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 マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。また うまいマの取り方を求めます。

 (α)  ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。

 (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。

 (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。

 (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?

 (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。

 (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。
 人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や格差もそうであり ガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。

 (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?


 (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?
 
 (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?

 (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?

 (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?

 (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?


 (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか? 
 (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?

 (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?

 (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。

  ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~
   鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。

       〔* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で
       鎮静の逆のことのようです。ただし それも しづめる
       ためにそうするのだということのようです〕。

  〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。

  間はただのうつろなる時間と空間ではない。
  実は生命の蓄積されるおりめなのだ。
    (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 以上の所論をたたき台として ご見解をおおしえください。

A 回答 (24件中1~10件)

「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。


これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。
しかし、如何せん、人間は、好むと好まざるとにかかわらず、間接的に殺人に加担することがあります。これは悲しいけれど現実です。
たとえば、携帯などで使用されているレアメタル、石油などの資源権益、資源分配をめぐる争いがその典型的な例でしょう。
その資源をめぐる争いで毎日のように人が殺されています。もちろん、私は直接的にその殺人行為に加担してはいませんが、わたしが携帯を使うこと、日々電気やガソリンを使う日常的行為によって、関節的にその殺人に加担しているわけです。私の日常の行為が巡り巡ってその殺人を誘発しているわけです。したがって、私にはその殺人に対する道義的な責任があるわけです。「そんなことになることは知らなかった」では済まされない問題です。
しかし、人間の能力は限られています。自分の何気ない日常の行為がどのような結果を招くかなど予測不能です。また、そうしたことを一つ一つ気にかけていたら、日常の生活を送れません。ジレンマです。ここに、非常に難しい問題が、矛盾があります。

私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。

この「めぐりめぐっての間接的な殺人」についてbragelonneさんはどのようにお考えですか。ご意見を伺えれば幸いです。



アブラハムのイサク殺害に関するbragelonneさんの解釈は深いですね。
私は、神がアブラハムの忠誠を試した話としてしか理解していませんでしたから。

最愛の息子でさえ神に対して捧げることができるのか?

アブラハムの苦悩、葛藤は別にして、アブラハムには「神がイサクを犠牲に求めるには人知を超えた何らかの理由がある」、あるいは「たとえ殺したとしても、神によってしかるべき取り計らいがあるに違いない」という強い確信があったと思っていたもので
話は予定調和に終わっているので、のちに神によってモーセに与えられる「汝、殺すことなかれ」に抵触しない形で終わっていますけれども。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 どう言いましょうか。この質問においても わたしの場合 要するに《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。

 というわけは たとえば
 ☆ 理念 あるいは 道徳
 ★ といった概念や観念の形成される以前の或る種の心や意志のみなもとのような領域における出来事です。

 むろん そのことは次のごとく捉えることにおいてそのまま質問趣旨に沿っていただいているようではあるのすが。つまりまづ
 ☆ ~~~
 「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。
 これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。
 ~~~~~
 ★ なのですが ここで 微妙な異同があると思われることにさらにこだわってみます。
 
 一方で
 ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 無前提の原則 / 公理
 ★ と捉えてもらっているその他方で
 ☆ 理念・徳性
 ★ という規定もされているということ。ここにこだわってみます。つまり 違うという感じを持っています。

 アブラハムのイサクを犠牲にささげる物語をめぐっての解釈にもかかわって来ているかと思います。
 
 ○ アブラハムは 長い苦悩のトンネルを抜け得たのは 《自分でも他人でも ひとが ひとをころすことはしないものだ》というヒラメキが得られたからではないのか。

 このとき 《神は ひとが ひとをころすことを欲しない》と言いかえてもよいかと思います。

 ▲ (ホセア書6:6) ~~~
 わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ★ さんざん生け贄を受け取っておいて 何を言うかとも思いますが アブラハムのインスピレーションとしては これであった。と思います。
 すなわち
 ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 〔無前提の原則 / 公理〕
 ★ としての内容であり それはあくまで

 ★★ 《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。
 
 という道草の段階なのであり そしてまだなお ひとりの人間の主観にとどまっています。そのあとようやく概念として持たれるようになって
 ☆ 無前提の原則 / 公理 / 理念 / 徳性
 ★ として受け留められるようになるのだと。



 何だか歯切れがわるいですし 問題のないところをあたかもイチャモンをつけているみたいですが 確認します。

 ○ ~~~
 アブラハムにとって 自分の心なる非思考の庭における神とのあたかも対話は 結論として 《イサクを ころさない》が得られた。
 これは・つまり《ころさない》というのは

 (1) やっと思考にかかわるかたちで翻訳したあとの言葉として得たものである。実際は ヒラメキである。意味のあいまいなイメージとしてのような直感であった。

 (2) しかも概念化して《ころさない》と規定しえたとしても まだなお アブラハムという一人の人間の主観内面における出来事であるに過ぎなかった。
 ~~~~

