえの列強帝国主義に変わりません。
これは文化活動にとどまらず、たとえばエイズの特効薬の独占問題にも繋がる巨大企業のエゴイズムにもみられましょう。マイクロソフトの世界制覇もそうかもしれません。さまざまな不平等と悪がこれらで派生しています。

文化活動や学術に関する経済的な権利擁護は、社会正義というよりもその根幹に発案者側のインセンチブの確保、そしてそれによって社会の活性化が損なわれないためというもっともな理屈がついているわけですが、しかし、そうならば今のアメリカの巨大企業群のむさぼりようは、はっきりいってやりすぎい以上のものではない、と思います。ディズニーがミッキーの顔だけで100年も大儲けするのはどう見ても不当です。

ここで代案ですが、
たとえば、権利擁護方は時間でくくるのではなく、その開発費用が10倍になって帰ってきたら消える、というようなものに変えねばならないでしょう。そして、単なるアイデアなら資本がかからないのでモラルに任せるというふうにですね。このモラルが肝心なので、中国もやはり世界標準としてのモラルを遵守してもらいたい。それが出来なければ周囲からバッシングが起き、独自の法規制も必要になって来るでしょう。

現にインターネット上では殆どそうなっているのではないでしょうか。これはいい傾向です。
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この回答へのお礼

 回答 No.11のぶーたーさんへの返答として 次のように課題をまとめました。
 ☆☆( No.11お礼欄) ~~~~
 焦点あるいは争点は ふたつありましょうか。

 ○( A ) 当座をしのぐためのそしておカネのための文化活動と そうではなく じんるいにとって所謂る古典となるような作品にかかわる文化活動とを分ける。前者には 生活の安定のためなどの理由によって 著作権をみとめる。

 ○( B ) 文化活動を区分するのではなく つまりその中身が長く残るものであることを意図するかどうかを別として 人間の中には 仕事の効用とその持続効果にいたく関心を持つ場合があると考えられる。その場合があるのなら これを無視するわけに行かない。よって 著作権かそれに匹敵する権利が必要であるかも知れない。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 もうひとつ あると言うべきでしょうか?

 ○( C ) ~~~~
 先行投資を回収するに足る報酬を創作物をめぐって要求してもよいはずだ。それには ひとつに売上げ価格に盛り込むことと もうひとつにその先行投資無しで創作物の類似品をつくられては困るのでその保障を法律で明文化することと。
 これは 著作権と言うよりも 特許権などなのでしょうか?
 あるいは 新製品の研究開発費用は やはり売上価格に織り込むはずですが それでもあたらしい創作物にかんしては 著作権ないし特許権という法律の保護が必要となるのか?
 ~~~~~~~~~


 さあて こまあすさん こんにちは。俄然いそがしくなってまいりました。まづは ご回答をありがとうございます。さらに現実的に練り上げていただきました。


 そうしてしかも ( C )の課題をも含めて きちんと答えてくださっています。何と気が利くお人であることよ。
 ★ ~~~~
 ここで代案ですが、
 (1) たとえば、権利擁護方は時間でくくるのではなく、その開発費用が10倍になって帰ってきたら消える、というようなものに変えねばならないでしょう。

 (2) そして、単なるアイデアなら資本がかからないのでモラルに任せるというふうにですね。

 (2-1) このモラルが肝心なので、中国もやはり世界標準としてのモラルを遵守してもらいたい。

 (2-2) それが出来なければ周囲からバッシングが起き、独自の法規制も必要になって来るでしょう。

 (2-3) 現にインターネット上では殆どそうなっているのではないでしょうか。これはいい傾向です。

 ~~~~~~

 ☆ ( B )の《仕事の効用とその持続効果にいたく関心を持つ場合》にも そのような《インセンチヴ》の問題としてご見解を明らかにされました。
 ★ ~~~~
 《争点 B 》:文化活動や学術に関する経済的な権利擁護は、社会正義というよりもその根幹に発案者側のインセンチブの確保、そしてそれによって社会の活性化が損なわれないためというもっともな理屈がついているわけですが、

