プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

私は論理的に考えて、全知全能の神様が作った世界が、今こんな体たらくになっている時点で、愛の神とは思えないんですが…。
それはサタンが招いた結果?人間がサタンの誘惑に負けた結果?
そういうサタンや人間を生んだのも神様なわけですがその点についてはどうお考えなのでしょうか?
結果ばかり見ないで今まで神がどんなことをしてくださったか、どんな方法で愛を示してくださったか考えるべきといわれますか?
私は神が最初に世界を作ったとき、み使いを作ったとき、人間を作ったとき、神は現在のような結果も予知できたはずだと思います。だって全知全能ですから。私だったら愛しているなら作りません。私が全知全能の神様だったら復活しない人間、み使いが出てきてしまうなんて悲しすぎるので、それしか一番いい方法が無いならいっそ世界は作りません。まぁできない時点で全能じゃないですけど…。そう考えると今の結果を容認しながら世界を創造した神が、どんなに愛を示してくれたとしても手のひらの上で転がされているような気しかしません。これが不完全な存在(例えば人間)ならね、良いんですよ。至らないながらも善処したんだと言われれば素直に感謝できるかもしれません。しかし、神は全知全能です。その割には不器用というか、なんと言うか…本当に全能なのか?と疑問符を打ってしまいます。もしこれで全能というのならとても愛の神とは思えません。
第一、なんで完全な状態でこの上ない幸せな世界に住んでいたならサタンとかエバは神様に反抗してしまったんでしょうね?自分のほうが上手く世界を統治できると思ってしまったのは、神様に何か至らないところや疑問に思うところがあったからでは?サタンや人間だけが攻められるのも腑に落ちません。まぁ神様の世界なんで好き勝手したら良いんですけど、それなら自分のことを全能だとか至高の存在だとか公正で愛の神だとか言うなと思ってしまいます。
確かに、優しい面も神様にはあると思います。自分のわが子を生贄に差し出したことなんて最大の愛の表れだとよく言われていますね。そんな愛の証明さえも、もともと世界を作った動機に愛なんてあったのかと思ってしまう私にとっては???です。所詮何でもできる完全無欠で公正な間違いを何一つ犯していない神様にとっては創造するときに容認した一つの予想できたプロセスであって、茶番なんじゃないのと思ってしまいます。
ちょくちょくノアの洪水とか、カナンの人たちを侵略したりしますけど、まさに信じるものは救われるといった感じで、「信じる人には」優しい神様ですね。最後に大掃除して信じている人のみは復活もさせてあげるそうですし。でもそれって自分に賛同しない人は死ねってことじゃないですか?それって愛なんでしょうか?

などなどの事がありまして、私には神が愛だと信じる人の気がしれません。どうかこんな私にも少しは理解できるように説明してくださいませんか?

色々失礼なこと言ったかもしれませんが、神が愛だと信じている人はどういった理屈で信じているのか純粋に知りたいだけなんです。ごめんなさい。
よろしかったら神が愛だ。と論理的に説明できるほど確信を持っておられる方、お答えいただけると幸いです。

A 回答 (24件中1~10件)

根本的には自由意志をどう考えるのかということですね


十分に情報を与えられた上での選択の自由をあなたは感謝していますか?
神様は全知全能ですが基本的に自由意志を尊重し 自由意志を持つ者がどんな選択をするのか予知しません
残念ながら自由意志を誤用し乱れた世界になっていますが自由意志を正しく使っている人や御使いがたくさんいるのも事実ですね
人間が子供を産むのも同じかもしれませんね 良い環境に自由意志をもつ子供を産んで育てたいという人もいれば 自由意志を誤用し親に反抗するかもしれないので子供は持ちたくないという方もおられるかもしれません
わたしは自分を産んでくれたのは親の愛の表明だと思いますが・・・
全能とは例えどれほど自由意志を誤用するものがいても最終的に目的を成し遂げることが出来るという事ではないでしょうか?
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居ると仮定した場合、もしかしたら全能神にとってこの宇宙


の150億年間なんて0.0000000000000000001秒の間に
起こった出来事に等しいのかも知れません。
好きな子をちょっとツネっていじめる感覚かも知れません。
それか、全知全能というのは嘘(もしくは人類が勘違いした)
で邪悪な宇宙人から地球人を守る為に(或いは戦う為に)あ
えて地球や人類に干渉しない(したくても出来ない)のかも
知れませんね?
もしかしたら人類を助けると、何らかの形で悪い宇宙人(サタ
ン?)に地球の場所がバレて地球が侵略を受けてしまい地
球全土が北朝鮮の様になってしまう事を怖れているのかもし
れません。
まあ、私はヒットラーにもジンギスカンにもスターリンにも神にも
会った事は有りません(もしかしたら気づいて無いだけか?)。
ですが証言や文章や何らかのメディアの形で彼等への悪口は
しょっちゅう目にします、ですが本当に悪人だったのかどうか
確かめる術は今の我々にはありません所詮、一度も会った事
の無い人への誹謗中傷行為と同じです。
ですが、例えば「自分を産んで自分を捨てた親を恨んでいる
子供」は世界中に沢山存在していますし、恨む事それ自体が
悪い事だとは他人が偉そうに口出し出来る事ではありません。
世界中に残る古い神話や信仰は人類に断片的に残っていた
地球の全生命の母(父?)の記憶なのかも知れませんね。

あるいは単に「隠れんぼ」を楽しんでいるだけかも知れません。
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これは、A No.21 yangmaskへのお礼に対する返答です。



>善と悪も国によって変わってくると思うのですが… そしてその線引きも曖昧です

悪とは「自分の利己的な欲望のために他の人の正当な権利や自由を侵害すること」というふうに定義できると思います。殺人、暴行、盗み、詐欺、その他、他の人に害を及ぼす行為ということですね。一方、神の正義は「たとえ自分を犠牲にしてでも他の人の福祉を優先する」という自己犠牲の精神が関係しています。ですから、悪は利己的、神の正義は利他的ということです。

>最初に世界を作ったとき、悪は配置せず善しか存在させなかっただけで、悪が生まれる要素を孕んだ世界だったわけです。だから今悪があります。

そのとおりです。確かに、自由意志を与えた結果、それを誤用し、悪を行なう者が生じ得ることを神は知っていました。しかし、万一そのようになった場合でも最終的には神の目的が達成されるように備えをしていたということです。

しかも、神は連立方程式を解くかのように、一度に複数の目標を達成させることができます。一時的に悪を許すことにより、そのような自由意志の誤用が悲惨な結果をもたらすことを人間は身をもって知ることになりました。また、神の僕たちは正しいことを貫こうとするとき迫害を受けますが、それを忍耐する過程で神の特質を培うことができます。このように、神が悪を許しているのには理由があり、それは人間の永続的な福祉のためです。それに、自由意志を与えたゆえに悪が生じる可能性があったのは事実ですが、神が悪に陥るように仕向けたことはなく、人間自らがその道を選んだのですから、悪が生じたのは神のせいではありません。

また、クリスチャンは迫害されても喜びを保つことができます。彼らはなぜ自分たちが苦しまなければならないのかを理解しているからです。1世紀の初期クリスチャンが迫害された時のことについて、使徒5:41には「そのため,これらの者は,彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ,サンヘドリンの前から出て行った」と記されています。彼らは苦しみの中でも絶望することなく、むしろ希望をもって喜びを保ちつつ忍耐することができました。

現代の事例としては、ナチスに迫害され、強制収容所に入れられたドイツのエホバの証人の事例があります。彼らは収容所内で絶望している人たちに聖書の希望の音信を伝えました。彼らは喜びを保ちつつ忍耐しました。「ナチスの猛攻撃に対して堅く立つエホバの証人」のビデオを見たのですが、それがよく分かりました。

このように、人間は自ら道を踏み外してしまったものの、神はそのフォローをする形で対応したということです。しかし、神は後手に回ったのではなく、すでにその可能性を見越して対応プランを用意していたのです。「なぜ道を踏み外さないようにできなかったのか?」というのが根本のご質問でしたが、それは以前にも述べたとおり、もし神が全能の力で悪を選択することを強制阻止するなら、または神の正義しか選択できないようにするのであれば、自由意志というものは無いに等しく、自由意志を与えた神の目的と矛盾してしまうからです。自由意志があるからこそ、私たちは自由に考え、行動できるのであり、正義のためにとはいえ、それが束縛されることは幸福をもたらすものとはならないでしょう。



以上、質問に答えてきましたが、さらに根本的な点を述べます。結局のところ、buabuさんは神に対して不信感を抱いておられるのだと思います。それは確かに自由なのですが、しかし、不信感はその不信の対象の行為をことごとく悪く解釈させてしまいます。例えば、自分が嫌いだと思っている人がたとえ好意を示しても、「何か裏があるんじゃないだろうか」と疑るかもしれません。私は、聖書を学び、祈りを通して神と接触してきた結果、神の善良さ、寛大さ、そして知恵などを実感するようになりました。buabuさんには是非そのような点をもっと探求していただきたいと思います。神に「あなたはなぜこのようにされたのですか」と尋ねるのはよいことです。そうすれば、神ご自身がそれに答えてくださいます。どのように? 

