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薩摩による琉球侵攻についてですが、

・なぜ薩摩は琉球に侵攻したのか。
・侵攻による利益,不利益は何か。

がわかりません。ぜひご教授いただければと思います。

そして、
・現在につながるもの、遺跡....etc....
なども紹介していただけると助かります。

よろしくお願いします。

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最後に、一応・・・・・
以下、wikiのコピペ

薩摩による琉球侵攻

16世紀後半、豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国であったため国王は一旦拒否した。しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。

1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球王国が支配していた奄美群島は、薩摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。

A 回答 (4件)

薩摩藩が琉球王国を支配下に置こうと考えたのは薩摩藩を成立させる為です。

薩摩藩の領地は、桜島の度重なる大噴火の影響で痩せた火山灰地が多いのです。それなのに家臣の数が多い。とても食べていけない。戦国時代末期に、九州を統一しようかという勢いで勢力を拡大しましたが、時既に遅しで秀吉が天下を統一したので、拡大した領地を失い、元々の薩摩・大隈・日向が安堵されただけだった。元の木阿弥。関が原の合戦でも西軍に加担して、家康に敵対してしまったので領土を守るだけで精一杯だった。そういう風に幕府からは警戒される存在になってしまったので、もう本土には領地を拡大できる可能性は全く無かったのです。

このままでは家臣を食べさせていけない。そこで眼をつけたのが琉球王国です。北方に拡大することが不可能なら、南方に拡大するしかないわけです。

これが大成功して、薩摩藩は外様名ながら西南雄藩と呼ばれる経済力を持つことができました。琉球王国特産のさとうきびから作った黒糖を薩摩藩の専売とできただけでなく、琉球王国が中国から移植したサツマイモを薩摩藩に持ち帰って薩摩藩でも栽培して飢饉でも餓死者を出さずに済んだ。サツマイモは火山灰地の痩せた土地でも栽培することができたのです。

なお薩摩藩と琉球王国は戦争をしたわけではありません。薩摩藩の意図が伝わらなかった当初は、局所的に散発的な戦闘がありましたが、薩摩藩の意図が琉球王国を服属させることだけだと分かると琉球王国はあっさりと薩摩藩の支配を受け入れました。戦国時代、秀吉の朝鮮出兵と勇名を馳せた薩摩軍に対抗できる軍事力など元々琉球王国にはありませんでしたから。
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この回答へのお礼

なるほど・・・・・
とても分かり易い文章で参考になりました。
ありがとうございます。

皆さんわかりやすく、甲乙付けがたかったので、1番早かった方にBAをつけさせていただきます。

お礼日時:2012/06/19 20:20

教えてしまうよりは、文献を紹介しましょう



(1)豊見山和行・高良倉吉編『街道の日本史56 琉球・沖縄と海上の道』(吉川弘文館)
(2)大石直正・高良倉吉・高橋公明『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』(講談社)
(3)入間田宣夫・豊見山和行『日本の中世5 北の平泉、南の琉球』(中央公論新社)

(3)は特にお薦め

他の回答者が指摘することは、簡単にわかりそうな話に過ぎないが、指摘した著作には、当時の琉球情勢・薩摩島津家及び本土の情勢を俯瞰した解説があるので理解しやすいだろう

以上
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この回答へのお礼

難しそうな本ですが、頑張って読んでみようと思います。
ありがとうございました。

皆さんわかりやすく、甲乙付けがたかったので、1番早かった方にBAをつけさせていただきます。

お礼日時:2012/06/19 20:25

 他の方がだいたい、言っているとおりです。

補足というカタチで・・・。
 加えて、1589年、尚寧使者が秀吉と会見し、明国・朝鮮出兵協力を求められるが、明確な返答せず。秀吉は、中央では、琉球を寺領の一部という認識でいたが、琉球ではあくまで独立国という認識。実際、朝鮮出兵の才に、兵か兵糧・金銭を島津氏を通して琉球に要求したが、琉球側は拒絶。
今までにも、島津・琉球間のいざこざがあったが、関係がより悪化。
 1602年伊達領・1605年平戸に琉球商船が漂着し、幕府(家康)のせわになったが、秀吉政権のこともあり琉球側は、正式な返礼せず。幕府を開いた後も、寺領に完全に組み込むため尚寧王招請を島津氏を通じて要求するが、上記のように島津との関係悪化があり不調。
 1606年、島津が琉球を組み込むために、上記の幕府への非礼をあげ、征討の許可を受ける。
 琉球側では、対外侵攻をすすめた豊臣ならいざしらず、朝鮮から撤退を決めた徳川政権は、琉球に侵攻しないだろうというヨミもあったらしいです。
 占領後、島津氏は初期の段階では、支配を明国にしられないようにしてました(朝貢貿易のため間接支配)
 貿易量の増加を狙い、1632年、新納忠清を首里に派遣し、貿易増加をはかる。 
 ちなみに1713年、琉球から明に渡る銀は、「渡唐銀」から、「琉球拝借銀」へ、中国からの輸入品は、「返上物」と島津により呼称変更されました。島津が銀を貸してやっているんだから、色をつけて返済しなさいよ、という島津氏側の主張。ほぼ、属国デスね・・・。
 ざっと、おおまかな流れです。長文でスミマセン
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この回答へのお礼

年代まで入っていて流れがわかりやすいです。
ありがとうございました。


皆さんわかりやすく、甲乙付けがたかったので、1番早かった方にBAをつけさせていただきます。

お礼日時:2012/06/19 20:23

他にも


 
 琉球を通じて諸外国と密貿易を行い、利益を上げていたそうです。
  
 また、薩摩藩が財政危機に陥った時、財政建て直しの一環として、沖縄の島々に重税を課しました。
 苛酷な取立てのため、島によっては口減らしが行われるほどでした。


現在につながるもの・・

  沖縄旅行に行った人がお土産に買ってきてくれたお饅頭に、薩摩十文字の模様があり、自分の印象に残りました。
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この回答へのお礼

薩摩十文字の模様が入ったお饅頭・・・
なんかかっこよさそうですね(笑)
今度探してみようと思います。

皆さんわかりやすく、甲乙付けがたかったので、1番早かった方にBAをつけさせていただきます。

お礼日時:2012/06/19 20:22

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