 (3) しかし、そうならば今のアメリカの巨大企業群のむさぼりようは、はっきりいってやりすぎ以上のものではない、と思います。ディズニーがミッキーの顔だけで100年も大儲けするのはどう見ても不当です。
 ~~~~~
 ☆ へきゆさん(回答 No.3)のご見解も 法律による保護が過度に成らないようにどのあたりに線を引くかが課題であると言います。
 
 すなわちさらにつづけて
 ★ ~~~~~
 (3-1) 文化活動が経済活動と結びつかなければ、これを規制の枠にはめるのは既に時代遅れという先進国間の合意がなされています。しかし文化活動が経済活動と合体すれば、それが巨大ビジネスになって世界制覇へいたるというのは、これが何のための法秩序なのか? 逆の意味で社会悪そのものになってしまうのではないでしょうか。強者のための秩序作りとはひとむかしまえの列強帝国主義に変わりません。

 (3-2) これは文化活動にとどまらず、たとえばエイズの特効薬の独占問題にも繋がる巨大企業のエゴイズムにもみられましょう。マイクロソフトの世界制覇もそうかもしれません。さまざまな不平等と悪がこれらで派生しています。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 自由の国アメリカの光と影 影の部分がおおきく《成長》して ほかの国々にとっては壁のごとく立ちはだかって来ているようです。
 かくなる上は TPP では むしろ日本資本主義のよさをじゅうぶんアピールして 《売り込み》を堂々と大々的にやりはじめなくては行けませんね。生活の安定のためには 雇用の安定 そのためには 選択の自由の上に終身雇用制を採り入れたほうがよいと考えられて来ます。

 かつては あたらしい発見や発明をした場合会社員なら 一銭も個人には報いがなかったようです。特許権は必要かどうか分かりませんが その発明によって一個人が報酬を得るというのは――これも 度合いによりましょうが―― あまりピンと来ません。
 個人だけで発明を成し得たという見方は なかなか納得が行きません。また 自分のため・会社のために仕事をすることは 社会のためでもあるという前提に立つならば 特許を得るほどの発明でも 仕事は仕事そのものでむくいを受けていると思われます。そうでない会社の制度や社会の仕組みであるとすれば そちらを直す必要がある。個人を特定してむくいるというやり方は 社会における間違いを隠ぺいしてしまうのではないか? 法律ないし裁判も どこまで信用できるかという問題になりませんか?
 (仕事じたいは いくら集団志向でチームワークと言っても 一人ひとり個人がおこなっているというのは 大前提です)。




 もっともすべては――いくら富が偏って溜まってしまうと言ってもすべては―― 等価交換をつうじてその結果を生んでいる。ということになっている。
 なにかおかしい。どこかおかしい。何がおかしいか? どこがおかしいか?

 本源的蓄積があったからか?
 勤勉が産業を生んだのか?

 そのむかし国家になった途端(もしくは 国家を形成して行く過程で) たとえば巨大古墳を造ってしまった。いわば高度経済成長であった(?)。けれども これは 等価交換をつうじてそうなったのだろうか? いまも仁徳天皇陵を初めとする古墳は 私有財産である。学術調査も ほとんどままならない。
 そのような古代からの財産とは別に その財産をも凌いで 勤勉市民は 産業人となったのか? 日本では 国家の政治権力とからまっていたらしい。


 一人ひとりの市民発明家がそれぞれ 企業のために社会のために国のために 金銭的報酬を受けずに その仕事をのこした。それも 本源的蓄積に与かっているだろうか。それらの貢献をも――おそらく初めから無名のままであるのだろうが――いまでは ないがしろにしてしまう個人主義的私有財産主義(*)的資本主義に片向いて行くのだろうか? ほかの国はいざ知らず 日本人はそうでなかったはずではないか。日本資本主義 ここにありと言って行ってもよいのではないか? それとも 諸行無常 なにごともほろびゆくものだろうか?

 * 私有財産主義的:これは いわゆる《自我》ということばが この個人主義を 人びとに納得の行く妥当性のあるかたちをとることなく 勝手に増長させて来ているのではないか? (個人ないし家族の所有は 大前提です。それゆえ そこにも社会性があるという見方です。この見方をこわして来ているのではないかと)。

お礼日時:2012/02/06 14:16

NO14の回答者です。


お礼を頂いていたのですね!ありがとうございました。気がつくのが遅くなり、失礼しました。
ただ、長文で少し回りくどくて、分かりにくいです。ゴメン!

そもそも、あなたの質問のタイトルが「漢字を盗んだ日本人のアイデア使っても大丈夫」~中国人の一つの言い分だそうです~が質問の背景にありましたので・・・

 >自分の思想や創作という要素がなく、その意味でいわゆるパクリをしたというのならば、それは、もはや権利以前において、人びとによって嘲笑されるだけだと思います。

現実に起きていることは、よく理解はされているわけですね。なにしろ、あなたが取上げられた事例が悪すぎました。コント盗作疑惑のような話題を持ってきてはいけませんね。

さて、「複製」が行なわれた場合の問題ということでの、あなたの主張?

 >学問なり藝術なりとしての言わば互いの切磋琢磨の問題だとも考えられます。

現実に、そんな高尚な出来事が、新たな藝術が生まれ、多くの人びとが心洗われるような出来事があったでしょうか?

あなたのこの説を信じた誰かが、複製を行なって「カネ儲け」をする人間がいた。その行為を咎められたとき、その説を主張したとすれば、それは正しいもの、正義あるものとして認められるものですか?
洋の東西を問わず、法治国家であれば、咎められてしかるべきものと成るでしょうね!
申し訳ないけど、それは「盗人にも三分の理」です。その意味は、「つけようと思えばどんな理屈でもつくものだ」ということです。

何が何でも、「出来のいいパクリ?」「盗作らしきもの?」、あなたが言うところの「複製」に正当性を持たせたいが故の、屁理屈かとも思いますが、違っていたらゴメンね。ただ、意図はともかく、多くの人が同じような印象を持たれると思います。現実に起きている事実から乖離した説は、何の説得力をもちません。

 >パクルなら、何がしかの報酬を払えといった次元とその問題になって行った。らしい。もともと、著作物の複製についてカネに出来ると見たその出発点があったとしたら、そうなってもおかしくない。事実成った。たぶん、鬼っ子でしょう。カネはもうかりましょうが。

大事な事を忘れていませんか。どう言ってみても、要するに「複製」くらいいいじゃない、「複製」にまでカネを取るのは如何なものかということでしょう。でもね、前述のように、著作者の原典で「複製」を作り、カネを儲けている行為は、どういうことになるのですか?
現実に起きている問題を無視して、理屈だけを捏ね繰り回すのは、「曲学の論」になりかねません。お互い心しましょう。
あなたの言う切磋琢磨の世界なら、「複製」を社会に無償で提供して観賞して貰うのが筋です。そうではなく、「複製」を作る方々は、著作者の原典を種に「カネ儲け」をしている、商売にしているのが現実ではないでしょうか?

そういう行為を、後ろめたさもなく平然と出来る人たちのことを、「鬼っ子」という。
これが、正しい使い方です。

何れにしても、あまりひとつの予断に執着して、論を進めるのは正しい姿勢とは思われません。
以上、私はこのあたりで(昔なら)筆をおかせていただきます。

なお、疑問をお持ちの中国から日本に帰化された方のことですが、出版社「ワック株式会社」から著書を三冊、出版されています。あえてその方のお名前は書きませんが、その一冊の帯封には「中国に幻滅した中国人エリートの魂の叫び」とあります。
この中に、比較の問題ですが、「五常の徳」に触れておられます。
出版社電話:03-5226-7622
彼の国では、彼は知られることなく、日本では、かなりの人びとが彼を知っている現実もあります。
立場とは関係なく、ご一読されてよい本かと思います。
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この回答へのお礼

 よきいさん お早うございます。ご説明を継いでいただきました。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。ですがけっきょく 《おまえの現実に対する見方は甘い。甘すぎるよ》といったお叱りの言葉であり それはむしろあたたかい激励にまでおよぶ。こう理解しましたが これもあまいでしょうか?

 つまりは 著作権を すでに初めの作品が成ったあとの段階において いわゆるパクリと言うべき複製が無断でおこなわれようとするとき それを ただ互いの自由な批判の過程であり互いの切磋琢磨であるといった見方をしていては 現実が見えていない。そんな甘いものではないよ 現実はと。

 たぶんそうなのでしょう。そして この質問の視点というのは たしかにあくまで長期の視野を持ち いわゆる人間性に信頼を置くという――現実から浮いた――心にあります。つまりはやがて この心も――もとはと言えば それこそが地に足をつけたスサノヲ市民の心であったものであるからには―― 現実となってくるであろう。こう見ているわけです。
 資本主義の鬼っ子のほうが 足を地につけていずただあたまで逆立ちをするかのように立って資本の自己増殖の道を突っ走っている。ゆえに むしろそのほうが 心が現実から浮いてしまっており 反現実的であると。



 つまりは 前回の最後のところで取り上げましたが おっしゃるようにそこからの鬼っ子による開き直りの問題が横たわっているということになるのでしょう。つまり
 ☆☆(No.14お礼欄) ~~~~
  これらすべてのあと
  ★ つまり、全てのことに開き直りができる人たちが多数を占めていく社会の現状と未来こそ、考察すべきテーマではないのですか?
  ☆ ということのようですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 この《開き直り》が見られるというのは それによってわれわれは 現実をしっかりと見つめ具体的な問題点を認識して行かねばならないといったあらたな出発点に立つようにとうながされている。こういうことでしたよね。
 そのときに大切なこととして 次のようにも確認しました。
 ☆☆(No.14お礼欄) ~~~
  ですから ひとつに 表現の自由がまもられることにおいて創作者が その仕事じたいにおいては 社会的にむくわれるということ。ひとつに そのあと 複製が出るに際しては どこまで初めの創作者の 経済的な権利が保護されねばならないか。また そのときつねに互恵関係という観点でも捉えて判断されるようになることがのぞましい。こういった主題になりましょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おそらく この出発点とさらにはそこからの方向性において よきいさんとわたし〔たち〕とは 同じであろうと考えます。