それは神の声が聞こえるとかそういう意味ではありません。神は私たちの心の構造をよく知っておられ、私たち個人の思考ターンもよくご存知です。それで、どのようにすれば、その人が正しい結論に達することができるかを知っておられ、かつそれを実現させるために人や物事を動かすことが可能なのです。しかし、聞く側である私たちの方が耳を閉ざしていては、答える方の神がいくら呼びかけても聞こえるはずがありません。また、心が純真で正直な人が誠実な質問を神に向ける時、それは聞き入れられますが、不遜な人が挑戦的な態度で神に向かって質問しても、神はそれを無視されるでしょう。ですから、神からの答えを得ることができるかどうかは私たちの態度にかかっているということです。神の方は答えを与えたいと待ち望んでおられます。

ですから、もしbuabuさんの気持ちが許せば、そのように神の善良さや寛大さを肌でじかに味わってみることをお勧めしたいと思います。「実際に会ってみたら意外といい人だった
」ということはよくあるでしょう? 今は不信感を抱いていたとしても、神は意外と良い方なのかもしれませんよ。実際、私たちに命を与え、命を支えるものをも与えてくださっているのですから。

それから、ここでの討議も長くなりましたね。このOKWaveの「〇〇だけど質問ある?」のコーナーに、「聖書を学んで20年経ったけど質問ある?」を立ち上げました。よければ、以後そちらからご質問ください。
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これは、A No.20 yangmaskへのお礼に対する返答です。



>日本人に選択できるけれどメキシコ人は選択できないものもあると思います。(その逆も)でも別に思考が強制されていると感じていません。同じように、悪が選択できなくとも、悪を知らなければ全く苦にはならず、強制されている事にもならないのでは?

   本題に入る前に、まずこちらから。確かに取捨選択するために入手し得る情報・体験が各地域・文化などで差異があることは明らかです。buabuさんのご指摘どおりです。しかし自由意志を用いる際に選択できるのは大きく二つ、それを善用するか、悪用するかだけです。この点は世界共通だと思います。

   要するに、善用=神の正義に従うこと、悪用=それに従わないこととも言うことができます。それに従うか従わないかを自ら決定できるのが自由意志というものです。もし、従う以外の選択肢しかなければ、そうせざるを得ないからそうしているに過ぎず、自ら選んでそれに従っているとは言えません。それでは自由意志とは言えないのです。神は神の正義に自ら従う者を求めているからです。

>神様が何故、人間に自由意志を与えて行使させ、悪に陥らない世界を作らなかったのか・・・

   さて、この点が根本的な疑問点でしたね。「善と悪」というのは今やあって当たり前の概念で、ともすると悪をも神が造ったかのように感じるかもしれませんが、悪というものは元々存在せず、神がそれをもたらしたわけではありません。神は最初から善の道、神の正義だけを教えておられました。ですから、悪とは、神の正義に反するもの、またそれから逸脱し堕落した行為とも言うことができます。

   それで、人間は自由意志があるゆえに、神の正義に「従うことも、従わないこともできる」のです。従わない場合、それが悪ということになります。しかし、それは神が教えたものではなく、もたらしたものでもありません。人間が神の教える正義の道に従っていれば、今のような由々しい事態には至らなかったでしょう。

   ですから、人間は神の正義に従わない結果責任を自ら刈り取っているのであり、それは神の責任ではありません。とはいえ、アダムとは違い私たちは自ら選んでこのような世界に生まれたのはありません。神はその点を考慮され、望むなら再び神のもとに帰ってこれるようにされました。

   繰り返すと、悪とは神の正義に従わない結果生じるものであり、自由意志とはそれに従うか従わないかを決定できる能力なのです。ですから、当然、神の正義に従わない悪の道をも選択し得るのです。もし、従う以外の選択肢しかなければ・・・(上で書いたとおりです。)また、悪は神がもたらしたものではなく、それに陥ったのも人間自身の責任で、神の責任ではありません。それにも関わらず神は人間を救済しようとしておられるのです。神の愛はその点にも表れています。
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この回答へのお礼

お返事遅くなってしまい申し訳ありません
少々立て込んでいました

>確かに取捨選択するために入手し得る情報・体験が各地域・文化などで差異があることは明らかです。buabuさんのご指摘どおりです。しかし自由意志を用いる際に選択できるのは大きく二つ、それを善用するか、悪用するかだけです。この点は世界共通だと思います。

善と悪も国によって変わってくると思うのですが…
そしてその線引きも曖昧です。
普通の人間社会はそうやって曖昧で複雑なのでその中で基準となるものが必要になってくる。
その善悪の線引きの基準が神に従うか従わないかということは明確でシンプルに聞こえますが…
やはりそれも曖昧であると思います。
殺すなといって今まで大量に殺してきた神様の意向に従うってダブルスタンダードを感じませんか?
神は一体何を望んでいるのか解らないので、従うものも従えないです。

>悪とは神の正義に従わない結果生じるものであり、自由意志とはそれに従うか従わないかを決定できる能力なのです。

まさにここが納得のいかないところです…
なぜ神に従わない結果を悪とする必要があったのでしょうか?
神様が悪を創らなかったのなら悪はこの世に存在しないはずです。
最初に世界を作ったとき、悪は配置せず善しか存在させなかっただけで、悪が生まれる要素を孕んだ世界だったわけです。だから今悪があります。
つまり、悪が生まれる可能性のある世界を作ったのは神様ではないですか?
なぜ、悪が生まれる可能性を世界に与える必要があったのでしょうか?

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/06/18 23:35

これは、A No.19 yangmaskへのお礼に対する返答です。



>・・・それが自由意思を犯すことになるという思考がよくわかりません。
>・・・なぜその取捨選択できる物事の中に悪が含まれているのか…含める必要あったんでしょうか?
>・・・何故「悪」を選択できなければロボットになってしまうのですか?

   これは、それをbuabuさんご自身に当てはめてみれば分かると思います。今まで私たちは自由に討議してきました。しかし、神の正義のみが絶対で、それ以外の考え方は許されないという状況であれば、このような自由な討議は不可能だったでしょう。現在の北朝鮮とか、あるいは戦時中の日本でも言論弾圧が行われたことを知っていると思います。その支配者の認める考え以外は話すことさえも許されないのです。一方、神は神に対して疑問を抱くことも、時にはそのお考えを非難することさえも許してこられました(辛抱してこられました)。ですから、もし全能の力で神が正義以外の言行を強制阻止するなら、私たちの自由な思考(自由意志)は奪われることになり、以前から言っているように人間は「ロボット」のようになってしまうのです。

   以上の説明から、「自由意志を与えること」=「あらゆる思考や言行を強制阻止しない」ということ、また、「それらを強制阻止するなら」→「人間は自由意志を奪われ、ロボットのようになってしまう(神の子にはなれない)」ということが納得できたでしょうか。さらに、私たち人間が自由に思考できるのは、全能の神の辛抱に依存していることにも注目してください。ですから、人間だけが苦しんでいるのではなく、むしろ神ご自身が(全能の力を持っておられるにもかかわらず)そのような困難をあえて辛抱しておられるのです。神は正義を貫くために辛抱することで人間に対して自己犠牲の手本を示しておられるのです。

   一つ一つ疑問点を解決したいと思います。
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この回答へのお礼

質問が悪かったかもしれません。
私が思っているのは、神様が何故、人間に自由意志を与えて行使させ、悪に陥らない世界を作らなかったのかということなんです。
根幹はこれです。

この疑問をベースに派生した質問が、人間の取捨選択に悪を入れる必要があったのかということなんです。
私は自由意志を持っていますが、この世のありとあらゆるものを知り尽くしているわけではないので、取捨選択できるものは少ないです。(取捨選択するからには、何を選べるのか知らなければ選べませんよね)でも強制されているとは思って居ないです。
例えば、日本人とメキシコ人は違いますよね。あらゆるものが。
日本人である私が選択できるもの、メキシコ人が選択できるもの、それぞれ違うと思います。(選択しようとするもの、と言い換えられるかもしれません。)
常識、社会を取り巻く環境、食べ物や人となりによって個人が自分で視野を広げていき、考えて選択できるものを増やしているわけです。
日本人に選択できるけれどメキシコ人は選択できないものもあると思います。(その逆も)
でも別に思考が強制されていると感じていません。
同じように、悪が選択できなくとも、悪を知らなければ全く苦にはならず、強制されている事にもならないのでは?
と、思っての質問でした。

でもあくまでこれは枝葉の部分でしかなく、根幹は、人間に自由意志を与えた上で悪に陥らない世界を何故作らなかったのかという疑問です。
いろいろ紛らわしいこと言ってしまってすみません。

あと「ロボット」という表現について少し疑問点があります。
>現在の北朝鮮とか、あるいは戦時中の日本でも言論弾圧が行われたことを知っていると思います。その支配者の認める考え以外は話すことさえも許されないのです。

それによって民衆がロボットになってしまうとは思いません。「ロボット」というのはどういう状態なのでしょうか?言いたいことも言えずに不満を抱いている状態ということでしょうか?
所謂ロボットというのは、インプットされた命令通りにしか動かず、喜びや悲しみといった心も無いものだと思っているのですが…


ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/06/02 22:21

これは、A No.18 yangmaskへのお礼に対する返答です。



>神が定めた法則に従わないと「痛み」「苦しみ」があるというのは、神様のエゴではないでしょうか?

