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牧師が2回来ました。
門前払いしてしまいました。

ザンゲはしなければならないですか?
細川ガラシアさんはキリスト教でしたが、
不幸になりました。
キリスト教は信用できますか?
神を疑う者はキリスト教徒になれますか?
聖書を踏んだことがあります。
神は許してくれますか?
私はキリスト教徒になれますか?

A 回答 (13件中1~10件)

>牧師が2回来ました。



牧師というのは、勝手に来るのですか。

カトリックの神父であれば、
呼ばなければ来ることはありません。

>細川ガラシアさんはキリスト教でしたが、
不幸になりました。

最期がどうであれ、天国に入っているなら
最高に幸福のはずです。

>聖書を踏んだことがあります。
神は許してくれますか?

何のためですか。
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牧師さんというのは、いわば宗教を職業にしている方で、営業もしているわけです。



牧師さんと関係なく、教会とも関係なく、キリスト教が磔にされている偶像とも関係なく、自らキリスト教を勉強して、キリスト教徒になることは可能です。

神は貴方を許しもしないし、許さないこともしません。神は貴方に興味が無いからです。
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たくさんの方が良い答えを書いていらっしゃるので、もう問題は解決したかもしれませんが。



私はNo.1さんと同じ、プロテスタントです。貴方のところを尋ねてきた牧師さんとキリスト教について、多分、同じ様なアプローチをしています。

1)プロテスタントの場合、ざんげの機会はありません。西欧の教会でよく見かける、ざんげ部屋もないです。基本的には、”悔い改める”。。今までの生きる姿勢を自ら問いただし、反省し、以前の自分とは違う生き方を始めることが、キリスト教徒のあり方です。牧師さんにお話をなさると、聞いてくださいますが、懺悔とは趣が違います。

2)細川ガラシアさんは最後に、神の国に住む希望を持って自害なさいました。自害は禁じられているのですが、彼女にとっては、それが精一杯の自己主張であったでしょうし、がんじがらめのしがらみから自由になる唯一の道だったように感じます。あながち、責めることは私にはできません。

3)良いキリスト教徒と、良くないキリスト教とは、一般世間の良い人:悪い人の比率と同じです。キリスト教徒になったとたんに、世界が薔薇色になるものではなく、苦しみも同じ、悲しみも同じですが、最早、罪は許されて、いつの日か、神の国にすむことができる、と言う希望がいつも胸にあります。感謝の気持ちに溢れています。

4)神を疑うものはキリスト教徒ではありません。これが、唯一無二の、キリスト教徒である証明であり、資格です。

5)パウロと言う人は、生前のイエスに会った事はありません。

正当な神職の家系に生まれて、ユダヤ教を脅かす初期キリスト教徒たちを捕まえては処刑していた人です。世界最初にステファンが殉教する時に、投石するユダヤ人たちの中にいました。

けれども、シリアのキリスト教徒を弾圧しに行く途中、眩しい光に当てられ、イエスの声を聴き、改悛します。その後、非ユダヤ人を中心に、ギリシアやローマに布教の旅に出ますが、”私が許されたのだから、あなた方の罪が許されないわけがない”といい続けました。

彼のお手紙は、キリスト教の教義を構築する上で、大変重要なものとみなされています。

もし、牧師さんとお話する機会がありましたら、パウロのことなど詳しくお聞きになってみてください。面白い人です。

6)パウロは、”私がキリスト教徒になれたのだから、貴方がなれないわけがない”というと思いますよ。
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私の正体は仮面ライダーだ。


これはみんなには内緒だぞ。
私は究極の敵を発見した。
それはイエスの信じた神だ。
その神の正体は悪魔だ。
だからこそイエスは磔にされたのだ。
明白じゃないか。
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この回答へのお礼

携帯解約するか、悩んでます。

お礼日時:2012/03/20 21:15

>門前払いしてしまいました。

ザンゲはしなければならないですか?
自分に必要が無いと思ったとき、断ったからと言って悪いことではありません。ですから断ったことを懺悔する必要もありません。

>細川ガラシアさんはキリスト教でしたが、不幸になりました。
キリスト教の歴史は迫害の歴史でもあります。キリスト教の大きな目的の一つは幸福ですが、真の幸福は天国に入ることです。もう一つの目的はできるだけこの世を天国に近づけることです。なぜなら煉獄の火で焼かれることも無く門を大きく広げてもらうためです。
ですから、現世利益を得ようというのならキリスト教はそぐわないかもしれません。

>神を疑う者はキリスト教徒になれますか?
どんな宗教においても基本は信仰でです。それは宗教否定者だっておんなじですよ。主を信じていたら否定論者にはなれないし、人間社会だって自分を否定する者をそのまま受け入れられないでしょう。
信じないだけなら行いのよって天国に入ることはできます(煉獄での清算は必要でしょうが)。でも疑うものと否定するものは門が開かれることは無いと思っていいでしょうね。信じないのと疑う、否定するのではまったく異なります。