 少し粗いまとめになってしまったでしょうか。



 中国から来られた方については その方の実体験をうたがうのではなく そうではなく その一つのご体験が日本においてどれだけ一般的なことであるのか まだにわかには信じがたい。こういったことを言いました。信じてもよいほどなら うれしい誤算です。

お礼日時:2012/02/10 11:22

残念!ある日本人のブツブツです。

 (決してブラマヨではありません)

先ず、著作権という権利を、一緒に正しく勉強しましょう!
最初から、資本主義の鬼っ子という前提では、権利の本質を考察することは出来ません。常識的にも、学問的にも成立しませんよね・・・

著作権という権利は、「“思想又は感情を創作的に表現”したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属する」著作物が対象です。
「創作的」とは、“著作者の個性”が表れていればよく、必ずしも芸術性は必要ではない。したがって、例えば幼稚園児が描いた絵であっても、そこに“個性”が出ていれば著作物になり、幼稚園の先生がその子に無許諾で、その子の絵を利用した場合は、著作権侵害ということもあるのだそうです。

著作権は、凡そ人がいきるために創りだした価値あるものを、生きていくための財産として認めた権利です。人には、生まれながらに持つ不可譲の権利、誰にも侵すことの出来ない、各人固有の権利として認められている「生命」「健康」「自由」「財産」という四つの自然権があります。
著作権という財産権は、もともと絵画や音楽、文学作品などの著作者に支払われた一時的な対価から、後年、これらの作品の無秩序な使用を制限するための、著作者の権利保護のために設けられた制度であり、これらも自然権「財産」に包含されるものです。

拠って、著作権を「何でもカネになる、カネにできる資本主義の鬼っ子」などという考察は、全く成立しない的外れなものとなります。
これを踏まえると、今回の質問は、何かを意図したすり替えかと、誤解を招きかねませんから、気をつけてください。

要するに、多くの国民から、そして世界から評価され“尊敬”されたい、されたいのであれば、される価値のある、創造性豊かな美しきものを創りだせばいいだけの話です。
血を汗を流し、チョットオーバーか(笑)、自ら悩み苦しみ創り出せ!それだけだ!
その程度のことが出来ないのは・・・ここから先は、聞け悟れの世界ですよね・・・



<ホンの参考として>
ちなみに、「日本人は漢字をはじめ中国文化を盗んだ」というご意見もあるとのことです。折角の機会でもありますし、これに関する私の考察をチョットだけ書かせていただきます。
お叱りは覚悟のうえです。

先ずは、盗んでいません!
一方は謙虚に教えを請い、一方は自国文化の伝播により、国威を示そうとしただけです。

しかし、中国文化を盗んだと言っている彼らは、実はすでに、真の中国文化の継承者ではなくなっている事に、気がついているのでしょうか?

恐らく、今の若者の親たちが10代から20代の若かった時代、「文化大革命」がありましたね。ご承知のように、1966年から1976年まで続いた文革で、長いながい3000年?の歴史と伝統を全てといっていいほど否定した「紅衛兵」の、異常で過激な運動です。
彼らは暴徒と化し、歴史と文化を否定し、破壊し、多くの犠牲者まで出してしまいました。

「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」というスローガンのもと、その破壊行為が、その長い歴史を、1966年からの10年間で、息絶えさせてしまった事に気がついていなのでしょうか?
歴史の精神性を支えきた儒教、道教や仏教をはじめとする宗教活動も、従前以上に弾圧され、今も日本人が学ぶ事のある、五条の徳「仁義礼智信」すら忘れ去られたそうです。

この文革の時代、高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受け、国をリードしていく年齢になった現在も、全ての面で大きな悪影響を及ぼしていることは、多くの知識人が認めています。

その結果が、数日前のクリスチャンで民主派作家余傑氏のアメリカ亡命です。
また、日本に留学し、中国が失った「五条の徳」が日本に残っていたことに感銘し、国を愛しながらも、悩んだ末に一昨年でしたか、日本に帰化した研究者もいます。

つまり、全てのことに開き直りができる人たちが多数を占めていく社会の現状と未来こそ、考察すべきテーマではないのですか?
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この回答へのお礼

 なるほど。舌足らずだったどころか 概念の把握ないしその表現があいまいでありけっきょく間違っていると。

 よきいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 どうもそのようですね。結論では まだ引きませんが それをみちびく過程で 表現不足があったかとも考えます。
 これまでに(つまり ここまでのやり取りにおいて)著作権にかんして問題とするところは コピーライトすなわち複製の段階におけることがらであるとは言って来ましたが まだ認識ないし表現に不足があった。かと思います。

 自己表現したものが 仕事として成るならば したがってその仕事の報いを受けるのは ふつうのことだと言って来ましたが この著作権は――ほかで習ったことですが――著作者人格権( droit d'auteur )として出発しているのだということ。そしてそれは おっしゃるように 自然権であるといった重要点 これを見逃してはいけないし はっきりとうたっていなければいけないのだと。
 ★ 人には、生まれながらに持つ不可譲の権利、誰にも侵すことの出来ない、各人固有の権利として認められている「生命」「健康」「自由」「財産」という四つの自然権があります。


 これで よろしいでしょうか。




 そこで複製の段階での問題です。
 まづあらためて 確認しますと:自然権としての著作者人格権については 話が違うはずである。基本的に言って著作権を・つまり
 ★ 拠って、著作権を「何でもカネになる、カネにできる資本主義の鬼っ子」などという考察は、全く成立しない的外れなものとなります。
 ☆ と見るべきでしょうか。

 そこで複製というおこないが現われた場合の問題です。
 単純に言って この場合は 何でもカネにすると見た資本主義的思考の産物として その権利がつくられたのではないでしょうか? どうでしょう? そして だとしたら 鬼っ子だと見られます。
 自己表現としての創作行為 これが 初めの仕事とそれについての報いという段階にあっては 表現の自由を守るということにおいて その作品への支配権は作者にあるという意志行為が守られるということにまでつながるのだし 広がるということでしょうか。

 言いかえると オリジナル作品の改作などとしての複製が現われたなら それについて初めの創作者は 自分の作品がこうであって 改作とはこれこれにおいて違うと表明するといったことでしょうか。
 ただ この支配権は けっきょく自由な批判を互いに受けつけるといった作業過程のことを言っており 学問なり芸術なりとしての言わば互いの切磋琢磨の問題だとも考えられます。
 ぎゃくに単なるもじりや風刺であるなら それとして・それだけのことだと一般にも受け止められましょうし それほど問題が生じるとも思えません。まして 何の《批判》もなく・したがって自分の思考や創作という要素がなくその意味でいわゆるパクリをしたというのならば それは もはや権利以前において 人びとによって嘲笑されるだけだとも思われます。


 だからでしょうか――つまり 著作者人格権というべき自然権については 一般の《表現の自由》なる命題のなかで扱われうると見られたからでしょうか―― あとは 複製する場合に 初めの創作者が どれだけの経済的権利を持つかという意味での著作権の考えに特化してしまった。らしい。
 パクるなら 何がしかの報酬を払えといった次元とその問題になって行った。らしい。
 もともと 著作物の複製についてカネに出来ると見たその出発点があったとしたら そうなってもおかしくない。事実成った。たぶん 鬼っ子でしょう。カネはもうかりましょうが。






 ★ ~~~~~
 「日本人は漢字をはじめ中国文化を盗んだ」というご意見もあるとのことです。折角の機会でもありますし、これに関する私の考察をチョットだけ書かせていただきます。
 お叱りは覚悟のうえです。

 先ずは、盗んでいません!
 一方は謙虚に教えを請い、一方は自国文化の伝播により、国威を示そうとしただけです。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《お叱りは覚悟のうえ》だそうですから あまり言えません。言いません。
 要は 筆舌に尽くしがたい恩恵を 漢字だけに限らず われわれはお隣の国から受けている。という感謝の気持ちではないでしょうか。気持ちだけではなく――売り言葉に対して買い言葉を返すのはそれはそれとした上で―― やはりその相互恩恵の経済や文明のあり方が問われている。戦略的互恵関係でしたか? まぁ コトバはどうでもいいでしょうけれど。

 ★ 紅衛兵
 ☆ の歴史と問題は 特には自国民がきちんと整理をつけることでしょう。と思います。 


 ★ 中国が失った「五条の徳」――「仁義礼智信」――が日本に残っていたことに感銘し
 ☆ ほんとうかなぁ。つまりその感銘を受けたという人をうたがうのではなく 実際に日本人の現状はどうなのかなぁという思いだけです。




 これらすべてのあと
 ★ つまり、全てのことに開き直りができる人たちが多数を占めていく社会の現状と未来こそ、考察すべきテーマではないのですか?
 ☆ ということのようですね。

 ひとつ分かったと思うことは
 ○ ~~~~
  6. 「日本人は漢字をはじめ多くの中国文化を盗んだわけだから、彼らのアイデアを使っても大丈夫だ」
 
 と言った開き直りの声も。
  ~~~~~~
 ☆ の開き直りには その声に耳をわれわれも傾けなければならない内容もあるのではないか。です。
 《盗んだ》と言っているのは 単なる表現のあやでしょう。
 ですから ひとつに 表現の自由がまもられることにおいて創作者が その仕事じたいにおいては 社会的にむくわれるということ。ひとつに そのあと 複製が出るに際しては どこまで初めの創作者の 経済的な権利が保護されねばならないか。また そのときつねに互恵関係という観点でも捉えて判断されるようになることがのぞましい。こういった主題になりましょうか?