   自由意志があるなしに関わらず、正義は正しく、悪は間違っているという事実に変わりはありません。悪とは「自分の利己的な欲望のために他の人の正当な権利や自由を侵害する行為」と以前にも言いました。そのような行為がある限り、永続的な平和は成し遂げられません。悪を行なう者たちは全く自分勝手で近視眼的な観念に陥り、それが結局愚かな結末にしかならないのに、あえてそれを実行しようとします。しかし、神はそのような悪に陥らないよう警告します。ですから、悪を行なう時に「痛みや苦しみ」が生じるように神がプログラムしたのは全く正当だと思います。

>一面的に見て、悪だとされるものも、多面的に見れば有益であることもあるのではないでしょうか?だからといって、それらの恩恵を全く使わない、否定するだけで善なる存在になれるわけでもないと思います。

   上でも述べたように、悪とは「自分の利己的な欲望のために他の人の正当な権利や自由を侵害する行為」だと定義しました。E=MC2の法則の場合、核兵器はその悪用、原子力発電はその善用(のつもり・・・。運用に色々な問題が多くて異論があるとは思いますが)ということができます。例えば、同じナイフでも悪用すれば武器になり、善用すれば料理に使えるというのと同じです。核にしてもナイフにしても「利己的な欲望のために」用いれば悪となりますが、必ずしもそうしなければならないわけではないでしょう。その恩恵を受けるのにそれらを悪用する必要は必ずしもありません。

>神様ならば、はじめから言わずとも、体験させることも無く、理解させることがなぜできなかった(しなかった)のですか?

   「なぜ最初からインプットしておかなかったのか」という意味でしょうか? 何度も言うように、神は自由意志を持つ者として人間を造りました。自由意志を持つ者は、学習の過程で自分の見聞きした情報の中から自分の望むものを取捨選択することができます。その取捨選択の積み重ねによってその人特有の考え方や人格が徐々に形成されていくわけです。例えば、魚釣りの好きな人はそういう情報に関心があり、そういう情報を積極的に取り入れ、他の全く魚釣りとは関係ない事柄でさえも魚釣りと結び付けて考えることさえするかもしれません。利己的な考え方もまたそうです。例えば、性的な欲望、金もうけ、暴力的な考え方など健全でない思考が形成されるのは、先ほど述べたような取捨選択の積み重ねという「過程」があるからこそです。しかし、神は人間が最終的に神の正義こそが正しいという結論に自ら達し、それを実行することを自らの自由意志で決定する者、「神の友」となることをを望んでおられます。それで、最初から全部インプットされていたなら、それは自由意志を持たないロボットのようになっていたことでしょう。それでは「神の友」にはなれないのです。

>でも死ぬこと無いんじゃないですか? 無垢な動物は復活せず、神が不義と判断すれば復活せず。・・・

   動物の場合、永遠の命は与えられておらず、最初から死ぬべき存在として造られました。それでも、動物は人間とは違い、自分が将来いつか死ぬということを考えて恐れることはありません。人間とは違って動物は将来を考える能力が乏しいからです。その他にも、例えば、犬は首輪を付けられても、おりに入れられても意外と平然としているでしょう。もし、それが人間だったら平然としてはいられません。このように、人間と動物とではそのような明らかな違いがあり、それゆえに彼らの「死」と私たち人間の「死」とでは意味が違います。彼らは最初から死ぬという前提で造られた限りある存在なのです。一方、人間が永遠の命を得ることができ得るのは人間が「神のかたち」に造られているからです。永遠性は神とのつながりにのみ生じ得るのです。逆に、神から切り離された(エデンから追放された)人間は動物と同じく死ぬべき存在となったのです。

   ところで、人間に関しては、神は義者も、不義者も共に復活させます。それとも最終的に裁きを受けた人々が永遠の滅びという処罰を受ける(もはや復活しない)ということに疑問を感じているのでしょうか。滅びに値するとみなされた人々は自由意志の誤用を改めなかった者たちです。もっと正確に言うと、彼らは自由意志を正義のために用いることを拒否し、悪用することを喜びとした者たちです。再三の警告にもかかわらず、彼らはそれを改善しません。自由意志がある以上、神でも彼らを強制はできず(正確には「せず」)、かといってそれ以上彼らを野放しにして秩序を乱したままにしておくこともできません。それで、ある一定期間、悔い改める猶予が与えられますが、それを過ぎて彼らが心を入れ替える気持ちが全くないことが明らかにになった時、神は彼らを処罰します。自由意志を持つ者は必ずその結果責任を自ら負わなければならないのです。

   しかし、悪を行なう者は「それでも私は正しかった!」と言って死ぬのではありません。これからハルマゲドンが来て、地上はイエス・キリストが支配する楽園になり、そこで義者も不義者も復活します。その平和な世界は、現在の世界とは正反対で、弱肉強食ではなく、正義が治める世界です。ですから、過去に権力をふるって悪事を働いた者たちは、恥をかき、被害者に謝罪せざるを得なくなるでしょう。

   イエスはこう言いました。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです。」(ヨハネ5:28,29) 「いとうべきことを習わしにした者」つまり不義者の多くは結局は悔い改めず(悔い改める人ももちろんいるでしょう)、最終的に滅びという処罰を被るかもしれませんが、生前働いた悪事に関する謝罪と償いをさせられるために、つまり「裁きの復活」のために出てきます。

   それで、それらの不義者が滅びる時には彼ら自身も何が義で何が不義かを十分認識している状態にあります。それでも、彼らは不義をやめません。一時的な快楽のために彼らは永遠の福祉を放棄します。将来、神は彼らが決定的な反逆行為に至る状況を設定されます。その点を啓示20:7-10はこう預言しています。

   「さて,千年が終わると,サタンはすぐにその獄から解き放される。彼は出て行って,地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグを惑わし,彼らを戦争のために集めるであろう。それらの者の数は海の砂のようである。そして,彼らは地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下って彼らをむさぼり食った。そして,彼らを惑わしていた悪魔は火と硫黄との湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭うのである。」

   「千年が終わると」とは、キリストによる千年支配、つまりハルマゲドン後の新しい世界が千年経ったということです。その時点で復活した人々は神からの再教育を受け、何が義で何が不義かをしっかり理解しています。しかし、千年間縛られていたサタンとその使いの悪魔たちが解き放たれ、不義な人々を惑わし、「戦争のために集めます」。彼らは正義を愛する「聖なるものたちの・・・都市を取り囲み」、 反逆の決定的な行為に至ります。それに対して神は即座に反応し、「天から火が下って彼らをむさぼり食う」ことになるでしょう。

   アダムとエバがそうであったように、彼らは楽園という最高度に恵まれた環境の下で神からの最高度の教育を受けるにもかかわらず、神に反逆します。もはや彼らに言い訳はできず、弁解の余地もありません。このように、神が最終的に滅びに至らせる人々は神とまたその正義の人々がその悪行を何千年も辛抱した後に、ようやく処罰されます。彼らはその辛抱を足蹴にし、神を侮り、他の人の権利や自由を当たり前のように侵害します。彼らのわがままは永遠には許されません。まもなく彼らは必ずその悪行に対する裁きを受けます。

   それでも、「全能の神なら、最初からそうならないようにできたのでは?」との疑問はまだあるかもしれませんね。自由意志という特質を与えられたゆえに人間はロボットではないのです。彼らは行為として善行も悪行も選択し得ます。それでも、何が義で何が不義かはすでに定まっており、それゆえに悪行を選択する者たちは裁きを受けるのです。それは再三警告を受け、神が長期間辛抱した上でのことです。自由意志は「神の特質」であるゆえに、人間もまた神のような存在であり、全能の神はそれを与えることによって「神の子」を設けました。その点は親と子の関係が全くあてはまります。子は親のロボットではないでしょう。ある程度の年齢になると、親といえども子の言動を制することはできません。しかし、同時に神は宇宙を取り締まる裁判官、審判者でもあり、全くどうしようもない者たちに関しては全能の力によって処罰を施すこともできるのです。最終的に神の目的は成功します。その目的のために一時的な痛みが生じること、それを乗り越える過程で「忍耐」を培うことを神はよしとしたのです。
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この回答へのお礼

