アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 《第三項(犠牲)排除の理論》があります。

 自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。
 今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。
 
 この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。

 
 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。

 人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると。

 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。

 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・

 § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。

 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。

 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。

 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。

 そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。

 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。

 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。
 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。

 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現すると言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。

 このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。

 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。

 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。

 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行》​現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。

 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れるであろうと。

 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。

 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。
 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度はぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みとして​。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは崇めるようになるのだと。

 したがって今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》をとして み​なであがめる。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として 崇めるようになるのだと。
 このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。
 (菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかも左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。)
 
 § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。

 なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。からである。
 反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。
 一たん聖化され人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり その勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に 戦争に飛びつくことができる。

 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?

 ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。
 その《聖なる者》といただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作っていることになって​いる。
 だから 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。
 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。

 § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。

 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。

 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?
 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。
 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。


 自由なご批判をあおぎます。

A 回答 (1件)

誰でも、“ 社会 ”という概念を持つ。


だから、“ 社会 ”は、主観が支えていることを完全否定できない。
だから、“ 社会 ”は、結局、力の強い権力者を支えるための存在になる。

僕は、キリスト教徒ではないので、
イエス・キリストが、除け者にされたと思っていません。
“ イエスのそっくりさん ”として、“ バラバ ”を用意したピラトと“ 民衆の掛け合い問答 ”だと思っています。
バラバを助けたければ、“ イエスを助けよ ”、
イエスを助けたければ、“ バラバを助けよ ”と声をひとつに民衆は盛り上がった、
という解釈です。
( 僕を、クリスチャンにしてくれるなら、解釈を変えます。)

老子の“ 正言は反の若し ”が、“ すべての道は…… ”
社会主義が民主的にならないのは、
権力者が、この十字架を負えないことが理由と思います。
キリスト教徒は、千何百年と前に、
現実の社会主義が現実に為し得ない理想を
成し遂げようとする理想を求めた人々と言えると僕は思います。

お礼のお言葉、ほんとうにありがとうございました。
実は、老子について本物・偽者を論じている方のブログに、
“3人の老子の連歌”という意見を送ったら、
見事に完全無視されて相手にもされませんでした。
“ 扇 ”も“ すぐ逃げ出すトカゲ ”ほどの意味と理解していただければと思います。
今度の僕の意見に対するお礼の文は、不要です。
ありがとうございました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 すりーろうずさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ( 僕を、クリスチャンにしてくれるなら、解釈を変えます。)
 ☆ ここで 笑ってしまいました。単純におかしかった。そんな言い方をしたことは聞いたことがなかったです。
 たぶん春告げ鳥が鳴いたり 燕がやがておとづれたりして 感じるということがお有りになるかも分かりません。
 わたしは 神の国の外交官をひとりで――つまりどこの教会にも属さず水の洗礼も受けず 無免許運転で――任じていますが 聖霊の洗礼にしても 人さまにさづける立ち場にいるわけではないので 何とも申し上げられません。

 さて 老子ですか。
 中国全般について 離れた状態になってから久しいですので 頓珍漢でいます。
 と明らかにしますので もう少しくわしいご講義をお願いしたいと思います。大学教養課程は終えた段階の学生に話すようなかたちでです。


 ★ ~~~
 社会主義が民主的にならないのは、
 権力者が、この十字架を負えないことが理由と思います。
 ~~~~~
 ☆ あっ
 ★ 今度の僕の意見に対するお礼の文は、不要です。
 ☆ でしたか。
 あぁ でも ほかにも訪問者や回答者がいらっしゃるので 質問者の考えていることを ひととおり述べてお礼としたいと思います。

 この《権力者が 十字架を負えない》という表現で 何でしたか 老子は言っていませんでしたか? 社会の塵をかぶって生きるのが よい政治家なんでしたっけ? あぁ わからない。忘れてます。



 ★ イエス・キリストが、除け者にされたと思っていません。
 ☆ そうですね。結果的にもですか?
 まぁ もともと 人間イエスとしてではなく 神の子――そう言えば 《人の子》とも自称して言っていますが――であるキリストとしては 〔もともと〕《モーセの青銅のヘビのごとく 上に挙げられるべく活動している》とも言えるようですので 言わばみづから《のけ者》になった。だけであるのかも分かりません。

 あぁ 思い出しました。例の大祭司カヤパが何とか言っていましたね。
 ▲(ヨハネによる福音書11:47-53) ~~~~
 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。
  「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。   
  このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。
  そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。
    「あなたがたは何も分かっていない。
 50  一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、
     あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。

 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これですね。50節の《一人対ほかの皆》という図式です。これが 《第三項排除》の理論で言うところの第三項であり《除け者 ないし 犠牲》のことです。




 ★ ~~~~
 キリスト教徒は、千何百年と前に、
 現実の社会主義が現実に為し得ない理想を
 成し遂げようとする理想を求めた人々と言えると僕は思います。
 ~~~~~~
 ☆ 原始的な共産制ですね。私有財産をぜんぶ共同のものとしました。出来ない者は 死ぬ運命にさえあったとか。
 これは どうでしょう? 一時的な制度として考えられませんか? やはり 仕事というのは 協力もしますし チームとしてもはたらきますし 社会的にも分業しつつ協業していますが その行為じたいは 一人ひとりの尽力としてあるのではないでしょうか? その努力にむくいるのは これも 個体としての仕事に対するものではないでしょうか?
 分かりませんが いまはそう考えております。
 集団志向あるいは公共志向があることと 個体の仕事という側面とは 両立するのではないかと考えています。



 ★ 扇
 ☆ は何となく分かりましたが 老子全般については頓珍漢のままでいます。とあらためて。
 では。

お礼日時:2012/02/23 21:50

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す