お礼日時:2012/02/09 17:39

ブラジュロンぬ樣おはようございます。


NO.12 です。
前回は失礼居いたしました。
いつもながらご丁寧なお返事頂き痛み入ります。
知的財産権の問題は貨幣経済の謎と深く関わっていると仰る貴兄のお説は、まことにそのとおりであろうと思います。無から有を生む。貨幣という手品がこれほど世界をバブル化した時代はもうこのあたりで終焉を迎えるのではないか。その端緒がいみじくも貴兄がここで中国人が発したという日本人の文化の姿だとするのはまことに鋭いご指摘でありましょう。

おっしゃるように、貨幣が無い時代でも巨大古墳やピラミッドは作られました。彼らはみな、嬉々として辛い作業に向かい、その完成を願って、じじつ完成させました。そのボランタリー精神を思えば、たとえいまのバブル時代の快楽を犠牲にしても、貨幣の魅力をちゃらにしても社会はうまくいくのではないか、そんなご指摘を伺うにつれ、来る時代の青写真が何となく描けそうな気がしてまいりました。

これ以上はまだかけませんが、また機会が与えられれば、ご一緒させていただきたく。
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この回答へのお礼

 こまあすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 向こう見ずに書きつけた部分があったので お困りになったかと思います。

 巨大古墳は やはり《ボランタリー精神》はあったかと思いますが 問題はそこにではなく そのあとの処理ないし取り扱いにあると考えます。私有財産になっているというところです。
 あるいはボランティア精神と見た場合 それこそ著作と制作からして共有財産ないし社会資産だと考えられます。

 先行投資をどう回収するかという問題が 著作権ないし特許権にからんでいるように思われます。

 あとは 無くても大丈夫のように感じます。

 個人一人ひとりの仕事じたいは それとしてむくわれるというのは 基礎ですから。問題は そのあとですから。



 ★ 貨幣という手品がこれほど世界をバブル化した時代はもうこのあたりで終焉を迎えるのではないか。
 ☆ さらに解明されていくと たのしいと思います。



 長期の視点ということを言えば それほど議論が細分化されるわけではないとは思いました。
 おおよその展望で まづは よしとすることになりましょうか?
 いま少し開いていて 閉めようと思ったときに閉めることにします。

 ありがとうございました。
 みなさん ありがとうございました。

お礼日時:2012/02/07 11:44

浅学ですが回答します。



>著作権は 資本主義そのものの発想であって 何でもカネになる・何でもカネにできるという開き直りから現われた鬼っ子であるに過ぎなくはないか? と問います。

その通りだと思います。ですが、

> 創作者はただその創作者としての名誉を博するのに甘んじるだけというのが 正解なのではないか? という極論で問います。
の部分については、私は若干意見が異なります。

創作は二種類に分けられます。
哲学・思想などの人類社会を推し進めんが為に表された書物など、比較的上流に位置するものと、大衆がその瞬間だけに面白さを享受するなど、比較的下流に位置するものです。

ゲーテのファウストの冒頭でも、劇団座長のどういう劇をすれば良いのか相談させて欲しい、という言葉に、詩人が「数十年経っても面白い、と言えるような世界の真実、物事の核心を伝えるような劇が良い」と応えるのに対し、道化が「そんなものは関係無い、今面白ければいいのだ、それでなければ劇とは言わん」と言っていたのと同様、その性質は二種に分かれます。(ファウストの作品は上記二種のハイブリッドになっています。)

そして、上流は名誉、下流は金銭と考え方を区分けし、それらの混合分配率を変えて作品が作られます。
私はこれにより、作品に対する報酬とは、名誉だけでなく金銭も実生活で必要だと考えているのです。

話しは少し変わって、私は岩波から出版されている古典をできるだけ読みたいと思っています。
これは商業活動とは一番疎遠な、人間の知識足らしめる本当のエッセンスが濃縮されている思想があるからです。
しかし、現代の日本においてこうした古典的スタンダードな書籍が発行されません。それは資本主義が出版に介入し、人が流し読み・斜め読みできる読み物が書店の幅を占有しているからです。
お金が儲かれば良くて、尚且つ中身もできればスッカスカにしてしまいたい、という本音があるのではないでしょうか(そうではない書籍も勿論ありますが)。
つまりここには著作者の名誉よりも、金銭的な事情が主要要因として絡み、本来書籍が持つ「知識・哲学・思想を広範に知らしめたる」用途には為しえていないのです。

中公新書:「中公新書刊行のことば」がそれを良く示しています。
「いまや、書物によって視野を拡大し、変りゆく世界に豊かに対応しようとする強い要求を私たちは抑えることができない。この要求にこたえる義務を、今日の書物は背負っている。だが、その義務は、たんに専門的知識の通俗化をはかることによって果たされるものでもなく、通俗的好奇心にうったえて、いたずらに発行部数の巨大さを誇ることによって果たされるものでもない。現代を真摯に生きようとする読者に、真に知るに価いする知識だけを選びだして提供すること、これが中公新書の最大の目標である。」
これを宣言するという事は、書籍という媒体自体がそのような傾向にあったものを戒めたという裏返しではないでしょうか。

日本文化の源流はまぎれもなく中国大陸の発祥から影響を受けています。
ただ、その一方通行ばかりの文化流入がされてきたのではありません。

既にご存知かもしれませんが、幕末以後、西洋概念に対する和訳として和製漢語が作られた際、それらの多くが中国大陸へ伝わっています。
その中国大陸に今まで存在しなかった概念とその言葉である和製漢語は、中国大陸では新名詞と呼ばれており、あまりの文化流入に際し、「日本から流入する新名詞を使うな」と号令が出されたのですが、その「新名詞」という言葉自体が新名詞であったというオチがついたりします。

この新名詞の中には「社会」「主義」「人民」「共和国」と中国の正式国名を構成する単語もあり、この言葉の発祥としては日本、更にその哲学、概念の形成として欧州が源流と言っても差し支えありません。
日本は加工貿易国です。
欧州から取り入れた新しい概念という原材料から漢字文化圏用に使い易いように加工をし、それを輸出したのです。

しかし、それに対して日本は欧州にライセンスなる対価を払ったのでしょうか? 
そして、中国にはライセンス料を要求したでしょうか? 
いいえ、色々な意見があると思うのですが、私は払っていないと考えています。
(間違いあればご指摘下さい)。
人の口に戸は立てられないのと同様、人の考え方、思考そのもの、心、果てはイデオロギーにおいては鍵をかけて閉ざす事ができません。
こうした思想の上流には金銭的やり取りなどは発生はしません。

しかし知識階層となる人々の啓蒙ではなく、実際に生活の糧として活動されている人を考慮した場合、著作権が「あった方が良いか」「無い方が良いか」と言えば前者だと私は考えるのです。

