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北条早雲以来、たった5代(早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直)で、秀吉の小田原城攻めにより、孤立無援、同盟軍や和平の仲介の無いままに滅亡したのでしょうか?

何か北条氏直の時代感覚の無さや外交軽視と徳川家康の領地拡大への深謀術数(氏直は家康の娘・督姫の婿でもある)で上手く秀吉を焚き付け利用し、漁夫の利のごとく、北条氏を孤立化させ滅亡させた陰謀があったように思うのですが・・・
また、氏政・氏照兄弟の切腹、氏直の高野山への追放は厳し過ぎるように思うのですが・・・
北条氏の滅亡この辺の事情や経緯、史実や諸説をお教え願えませんか?

A 回答 (4件)

 北条氏直が孤立無援状態で秀吉と戦わざるを得なく成ったのは、織田信長が本能寺で討たれた直後の混乱期に手のひら返し(同盟あるいは織田への臣従も視野にいれた交渉を直前までやっていた)で織田領に攻めこんだ(織田方の滝川一益のいる上野へ攻め込んでいる)事による、秀吉側からの不信感が有ったからかも…。



 この時関東から追い出された滝川一益が、後の秀吉による東国外交の一翼を担っていたりします…。

 ちなみに、滝川一益は信長生存中は柴田勝家らと並んで織田四天王(秀吉より格上だった)と呼ばれたほどだったのに、この敗戦の責で大徳寺における信長の法要の時に「滝川殿の席はありませぬ」と門前払いされる程落ちぶれてしまいます…。

 あと、北条氏直自身は秀吉の力を一応認識して、名胡桃城奪取事件の時には、徳川家康に執り成しを依頼しようとしてはいましたが、秀吉は既に小田原征伐に関する軍議を開始していた。
 (秀吉には北条の言い分を聞く気が…。)

 なお、本能寺の頃は一応氏直(まあ、武田と婚姻関係がある氏直が当主で有るのは対外的[織田方]によろしくなかったという面も有りますので…。)が家督を継いでましたが、実質的には父の氏政が政治を牛耳っていたので、氏直に責任を押し付けるのはどうかと思います。

 『北条記』の評価だと

  「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、どうやら無事であった」

  「五世の氏直君はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、みずから裁決せず、人まかせにするあやまちをおかしたために、ついにその家を失うこととなった

 同資料で、北条5代の当主の中で「君」も付けられていない当主は、氏政だけですし…。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


貴重な資料や考察を紹介頂き、大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

お礼日時:2012/06/16 16:03

後北条氏の滅亡の責を氏直一人に帰すことはできません。

形の上では氏直が後北条氏の当主だったといっても権力が氏直に集中していたわけではないのです。実父である氏政はもちろん、氏政の兄弟である氏照、氏邦、氏規、氏忠などと叔父に当たる一門の武将が皆現役第一線のばりばりで、皆城主であり、皆大名なのです。

外交軽視でもない。後北条氏は応仁の乱以降は、中央政局に極力係わり合いを持たずに、関東は関東で勝手に勢力を拡大しましょうという外交方針で一環していて、その外交方針にしたがって近隣の諸大名と合従連衡していたわけです。

たった5代というけれど、5代も続いただけに一門の武将の数がやたら多い。この辺は一代でのし上がった豊臣秀吉とは大違いです。秀吉には親の代から武将だった縁者も家臣も誰もいない。豊臣一門の武将は全員、秀吉の引き立ててで取り立てられて、秀吉の采配で城を貰ったわけです。当然ながら誰も秀吉には頭が上がらないし、何事も秀吉一人で意思決定できるので、スピーディな行動ができます。これが秀吉と後北条氏一門の意思決定メカニズムの大きな違いです。それだからこそ、秀吉にすれば後北条氏一門の動きが理解しがたい理由でもあった筈です。何をぐずぐずしているのか。どうしてさっさと上洛しないのか。

後北条氏の外交窓口担当だった氏規は上方情勢を把握していて秀吉に臣従することを主張していました。いや、本当は外交窓口を任されていたわけでもなく、上方情勢に関心を持っていたのが氏規だけだったのかも知れません。その意味では外交軽視というなら、氏政・氏照の責任の方がずっと重大です。しかし、それも無理ないことです。「中央政局に係わり合いを持たない」のが伝統的な外交方針だったからです。はあ?秀吉?なにそれ?臣従?何のために?そういう風に考えるほうがむしろ自然なのではないでしょうか。

戦国大名の先駆者といわれる北条早雲以来100年かかって関東を制覇した後北条氏にすれば一代でのし上がった豊臣秀吉に全国の諸大名がおとなしく臣従しているなんて、俄かには信じがたい冗談みたいな話としか思えなくても全く不思議じゃありません。現代人は後付けで結果を知っているから、氏直を馬鹿だと思ってしまう。しかし、豊臣秀吉が一代で戦国時代を終わらせたというのは、当時の人にすればとても信じがたい御伽噺に思えたのかも知れないのです。

しかし、その見方はいかがなものでしょうか。氏直はまだ若輩で、実父、親父の代の武将はだれも氏直に取り立てられたわけでもないし、氏直に助けられたわけでもないのです。独断専行できる立場でもないし、そうしたところで家臣の支持さえ得られる立場でもない。優柔不断だったという批判は一方的です。

