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平安時代末の法要(仏教行事)がどういう形で行われたのかということを調べたいのですが、
いつも利用する図書館の蔵書検索をかけても、あまりはかばかしい結果が出ません。
ネット上の検索も、言葉を足したりひいたりして色々やってみたのですが、これ!というものにたどりつきません。
情報にたどり着くための方法を思いつく方、あるいは検索の達人の方、お知恵を貸していただけませんか?

A 回答 (4件)

まず参考文献について。


もうご覧になったのかも知れませんが芳賀登『葬儀の歴史』、これは名著ですが、しかし包括的でカバーする範囲が広いので、ご期待される内容部分についてはあまり詳細とはいい難いと思います。むしろ、天皇と平安貴族の葬送儀礼については、新谷尚紀『日本人の葬儀』(紀伊国屋書店)、勝田至『死者たちの中世』(吉川弘文館)、水藤真『中世の葬送・墓制』(吉川弘文館)、などをご覧になるほうが具体的なイメージが掴みやすいと思います。
それぞれ重点の置き方は少しずつ違っていて、例えば新谷は11世紀初頭に没した一条天皇の例を引きながら民俗学者として現代につながる習俗の視点で分析していたり、勝田は院政~鎌倉にかけての天皇・貴族の葬送の様子を葬列や葬場の詳細をあげながら概観しているなど、少しテーマが異なりますが、およそ質問者氏の期待されるものはカバーされているのではないかと思います。

葬送についてごく簡単にアウトラインを書き出すと、以下のようになると思います(上記文献に書かれていないところは注を施しました)。

まず、貴人の病床の時点では快癒を祈って真言による加持祈祷が盛んに行われたほか、天皇の場合には大赦や造仏・造塔なども行われました。

(注:大赦は既に律令時代から行われていた歴史のある行為で、当初は一種のアニミズム的感覚にもとづくものでした。つまり死刑の執行など生命を毀損することが農作物の成長を阻害し、ひいては潤滑な国家運営に悪影響をもたらすと考えられたために、鎮護国家と不殺生が結びついて、特定の時期には刑が執行されなかったり、軽減されたりしたのです。ただ、時代が下ったこの時点での大赦は、寺の建立などと同じで権力者にとっての一種の宗教的滅罪のため、と考えたほうが良いと思われます。仏教的作善によって罪穢を落とし、病苦を除こうとしたのでしょう)

死亡が確認されると加持祈祷は終了します。死亡の判断はこの僧侶によって行われるのが専らでした。陰陽師との相談のうえ、入棺の日時や山作所(やまつくりしょ、葬場兼荼毘所のこと)など葬送の詳細が決定されました。枕直しなど一定の儀礼を経て沐浴・入棺が行われます。葬送当日は地鎮が行われ、若干の読経を経て葬列は夜間に屋敷を出発します。これにあたっても塀をこわして出るなど、近年までの民俗事例に通じる、恐らく霊の帰還を怖れたためと思われる儀礼がありました。
棺は左右に高欄を設けるなどした輿や車に乗せられ、松明や香、幡などを手にした者たちと共に、山作所へ向かい、棺を垣や幕などで隠した中で読経・呪願が行われ、荼毘に付されました。火葬にせず、玉殿と呼ばれる施設を設けてここに封印する葬法もありました。宅での読経などよりも、葬場、火葬に際しての読経真言のほうが重視されたのはひとつの特徴です。

