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 明治時代のお坊さんの書籍で、分からないところがあったので訊いてみたいのです。ちょっと長くなってしまいましたが、よろしくお願いいたします。

一、 法身の一大理性は萬物の根底  《法身の一大理性とは、宇宙の本体は大心霊体であり、われわれの心に理性と云う働きがあるように宇宙の本体である大心霊体にも理性の働きがある、と云う考えから萬物の根底、という表現になっているのだと思います。》

萬物の同一本性。植物と動物との同一本性
 この地上に繁布せる処の植物と動物、即ち依報(えほう)と正報(しょうほう) 《辞書に、依正(えしょう)=依報と正報。正報とは衆生の心身、依報とは正報たる衆生の心身のよりどころとなる環境世界をいう。とあり続いて、衆生と国土、とあるので、衆生=正報、国土=依報と云う捉え方で考えていいようです。》とは静と動との反対なる両性を現ずるけれども、その両物は同じく有機性即ち生物である。
 植物の栄養機能は根が地中に在りて即ち下部に在り、動物の食物を摂取する口は上部に位(い)してをる。又、生殖の機能は動物は下部に在りて植物の枝條に咲く花は上位に在り。生殖を営むことは其の位置が何れも反対なれども、何れも栄養と生殖との有機作用を以て、生活する性に於いて一致す。
 又、この両性の進化の起源に遡(さかのぼ)る時は同一原始の種性より起因すとは進化論者の説く処である。故にこの両性は同一性より両方に向かって進化したる結果に於いて静動相反する如きも、本同一性の相対的進化の両性なりと云わざるべからず。故に同一本性と云うことを得べし。

物心同一性
 一切萬物は有形の物質と無形の心質との二性を出でず。此の物と心との両質は同一本性の内外両面の相対的現の二性なりと云ことを得べし。同一体を外より見れば物質にして内観する時は心質なりとす。此の両性は無形無碍なると有形有礙なるとの反対なる両性と為るも、之が統一存在の本性に於いて一致せざるべからず。是、致一哲学の説く処である。

化学元素の一大元
 また地上の一切萬有の元素なる化学の元素は現在世に発見せられたる物八十有余の数に上りたるも、或る説によれば恁《←?悉》く数多の元素は其の本、炭酸水窒の四大元素に帰すべしと。又ある説によれば一切元素の本源は一大元素に帰すべしと。其の一大元素が陰と陽との両作用によりて、其れが因と縁との関係よりして種々の質の変化を生じ、現在の元素に変化したるものとすと。

 又、萬物を構成する処の質量と為るべき物質の分子は其の源、原子の聚合(しゅうごう)たるものにて、原子はまた電子の聚合体であると。陰陽の数多の電子が相聚合して原子と為り、また分子と為りて、一切萬物を造作するものとす。又、陰陽の両性全く反対の性が相扶(たす)け相刺激して萬物を造る。即ち陰陽の二気は大にしては太陽と地球の如く、小にしては電子の陰陽二性の如く、又一切生物界に於いては雌雄両性の如く、全く相反対の性と能を有してをれども、然も互いに相扶けて相成(な)す。此の両性は其の本源は同一本性の相対的に分かれたるものである。

 ☆ 質問は、最初の所、「此の地上に繁布せる処の植物と動物、即ち依報と正報とは靜と動との反対なる両性を現ずるけれども・・・・」のところ。

 辞書に、主体たる正報とよりどころと為る環境世界、とあるのでここは動物を主体即ち正報、植物を依報と見たてていると受け取って良いでしょうか。自信がないので回答が欲しいです。また、内容の感想なども頂けるとありがたいのですが。

 よろしくお願いいたします。
 

A 回答 (2件)

分かり易く例えを使っての説明が、かえって難解になるという典型のような気がします。


しかし、それをもって御坊さんの理解が間違っているとはなりません。

>この地上に繁布せる処の植物と動物、即ち依報(えほう)と正報(しょうほう) 《辞書に、依正(えしょう)=依報と正報。正報とは衆生の心身、依報とは正報たる衆生の心身のよりどころとなる環境世界をいう。とあり続いて、衆生と国土、とあるので、衆生=正報、国土=依報と云う捉え方で考えていいようです。》とは静と動との反対なる両性を現ずるけれども、その両物は同じく有機性即ち生物である。

