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「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」などとドイツ統一が議論された際に、またオーストリア・ハンガリー帝国を築く際にオーストリア国内の支配勢力として出てくる、「オーストリア国内のドイツ人」とはどういう人のことを指していたのですか?
民族的に「ゲルマン系」の人達のことですか?しかしヨーロッパにゲルマン人が到来して1000年以上も経ち、混血も相当に進んでいると考えるとどこまでがゲルマン系と言えるのか分かりません。長年の間民族ごとにはっきり分かれて生活し、子孫を残していたのでしょうか?
もしくは、混血をしていようともオーストリア内に伝統的にドイツ語を話す地域があり、そこに住む人達を指したのでしょうか?

「大ドイツ主義」に含められていた「オーストリア国内のドイツ人」と、不墺戦争に敗れた後、オーストリア国内のドイツ人の支配を保つためにハンガリー国内に済むマジャール人と手を組みオーストリア・ハンガリー帝国を築いた、というときのオーストリア国内に24%いた「オーストリア国内のドイツ人」はおそらく同じ人達のことを指しているとは思うのですが、誰が何を持ってドイツ人なのか、詳しくお知りの方がいらっしゃいましたら分かりやすくご教授お願いいたします。

また、結局ビスマルクによって小ドイツ主義が取られ、オーストリア国内に取り残されたドイツ人達(の子孫)は今もオーストリアに住んでいるのでしょうか?

A 回答 (2件)

神聖ローマ帝国が、1806年まで存在していました。

神聖ローマ帝国は国というよりも神聖ローマ皇帝を盟主とする領主貴族の連合体みたいなものでありました。その神聖ローマ帝国からスイス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタインなどが神聖ローマ皇帝の支配を脱して、残された地域がドイツになったわけです。ではオーストリアはなんなのか。オーストリアとは神聖ローマ皇帝を一時期世襲していた最有力な領主貴族の一つであるハプスブルク家の領地です。神聖ローマ帝国は、領主貴族代表と聖職者代表が選挙で神聖ローマ皇帝という職位を決めていました。これを選挙王制という。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国滅亡時点の最後の神聖ローマ皇帝でありました。ハプスブルク家は元々神聖ローマ帝国の領土の一部も領地にしていましたが、領土を拡大して神聖ローマ帝国の外にも領地を持ったのです。それが、現在のチェコ、スロバキア、ハンガリーといった国の領土です。神聖ローマ帝国が滅亡した時点で、ハプスブルク家は旧神聖ローマ帝国の一部、チェコ、スロバキア、ハンガリーといった4つの民族構成が異なる4つの地域を領地にしていたということなのです。その領地を持って、神聖ローマ皇帝を退位したフランツ2世がオーストリア帝国の樹立を宣言します。

ここまでで回答になっているかな。オーストリア国内のドイツ人とは、旧神聖ローマ帝国の一部の住民のことです。

ドイツ統一とは、神聖ローマ帝国滅亡後にばらばらになってしまった領主貴族の領地を、再び一つに国としてまとめるということです。ところがハプスブルク家は1804年には自分の領地だけでオーストリア帝国の成立を宣言した。またハプスブルク家の領地は元々神聖ローマ帝国の領土の外も含んでいますから、話は面倒なことになってしまったわけです。

本来のドイツ統一の主旨からすれば、ハプスブルク家の領地の一部も併合しなければならない。しかし、それは同時にオーストリア帝国の分割を意味してしまうことになります。それだけはハプスブルク家としてはたまらない。オーストリア帝国にしがみつけば、主要な支持基盤を失うわけですから、異民族であるチェコ、スロバキア、ハンガリーから追い出されてしまうことは目に見えている。さりとてドイツ側につけば、チェコ、スロバキア、ハンガリーを失うことになってしまう。ハプスブルク家の立場としてはオーストリア帝国の分割だけは、どうしても許せないわけです。だからオーストリア帝国を拡大発展させた大ドイツか、オーストリア帝国を除外した小ドイツの2つの選択肢しか無かったわけです。一方、ドイツ統一を主導したプロイセン王国のホーエンツォレルン家としては何としてもハプスブルク家を排除したかったのです。

その後、オーストリア帝国は第一次世界大戦の敗戦によって、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーに分割されて、ハプスブルク家の帝政は終わります。現在のオーストリアは第一次世界大戦の前の1/4ぐらいに縮小された、ドイツ人地域だけが残された訳です。