(注:日の吉凶や山作所造営の方角の是非など、諸々の占を問うのはかなり重要なことでした。またタブー意識の極度に発達した時代ですから、誰にどの程度忌がかかる(=ケガレを被る)のか、従っていつどこでどのような禊をすべきかなど、関係者にとっては切実な問題だったようです。
喪の一報を聞くと、挙哀(ミネ)などと呼ばれる一定の儀礼が関係者個々に行われることが律令時代から一般的で、内容ははっきりしませんが、服喪の開始にあたり悲しみの儀礼的な表現を行ったようです。ミネは発哭などとも書かれますから、儒教の「礼記」に説く「哭」が形を変えて取り入れられていたのでしょう。出先で遅れて崩御の知らせを聞いたときなど、いつから発喪なのか、どうミネすればよいのかなども大問題だったようですが、既に平安後期には、遺詔によってこれを行わない場合も多かったようです。
火葬以外の葬り方は、古代の殯(モガリ)という伝統的な風葬型の貴人の葬法にならったものでしょう。喪屋を設けて舞楽や供膳などの奉仕を行うモガリは、蘇生を祈った行為、とする学説もありますがこれは実態にそぐわない解釈で、長い場合には何年にもわたりました。貴人の間で火葬が行われ始めるとすたれるのですが、平安末期でもまだその精神的伝統は残っていたと思います)

余談にそれるかも知れませんが、平安時代は「臨終」が重視されるようになった点が重要だと思います。臨終の正念が極楽往生の肝要な条件とされたために、最期まで正気を保てるよう臨終の苦痛を取り除くことが重要になり、勢いそれ以前から写経や誦経など平生の功徳が重視され、逆修(預修)と言われる生前修行が大事になっていったからです。
宗教民俗でいう擬死再生(一旦死んだことにしてそれまでの罪穢を落とす)と通じるものですが、平安時代にはもう大勢の貴族を集めて寺で48日間の講経などをした逆修法要の記録があります。「地蔵本願経」の説くところによって、死後の功徳を生前に積んでおこうとしたものですが、こういう感覚が広まったことは、結果として追善供養、つまり「他人による、死後の作善」を後押ししたことでしょう。

また、最大の功徳ある行為として、臨終の病床での出家が広まったこともとりわけ重要です。
聖武天皇などのように「三宝に帰依」し、生前に出家した天皇の先例は多いのですが、病床での剃髪授戒、つまり出家は(当初祈祷的意味もあったでしょうが)貴族も含めてこの時代にかなり一般化します。やがてこの出家が間に合わず逝去直後に行われることになるのですが、これが儀礼として根づいて「葬儀のなかでの出家」として定式化し、後の鎌倉時代以降の「葬式仏教化」の下地を準備したからです。

以下は追善供養について。
平安後期だと、天皇・貴族の間で一般的だったのは一周忌までの供養でしょう。律令の服忌令では、父母の忌は近親者にとって重服と呼ばれ1年間の服喪となります。これが元となって一周忌までが重視されました。
しかし、だいたい平安時代の中後期頃より、それまでの呪術的な慰霊や霊威への対抗儀礼から、徐々に追善儀礼としての先祖供養のウェイトが高まってきます。これに従って、平安時代もかなり末期の頃になると、いわゆる十仏事の法要が導入されて、仏教主導型の死者供養が行われ始めるようになってくるのです。

十仏事というのは、仏教の中陰(これはあまり正統な仏教思想ではないのですが、中国で確固たるものとなります)に百日目、満1年、満2年の法要を加えたものです。この十仏事は、基本的には儒教の考え方と、地蔵信仰と関係がある「十王生七経」という偽経(中国で創作された経典)に説く世界観をベースにして生まれたものです。
この経典では、冥界の亡者は死亡から七日毎に7回、さらに百日目、1周年、3回忌と合計十回の定められた場所にそれぞれ異なる王のもとに出向いてその審判を受けること、それから審判にあたっては遺族の追善の度合いも斟酌される、ということが記されていて、この経典が中国における追善思想に決定的な役割を果たしたと考えられます。
実際、儒教でも百日、満1年、2年はそれぞれ卒哭、小祥、大祥と呼ばれて重要な節目です(元もとの儒教は「いずくんぞ死を知らん」ですから現実重視でしたが、体系化されてからの儒教では亡者のための祭礼という「孝」が天地の道理と位置づけられたのです)。