音楽を例に出しますと、音楽の価値の一つは、そのメロディーに感動する事にあります。この感動になぜ価値がつくのでしょうか。
メロディーラインとはただの音階の配列にすぎません。しかしそこに何故か受け取り側が感動するという偶然や奇跡性を見る事ができます。
このただの音階の配列にすぎない創造が、人の感動を得るという偶然や奇跡性により、唯一無二に作り出されたものとして認定されうるからこそ価値として認められるのではないか、というのが私の意見です。
仮にその音階の奇跡を第三者が完全に模倣して自己の著作物として宣言した場合(いわゆるパクリ)などにおいて、それらの価値が認められないという心理にはこうした理由が内在するのではないでしょうか。パターン化して曲を量産するのも同様です。

そうした奇跡の創造を独創的に行った者に対して、作曲者の著作権上の権利が与えられる、という認識が世間一般に通底しているからこそ、音楽に価値が与えられ、そしてその対価を支払って購入するのではないか、というのが今のところの私の意見です。
つまりは詳細を言えば、私は著作した人の対価として得られる著作権料など著作権周りの事については、そのシステムが有効に動いていると思われる為、肯定をしたいのです。但し、それが正等な対価であると判断されない場合は見直しが必要となりますが・・・。

大衆文化での権利は経済活動に関与するのでこれは残しておいた方が良いが、知識層の哲学や思想などの「社会発展などの人道的観点より、より広めた方が良い」とされるものとは区別しなければならないのだと考えています。
簡単に言えばお金の為の文化活動と、人の心の為の文化活動というのはそれぞれ両者とも必要であって、きちんと整理した方が良いのでしょう。

名高い宮廷音楽家が作曲した曲は貴族にしか聴かれず、しかし名も無き吟遊詩人の曲は多くの人に聴かれます。上記の例で言えば、それぞれ貴族向けは金の為、民衆向けは人の心の為に文化活動がなされますが、これらを混同すると、そうした人の心を捉える文化活動において、金銭の絡む著作権というものは元来受け入れ難いという結論になってしまいます。

但し、著作権などの概念による大衆文化の爆発というのは悪い事ばかりではありません。
「売れるように作る=面白い=更に売れるように作る」という良循環を繰り返して来たのが、日本のアニメ・マンガ・ゲームなどのソフトコンテンツの強味です。残念ながら他のジャンルはこれから、といったところでしょうか。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~
 中国大陸に今まで存在しなかった概念とその言葉である和製漢語は、中国大陸では新名詞と呼ばれており、あまりの文化流入に際し、「日本から流入する新名詞を使うな」と号令が出されたのですが、その「新名詞」という言葉自体が新名詞であったというオチがついたりします。

 この新名詞の中には「社会」「主義」「人民」「共和国」と中国の正式国名を構成する単語もあり、この言葉の発祥としては日本、更にその哲学、概念の形成として欧州が源流と言っても差し支えありません。
 日本は加工貿易国です。
 欧州から取り入れた新しい概念という原材料から漢字文化圏用に使い易いように加工をし、それを輸出したのです。

 しかし、それに対して日本は欧州にライセンスなる対価を払ったのでしょうか? 
 そして、中国にはライセンス料を要求したでしょうか? 
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 長く引用しましたが このあたりに質問者とその趣旨をみちびいてくれるようなご見解を出してくださった方々の思いがあるのではないでしょうか?



 ぶーたーさん お早うございます。さらに開いていた甲斐のあるご回答をありがとうございます。


 ○ 知価 
 ☆ という言葉を使おうという人が出たのでしたね。そしてただし ただちにこの質問にかかわらせて捉えるなら その知価に 実際に対価を払うかどうかは また別の問題であるとも考えられます。
 というよりは ぶーたーさんのご議論についても確かめてみなければならないことなのですが 知価にしても著作権にしても ふたつの段階ないし側面があると思われるのです。その表現されたモノをめぐって その仕事に報いるという側面が 当然まづあると考えられます。そしてそれとともに その複製や模倣や風刺あるいは部分的に修正しつつ発展させるといった表現行為 こういう側面も 初めの表現者とは別に いとなまれるということ。
 最初の段階で 創作者についてその仕事にむくいるとき 生活の安定のための費用をまかなうために金銭でおこなう。これは そのように考えられます。
 問題は そのあと この仕事が コピーをゆるすかどうかです。ゆるすときに 著作権として 対価を要求するという仕組みは 果たしてどうなのか? どう捉え扱えばよいのか? だと思います。




  たとえば次のように音楽をめぐって見方を披露されているところは 《最初の仕事へのむくい》の側面がおもな内容であるかとは思います。
 ★ そうした奇跡〔* すなわち《このただの音階の配列にすぎない創造が、人の感動を得るという》奇跡〕の創造を独創的に行った者に対して、作曲者の著作権上の権利が与えられる、という認識が世間一般に通底しているからこそ、音楽に価値が与えられ、そしてその対価を支払って購入するのではないか、というのが今のところの私の意見です。
 ☆ 《著作権》として触れておられるのですが 基本としては 権利が生じる前の段階でその仕事がどのように社会的な場で受け取られ受け容れられそして報いられるかの問題だとわたしは見たわけです。

 問題は そのあと良心的な信奉者による――発展をもふくむ――保存からただのパクリでもうけようとする・或る意味でこれも宣伝的保存 までにわたるコピーについて どう考えどう扱うか? だと思われます。






 ふたつに分かれると論じて行かれます。

 ★ 私はこれ(* ファウスト冒頭のやり取りに示された二種類の劇ないし芸術作品という区分)により、作品に対する報酬とは、名誉だけでなく金銭も実生活で必要だと考えているのです。

 ★ 大衆文化での権利は経済活動に関与するのでこれは残しておいた方が良いが、知識層の哲学や思想などの「社会発展などの人道的観点より、より広めた方が良い」とされるものとは区別しなければならないのだと考えています。

 ★ しかし知識階層となる人々の啓蒙ではなく、実際に生活の糧として活動されている人を考慮した場合、著作権が「あった方が良いか」「無い方が良いか」と言えば前者だと私は考えるのです。

 ★ つまりは詳細を言えば、私は著作した人の対価として得られる著作権料など著作権周りの事については、そのシステムが有効に動いていると思われる為、肯定をしたいのです。

 ★ 簡単に言えばお金の為の文化活動と、人の心の為の文化活動というのはそれぞれ両者とも必要であって、きちんと整理した方が良いのでしょう。


 ☆ さらに話題は尽きないというほどに例示をちりばめつつ議論を展開されています。






 さあ あらためて広い野原に出てしまったような感があります。

 こまあすさんと taco8ch さんは 基本的に《コピー文化》でよいというお考えです。
 わたくしもそうですが 逆に言ってそれを裏づけるなら こうです。いくら文化だと言ってもそのコピーが 大したものではなくあるいはオリジナルをむしろ貶めるようなものであるなら いづれ消えてゆくであろうと見ていることになると思うからです。
 こまあすさんの見るところは その自然淘汰のような作業は 一般に人びとのモラルがになうであろうということだと思います。

 へきゆさんのご見解は コピー文化の自由に近いのですが それは条件付きで賛成とおぼしく いますでに言ってしまえば ぶーたーさんと同じように《著作権として法的に保護された利益》の効用をも捉えておられる。法的保護というその取り決めの上に人びとはその活動がうながされ安心して仕事をおこなえることとなるからと。 

 ということは 一般に創作活動という仕事の場合に そのつどの作品について仕事への報いが得られることと そのあと――作品が言わば永続しうるわけですから――その創作といういとなみに コピーを条件的にゆるすという権利をつけるかという問題とがある。こう言えます。
 元にもどった格好ですが 言わば排他的に一個人に属する法的な保護を受ける権利が与えられるとは どういうことを意味するかでもあります。