>自由意志があるなしに関わらず、正義は正しく、悪は間違っているという事実に変わりはありません。

今現在ではそうです。しかし、それは一番最初に神が決めたことです。悪という概念を作ったのは神様です。

>悪を行なう者たちは全く自分勝手で近視眼的な観念に陥り、それが結局愚かな結末にしかならないのに、あえてそれを実行しようとします。しかし、神はそのような悪に陥らないよう警告します。ですから、悪を行なう時に「痛みや苦しみ」が生じるように神がプログラムしたのは全く正当だと思います。

悪に至る道を作ったのは神様です。なぜ、悪という選択肢を与えなければ自由意志を与えられないのかわかりません。
神様なら、人やみ使いに自由意志をあたえ、悪に至る道などいたずらに作らなければ良かったのではないでしょうか?
あと、警告といいますが、結局神様は高みの見物しているだけのように感じます。警告しかしないということは全力で阻止しようとしないということではないのでしょうか?子供が生き死にに関わるような間違った道を行こうとしているなら命を賭してでもやめさせると思うのですが。それが自由意思を犯すことになるという思考がよくわかりません。

>核にしてもナイフにしても「利己的な欲望のために」用いれば悪となりますが、必ずしもそうしなければならないわけではないでしょう。

これは全面的に納得しました!
ただ、見極めるのは実際問題なかなか難しいですが…誰もがファストファッションを買い求めますがそれは不当な低賃金者が居るという影でもあり、利己的な欲望のつもりで用いていなくても実際は…ということは現実にたくさんありますから。


>「なぜ最初からインプットしておかなかったのか」という意味でしょうか? 何度も言うように、神は自由意志を持つ者として人間を造りました。自由意志を持つ者は、学習の過程で自分の見聞きした情報の中から自分の望むものを取捨選択することができます。その取捨選択の積み重ねによってその人特有の考え方や人格が徐々に形成されていくわけです。

全くそのとおりの質問でした。しかし、所詮「取捨選択」できるものは神様が一番最初に決めているのではないですか?なぜその取捨選択できる物事の中に悪が含まれているのか…含める必要あったんでしょうか?

>動物の場合、永遠の命は与えられておらず、最初から死ぬべき存在として造られました。それでも、動物は人間とは違い、自分が将来いつか死ぬということを考えて恐れることはありません。人間とは違って動物は将来を考える能力が乏しいからです。

この辺は大陸の考え方でちょっと苦手ですね。最初から死ぬべき存在として作られていたので、復活しないのは当然。エデンの時代ならそれでよかったかもしれませんね。しかし、人間が不完全になりその被害が動物にも被っていても同じなのですか?

>犬は首輪を付けられても、おりに入れられても意外と平然としているでしょう。もし、それが人間だったら平然としてはいられません。

誰がそんなこと言ったのでしょうか…野生の犬がおとなしく檻に入るでしょうか。慣れるまで時間がかかると思いますよ(まさにパブロフの犬)。赤子から檻に入れているならそれが当たり前なのでおとなしいでしょうけれど。
人間も赤子から犬のように扱っていれば犬のように生活しますよ。人間は基本コミュニティ社会の中で生きるもので、犬とはまた生き方が違いますが、それこそ狼少年(女)とか話題になりましたよね

>一方、人間が永遠の命を得ることができ得るのは人間が「神のかたち」に造られているからです。永遠性は神とのつながりにのみ生じ得るのです。逆に、神から切り離された(エデンから追放された)人間は動物と同じく死ぬべき存在となったのです。

やっぱり残酷と思います。神様は自由意志を与えることによって人間やみ使いに多様な考え方を与えましたが、完全な人間として生を全うできるのは一部の限られた思考を持った人だけですよね。(多数派か少数派かはおいておいて)
それ以外の犠牲はアウトオブ眼中なのでしょうか?もっと綺麗に神様の理想の世界を作れなかったんでしょうか…。
義者も不義者も復活するといっても、アダムとエバは少なくとも復活しません。復活した全人類をふるいにかけ落ちた人は復活しません。
この状況を神は承知の上で世界を作った。私が愛を持って作るならもっとうまくできないかと考えるものですが…。

>アダムとエバがそうであったように、彼らは楽園という最高度に恵まれた環境の下で神からの最高度の教育を受けるにもかかわらず、神に反逆します。

アダムとエバは神様の最高の教育を受けた上で反逆した…全能の方が最高の教育を施したのに反逆してしまうというのは…その教育、実は最高じゃなかったのでは…全知全能の方ですよ?なぜそんな問題児を出すことになる?

>それでも、「全能の神なら、最初からそうならないようにできたのでは?」との疑問はまだあるかもしれませんね。自由意志という特質を与えられたゆえに人間はロボットではないのです。彼らは行為として善行も悪行も選択し得ます。それでも、何が義で何が不義かはすでに定まっており、それゆえに悪行を選択する者たちは裁きを受けるのです。

何故「悪」を選択できなければロボットになってしまうのですか?

>子は親のロボットではないでしょう。ある程度の年齢になると、親といえども子の言動を制することはできません。

それは人間の場合の理論ではないでしょうか。子供はある程度の年齢になると親と同じ大人になるので、自分で自分の人生を考えて生きていくでしょう。そして必ずしも親のアドバイスが的確とは限りません。人間は自分の人生を生きるものですから、親の価値観で子供にアドバイスや警告をしても、親は子供の人生の全てを知りませんので、子供が言うことを聞くかはわかりません。ですから、人間の親子の場合、自然と親の影響力は薄れるものですし、親がいつも正しいとは限りません。
ですが、親としての神と子供としての人間であれば、越えられない壁が確かにあります。人間は神にはなれません。
しかし、人間同士の親子関係はいずれ同じ大人同士となり、対等な立場、場合によっては子が親を超えることもあります。
なのでこれは人間の親子には適用できても、神と人間の親子関係と同視することではないとおもいます。

>最終的に神の目的は成功します。その目的のために一時的な痛みが生じること、それを乗り越える過程で「忍耐」を培うことを神はよしとしたのです。

神様にものすごい力があることは確かですからそれはなんとしてでも成功させるでしょう。ただプロセスが神様のする事と思えないほどいびつ。どれだけ屍を作る予定なんでしょうか。
そしてその屍と引き換えに「忍耐」を培うことは果たしてフェアでしょうか?
そもそも、なぜ忍耐を培わなければならないのでしょうか?



ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/05/27 22:37

これは、A No.17 yangmaskへのお礼に対する返答です。

回答遅れてすみません。三日間かぜで寝込んでいました。

>だいぶ失礼なことを言ったかもしれません。「そのような穿った見方では、いつまでも神の道を歩めない。もっと謙虚に、心を改めるべき」といわれたこともありました。

   疑問を持つこと自体何も悪いことではないと私は思います。むしろ、それを殺して(つまり思考を停止して何も考えずに)盲目的に従うようになる方が危険性があると思います。ただ、現状では、やはりそのようなぶつけた疑問を上手にキャッチしてくれる器の大きな人が少ないというのも事実です。それで、もし疑問を投げかけるなら、相手の受け入れ容量を吟味した上で、ということになるでしょう。実は、私も小さい頃、大人にいろいろ質問した時に、「屁理屈を言うな!」と何度となく言われたのを覚えています。しかし、私はひそかに心の中で「屁理屈って言う方が屁理屈だ」と思っていたものです。もちろん、口に出しては言いませんでしたが。まあ、私もそういう人間ですから、喜んで質疑応答していきたいと思います。

   ところで、今までの話し合いを要約すると、buabuさんの見解は「神が全能ならなぜ苦しみの多い世の中を放置しているのか、できないのなら全能ではないし、できるのに放置しているなら残酷な神だ、とても愛の神とは思えない」ということだったと思います。それに対して、私は「神は確かに全能だが、苦しみを許しているのにはそれなりの目的がある」と回答しました。しかし、buabuさんは、「その目的を達成するのにもっと良い方法はなかったのか。全能の神ならそれができたはずだ」というご意見でした。以下に私の見解を述べます。

   そもそも、「痛み」とか「苦しみ」という感覚を備えたのは創造者、神ご自身であるということです。何のためにそのようなものを設けたのでしょうか。普通に考えれば分かることですが、神の定めた種々の法則に逆行するような行動をとる時、そのような痛みや苦しみという感覚が働きます。例えば、重力の法則に反して高いところから飛び降りれば、足を骨折して痛い思いをするでしょう。また、汚染された食物を食べると腹を壊して食中毒で苦しむかもしれません。その他、身体の能力以上の行動を続けようとする時などもそうでしょう。このように、痛みや苦しみの感覚のお陰で人間はおのずと何が安全か危険か、きれいか汚いか、どこまでが限界かなどを知ることができています。(「臭い」とか「おいしくない(吐き気)」とか「耳障り」だとかの不快な感覚が働くのも同じようなことのためですよね。)