その後、鎌倉時代のうちにさらに7、13、33回忌が加わって、15世紀頃には十三仏事が成立します。これが徐々に民衆にまで広まっていくのですが、その成立は、寺院側による教化的、経済的な理由による積極的な働きかけだけが理由ではなくて、むしろ民衆の側の心情によって広まった部分も大いにあります。
詳細は避けますが、結局人々が無意識に信じるところの「死霊から祖霊へと転換していくための期間」が、ちょうど33回忌にマッチするなど条件が合致したために日本では長期の死者供養が根づくことになりました。江戸時代中期までには、17回忌や25回忌も設けられ、「多すぎて負担が大変」などという反省や批判も起こりつつ、追善供養は全国の庶民にも一般化していきました。

天皇・貴族に対し、庶民の葬送儀礼は史料が少なく、不明の点も多くあります。ただ概していうと、葬儀はじめ、儀礼的なことはほとんど行われなかったでしょう。
例えば圭室諦成『日本仏教史』(法蔵館)などによれば、念仏結社であった二十五三昧講などが発展して無常講などという名前で庶民組織が生まれ、庶民の間でいわゆる互助的な葬儀が行われるようになるのがせいぜい室町初期の頃です。追って真言宗ら密教が葬儀に乗り出したとされます。
また禅宗では、私の手持ち史料では、僧でない在俗者の追善のために拈香法語(上堂という説法の際に、香を焚き法語を述べて特定の亡者を追善する)が行われるようになるのがせいぜい14世紀のことです。

現在ある寺院のおおよそが実質的には中世後期以降の成立で、惣村などという一種自立的組織の成立をまって、庶民の葬祭仏教受容が始まったといっていいわけです。従って、平安後期ではやはり僧侶がタッチする庶民の葬儀はまだ行われず、よく言われるようにあまり儀礼を伴わずに死体遺棄に近かったというのが現状でしょう。河原や山すそで、「餓鬼草子」に描かれるような一見かなり粗雑な風葬、場所によっては水葬が行われたわけです。
空也などの系列をひくような半僧半俗の遊行僧、何々聖(ヒジリ)と呼ばれたアウトサイダー的仏教者たちが、鳥辺野など都近くの葬場で供養を散発的に行っていたことは事実です。しかし庶民が仏事を強く相求めたわけではなさそうですし、いわゆる不浄の感覚から庶民の葬祭に関わる僧侶が一部蔑視されたりしたのも歴史的事実です。
(以前に、死体の扱いを含めて墓について簡単に回答していますので、宜しければご参照ください:
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=448694 
「お墓の歴史」。また、前掲『死者たちの中世』には死骸の溢れる都市の様子、さらに後代の「坂」らが死体運搬など葬送に関与するようになってくることでその死骸が整理されていった、という論考もあります)

長くなったのでこの辺でもうやめておきます(笑)。仏事の歴史も体系的に理解することが大事だと思いますので、是非上記参考図書をご一読なさることをお勧めしたいと思います。
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この回答へのお礼

感涙、です。

まさかここまで完璧なお答えがいただけるとは思ってもみませんでした。わたしの知りたいことが全て網羅してあります。ご回答でアウトラインはばっちりです。何も不足はありません。
ご紹介いただいた参考図書が、3冊とも近所の図書館で手に入りそうなことも嬉しい限りです。泣けてきます(@_@;)。

ご回答に長い時間をかけていただいて、本当にありがとうございました。これほど感動的なご回答にめぐりあえたのは幸せです。
質問者さまがどちらの方にお住まいか存じませんが、四方に向かって感謝の合掌をさせていただきます。
ご回答本当にありがとうございました。

お礼日時:2004/02/03 22:36

ご質問を読んだ範囲では「検索方法を知りたい」という趣旨かと思っていたのですが…。



単に平安時代といっても、極めて広いレンジの仏教的行為の数々が存在しました。「法要がどのような形で行われたのか」ということですが、もう少し具体的にはどのような点が質問のポイントなのでしょうか。