 質問者の見方では 創作と言えども 部分的にはつねに過去のじんるいの遺産から《パクっている》と言わねばならないのだから 一個人に帰属する権利は なじまないであろうというものです。つねに共有財産である〔という要素を持つ〕と。(つまり ただしむろん つねにそれぞれその一人のひとの仕事であるという内容は これも 認められるというものです)。




 
 焦点は・あるいは争点は ふたつありましょうか。

 ○(A) 当座をしのぐためのそしておカネのための文化活動と そうではなく じんるいにとって所謂る古典となるような作品にかかわる文化活動とを分ける。前者には 生活の安定のためなどの理由によって 著作権をみとめる。

 ○(B) 文化活動を区分するのではなく つまりその中身が長く残るものであることを意図するかどうかを別として 人間の中には 仕事の効用とその持続効果にいたく関心を持つ場合があると考えられる。その場合があるのなら これを無視するわけに行かない。よって 著作権かそれに匹敵する権利が必要であるかも知れない。




 さあ どう考えればよいでしょうか? ここでは質問者は 言わば司会者に徹することにします。

 たしかに つぎのような実際の事例があることはあるのでしょうね。
 ★ ~~~~
 但し、著作権などの概念による大衆文化の爆発というのは悪い事ばかりではありません。
 「売れるように作る=面白い=更に売れるように作る」という良循環を繰り返して来たのが、日本のアニメ・マンガ・ゲームなどのソフトコンテンツの強味です。残念ながら他のジャンルはこれから、といったところでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ でもどうなのでしょう?

お礼日時:2012/02/06 11:35

いやー、面白いですねー。

いつかこういう議論が出て、コピー文化万歳という時代が来るだろうと思っていました。
アメリカは自由経済をモットーとしていますが、特許権とか著作権とかに関してはがんがん他の国を締め付けて暴利を貪っていますよね。強力な自国の文化保護のためですが。

しかし、コピー万能機であるコンピュータを彼ら自身が発明したのが自業自得というか、少なくともネット上のデータに関してはかなり無政府状態のパクリが普通になってきました。
TPPでも著作権はポイントの一つです。私は、結局この問題は最終的(いつになるかわかりませんが)にはモラルの問題に収束(あるいは拡散)せざるを得ないのではないかと思っています。
そのほうが絶対人間文化の繁栄に結びつくはずだからです。

ヨーロッパでは商業主義発展の前にオリジナルティを重視する文化があったようです。他人が始めた商売をそのまま真似ることを良しとしない精神。これが国内で(ドイツなどでも)自動車会社や電器会社が乱立しなかった原因でしょう。日本は例外的に儲かることに敏いというか他人がはじめた事業を皆が真似て追随し、結果として経済が繁栄したということはあります。これはモロ刃の剣ですが。

著作権、特許権の問題は、結局この100年はおおむねアメリカの利己主義的な国策として現状継続、あるいは更に強化されて進行するだろうと思います。

あ、哲学ですから持論を。これは間違っていると私は思っています。
>つまり著作権は 資本主義そのものの発想であって 何でもカネになる・何でもカネにできるという開き直りから現われた鬼っ子であるに過ぎなくはないか? 
そのとおりですね。
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この回答へのお礼

 ★ いやー、面白いですねー。いつかこういう議論が出て、コピー文化万歳という時代が来るだろうと思っていました。
 ☆ 《思っていた》んですか? いやぁ それは恐れ入りました。

 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ TPPでも著作権はポイントの一つです。
 ☆ あちら(欧米)ではすでに七十年なんですね。こちらでは五十年が。映画か何かの著作権で さらに二十年かせごうというのでしょうか?

 ★ ~~~~
 私は、結局この問題は最終的(いつになるかわかりませんが)にはモラルの問題に収束(あるいは拡散)せざるを得ないのではないかと思っています。
 そのほうが絶対人間文化の繁栄に結びつくはずだからです。
 ~~~~~~
 ☆ そうですか。ごりっぱだと思います。これも 恐れ入りました。

 ☆☆(No.3お礼欄) 《専門家や著作家》は すぐれていればいるほど 名誉のほかは要らないという人びとも 半分はいるのではないか? とも思われました。(感覚としてです)。
 ☆ などとわたくしは書いています。


 もちろん現状認識のほうも 応答としても復唱しておきます。
 ★ 著作権、特許権の問題は、結局この100年はおおむねアメリカの利己主義的な国策として現状継続、あるいは更に強化されて進行するだろうと思います。


 ★ ~~~~~
  あ、哲学ですから持論を。これは間違っていると私は思っています。

  >つまり著作権は 資本主義そのものの発想であって 何でもカネになる・何でもカネにできるという開き直りから現われた鬼っ子であるに過ぎなくはないか? 

 そのとおりですね。
 ~~~~~~~~
 ☆ いやぁ 気持ちいいですね。質問してその甲斐のあったのは多くありますが この質問の場合は  すがすがしいですね。
 いやぁ ありがとうございました。もう手放しです。

 もうしばらくひらいていましょうか。




 ★ ヨーロッパでは商業主義発展の前にオリジナルティを重視する文化があったようです。
 ☆ あぁそう言えば 文章で同じひとつの段落の中に 同じ語をかさねることを嫌うようですね。必ず別の語で表現するくせがついているようです。

お礼日時:2012/02/05 22:08

かつて国会で「未曾有」を「みぞうゆう」と読み倒した総理大臣を見て、


世論のようには決して失笑できなかった、
かつてゼミで「美人局」を「びじんきょく」と読んだことのある
今晩は、taco8chです。
個人的には中国のパクリキャラのセンスときたらもう、
世界遺産級だと思うのですが、まあ中国人のことはあれとして。

例えば日本の伝統芸能に落語があるけど
あれなんていうのは、著作権があってなきようなもんかしら。
(厳密にいえば著作権らしきものはちゃんとあるらしいんだけど、
落語も著作権もよー知らんわで、どうやらいい加減なことを言うてるな俺は)

その辺は、真打制度の名残か、階級制度か、ギルド制か知らないが、
古めかしいもので作品の質を保証しているとも言えるし、
暗黙のタガが掛っているとも言えるのかもしれない。
客(こっち)としても見習い前座に難しい演目の高座掛けられても、一寸なぁ。

落語のような無形文化財的な口承芸能は、
創作者の手を離れて作品それ自体が自律的に生きて機能する
単純生産‐単純消費の中世社会が育んだ共有財産で……

  なんちってー♪(あれっ、これも著作権あるのか?)
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この回答へのお礼

 まあ 世間の反応を見てみてください。

 ● (中国 コント盗作疑惑に賛否両論に関するコメント)~~~~~
  http://news.biglobe.ne.jp/topics/entertainment/0 …

 406点 漢字を盗んだと表現するなら逆輸入した漢字を使うなよ呆け漢民族
 400点 真面目な中国人が居る一方ホント呆れた言い草 国際社会に出るな
 373点 野蛮人だ。台湾人と比べてこうも違うのか恥ずかしくないのか中国
 338点 コントを盗むならまだしも国まで盗む国ですから・・・!
 305点 互いに嫌いなんだから、日本に近づかないでくれんか!
 253点 こんなアホ中国相手にするな!
 246点 こんな国の奴ら数十万人生保で養ってるんだぞ増税が聞いて呆れる
 207点 パクリとルーツの区別がつかないアルヨ 私有名人のパク・リーね
 164点 おめえ等日本語を盗むな馬鹿者!
 89点 ネタのパクリは世界規模で昔からあることだけどな
 ~~~~~~

 ほとんど感情的なもののようです。ちょっとぉ・・・といった感想を持ちます。

 かつて 歴史の史を 中央の央のごとく真ん中を 人のように書いていたぶらじゅろんぬです。こんばんは taco8ch さん。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 個人的には中国のパクリキャラのセンスときたらもう、
 世界遺産級だと思うのですが、まあ中国人のことはあれとして。
 ~~~~~~
 ☆ むかしはわれらが国も 猿まねとまで言われてののしられていましたから。


