プロが教えるわが家の防犯対策術!

戦時中の子供たちの私生活はどんな感じだったんですか。

A 回答 (4件)

地方と都会で全く違いますね。


私の父は大阪市内の小学校で、学童集団疎開を経験しました。
都市以外の小学生はそういうことはありませんでしたし、そんなに食べ物に困ることはなかったみたいです。

 疎開も、先ほど上げた集団疎開と、田舎の親戚を頼る縁故疎開がありました。
集団疎開は文字通り一日中一緒に過ごすために、それこそめちゃきついいじめも多かったと聞きます。
それが何ヶ月も続くんです。大変だったと思います。

 縁故疎開は食べ物こそ困りませんが、都会の人間が田舎の小学校に通うことで、これもいろいろな差別があったみたいです。もちろん都会のこどもに対するあこがれも多かったとも聞きます。

 また本当に厳しかったのは1944年~45年の時期なので、ほんの数歳の違いで、集団疎開を味わった世代(尋常小学校)と、学徒動員された世代(高等小学校以上)があるみたいですね
    • good
    • 3

 地方によって様々。

私の父親は学童疎開を経験していたので話しを聞かされたよ。

 基本的に食料の不足がすごかったようだ。芋の蔓とか、芋とか学校の校庭を耕してという話しも聞いたことが有る。戦争展というものを夏に昔はしていたので行ったが、そこに戦時中の食事を再現していたけど、もっと貧相だったと。

 遊び関係はあまり聞かなかったな。

 図書館とかに学童疎開の写真とかの本があるかもしれないよ。そこには明るい笑顔がありますが、親元から離されていたので寂しいと思うよ。

 母は工場に働きに行っていたようだ。軍人さん向けにという商品もあった。軍人さんにはそこそこ良い物があったような感じだった。でも、食品を扱っているので、おこぼれとかもらえたらしいので、食事はあまり困っていないような話しだったな。
    • good
    • 4

うちの母は農家だったので、弁当が白米だけ。


白米のない弁当を持ってくる街場の子どもの弁当が羨ましかったそうだ。


というように、色いろある
    • good
    • 1

「子供」といっても千差万別だが・・・・・・・

    • good
    • 2

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!