 言いかえますと 次のような問いかけになると思います。

 (3) この《ころさない》あるいは《神は いけにえを欲しない》を モーセはいとも簡単に律法規範としたようだ。それは いったいどういうことなのだろう? 
 (3-1) つまり神は 《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神》であるというごとく一人ひとりの神であるはずだ。したがって 《ころさない》という観想もまだまだひとりの人間の主観の内にとどまるのではなかったか? それを いつのまに《共同主観》としたのか?

 (4) しかもさらに アブラハムの得た観想は 《ひとは ひとをころさない。われは ひとなり》といったひとつの《判断》であり さらにはそれを表現したとすればそういう《意思表示》であった。なのに モーセはこれを《なんぢ ころすなかれ》というふうに《人間という人間の主観をぜんぶ束ねてしまって 頭ごなしに規定として措定してしまった》。それでよいのだろうか?


    *

 その上で
 ☆ 「めぐりめぐっての間接的な殺人」について
 ★ ですが:
 これは ヒラメキの内容から逸れる《マヌケ》や内容をねじ曲げる《マチガイ》を
 片や抽象的に そこに居合わせた人びと互いの心的現象という次元における同時一体性の内に見るかどうかの問題があり
 片や具体的にたとえば資源獲得競争にしのぎを削っている人びとと その経済行為をまわり回って間接的に共有しているのではないかという同時一体性の問題があると見ます。

 しかも ずるい見方をもしなければならないと考えます。一人ひとりがそれぞれの内面において《わが神(または わが無い神)》をいだくというように 一人ひとりはその自由意志において行動しているということも 実際なのだと見ざるを得ないようです。

 その上で先の《自然本性ないし心的現象を基礎としての 具体的な経済行為をもめぐる人びと相互の連帯性》において マヌケやマチガイについて共同の責任を負うというかたちになるかと。
 ☆ 私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。
 ★ とおっしゃるその中身を 上のように考えるというひとつの結果を得ました。


 たぶん ヒラメキ次元を大事にするところの――そしてその意味で 一見場違いのような《タマシヅメ・タマフリ》の事例を出していますが の――自然本性ないしそのような基礎における観想が 人びとのあいだのマの関係としてその水嵩を増して行くことを思います(そう期待します)。 