>聖書を踏んだことがあります。神は許してくれますか?
江戸時代に迫害を受けた日本のキリシタンは長年聖人にはなれませんでした。なぜか分かりますか?
とても厳しい議論があったのです。それが踏み絵です。
踏み絵を踏まないことは信仰の証なのか、それとも偶像崇拝なのかと言うことです。
この世の全てのものは神からの賜物です。全ては神に帰属すべきものです。だから特に聖書や聖具などは大切に扱うべきものではあります。しかしそれ自体を神聖視する事は偶像崇拝に当たります。
悪意を持って踏んだのであれば、踏んだ事(物を粗末に扱ったこと、主や主の教えを冒涜した事)に対しての謝罪は必要でしょうが、聖書を踏んだと言う事に関しては何の咎もありません。

>私はキリスト教徒になれますか?
貴方が天なる父を必要とするとき、主のは誰にでも手を差し伸べられます。
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 こんにちは。



 個人として 神を信じるということは 良心と信教の自由において みづからがおこなうことです。

 ほかのことでも みづからがおこなうことに違いはありませんが それは 信仰の問題とは違って来ます。

 たとえば聖書を手元においてこれを読む。この場合でも 書いてあることをとおして それを突き抜けて 信じるというところにまでみちびかれることがありますが 読むことは 勉強や教養としての振る舞いであるという場合もあります。

 あるいは 宗教組織に入る・つまりどこかの教会に参加するという場合には 個人の信仰とその組織の会員となって活動することとを区別する必要があります。

 教会に属してキリスト教徒となるのは もしそれが信仰の成立だというのならば その教会組織がそう言っているという意味です。果たして キリストの神を信じているのかどうか それは まだ分からないという意味です。決まりません。そこではっきりしたことは 組織の一員となったということだけですから。


 組織宗教には いろんな規則があります。教義があり あるいはそれを守らなければならない規律とする場合などです。

 信仰は 自由です。すべていっさいが まったく自由です。というところで成り立ちます。神は 人間には分からないからです。つまり 主観のもんだいです。
 むろん あらゆる教義やどんな決まりからも自由です。完全に自由です。



 ザンゲは 要りません。しようとしまいと 神が 自由において あなたをえらぶのだからです。

 ★ キリスト教は信用できますか?
 ☆ これは 教会にかかわる宗教のもんだいでしょう。残念ながら 知りません。
 
 ★ 神を疑う者はキリスト教徒になれますか?
 ☆ 神は人間にとって分かるか分からないかは分かりません。神はただしいと人間が思っても あるいは神は間違っているとやはり人間が思って疑っても 神は 何ともありません。そういう神を信じるのが 信仰です。考えても分かりません。

 ★ 聖書を踏んだことがあります。
 ☆ 関係ありません。よくなかったと思っているのなら それだけで足りましょう。

 ★ 神は許してくれますか?
 ☆ すでにゆるしています。

 ★ 私はキリスト教徒になれますか?
 ☆ 教会に入るという意味だとすれば カトリックではたぶん基礎を勉強して試験を受け 水による洗礼を受けるために 教会の行事に参加する日々がつづきます。やがて洗礼を受けて さらにそのあと それが堅まったかどうかを試験します。そうして 《キリスト教徒》が誕生します。

 キリスト信仰をあたえられるには めぐみによります。めぐみというのは ただ・無料でという意味です。自由です。
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あの、なんだか勝手な意見がとってもいっぱいありますが、世界史とか、だからカトリックが多いとか、あんまり関係ないですよ。


キリストを信じるということは、感覚や理性の整理と全くちがいますから。
あなたの魂がキリストを求めている、キリストが読んでいる
それにご自身がどう応えるか、です。

勝手な宗教観ぶちまけられるより、牧師や神学者にきちんと相談したほうがいいです。

あまりに勝手なものがあってびっくりしました。

まぁ、そんなサイトなのでしょうが・・・

あなたのために祈っています。
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>>ザンゲはしなければならないですか?


懺悔して楽になるならいくらでもすればいいよ、というのがキリスト教のスタンスだったはず。
ただまぁ、仏教と違って、聖書の聖典上では罪の告白ってのが重要なシーンになってるので、なんとなく奨励されるみたいな文化的伝統がある模様。

>>細川ガラシアさんはキリスト教でしたが、不幸になりました。キリスト教は信用できますか?
信用できるかどうか人に聞いても…信用するのはあなた自身だと思います。

>>神を疑う者はキリスト教徒になれますか?
 世界史の勉強してください。キリスト教の傑物の一人、聖アウグスティヌスはもともとはマニ教信者から新プラトン主義に移り、そこからキリスト教信者になってます。元の信仰対象がどうかなんてけちくさいことは言いません。
 ただし、現在進行形で神の実在を否定する者は「キリスト教会」に所属することはあり得ますが、「キリスト教信者」では(言葉の定義からして)ありえないでしょう。
神の実在に悩むキリスト教会所属者はたくさんいると思います。多くの人間は、日々信者であったり信者じゃなかったりするのではないでしょうか。

>>聖書を踏んだことがあります。神は許してくれますか?
キリスト教に意思なんてないと思うので大丈夫では。ユダヤ教下では神は苛烈ですが、キリスト教下ではずいぶん穏やかになられたようです。

>>私はキリスト教徒になれますか?
自分が決めるものでしょう。人が決めるものじゃないと思います。

信教を持つことはいいことだと思いますよ。
私は自分自身について、信教を「持てない」で損をしている人間だと思います。
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金さえ払えば、誰でもキリスト教徒に


なれます。
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なぜキリスト教徒になる前提なのかわかんないんですが…


とらえず宗教には向いてないと思います。
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