結果的に後北条氏の特性の何もかもが裏目に出てしまったように思います。

・一族の結束の堅さと合議制による意思決定システム
・広大な領土と勢力分散
・中央政局に係わり合いを持たない関東独自の勢力拡大方針

秀吉の後北条氏に対する処分が過酷だったとも思いません。後北条氏が氏直一人に権力が集中していなかっただけに、その処分も分散せざるを得ないのは仕方ありません。社長の氏直だけでなく支社長クラスの氏政・氏照にも処分が及んだのはむしろ当然のことでしょう。氏政・氏照は主戦派の頭目だったわけですから、最も重い処分になるのも当然です。その意味では秀吉は後北条氏を処分したわけでもないのです。
氏直は秀吉に許されて領地は失っても一応は狭山城主として遇されています。武将ごとに是々非々で処遇しているんです。

天下統一を担う立場の秀吉にすれば、心を鬼にして、はあ?秀吉?なにそれ?臣従?何のために?という武将は活かしては置けない訳です。そうでなければ、とても全国の武将をまとめることなどできません。
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この回答へのお礼

回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


貴重な資料や考察を紹介&お教え頂き、疑問点が何やらボンヤリと輪郭や構図が見えて来たように思います。
大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

お礼日時:2012/06/17 15:48

毎度どうも。



家康は、北条氏滅亡となるとむしろ不利な立場になりますよ。三河が拠点であると考えると、なにしろ周囲を完全に秀吉の勢力に囲まれることになりますからね。関東に転封されたのは、まったく望まなかったと思います。まずなにより額面上の石高は高くても、三河、遠江に比べるとド田舎で荒れた地です。関東随一の大都市であった小田原でさえ、小田原攻め直前でも瓦屋根の家は少なかったそうです。三河、遠江は東海道が通り交通の中心地でもありました。交通の中心地ということは、商業(現金収入)が盛んだということでもあります。

また、北条氏が滅亡させられたことはむしろ家康を始めとした外様大大名にとっては脅威でもあったと思います。北条氏でさえある意味「簡単に」滅亡したわけです。家康でもひとりでは秀吉と戦っても北条氏と同じ運命です。秀吉とすれば小田原攻めとは「わしに刃向うとこういう目に遭うぞ」という恫喝も含んだ戦役だったと思います。実際問題、伊達政宗は小田原に遅参したために秀吉に会津をボッシュートされていますが、あの武闘派の政宗が一切抗うことなくあっさり応じています。小田原に行って秀吉軍を目の当たりにし、「これはとてもではないが敵わない」ということを思い知らされたのだと思います。

北条家の滅亡の直接の原因は、ことわざにもなった小田原評定の不決断と官僚主義にあったと思います。北条家は河越合戦を除けばこれといった軍事作戦による決定的勝利みたいのがありません。軍事行動で華々しく勝利して領土を拡大するのではなく、政治と外交を中心にじわじわと地上げ屋みたいにして領土を増やしていく家風でした。それだけに、秀吉というスケールを超えた脅威に対して対応できる柔軟性は持ち合わせていなかったということでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

回線の回避工作、なぜ個別撃破が予想されるのに単独対決したのか、和平工作と有為な講話はなぜ出来なかったのかが疑問でしたが、
やはり、北条家の小田原評定と比喩されたリーダーシップ不在、マーケティングなり戦略外交能力の不足が起因しているのですね・・・

お礼日時:2012/06/16 07:31

 北条氏の滅亡が徳川家康の陰謀というのは,単なる結果から導き出された推測に過ぎず,妥当とは言えません。


 北条氏滅亡後,家康は北条氏に代わり関八州を領国として与えられましたが,北条氏討伐の段階では,家康やその家臣達も,褒美としてはたぶん伊豆をもらえるのだとうと思っていた節があります。それが秀吉の命令で,突然関八州への国替えを命じられたというのが現在の通説であり,これを覆すような史料は特にありません。また,家康は秀吉の北条氏討伐にあたり,駿府の人質時代からの知己であった氏直の叔父・氏規を通じ,ぎろぎりまで和平による解決を試みていました。そのせいか,戦争になれば家康も伊達政宗も北条家に味方してくれると思い込んでいたようですが,そのような見通しの甘さから秀吉との和平を蹴ったのは,あくまで北条氏の決断によるものです。
 北条氏直自身は,豊臣秀吉との開戦に積極的であったわけではなく,強硬な開戦論者は父の氏政や叔父の氏照であったこと,戦後氏政や氏照が切腹を命じられる一方,当主である氏直が高野山への追放にとどまったのは,秀吉もこのあたりの事情を熟知していたことによるものです。当時は反乱を起こした結果,城内の民衆ごと撫で切りにされた例もあった時代であり,処分が厳しすぎるとは当時の誰も思わなかったでしょう。
 北条氏の滅亡は,氏直一人の責任というわけではなく,当時の北条家が一族・官僚による統治を高度化させるあまり,組織全体の動脈硬化が起きていたことによるものです。史上悪名高い「小田原評定」はその象徴ですが,甲信をめぐる徳川家康との戦いでも,動員できる兵力は北条家の方がかなり多かったにもかかわらず,戦時には不可欠な迅速で機動的な決断ができず,結局家康と不利な条件による和解を余儀なくされています(督姫が北条家に嫁いだのはこの和解によるものです)。氏直自身も,徳川家との戦いで一軍を率いていたものの,一族の合議で決めた作戦に反する独断行動は許されないと家臣達に反対され,徳川軍を破る好機をみすみす逃しています。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

お礼日時:2012/06/15 20:46

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