 いやあ むつかしいですね。

お礼日時:2012/04/13 02:07

また、人生相談だと思われちゃいましたね。


やっぱり、そうなんだ。

そうなんですね。きっと誰がみても。
ごめんね、つきあわせてしまって。

あんまり、けんかしないほうがいいですよ。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ ~~~
 また、人生相談だと思われちゃいましたね。
 やっぱり、そうなんだ。
 ~~~~~ 
 ☆ 昔は 回答者が鐘を撞くその撞き方や度合いに応じて返答をのべていると言っていましたが この言い方は どこか一方的な感じをもたらすところがありますから 別に言いかえてみますと:
 回答者の文章を受け取って 質問者との間に 磁場ができる。この磁場のあり方や状態に応じて 質問者としてのわたしは その落ち着くところを推し測って応答する。ということかと思います。

 だとすると 《人生相談である》というのは その電磁場の状態のゆくえが そうであったのかも知れません。わたしにとっては それは結果です。
 言いかえると この結果は 半々ですね。出所は。

 という応答になるのですが 能がないでしょうかね。その現われた結果からあらたに文章を書き起こすのが よいのかも。


 けんかは どうなんでしょう。ううーん。

お礼日時:2012/04/23 16:25

大抵の出目は、人間のうかつさであったり、心のひだであったり


反抗であったりと、自然な心のありようとして、合理的な因果律
として、既にアウトプットずみというところに、確からしさが
確認できるのではないでしょうか。
ですが、それが本来の目的に必ずしも建設的であるとはいえない
わけですが、つまり公共心をともなわない、ただのわがままは
不採用が妥当でしょう。

また、手づまり感が。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 出目そのものをえらぶという場合は 少ないかも知れません。
 
 でも案外反抗心やらの《自然な心のありようとして》起きたその出目を 言わば加工して 自分の意志とするし自己表現として推し出すということかも分かりません。

 反抗心というよりは 抵抗と言ったほうがよいでしょうね。自然な心のありようは 一般に受け身において現われましょうから。

 ですから抵抗をそのまま表わすのではないでしょうから しっかりとその言い分について根拠を研究し把握しその上で 自己の意思表示をおこなうようになりましょう。

 世の中の偉業は たいていそんなところから出ているかも分かりません。
 ★ 公共心
 ☆ をともなうように自分で加工するのでしょう。

 というのでは?

お礼日時:2012/04/23 14:18

文脈(これこれこういうつもり)を含めた人工的な文は出目は


でにくいでしょう、だからそういうダイナミズムもなかなか
むずかしい。
ルサマンチン(もといルサンチマン)ってしもにしもについつい
ってことですが、これも出目じゃないかな。

だから、なんか変な感じなんじゃないのかな。
もぐさんとか、窮屈そうですよね。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 次のわたしの文は 舌足らずだったかも知れません。

 ☆☆(No.21お礼欄) 偶然にせよ必然にせよ その出目について 確信を持つかどうかが 決め手です。

 つまり 出目をつねに《わたし》がえらぶというわけのものではないからです。捨てることもあります。


 《確信を持つ》ことは たしかに情報にかんしての《裏づけ》の問題もからみますね。
 わたしは 裏づけは もともと限界があると割り切っています。

 学問の場合には つねに仮説として永遠に問い求めつづけますが 一般の自己表現のための結論は――つまり出目を自分の結論としてえらんだ場合のその結論は―― 判断材料の乏しさ・つまり裏づけの弱さに関しては けっきょく確信の問題になって現われる。こう考えます。

 ゆえに あやまつは ひとのつね。とすでに初めに前提しているはずです。消極的な意味にしか成りませんが それもダイナミズムであるかも知れません。

 ★ ルサンチマン
 ☆ は ただのうわべの心理作用だと見ています。それを厄介なものとしているのは そう見ているむしろ理性のほうです。しかも その心理作用を大きな主題として 歴史の何から何まで事例を持ち出して来て ああだこうだといじくっているのも 理性です。それが カッコいいとでも思っているのでしょうか。
 わが心なる大海のうわべの波風のうちである。ルサンチマンは。と考えます。感性は すでにさとっているはずです。理性がひっかきまわすから 感情も出て来ましょう。
 


 《判断材料の乏しさ・つまり裏づけの弱さに関しては けっきょく確信の問題になって現われる》。
 これは けっきょく 判断材料にかんして 全体をすべて隈なく知るというのではなく そうではなく情況や相手の存在について《全体として》知るという問題だと考えられます。つまりその意味での《さとる》であり つまり確信に帰着します。
 この《全体として知った〔ところから判断する〕》は ダイナミズムでしょう。

お礼日時:2012/04/23 11:40

偶然あるいは必然の出目のようなものというのは、何故なのか、


公理または、理にかなう、あるいはどこからどうみても合理的
だと思われるわけですが(勿論出目をさぐるなどは、げすとも
いえますが)、ダイナミズムは博打にありと断定するのも
どうも、なんかですよね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 このご指摘については お応えできると思います。
 ★ ~~~
 ダイナミズムは博打にありと断定するのも
 どうも、なんかですよね。
 ~~~~~
 ☆ 偶然にせよ必然にせよ その出目について 確信を持つかどうかが 決め手です。
 確信をもって《わたし》が言ったりおこなったりするということ。
 むろん勘違いもマチガイも起こりますが それをも――けっきょくそのときの相手も同じく互いに心を広く持って――乗り越えて行くような確信だと思います。
 
 ダイナミズムは 《わたし( 1 )》の自乗( 1x1=1 )を展開するその動態にある。と思います。
 《一》は 全体ですから その中にマヌケもマチガイも含みつつんでいるはずです。つねにアヤマチを揚棄してすすんで行くはずです。

お礼日時:2012/04/23 10:29

やっぱり、どこかなんか病んでるようにしかみえないのですが。


なんか変ですよね。

私の祖母は、農家をやってましたので、毛虫とか害虫を手で、
つぶしたりしていました。平気でやっているかどうかは、わから
ないけど、きっと必要なことだったからだと思うのですが。
これは近代感覚とかとは、ちょっと違うと思うんですね。