   また、人が悪を行なう時にも痛みや苦しみが必ず伴います。以前説明したように、悪とは「自らの利己的な欲望のために他の人の正当な権利や自由を侵害する行為」であり、つまりそれには必ず被害者が生じます。被害者には精神的な苦痛も含め、痛みや苦しみが生じ、その行為が全く間違った行為であることを「証言」します。一方、加害者の方も、その人にもよりますが、少なからず良心の呵責を感じ、事件後も発覚するのではないかとの恐怖、後悔、罪悪感、自己嫌悪や悪夢、幻覚などに苦しまされるかもしれません。これもまた「悪」が間違っているということを「証言」しています。

   このように、神は人間が自然な形で自由意志を正しく用いることを選択できるように「促しておられる」ということができます。それは決して「強制」ではありません。このように、神の定めた種々の法則や正義の秩序に逆らうことには苦痛が伴うからこそ、自由意志を持つ人間を強制せずに何が正しいか間違っているかを教えることができるというわけです。また、同時に自由意志を誤用するならその結果責任が生じ、それを自ら負わなければならないということも教えておられるのです。

   ですから、苦痛という感覚は神ご自身が人間を教えるという目的のために設けられたわけですから、それは一種の教材ということができます。ですから、それをあえて避けることはされないでしょう。しかも、それは一時的なものです。人間が完全に自由意志を正しく用いることを学びきったなら、もうそのような苦痛は必要なくなるのです。というよりも、神の正しい道に従うゆえに、そのような感覚はもはや生じないのです。ですから、苦痛の存在目的は人間が学ぶための「一時的な教材」ということでした。神はそのような苦痛によって生じたいかなる損害をも完全に相殺できるゆえに、そのような一時的な苦痛を許すことは無責任なことではないと以前にも説明しました。そのような一時的な苦痛を教材にして、人間の永遠の福祉のための土台を築くことが神の教育方針だったということです。

   しかし、buabuさんは、「全能の神ならもっとよい方法が実行できたはずだ」とご指摘でした。もちろん、自由意志の正しい用い方を口で教えることも可能だったでしょう。というより、当初はそうしておられました。しかし、以前説明したように、それでは納得できない者たちが現われ始め、とうとう反逆を起こして宇宙の秩序と平和を乱すまでになりました。彼らはもはや口による説得を聞き入れることができません。それで神は人間が苦痛という体験を通して学ぶという教育方針に切り替えたのです。

   しかし、「どうすればできるだけ平穏で苦痛のない生活を送れるだろうか」という人間本位の考え方ではなく、「強制せずに自由意志の正しい用い方を教育し、人間に永遠の命を得させる」という神の観点で考えれば、神のこの教育方法は理にかなっていることが理解できると思います。苦痛は一時的なものです。しかし、それから得られる効果は永遠です。詩編119編の作者は苦しみから得られたことについてこう書いています。

   「苦しみに遭う前には,わたしは間違って罪をおかしていました。・・・わたしが苦しみに遭ったのは,わたしにとって良いことです。それは,わたしがあなたの規定を学ぶためなのです。・・・エホバよ,わたしはよく知っています。・・・あなたが忠実さをもってわたしを苦しみに遭わされたことを。」(詩編119:67,71,75)

   他にも苦痛に関連して説明すべき聖書の教えがあるのですが、それはまた別の機会とします。また、先回のお礼の後半の疑問点についてもいずれ回答いたします。とりあえず、今回の以上の見解に対するご意見お聞かせください。
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この回答へのお礼

>私はひそかに心の中で「屁理屈って言う方が屁理屈だ」と思っていたものです。

とーーーってもよくわかります。
大人って難しいですね(自分もおとなですけど;;;)
温かいお言葉感謝します!


>「痛み」とか「苦しみ」という感覚を備えたのは創造者、神ご自身であるということです。
>神の定めた種々の法則に逆行するような行動をとる時、そのような痛みや苦しみという感覚が働きます。

もっともだと思います。しかし、神はが定めた法則に従わないと「痛み」「苦しみ」があるというのは、神様のエゴではないでしょうか?神様は自由意志を与えながら、自分の法則に従わないものには苦痛を与える仕組みを作っている。。。その上で「苦しみたくないよね。幸せになりたいよね。僕の敷いたレールに従えばいいんだよ!」といっているように見えています。それは自由意志であって自由意志ではないように思います。

>人が悪を行なう時にも痛みや苦しみが必ず伴います。

確かに悪は許せませんね。しかし、悪とは何でしょう?例えば、今使っているインターネットは戦争があったからこそ生まれたものです。E=MC2によって原子爆弾が生まれましたが、アインシュタインはそんなことを望んでいませんでした。原子爆弾があったからこそ、原子力発電が生まれ、人々は恩恵を受けています。一面的に見て、悪だとされるものも、多面的に見れば有益であることもあるのではないでしょうか?だからといって、それらの恩恵を全く使わない、否定するだけで善なる存在になれるわけでもないと思います。

>もちろん、自由意志の正しい用い方を口で教えることも可能だったでしょう。というより、当初はそうしておられました。しかし、以前説明したように、それでは納得できない者たちが現われ始め、とうとう反逆を起こして宇宙の秩序と平和を乱すまでになりました。

口で教える、体験で教える、それは人がすることのようです。
神様ならば、はじめから言わずとも、体験させることも無く、理解させることがなぜできなかった(しなかった)のですか?
苦痛を元に学ぶというのは、非生産的のように思います。必ず犠牲が伴います。そして試練を与えられた人が学べずに死ねば意味がありません。

>強制せずに自由意志の正しい用い方を教育し、人間に永遠の命を得させる
>あなたが忠実さをもってわたしを苦しみに遭わされたことを。

なぜ、神様のお眼鏡にかなわなければ永遠の命を得ることができないのかも不思議です。
苦しみによって学ぶこともあるでしょう。でも死ぬこと無いんじゃないですか?
無垢な動物は復活せず、神が不義と判断すれば復活せず。
神の理想にかなう義人を生み出すためにどれだけ屍がいるのか…
そしてそれを容認しているわけですよね。世界を創造したときに。。。
残酷ではないでしょうか?異論は認めない。言うヤツは死ぬから。ということのように思えるのですが…


季節の変わり目の風邪はなおりにくいといいますし、ご自愛ください。
ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/05/25 00:08

これは、A No.16 yangmaskへのお礼に対する返答です。



ご迷惑ではないとのことですので、疑問点にお答えしたいと思います。私もこのような聖書に関係した話し合いができてとてもうれしく思っています。

>なぜ、自由意志を尊重しない=正義を強制、および人間をロボットのようにしてしまう行為であるかが理解できません。

   自由意志は神と同じように全く自由に自分の生き方を決定できる能力であり、そのような神と同じ特質を持つ「神の子」として天使や人間が造られました。それゆえに、天使や人間は「神の友」として、神と交流を持ち、物事を共感することができ、喜びを分かち合うことができるのです。天使や人間がただ神の言うことに自動的に(何も考えずに)従うロボットとして造られていたら、そのような共感できる「神の子」または「神の友」にはなり得なかったでしょう。あるいは、神がたとえ正義であっても全能の力をもって強制しようとされるなら(実際そうすることも可能)、その時点で天使や人間の自由意志は無視されることになり、その特質はないも同然ということになります。それを与えておきながら同時にそれを奪うという矛盾した行為を神がされなくても当然のことだと言えるでしょう。

>自由意志があり、善と悪どちらにも転ぶ可能性のある世界。しかし最後に救いがある。救われない人もいる。自由意志があり、悪に転落することのない世界。私だったら後者を創造します。なぜ神様はそうしなかったんでしょうか?