まず、動物と植物の例を主体に論が展開されていますが
本来は依報と正報の一例に過ぎません。
その例で言いたいことは「その両物は同じく有機性即ち生物である」ということです。
すなわち、依報と正報の違いは生物と無生物の差ではないということです。

そうすると混乱しますが、前回の質問文にあった主観をもつものと客観世界というのが
正報と依報であるように思えてきます。

とすれば、環境世界というもの(依報)に他の動物(正報の一例)が含まれそうな矛盾も解消されそうです。

ここで正報と依報を別の辞書で調べると
正報・・・過去世で行った善悪の行為の報いとして受ける、衆生の身心
依報・・・過去の業(ごう)の報いとして受ける、心身のよりどころとしての国土などの環境。
とあり、輪廻を経験する主観となれるものが正報、それをとりまく環境が依報だとなります。

それとは別に、前回の質問文にあった主観をもつものと客観世界というのが法身の一大理性の働きにより顕れるということを言いたい為に、「その両物は同じく有機性即ち生物である(つまり、もとはひとつ)」と述べているのかなと感じます。

「例えば」という言葉が見あたらないのですが、例はあくまで例であり、説明するのに便利だから使っているくらいの気持ちで読むことが大切かと思います。
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この回答へのお礼

 ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。

 質問に取り上げた文章の、書籍のタイトル「無邊光」の冒頭部分は“如来の本體は絶對の大心霊態である”となっています。
 ここ哲学カテでは宗教色を薄めた方がいいかなと勝手に“宇宙の本体は・・・”なんて変えてますが実際は“如来”と表現されています。

 数学者、岡 潔氏による、この書籍の紹介文によれば、「このお坊さんの独自の説は、唯一絶対の如来があって、その光明が無差別智であると云う処だけであって、他は仏教の通説である」らしい。

 専門書を必要とするほどの頭ではなく、したがって岡潔氏とは受け止めるレベルが違いすぎ、自分流にこのお坊さんから学ぶしかないのですが、難しいのでこうして質問と云う形をとりました。

 私にとって氷のような「論」が解凍されたように思います。
 ありがとうございました。(2012/5/12/10:00)

お礼日時:2012/05/12 10:00

辞書に、主体たる正報とよりどころと為る環境世界、とあるのでここは動物を主体即ち正報、植物を依報と見たてていると受け取って良いでしょうか。



○ 萬物の同一本性。植物と動物との同一本性の説明ですから、依報も正報も同じ意味でないとおかしいですね。このお方が因果を植物と動物で使い分けているのは、植物のような環境に依存するしかない場合を静的因果として依報と呼び、動物のような主体的因果を正報と呼んで区別しているだけのように思えますね。
「此の両性は其の本源は同一本性の相対的に分かれたるものである。」という記述からして、静的因果の結果と動的因果の結果を相対的と言っているようですね。
山川草木悉有仏生から因果で動植物の進化を説明しようとしているのでしょうか、ちょっと無理があるように思えます。 
参考までに
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この回答へのお礼

 ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
 
 質問で取り上げた文章は、私には結構解かりにくいところがあり、それで自己流解釈の可否の確認が出来ればと思い、解答を求めました。

 mmkyさんも指摘するように動物、植物共に生物なのに動物を正報、植物を依報とみることが不自然だったのです。
 私もmmkyさんと同じ条件で突然この文章を見せられたら、同様の疑問を疑うことなく持ったと思います。

 でも少し違う処は私はこのお坊さんの文章に永く接していると云うこと。
 だからこのお坊さんが、萬物の同一本性=生命一元を説き続けている事を知っているので、その目的のための“進化”の説明か、と受け止めてみたくなるのです。

 早く云えば、贔屓目ゆえの思い。知的に根拠を掴んでいるわけではありません。

 ☆ これは回答No.2を頂く前の感想です。
   ありがとうございました。 (2012/5/12/9:10)

 

お礼日時:2012/05/12 09:06

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