皇太子妃がかえるをおしりでつぶしちゃった話を冗談の様に
された時に、なんだか好印象をもったのですが。

なんかわかりません。
すいません。メモみたいになっちゃいました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回は――自分の中でのことですが―― よく把握できませんでした。


 ひとつ それでも 思うことは こうです。
 ★ 近代感覚
 ☆ ですとか あるいは モダン ポストモダン コミュニタリアニズム リバタリアニズムなどなど その思想ないし思潮を一つひとつ特定して議論なさいますよね。

 いっそのこと 古代に飛んでみてはいかがでしょう?
 意外と ひとりの人間という位置づけやら 立ち場やらが分かりやすく浮かんでくるのではないでしょうか。
 だからどうなのかと言われて ただちにこれこれとして有益だとは必ずしも言えませんが そのほうが 何となく 自由な情況であるように思えます。
 中世だと 近代に対する反措定として提出されているきらいがありそうですから 古代です。日本でも西欧でも。

 こちらも すみません。あてずっぽうのようになりました。

お礼日時:2012/04/22 23:00

そうみると街の中は、すべて狸にみえてきます。


自動車も広告看板も、なんとなく狸ですね。
どうして親切そうな狸ばかり。

木嶋被告の事件がショッキングなのは、造形というものへの
いきすぎた軽視にあわせて女性性という内部構造の機能性へ偏って
ソースを求めている異常さです(被害者の方にはお気の毒なのですが)
造形(つまり美醜)と尊厳という問題はこれまでは、語られてきた
わけですが、そういう既成概念を打ち破るような事件です。
なんかほんとにわかんなくなります。

わからないのは、「愛情を込めて野菜を育てる」という概念も同じです。
どうして一度たりとも、
「愛情というソースにより帰納データの集積が詰まっているのですね」
とコメントされないんでしょうか。そうすれば、なんらかのうねりが
広がっていく気がするのですが。それは、ソースを傷つけてしまうかも
しれないという配慮なのか、それとも政治的な疑うべきことがあるのか
ということが謎です。かえって野菜も狸にしてしまわないでしょうか。

知の巨匠が言いたいことは未だわかりませんが、(私は憐憫の情のような
ものに少し混乱していたかもしれません)どちらがというのでもなく
そこには二項の答えがありそうです。
とりあえずペンディングです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~
 そうみると街の中は、すべて狸にみえてきます。
 自動車も広告看板も、なんとなく狸ですね。
 どうして親切そうな狸ばかり。
 ~~~~~
 ☆ おそらく そういうことになるかと思います。

 問題は 自分です。自分はどうか。《狸》かどうか。
 と哲学者なら 反応するでしょうね 無表情で。

 でも そうですね。たしかに自分は 知っているのです。特に――理性のほうではなく―― 感覚はすでに だいたいのことの答えは知っているのだと思います。

 そしてそうまんざら捨てたものではないとも 言ってくれるのではないでしょうか。

 ★ 知の巨匠
 ☆ ?

お礼日時:2012/04/21 18:34

勿論そうです。


権力や権威から与えられるリソースで生きていくしかない
のだけど、そこには危険もつきまとっています。
だから、若者はリソースのソースを求めているのでしょうか。
そして結局、権威的なものを求めてしまっているのかも
しれません。だから変な感じなんでしょうね。
どっちにしても、ぎしぎししてる。
大人はいいけど、若者のことを真摯に考えてくれる人が
きっといると思ってたのは甘かったんでしょうか。
どうして、権力者はそうなちゃうのかな。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 若者はリソースのソースを求めているのでしょうか。
 そして結局、権威的なものを求めてしまっているのかも
 しれません。だから変な感じなんでしょうね。
 ~~~~~
 ☆ これは 偶像の問題です。いっそのこと 