   なるほど、確かに、この世に苦しみや悪が最初からなければどれほどよいかしれませんよね。その点は私も同感です。だれでもそのようなものは是非なくなって欲しいと思うはずです。そこで、神が苦しみや悪をあえて(意図的に、阻止しようと思えばできたのに)お許しになることによって何が成し遂げられたか(それがあえて許された目的)を考えてみるとよいと思います。

   そもそも悪とは何でしょうか。それは突き詰めて言うと、「ある人が自分の利己的な欲望のために他の人の権利や自由を侵害すること」に他なりません。具体例として、殺人(命・生きる権利を奪う)、盗み(他の人の所有権を無視・侵害する)、詐欺(他の人をだましてその人の大切なものを取り上げる)など他にもありますが、根底には「うそと暴力」が関係しており、他の人から奪うこと、だまし取ること、利用することなどです。要するに、自由意志を利己的な仕方で用いて他の人の権利・自由を侵害することが「悪」と言われているものであり、それが人間の世界の苦しみの根本的な原因ということができます。支配者たちは人民を自分勝手に治め、一般の人々も犯罪やその他の悪を行ない・・・、そうなればなるほど世の中が乱れ、人の世の苦しみが増すことは明白です。

   それで、神が悪をお許しになることによって何が分かりましたか。buabuさんも繰り返し懸念しておられるように、そのような「悪」は大変間違っているということです。つまり、そのように自由意志を利己的な仕方で用いることは大変間違いであるということです。サタンは当初「神の正義に従うよりも自分の好きなように(利己的に)生きた方がより幸福になれる」と神に向かって豪語しましたが、それは全くの間違いだということが議論の余地なく証明されてきました。

   それは私たちの生き方に大きな影響を及ぼすのではないでしょうか。この世の悪が間違っていると認識しつつも、自分自身が利己的な仕方で自由意志を用いているなら、どうしてその悪を責めることができるでしょうか。自分自身もそれと同じことをしているゆえに、その人は同罪ということになります。神はすでに何が正義か悪かという基準を示しており、自らの自由意志によって自発的に神の正義に従うという道を選択することを望んでおられます。

   そうするかどうかは各人の決定であり、だれも強制はされませんが、しかし、自由意志を持つ者は自由に行動を選択できると同時にその選択の結果に責任を負わなければなりません。悪を行ない続け、他の人の権利・自由を侵害し続ける者たちは必ず神の公正な裁きを受けます。最終的な裁きで滅びてしまうことがないように、神は何度も警告を与え、悪の道から悔い改めて正義の道を歩むように勧めておられます。一方、正義の道を歩む者たちは悪によって生じたいかなる損害をも神の力によってぬぐい去られ、楽園での永遠の命を楽しむことになっています。

   確かに神も悪が生じないことを望んでおられたことでしょう。しかし、サタンを筆頭に神の正義に従うよりも自分勝手に生きることを望む者たちが実際に生じてきました。それを受けて、今まで説明してきた「神による罪人のための更生プロジェクト」は発動されました。私たち人間(アダムの子孫)はみな少なからず罪を犯す者であり、悪を行なうゆえにそれに対しては責任があります。確かに神は悪を現時点で許してはおられますが、実際に悪を行なっているのは神ではなく人間自身です。神は人間がその間違いに気付き、悪の道から悔い改めるのを待っておられるのです。例えば、親もできれば子供に罰を与えたくはないものです。それでも、子供が悪いことをし続けるなら、その子の将来のためを思い、厳しい罰を控えることはないでしょう。神が人間に抱く感情もそれと同じ、いやそれ以上のものと言うことができます。聖句はこう言っています。

   「あなた方が忍耐しているのは鍛練のためです。神は子に対するようにしてあなた方を扱っておられるのです。父親が懲らしめを与えない子はいったいどんな子でしょうか。すべての者があずかる懲らしめを受けていないとすれば,あなた方は実際には私生児であって,子ではないのです。さらに,わたしたちには自分と同じ肉身の父がいて,わたしたちに懲らしめを与えても,わたしたちはこれを常に敬いました。霊的な命の父(神)にはなおのこと服従して生きるべきではないでしょうか。父親は自分に良いと思えるところにしたがって数日の間わたしたちを懲らしめるのが常でしたが,この方は,ご自分の神聖さにわたしたちがあずかれるようにと,わたしたちの益のためにそうしてくださるのです。確かに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,かえってつらいことに思えます。しかし後には,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです。」(ヘブライ12:7-9)

   それで、確かに、人間が経験している苦しみは望ましいものではありません。しかし、それをあえて神が許しておられるのは、人間がその間違いに気付き、自由意志を正しく用いる者、自発的に神の正義に従う者となるためなのです。また、それによってサタンの主張の間違いは決定的に証明され、彼はもはや言い訳ができなくなりました。まもなく彼とそれに連なる反逆者たちは排除され、再び神の秩序と平和が回復するでしょう。まとめると、神が悪を許した目的は、(1)義なる者たちが学ぶため、(2)反逆者たちの主張をことごとく論破するため、であったと言えるでしょう。

   説明が難しかったらまた質問してください。No.16のお礼の後半のご意見についてはまた別の機会に詳しくお答えできればと思います。しかし、はしょってお答えすると、(1)の点でご指摘のあったノアの大洪水の史実性については、「シベリアのマンモスの冷凍死体」など事実を裏付ける証拠があります。その点はエホバの証人の方が詳しいと思います。(2)については、私は特に「復活の希望」が理にかなっていると思っています。大切な人たちとの死別による悲しみを完全に相殺できるのは、その故人そのものがそのまま帰ってくること、つまり復活してくる以上のものはあり得ません。輪廻などによって何か別の生物になって生まれ変わったとしても根本的な解決にはなっていないと思うからです。
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この回答へのお礼

実際に悪を実行しているのは、サタンや人間であり、神が犯しているわけではないというお考え、よくわかりました。
しかし、神にその責はないわけではないと思うのです。

>神がたとえ正義であっても全能の力をもって強制しようとされるなら(実際そうすることも可能)、その時点で天使や人間の自由意志は無視されることになり、その特質はないも同然ということになります。

神様は全能なんですから、「強制」しなくても正義の道を歩めるように、悪の道へ行かないようにできたと思います。
矛盾している!といわれたことがありますが、それができないなら全能ではないと思います。
全知全能という概念が人間から見て矛盾している以上、矛盾さえもクリアしてしまうのが神様だと思います。
よって、「強制せずに義の道を絶対に歩めるようにして、かつ自由意志も尊重するなんて矛盾している」ことも可能です。
できるのに神様はそうしなかった。そこに神様の責は無いのでしょうか?

>神が悪を許した目的は、(1)義なる者たちが学ぶため、(2)反逆者たちの主張をことごとく論破するため、であったと言えるでしょう。

(1)なぜそんな回りくどいことをする必要があったのでしょうか?そうすることで義人でない人は生まれ、永遠に失われてしまう。そして多くのそのような人たちが生まれることを知っていたはずです。
今となっては、過ぎたことなのでそれが最善かも知れません。しかし、一度不幸を知って学び、選ばれたものだけしか真の義人にはなれないシステムはとても残酷だと思います。
(2)論破している間にたくさんの人が死にます(動物なんか犠牲になって復活もしません)。
「命<悪を論破すること<義人の命(一度死ぬけど後で復活。それ以外は死ぬ)」という考えの神様はやっぱり残酷だと思います。


だいぶ失礼なことを言ったかもしれません。
「そのような穿った見方では、いつまでも神の道を歩めない。もっと謙虚に、心を改めるべき」といわれたこともありました。(謙虚さが無いというのは自分でもよくわかりませんが、そこが問題なのでしょうね)
しかし、私の短い人生のなかで幾度と無く思うことは、相手に何かを求めるなら、自分も同じ事をするべきだということです。(例外はもちろんありますが)
授業中に携帯を見るなと生徒にいっていた教師が、小テスト中に携帯を見ていたら、いくら正論でも従う気になれませんでした。
私は多分そういう人間なので、重要なことはまず相手の出方をとことん観察、確認してしまうようです。
携帯を見るなぐらいだったら従っても何の損にもなりませんが、神を信じるというのはそれまでの自分の生き方をひっくり返してしまうかも知れないことですから、もし真実ではなかったらと思うと慎重になってしまう面があります。

よろしければ、これからも議論を深めていきたいと思いますので、お付き合い願いたいと思います。

お返事ありがとうございました!

お礼日時:2012/05/17 15:11

No.15で回答したyangmaskです。



お礼を読ませていただきました。ご意見ありがとうございます。ところで、buabuさんのおっしゃりたいことを要約すると「全知全能の神様なら悲惨な事件が起こるよりも前にそれを防ぐこともできるはずだ、それなのにそうしないのは何とも歯がゆいことだ」という風に受け取れたのですが、それでよろしかったでしょうか。

   まず、そのように全能の神が悪や犯罪を未然に防ぐ能力があるのかないのかというと、「ある」というのがその答えだと思います。では、なぜそうしないのかは以前にも書きましたが、人間の自由意志を尊重するためにたとえ正義でも強制はされないということでした。もし、正義を強制して悪行を未然に防ぐとすれば、その者から自由に選択する能力を制限したことになります。そうする時、その者は「本当はこれこれ(悪行のこと)したいけど、神はさせてくれない」という欲求不満な状況に陥ることになるでしょう。神が自由意志を持つ者に正義をも強制しないのは、たとえそうしても本当の(永続的な)幸福は生じないのをご存知だからです。かといって、人間を全くのロボット(悪行を制限しても欲求不満の生じない)のようにしてしまうことを神は望んでおられません。