 ★ ~~~~
 例えば日本の伝統芸能に落語があるけど
 あれなんていうのは、著作権があってなきようなもんかしら。
 ・・・
 ~~~~~~
 ☆ 落語ですか。そう言えば 真宗の仏教説話か何かを いまの落語のように民衆に語ったところから発展したと聞きましたが。

 あんまし よう分からんです。


 それより――ひとりの人を集中してやり玉に挙げるのはどうかと思うのですが―― 《著作権の保護は、千年
以上も前の創作物には及びません》と真面目に答えられた日には 面喰いました。おかしいでしょ。


 ★ ~~~~
 落語のような無形文化財的な口承芸能は、
 創作者の手を離れて作品それ自体が自律的に生きて機能する
 単純生産‐単純消費の中世社会が育んだ共有財産で……
 ~~~~~~
 ☆ おあとがよろしいようで。

 

お礼日時:2012/02/05 21:53

《漢字を盗んだ日本人のアイデア使っても大丈夫》


という非常識なバカの発言がひとつあった。


というだけのことでしょう?
それは2ちゃんねるに
「中国人も韓国人も皆殺しにしてしまえ」

って書いてあったのと同じ事ですよ。
それが、日本人の総意です。
なんて誰も思ってないのに、おもしろおかしく紹介してるだけのことが、いつのまにか大きくなってしまうんです。

誰もかれもが開き治ってパクりでいい。なんて思っていないし、コピー商品撲滅運動だってされている、
ウォルマートの社是にも「成功事例に学べ」ってのがあるぐらいで、日本だっていろいろなコピーを作りながら勉強してきたんです。発展途上というのはそういうことじゃないですか?
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この回答へのお礼

 ぷるーとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。情況を捉えてこのようだと明らかにしたご回答だと思いますが そこで長期の視点に立てば どう考えるのかよいか? この点については どうでしょうか? というご返答になるかと思います。

 ★ ウォルマートの社是にも「成功事例に学べ」ってのがあるぐらいで、日本だっていろいろなコピーを作りながら勉強してきたんです。発展途上というのはそういうことじゃないですか?
 ☆ という言ってみれば資本主義経済のひとつの必然的な成りゆきとして見られようというご指摘。

 ただし いくら必然性のしからしむる動きだと言っても そうは何もかも自由勝手に問屋が卸すわけではない。すなわち
 ★ 誰もかれもが開き治ってパクりでいい。なんて思っていないし、コピー商品撲滅運動だってされている、
 ☆ ということでもあると。

 そうして この種の問題は話題になりやすいのだと捉える。

 こういったところでしょうか。
 すなわち その上で どう考えるのがよいでしょう? と問いたいとは思います。いまただちにどうすればよいかという問いは なかなかむつかしいでしょう。つまり いま当面は 現行の法律制度にのっとって処理することになろうかと考えられます。でも長い目で見て どういう問題がそこにあるのか無いのか。それを考えてみたいと思ってのことでした。

お礼日時:2012/02/05 13:49

法律を云々する場合、法律の基本の考え方くらい守ってもらわないと...


>著作権も 権利として法律化するまでもないことなのではないか?
法律化しないと言うことは、著作権は存在しないということ。罪刑法定主義です。
意味は単純。法律で禁止となっていないことは何を行っても自由。ただし、義務となっていることを行わないという自由は無い。この原則に照らし、そういうこと。

ゆえに、著作権が定められていない場合、当然ながらパクリ自由。
同様に、強盗殺人、窃盗、詐欺、悪口(名誉毀損)など、普通に考えてもダメなのものでも、法令の条文
から削ったら違法でないからやっていいという意味になります。ゆえに、刑法で言及されています。


罪刑法定主義の否定は自由ですが、その場合のハチャメチャ加減は類を見ません。
(法律に書いてないことでもしょっ引けるということは、政府の気に入らない人間をいつでも罪に落とせるという意味になる。)

別の意味で、法律化するまでもない、とは、とんでもないこと。
法律化するまでもないためには、全員の意見が一致する必要があります。
かつ、違反してもどうってことない場合。たとえば朝の挨拶。(いや、本当に一致している?)
著作権などは、意見がわれまくりなので、法律化が必須条件。
あなた一人が法律化するまでもないと思っても、そんなもの関係ない。


>日本人は漢字をはじめ多くの中国文化を盗んだわけだから、彼らのアイデアを使っても大丈夫
どこがおかしいのかくらい、知っていてください。
まずは、昔の中国は、自国の文化を周辺の野蛮国が模倣することを奨励した。このような場合は盗んだとはいいません。
また、中国も万国著作権条約とベルヌ条約に加盟しているから、自国の著作権の法律が存在。かつ、コピーライトマーク不要で自動的に著作権発生。
つまり、自分の国の法律を守らない、という宣言をしたということです。これが中国の国家意思として通るかどうかは
考えただけでもわかるでしょう?
さらに、双方が著作権違反した場合の解決方法は、互いに損害賠償を支払うことです。
互いに違反を認め合うことではありません。

最もオカシイところは、著作権は表現を保護するだけでありアイデアは保護しないという基本理念に無関心な点。
アイデアの保護には、特許法や種苗法などで、しかるべき機関に登録することが必要。
だだし、コントなどの振り付けや台詞は著作物に含まれるので登録不要。あくまで表現方法だけの保護で、アイデアは含みません。
ゆえに、アイデアに基づく表現方法(振付け、台詞)が同じということを問題とするのであり、アイデアを使ったこと自体を問題にしてはいけません。少なくとも著作権の問題ではありません。道議の問題です。罪刑法定主義の関係で、道議を無視しても法律違反にはなりません。信用にかかわるから、通常は道義を無視できないけど。
※著作権登録すればアイデアの保護になる、というのは、有名で悪質な詐欺の手口なんだが....
日本弁理士会のHP参照。
http://www.jpaa.or.jp/consultation/protect/care/ …
この手の詐欺の片棒を担ぎたくないので、著作権でアイデアが保護できる、ということを最もオカシイ事項とします。


>著作権は 資本主義そのものの発想であって 何でもカネになる・何でもカネにできる鬼っ子
著作権でなく知的財産権と読みかえます。(特許なども同じ性質を持っているから。)
当然そうですよ。資本主義の発想です。共産主義の場合、生産物を個人で作ることは禁止されています。ゆえに、財産権に意味無い。でも、著作物を「自分が作った」という権利(著作者人格権)だけは保留しないとまずいけど。
あと、鬼っ子ではないです。知的財産権は必要なもの。でないと、2番煎じのハイエナ商法のほうが儲かる
(=開発費微小)というのが資本主義で許されていいのか?という問題です。


あと、
>創作者はただその創作者としての名誉を博するのに甘んじるだけ
それは著作者人格権であり著作権の一部。著作権法を解説でいいから読んでから質問しようよ。
名誉を博することを守るには、パクリの場合でも、「元ネタは○○」という表示が必要。
(いわゆる、著作物を引用するときの方法。)
これ行っていないで、他人を創作を自分で考えたと言っているわけだから、創作者としての名誉を明らかに侵害しています。

最後に
あなたの通りにした場合、それを悪用されたらどうするか、まず考えよう。今でも抜け穴あるけれど、
現在が水漏れ穴程度として、あなたのでは底が抜けた状態になります。
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この回答へのお礼

 まささん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
  >著作権は 資本主義そのものの発想であって 何でもカネになる・何でもカネにできる鬼っ子