  ○ 権威とは 無根拠である。そこから自由が来ている。

 とでも捉えるのが 偶像崇拝をまぬかれる道だと思います。

 ですから 
 ★ ~~~~
 大人はいいけど、若者のことを真摯に考えてくれる人が
 きっといると思ってたのは甘かったんでしょうか。
 どうして、権力者はそうなちゃうのかな。
 ~~~~~~
 ☆ という見方も――口幅ったい言い方ですが―― 偶像崇拝の枠組みの中におさまってしまっていると見ます。どこかに分別の上で納得の行く根拠や心の支えになるものを求めている。その結果 もし自分との・あるいは相手とのマの取り方にあやふやなところがあると アイドルへの密着というかたちに終わってしまうのではないか。こう思われますが どうでしょう。

お礼日時:2012/04/19 11:47

一番よくないのは、共依存関係ではないでしょうか。


こういう社会問題は現代では顕著ですよね。
だからといって、市場原理や選挙という仕組みでなんとかなるもの
でもないわけです。勿論、情だけでなんとかなるものでもない。
だから、狂気的な推進力を切望している人もいるのだろうけど
それも、どこか違う気がするんです。
本当につらそうな人を探して、データをとるのがいいのだろうけど
権力持ってない人が結局はフラットな立場がとれるってことなのに
だから絶対、権力持っちゃだめだと思うんです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 つづいてです。
 ★ 権力
 ☆ については 一方的に批判するのもよくないと考えます。

 たとえ無法の勢力が権力をにぎったという場合でも その当面の社会的な秩序は その正統性のない狂気の権力のもとにすら保たれていると見なければならないとすれば です。



 話は 中途半端なままですが・そして突然変わりますが あの幸福の科学の政治部隊がすでに総選挙にも出たことがありますね。それでも 国民は 一人として国会に送らなかった。その前に オウム真理教の政治活動もありましたか。
 ★ 狂気的な推進力を切望している人もいるのだろうけど それも、どこか違う気がするんです。
 ☆ ということが 実現されています。これは あんがい国民もやるなと思えます。
 ただし オザワを切れないでいるのは おかしい。あるいは自民党がまだ生き長らえているのもおかしい。と考えます。


 ちょっと筋道の弱い話になりますが。

お礼日時:2012/04/18 22:42

そうなんです。


目的が手段にねじまげられているってことなんですね。

「ねまわし」って、情を手段に使うってことなんですよ。
だから、本質を失って、無目的に踊ってしまうのです。
(平成ポンポコの狸さんみたいですね)
少し距離をとったアウフヘーベンが望ましいよね。
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この回答へのお礼

 一連のご回答です。ありがとうございます。

 ★ 目的が手段にねじまげられているってことなんですね。
 ★ 少し距離をとったアウフヘーベンが望ましいよね。
 ☆ たぶん こういうことだと考えます。

 ひとつに:目的を――最大の目的としての《自由 しかも 互いに自由》を大前提にしつつも―― 具体的に細分化して規定して行くと それら小目的が自己目的となって すでに手段であり大目的であると見なしてしまいがちである。

 ひとつに:《少し距離をとった》姿勢というのは 相手とのマとしてもじゅうぶん大切なことですが それにしても当面の小目的は それだけが単独分立してしまうわけではない。そうなっては いけない。というわけであるゆえに その小目的やその手段とのあいだにも距離を取ったほうがよいと思われます。

 それであって初めて《アウフヘーベン》ということになります。時間的な過程が見通されていることになります。その先には したがって 自由が望まれている。

 いえ そのように言うよりも やはり自由は 大前提であってすでにいま 何ものにも先行していると言ったほうがよいかも知れません。

 いま現在ここなる地点において かつほかでもない《わたし》において 《わたしはわたしであるという自由》が成ったというところから踏み出すのだと考えます。
 もしこの《自由の成る》ことがいまだ潜在性にのみあるとしたら それゆえにも《距離》が保たれている。からです。
 この距離こそが 相手とのマを保障してくれましょう。
 
 潜在性というのは たとえば日本人にとってなら《仏性が人に宿る》といったことでしょうし それはけっきょく《非思考の庭》だと考えられます。しかるべきマは そこでじゅうぶん保たれている。じゅうぶん過ぎるほど 保たれている。というわけです。

 この――雲をつかむような・わけの分からない――マを しかも 抜かすことなかれ。と。
 そこから 人びとのあいだに マとしての核分裂も核融合も起こり始めて行きましょう。そうなれば しめたものです。これは平和の原子力です。

 ぎゃくに言えば このような潜在性の流れ――伏流――に一顧だにせず 場当たりに社会力学上の有力なる勢力を糾合しているオッチャンやオバちゃんたちは やがてこのあたらしい潮の寄せて来るのを見てそれこそ
 ★ 平成ポンポコ狸さんみたい
 ☆ に
 ★ 本質を失って、無目的に踊ってしまう
 ☆ ことでしょう。
 われらが敵が 踊り出すのです。われらが 何もしないたたかいをたたかっているからです。
 これが アウフヘーベンの道程です。
 どぢゃ?

お礼日時:2012/04/18 12:36

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