   エデンの園で、エバは「善悪の知識の実を食べればもっと幸せになれるのではないか」と考えてそれを実行しました。もちろん、彼女はそれが神のおきてに逆らうもの(悪行)であることを承知していました。同じように、思春期の子どもなどが、親の目からすれば愚かな結末になる(悪行に相当)と分かっていることでも、その子は本気でそれをしてみたいと切望するかもしれません。全能の神はエバに関するその一連の出来事をご存知だったと思われます。しかし、彼女が自由に選択することを制限されませんでした。もし、制限していたら、「なぜ神は実を食べさせてくれないんだろう。神は意地悪をしているんじゃないかしら」などと考えていたことでしょう。そのような「正義への隷属状態」のうちに彼女は欲求不満を抱きながら、あるいは神に疑問を抱きながらあるいは恨みながら生活することになったでしょう。このように自由意志を持つ者に正義を強制しても良い結果(神の望む結果)にはなりません。例えば、もしbuabuさんご自身の自由意志が制限されたら・・・、と想像してみてください。どこかの人権無視の独裁国家に住んでいる市民のようになるのではないでしょか。

   ところで、自由意志を誤用した悲惨な結末を全能の神はご存知ですが、天使や人間にとってはそれが実際どのような結末になるのかは当初明確ではなく、特に天使たちの間ではそれが大論争となりました。サタンは「神の正義に従うよりも自分のしたいようにした方が幸福になれる」と主張しました。解決策として、神は一時的に自由意志を誤用する者たちに自由に物事を決定させ、その結末を実際に生じさせることにされました。「サタンよ、お前が主張するとおりかどうか実際にやってみなさい」ということです。とはいえ、無から物事を生じさせる創造者とは違い、天使や人間は選択肢を無制限に考え出すことができるのではなく、ある程度限られた選択肢の中からどれを選ぶかを決定できるに過ぎません。「ゲームブック」というのをご存知ですか。本の物語の中にある分岐点での選択しだいで開くページが違っていて物語の進行もそれによって違ってくるわけですが、例えば、そのゲームブックのどの選択肢を選んだとしても最終的には同じページにたどり着くように設定していたらどうでしょうか。同じように、神はすでに天使と人間の行動パターンとその限られた選択肢を完全に把握しておられ、彼らがどのような選択をしたとしても最終的には神の目的は達成できるようにされているのです。

   ★結論として、神は警告はされても、自由意志を持つ者の最終的な決定を強制的にとどめることはされません。それは欲求不満(神への恨み、反抗心)しか生じさせないからです。かといって、神は彼らを無制限に放置しているのではなく、最終的には神の目的が達成されるように物事を運んでおられます。現状の悪行が許されている目的は「論争」の解決であり、自由意志の誤用が悲惨な結末を招くということを天使と人間が学ぶために一時的に許されているのです。

   また、この悪行の許しによって生じたいかなる損害をも神は完全に回復させる手立てを持っておられます。死んだ人は復活させられ、楽園の地で過去のトラウマは完全に癒されることになるでしょう。ですから、神は決して無責任なのでありません。最終的に神は自由意志を正しく用いる者たちを神の子とし、幸福な生活を皆で送ることを望んでおられます。しかし、サタンのように自由意志を自分勝手に用いることを望む者たちが現れました。そのために、神はまず自由意志を正しく用いることを天使や人間に学ばせることにされたのです。全知全能の神にとっては当然すべての結末は予見できていたわけですが、神は天使と人間がそれを十分納得できるように辛抱強く教え導いておられるのです。

>私としては、人間以上の知能を持つ存在や計り知れない力を持っている存在がいることは信じられます。しかし、聖書の神様という存在が実際に居るのが信じられないということです。

   なるほど。人間以上の高いレベルの技術が動植物などに見られるということはそれらを設計・製作した者の存在を意味しているという点は納得できたでしょうか。もし、そうなら、この宇宙、またはこの世界はそのような製作者の手によって造られたということをも意味しています。そして、その製作者は当然目的をもって製作したはずです。これらの点が事実なら、人間はそのような人間以上の製作者によって明確な目的をもって造られたということになります。その目的とは何でしょうか。それこそが、古今東西の人々が考え続けてきた「人生の目的とは何か」という問いの決定的な答えとなるでしょう。そのような目的が説明されたもの、つまりマニュアル、取扱説明書が聖書ということになります。私がそう結論した根拠としては、(1)聖書の記述(天地創造や人類の歴史)は私の調べた諸事実と一致している、また、(2)人間の苦しみの根本原因と解決策を提示しており、それが理にかなっている、という点があったと思います。これは飽くまで私の結論であって、buabuさんがそう思うかどうかはまた別なのですが。

   ★しかし、もし人間を目的をもって造った製作者が存在するのであれば、その製作者からのメッセージ(その目的の説明)を受け取ることが必要であるということです。ですから、その製作者がどのようにその目的を伝えているかを模索することは人生の目的を知る手がかりとなるゆえに大変重要だということになります。

   buabuさんがお望みであれば自分の知っている限りまた疑問点にお答えしたいと思いますが、いかがですか。ご迷惑ならこれくらいでやめておきますが。
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この回答へのお礼

迷惑なんて事は全くありません。いつもありがとうございます!

>buabuさんのおっしゃりたいことを要約すると「全知全能の神様なら悲惨な事件が起こるよりも前にそれを防ぐこともできるはずだ、それなのにそうしないのは何とも歯がゆいことだ」という風に受け取れたのですが、それでよろしかったでしょうか。

そうです!要約してくださってありがとうございます。

>人間の自由意志を尊重するためにたとえ正義でも強制はされないということでした。

正義を元に強制することが自由意志を尊重するために弊害になるような世の中の仕組みは神様が決めたことではないでしょうか?

>神が自由意志を持つ者に正義をも強制しないのは、たとえそうしても本当の(永続的な)幸福は生じないのをご存知だからです。かといって、人間を全くのロボット(悪行を制限しても欲求不満の生じない)のようにしてしまうことを神は望んでおられません。

なぜ、自由意志を尊重しない=正義を強制、および人間をロボットのようにしてしまう行為であるかが理解できません。
それは神様が世界を作ったときに決めた都合であって、そのときに神様が定義した"自由意志"は善人も生めば悪人も生む、どう生きるか選択できる権利であるとおもいます。
つまり、神に忠実な者もいれば不義な者もいて当然の世界を創造したのではないでしょうか?
なんでそんな風に世界を作ったのか?ということが疑問です。
世界を創造したとき、自由意思を持ちながらも忠実に生きられるようにしておけば、死や病気や不幸で苦しむ現代はありえなかったはずです。

もっとも、最終的には義ある人々は復活し、何の不備も無い楽園で暮らせることは確かにすばらしいです。
しかし、復活しない人も居ます。少なくとも、それこそアダムやカインなんかは復活できないのでしょう。聖書にも、とても小さな門だと書かれているので、どうやら復活できない人の数は1割2割の問題ではなく、もっとでしょう。
自由意志があり、善と悪どちらにも転ぶ可能性のある世界。しかし最後に救いがある。救われない人もいる。
自由意志があり、悪に転落することのない世界。
私だったら後者を創造します。なぜ神様はそうしなかったんでしょうか?
おそらく、根本的にこの考えがあるので、神様を愛とは信じられないですし、キリストの贖いも、それは神の計画通りに事が進んでいるだけで、手のひらで弄ばれている様な気がしていまいち実感がありませんし、感謝できません。下々の者としては偉い人がしてくれることに感謝すべきなんでしょうけれど。。。
なんだか領主が厳しい年貢を求めるから生活が苦しいのに、その中の1割を平民にばら撒いてくれたような気分といいますか…助かるんですけど、納得いかない感じです。

>古今東西の人々が考え続けてきた「人生の目的とは何か」という問いの決定的な答えとなるでしょう。そのような目的が説明されたもの、つまりマニュアル、取扱説明書が聖書ということになります。私がそう結論した根拠としては、(1)聖書の記述(天地創造や人類の歴史)は私の調べた諸事実と一致している、また、(2)人間の苦しみの根本原因と解決策を提示しており、それが理にかなっている、という点があったと思います。これは飽くまで私の結論であって、buabuさんがそう思うかどうかはまた別なのですが。

確かに!聖書を信じる事は人生の目的を見出すことでもありますね。
信教を持っておられる方はこのあたりが強いな、と思います。
何故人が生きているのかを明確に示しているものは、おそらく宗教ぐらいしかありませんよね。
特に信教を持っていない人間は、何のために生きているかなんて見当も付きませんから、落ち込んじゃう人も居ますし。。。
yangmaskさんの見解、とても興味深いです。(1)や(2)の点では、私はそれほど聖書を読んで共感できませんでしたが、ご存知のとおり、何を根拠に信じるかは十人十色ですよね。
いろいろ信教を持っておられる方に聞きましたが、皆さんそういっておられました。
(そういう面で、私は聖書に限らず宗教を信じる才能無いのかななんて思いましたが^^;)

ちなみに何故私がyangmaskさんの根拠に共感できなかったかというと、
(1)聖書に書かれている天地創造の真偽を調べるならば、私は進化論などの科学を参考にします。ほかに世界の始まりについて書かれているものを知らないからです(御伽噺や神話はありますが)。が、結局のところ進化論も宗教とあまり変わらず、その真実性は疑わしいものです。本当のところは誰にもわからない。また、創造論者が総バッシングしている進化論を横に並べて創造論の真偽を見極めるのは適切でない気がする。また、歴史的に正確かどうかもわからない。もちろん、聖書と一口に言ってもたくさんの本が集まっての一冊なので、そのなかに歴史書が含まれている点もわかるし、実際聖書が無ければ紐解かれなかった過去の事実はあるでしょう。しかし、さすがにネフィリムの存在やノアの大洪水が起こったとは思えない。
(2)他の宗教でも似たようなことは言っているので、聖書だけの特徴ではないと思う。
...ということです。

★確かに、人生の目的を見出すことでどれだけの人々が救われるか計り知れませんね。特に鬱大国の日本では。私としては、もし人間が目的をもって作られた存在ならば、その目的を知りたいと思うし、創造者のことを知って、創造者を尊敬できれば創造者の言うように生きたいと思えると思います。

お返事ありがとうございました!