 著作権でなく知的財産権と読みかえます。(特許なども同じ性質を持っているから。)
 当然そうですよ。資本主義の発想です。
 ~~~~~~
 ☆ という命題の確認が出来るだけで この質問の意義があると考えます。

 ○ 著作権は 資本主義そのものの発想であって 何でもカネになる・何でもカネにできるという開き直りから現われた鬼っ子である。

 ☆ と。すなわち

 〔★ あと、鬼っ子ではないです。知的財産権は必要なもの。
 ☆ 鬼っ子が 社会的に・ということは社会力学上 有力になる場合は起こり得ます。アメリカの損害賠償の訴訟などは その例ではないでしょうか?〕

 ☆ すなわちたとえば 次のような考え方をする人にこの命題の確認を促すことは 大事なことである。つまり次の( a )と( b )とは 同じ一人のひとの発言である。引用元はあえて明かしませんでした。到るところに見られます。

  ●( a ) ~~~~~

  1.自己の生の社会生命性の自覚化による他我(愛)。

  2.人生を通算した精神的充足量の最大化の意志(認識深さ×意志の強さ×達成度×その感受性×人生通算の最大充足目的〔=上の(1)〕の把握)

  ●( b ) ~~~~~~

  「~権」というのは、国家や国家間の条約に基づいて
  実効性を有するものであり、著作権の保護は、千年
  以上も前の創作物には及びません;
  ・・・
  漢字の著作権が成り立つなら、人類発祥の地である
  アフリカ人に、全人類は遺伝子特許の使用料を払わね
  ばなりません。
  ~~~~~~~~~~~~


 ☆ ですから まささん ここでは――すでに上の( b )に対しては《国家がなんぼのものぞ!》という批判としても触れましたが―― 長期の(という意味は 人間性に立脚したところの)視点に立つことをまづは目指したものだと了解してくださればありがたいわけです。
 具体的には 《資本主義の発想である》と捉えるこの視点です。
 やがてこの視点〔の奥にある人間の意志としての思い〕は 息を吹き返して来ましょう。



 
 あとは 法律についてのあらましを おそわりました。
 まづ ほとんど異論の余地のない次の内容を確認し得ましょう。
 ★ ~~~~
 あと、

 >創作者はただその創作者としての名誉を博するのに甘んじるだけ

 それは著作者人格権であり著作権の一部。著作権法を解説でいいから読んでから質問しようよ。
 名誉を博することを守るには、パクリの場合でも、「元ネタは○○」という表示が必要。
 (いわゆる、著作物を引用するときの方法。)
 これ行っていないで、他人を創作を自分で考えたと言っているわけだから、創作者としての名誉を明らかに侵害しています。
 ~~~~~~~
 ☆ つまりは コピーライトとしての――複製ないし模倣を防ぐための――著作権とは違って 当の著作物にかんして その創作なる仕事についてのむくいは 当然その著作者本人が得られることでしょう。

 あといろいろ明らかにしてくださいました。

 ★ 著作権は表現を保護するだけでありアイデアは保護しないという基本理念
 ★ コントなどの振り付けや台詞は著作物に含まれるので登録不要。あくまで表現方法だけの保護で、アイデアは含みません。
 ★ ゆえに、アイデアに基づく表現方法(振付け、台詞)が同じということを問題とするのであり、アイデアを使ったこと自体を問題にしてはいけません。少なくとも著作権の問題ではありません。道義の問題です。
 ★ 罪刑法定主義の関係で、道義を無視しても法律違反にはなりません。信用にかかわるから、通常は道義を無視できないけど。

 ☆ ひと言差し挟むならば この《道義の問題》が この質問での問いを発する基礎にあります。しかも長期の観点として 千年前のことも じんるい発祥のその昔のことも 通史的に・人間性にもとづくかたちで どのように考えるのか? これでした。
 資本主義と言ったからと言って そうデカい顔をしていられないでしょう。少なくともそのように疑いを差し挟むことは 大事であろうという趣旨になります。


 ★ ※著作権登録すればアイデアの保護になる、というのは、有名で悪質な詐欺の手口なんだが.... / 日本弁理士会のHP参照。
 ☆ この詐欺の手口にも注意することにしましょう。


 最後に――まだ触れ残したこともあるかと思いますが―― 哲学カテとしてひと言多いそのひと言:
 ★ ~~~
 法律化しないと言うことは、著作権は存在しないということ。罪刑法定主義です。
 意味は単純。法律で禁止となっていないことは何を行っても自由。ただし、義務となっていることを行わないという自由は無い。この原則に照らし、そういうこと。
 ~~~~~
 ☆ 哲学は この法律条文の履行うんぬんはもとより 法律の原則やその精神をも凌いで・ということは 《義務と権利なる思惟および行動の形式》をも突き抜けて 《ただ いま・ここにいる〈わたし〉なる人間存在が生きること かつ 人びとと共に生きること》なる大前提を原則の原則として考えます。法律がなんぼのものぞ!と。


 ★ ~~~~
 最後に
 あなたの通りにした場合、それを悪用されたらどうするか、まず考えよう。今でも抜け穴あるけれど、
 現在が水漏れ穴程度として、あなたのでは底が抜けた状態になります。
 ~~~~~~
 ☆ つまりはこの《底抜け》の人間状態を基礎の基礎とするはずです。《水漏れ穴》を避ける手立ては 長い目で見れば 底抜け日本晴れにあるのだと。
 そうでないと いたちごっこです。
 つまりは 法律制度のほうが 有力ですが この哲学の考えのほうが 有効です。いかに?

お礼日時:2012/02/05 13:21

 世界各地に様々な文化があり、文字文化と非文字文化に大別されます。

文字文化の方が上級だとする前提は成り立っていません。よって日本がかつて漢字をシナから輸入したのも文化の変遷の一つでしかありません。そして世界の文化の変遷はパクリを許さないという流れになっています。よってシナの著作権違反は糾弾されて当然なのです。だいたい、小学生の文集じゃないんだから、ネズミやネコを真似せず、自分でキャラクターを考えたらどうなの?と言いたい。
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この回答へのお礼

 りら王子さん 重ねてのご回答をありがとうございます。

 説明をいただきました。
 
 まづ次のご説明が どういうことを意味するのか。必ずしも汲み取れませんでした。
 ★ 文字文化の方が上級だとする前提は成り立っていません。よって日本がかつて漢字をシナから輸入したのも文化の変遷の一つでしかありません。
 ☆ 《輸入する》ことは 著作権――つまり法律化を別として広く捉えた著作権――の問題とはかかわらないということでしょうか? それは 受け留められません。輸入と盗作とで 著作権問題が変わるということは考えられません。
 また 《文化の変遷》という見方をすれば 著作権が吹っ飛ぶというふうにも とても見られ得ません。ではないでしょうか?

 ★ そして世界の文化の変遷はパクリを許さないという流れになっています。
 ☆ おっしゃるとおりです。

 ★ よってシナの著作権違反は糾弾されて当然なのです。
 ☆ いま現在は そのように法律上・条約上なっている。ゆえに従えということでしょうか? 現行法にもとづき措置がなされることは 早く言ってしまえば ここでは哲学問題として 問うていません。長い目で見て どういうふうに考えるのが いちばん妥当性があるか? これです。常識や法律条文から一たん離れてみてください。そういう問いです。
 
 ★ だいたい、小学生の文集じゃないんだから、ネズミやネコを真似せず、自分でキャラクターを考えたらどうなの? と言いたい。
 ☆ ええ それは 中国人のあいだからも言われていますね。
 ▼ 2. 「13億人の大国として恥ずかしい」
 ☆ これは 13億人もいて もっとさまざまな発想やアイディアが思いつかないのかという嘆きだと思います。

 反応そのままをお伝えしました。

お礼日時:2012/02/04 22:55

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