そして、そのオーストリアは第二次世界大戦の前にドイツに併合される。

ちなみにオーストリア・ハンガリー帝国とは、オーストリア帝国から分離独立を目指すハンガリー人をなだめすかす為に、ハンガリーという名称を国名に含めただけです。

ここでは極めて大雑把な話しかしませんが、神聖ローマ帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国、ドイツ帝国の歴史は極めて複雑なので、中途半端に理解しようとしても、とても無理です。
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この回答へのお礼

お二方とも非常に分かりやすく的確にご回答頂きました。違ったの視点から解説頂き、同様に興味深く参考になりましたので、先にご回答頂いた方をベストアンサーとさせていただきました。

神聖ローマ帝国時代からハプスブルク家の領地にいた人達が「オーストリア国内のドイツ人」で、いざドイツを再統一をするとなったときに、いろんな民族の地域も巻き込んでいるオーストリアをどう扱うかが、貴族同士の権力争いも背景に問題になった、ということですね。よく分かりました。

また現在のオーストリア人の90%以上がドイツ語が母語だそうですが、民族として「ドイツ人」であるかどうかは現在もなお議論されるような難しい問題のようですね。

頭では理解できたつもりですが、島国単一民族の日本人にはなかなかそういった状況をリアルに想像することは難しいですね・・・
ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/12 16:16

>オーストリア国内のドイツ人


自分のことをドイツ人だと思っている人(≒ドイツ語を母語とする人)のことでしょう。

そもそも、当時は、ドイツ・オーストリアの区別は全くないですから。
少なくとも、オーストリアのドイツ人からすれば、
プロイセンなんかの田舎人(それこそバルト・スラブ系との混血)に比べれば自分たちこそが本物のドイツ人でしょう。というか、実際、西プロイセンなんかは当時でもポーランド人のほうがドイツ人よりも多かったぐらいですしね。

>長年の間民族ごとにはっきり分かれて生活し、子孫を残していたのでしょうか?
もちろんあいまいはあいまいでしょうけど、少なくとも庶民はバイリンガルなんて人はほとんどいないでしょうから、ドイツ人の村orハンガリー人の村という区別は、ずっとあったのだと思います。
で、19世紀になって、当時はちょうど民族という概念がはっきりしだして、自分は、ドイツ人であるorハンガリー人であるといったことを意識するようになったのでしょう。


>また、結局ビスマルクによって小ドイツ主義が取られ、オーストリア国内に取り残されたドイツ人達(の子孫)は今もオーストリアに住んでいるのでしょうか?
そうです。
ドイツ・オーストリアは、日本で例えるなら江戸幕府の後裔国家と、薩長同盟の後裔国家が現在は別の国になっている、みたいな関係になります。少なくとも現在のオーストリア(オートリリア帝国のオーストリア部分のみ)の人は、民族的にはドイツ人そのものです。

こういう関係の国は、たとえば、オマーンとUAE(ちょうど、オマーンが幕府で、UAEが薩長みたいな関係ですかね)とか、タイとラオスとか(ちょっと経緯は違いますが)、いくつかありますね。

特にオーストリアに関しては、今現在も、オーストリアの住民が本当にオーストリア人(ドイツ人ではなくて)という意識を持っているのかは、けっこう疑問です。
私自身、一時期、スイスのオーストリア国境のすぐ近くに住んでいたことがあるのですが、ドイツ系のスイス人が自分のことをスイス人だと思っているんだなというのをよく感じたのに対して、オーストリア人は自分のことをオーストリア人ではなくてドイツ人と思っているのではと感じることが多かったです。もちろん、ここでいうドイツ人というのは、現在のドイツに住む人のことではなくて、それこそ大ドイツ主義でのドイツ人(≒民族としてのドイツ人)の意味です。
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この回答へのお礼

なるほど、やはり同じ国の中に民族ごとの村があったんですか。そのなかで、ドイツ語を母語とするドイツ人達が大きな権力を握っていたということですね。

オーストリアとドイツの関係については、幕府国と薩長国・・・一つの国になれば良いのに!と思ってしまいますね。おっしゃるように、ドイツ、オーストリアそれぞれの国の人達のナショナリズムやアイデンティティーの捉え方については大変興味深いです。こういった歴史観をふまえると非常に複雑なことが想像できますね。ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/12 16:35

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