お礼日時:2012/05/13 20:33

No.11で回答したyangmaskです。

お礼を読みました。大変興味深いご意見だと思いました。それらの点について少しずつ回答させていただきます。

>全知全能の神様は、できないのではなく「しない」のですね。しかし、神様が「しない」と決めたわけですから、そこが残酷だなぁと思ってしまったのです。確かに、エバが実を食べる事を阻止するのが自由意志の妨げだということはわかりますが、そういう仕組みを作ったのは神様では?と思ってしまいます。何でもかんでも誰かが「こうする!」と決定したことを阻止しないなんて、危険では…? ある人が「Aさんを殺す」とか「非行に走らせてやる」と決めたからといって、「なるほど、やめたほうがいいが、自由意志は尊重しないといけないからな、好きにしなさい」なんて普通いわないかと…まず「やめろ!」といってできる限り阻止しません? また、そういう対応でしか自由意志の尊重をできない仕組みなわけじゃないですか、、、なんでわざわざその仕組みの中でやっていこうと神様が決めたのか…疑問です。

   なるほど。しかし、神は人が悪を行なうことがないよう各人に警告されます。例えば、カインが弟のアベルを殺そうと思った時、神はそれを思いとどまるように警告されました。とはいえ、現在ではそのように神が直接人間に語りかけて警告することはありません。しかし、少なくとも人間には良心があり、それは悪を行なう時警鐘を鳴らします。社会的な羞恥心もそれを行なった結末を想像させ、また、政府の設けている刑法もそのような厳しい罰を受けたくないと思わせ、その結果悪を思いとどまらせます。親族や友人もそれを直接止めようと努力するかもしれません。結局、悪を結果的に悪を行なった人たちは、大変悲しいことですが、そのような警告をすべてはねのけて悪を強行したということができるでしょう。

   神は「好きにしなさい」と言っているのではなく、何が善で何が悪かをはっきりと示して警告しておられます。世界中の人々は考え方が多少違っていてもある程度の共通の善悪の基準を持っているものです。殺人、強姦、強盗、誘拐、虐待、放火などがしてはいけないことだということに議論の余地はないでしょう。先程挙げたカインのように、人間は自分が何をするかを決定する自由意志を持っており、それは神の言うことでさえも退け得るものです。しかし、同時にカインは裁き(処罰)を受けたのであり、自由意志を濫用(悪用)するとどのような結末になるかという前例となりました。ノアの大洪水の例もまたそうです。様々な警告、処罰の前例・・・、それらを知っているにもかかわらずやはり自由意志を誤用して悪をやめない者たちはもはや言い訳ができません。悪魔サタンとその手下の悪魔たち、またサタンに惑わされて神に逆らう人間たちはそのような十分な経過をたどった上で最終的な処罰を受けることになっています。その時彼らは言い逃れができません。(例えば、水戸黄門の場合も最初悪代官を放置しておいて、十分証拠がそろった上で印籠を出しますよね。神は数千年という単位でそれと同じことを計画しているというわけです。もちろん、死んだ人を将来もう一度復活させるということを前提になされていますが。) 最終的に、罪人であった人間の中でも自由意志を正しく用いることを学んだ人たちは再び神の子として迎え入れられ、自由意志を誤用する人のいない地上の楽園で永遠に生きることになっています。

>ただ、今、私は神様を信じていないので・・・

   これは大変根本的な問題だろうと思います。神を信じているのとそうでないのとではまるっきり世界観が変わってくるでしょうから。他の疑問点にもbuabuさんがよければ是非随時お答えしたいと思っていますが、まずこの点からお答えする必要を感じました。実は、同じような疑問に私yangmaskが他のページで回答しています。見えない神を信じることができる根拠として参考にしていただければと思います。http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7422217.htmlのNo.18と19です。疑問点がありましたら、どんどん教えてください。
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この回答へのお礼

>神は人が悪を行なうことがないよう各人に警告されます。
>結局、悪を結果的に悪を行なった人たちは、大変悲しいことですが、そのような警告をすべてはねのけて悪を強行したということができるでしょう。

そのとおりだと思います。細かい複雑な動機は犯行した人にしかわからない、または反抗した人自身にも解らないことはあるにせよ、結局はしてはいけない事をしてしまったことには変わりありませんよね。
そのように、神様の作った世界は選択の仕方で天国にも地獄にもなってしまいます。アダムとエバのときも選択を誤ってしまいました。
ということは、神様ははじめからこの世が善良な者達であふれる可能性と、悪行に満ちた世になってしまう可能性とを秘めた世界を作られたということですが、なんでそんなギャンブルみたいなことをするのかなと…不思議なんです

神様は確かに警告をなさいますが、それが間違っているとも思いませんが、それだけしかしないという印象です。もっと良い方法ないんでしょうか。。人間、聴く耳持ちたくないこともありますよ…
神様の裁きが公正とも思えません。
たとえばカインがアベルを殺してしまったのは本当にカインだけが生んだ罪でしょうか?
彼はアベルを殺すにいたるまで、色んな人と接し、色んな出来事があり、そういったものの積み重ねで彼の人生観や価値観などが構築されていったのだろうと思います。
アベルに手をかけてしまう前に、彼なりに苦悩していたと思います。カインがアベルを殺したのは間違いない事実ですが、そのような考えに至ってしまう状況を作ってしまったのは彼を取り巻いていた社会全体(親兄弟、親戚や神様も親密な関係だった)だと思います。
そうするとカインだけが裁かれるというのは解せないんです。そしてアベルがカインによって殺されたこ
とは変わらない事実であるが故に、カインが処罰を受けたところで何にもならないと思います。
やってしまったものは取り消せないです。アベルは元々復活しますし、仮にアベルがその後カインのように人を殺していたら復活しなかったでしょうし…。
まるで人間がやるような処罰の考え方だなと思うので神様ならもっとすばらしい方法が無いかと思うんですが…
人間は確かに自由意志があるためにそれを悪用することも可能で、そうすべきではないと神や良心が警告を発していることも解りますが、それを与えたのは神様ですから、悪い方向に行ってしまうことも十分考えられたはずなのではないでしょうか。

黄門様が証拠が十分そろうまで悪代官を放置するのは、人間だからでは?と思ってしまいます。
人間だから、証拠を提示しないと被告人が悪人か区別も付けられない、裁けない社会の中で生きているわけですし、悲しいかな人間は、凶悪な思考の人間による未遂の事件よりも実際に起こってしまった事件(例えば過酷な勤務形態による運転手の居眠り運転だとか)のほうが注目します。何かが起こってからでないと対処できない。犠牲が出ないと改良できない、というところがあります。
神様にはその人が何を考えているかわかる能力もありますし、現状問題ないように見える人でも危険だとわかる能力もあると思います。

確かに、根本的な問題として、神様の存在を信じられないと意見が食い違いあってもそれは当然なのかもしれませんね^^;
参考のページも拝見させていただきました。私のような疑問を持っている人が居るのだと興味深かったです。
私としては、人間以上の知能を持つ存在や計り知れない力を持っている存在がいることは信じられます。しかし、聖書の神様という存在が実際に居るのが信じられないということです。
おっしゃるとおり、道端に生えている雑草でさえ、巧妙に作られていて人間以上の存在を感じずには居られませんが、それが聖書の神だと何故いえるのでしょうか?
創世記には一日一日の創造の記録が書かれていますが、それらは私にとって進化論とあまり違いがありません。進化論は原始生命が生まれるメカニズムなど、よくわからない事をもんのすごい奇跡的な偶然せいということで説明しています。
創世記は良く解明できていない世界の始まりを神様の圧倒的な力で説明しています。
人間はモノの仕組みがわからなければ大体神様のせいにしていたと思います。それとあんまり変わりません。
この世に、漠然と、人間以上のなにかがあるのは納得できますが、それが何故聖書の神になるのかはわかりません;;;

お返事ありがとうございました!

お礼日時:2012/05/10 23:18

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