狭義の法要である「讃歎、供仏、施僧」はもちろん各種行われていましたし、その他のいわゆる呪験的行為だけをみても、国家鎮護ための修法、内裏固めに用いられた修法など天皇・特定の貴族のために行われた言わば公式の密教修法の数々(これは実に多数あって密教経典の数だけあったといっても過言ではありません)から、特定の御霊を祓って都市の安寧を回復させるための大法要、あるいは有名な「五壇法」を筆頭に一般貴族の間で物の怪調伏のために行われた呪法など、実に多数あります。

また庶民レベルを見ても平安時代にはいろいろ興味深い動きが起こっています。末法思想を背景とした弥勒講や、三昧講などバリエーションの多彩な念仏結社の数々、念仏聖や持経聖、禅観聖などと呼ばれるアウトサイダー的な仏教者による説経や小規模な法会・葬送儀礼が仏教の裾野を拡大していきました。
さらに平安中期から機内で始まった盂蘭盆会や、民俗宗教や陰陽道などと混交した庶民レベルの祈祷会なども挙げないわけにはいかないでしょう。この時代に日本的と言われる後の鎌倉仏教を発生させる下地が庶民レベルで整えられていったことは大変重要なことです。

単に羅列的であってはつまりませんので、質問者氏がこの時代の法要のアウトラインをお知りになりたいのか、それとも特に密教修法など何か具体的に知りたいのか、単に参考文献をご紹介すればよいのか…、補足して頂ければある程度まとまった回答をさせてもらうつもりです。
(数日間時間があまりとれませんので、少し先の回答で宜しければ、ですけれども)

この回答への補足

ご指摘ありがとうございます。法要<葬儀・追善供養をいう。法事。法会。法用。>の部分が一番知りたいところです。要は「どんな葬式(とそれに伴う法要←初七日とか百箇日法要とかの存在は当時あったのかどうか)が行われていたのか」を知りたく思っています。
貴族・下級貴族・庶民それぞれの階級の場合についてもれなくカバーしてある本を発見できたらオンの字なのですが……
その上で、葬儀以外の仏教儀式はどんなものが行われていたか知ることが出来れば言うことはありません。

出来れば、参考文献を挙げていただけると大変助かります。上記の内容について、研究者の最新報告などまでの詳しいものは求めていませんので、いわゆる「新書」レベル、あるいはちょっと研究書寄り、といったところが本人的にベストだと思います(贅沢ですね(^_^;))
また、近所の図書館でその参考文献が見つからなかった時に、どういう方向から攻めたらいいかもご助言いただけると大変ありがたく……(^_^;)。
とりあえず「葬儀の歴史」(芳賀登)という本は近所の図書館にありそうですので、見てみるつもりでいます。
末永くお待ちしていますので、どうぞよろしくお願いします。

補足日時:2004/01/31 23:51
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平安末期に行われていた修法(仏教儀礼)でパッと思いついたもの。



「御七日御修法(ごしちにちみしほ)」
「孔雀経法(くじゃくきょうほう)」
「請雨法(しょううほう)」
「安鎮法(あんちんほう)」
「伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」
「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」
「仁王経法(にんのうぎょうほう)」
「熾盛光法(しじょうこうほう)」

検索にかけてみてください。何かイメージが沸くかもしれません。(別に平安末期だけに限った修法ではありませんが…)
 
 平安末期といえば、後白河院政下にありますよね。彼の息子(守覚)は仁和寺御室ですし、真言宗寺院との関係は密接でした。源氏の物理的権力を背景に真言宗寺院の再興にも当たっています。なので、まずはこの時期の真言宗の動向を調べ始めるのをオススメします。院や貴族のための修法というのが濃厚だったと思います。
 
 実際、二番目の孔雀経法ですが、有名なところでは、平清盛の娘と高倉天皇の間に生れる安徳天皇を出産する際にも修されました(『大日本史料』第四編之七)。
 修法空間を知るのには、仏教建築や仏画を見ていくのもよいでしょう。灌頂院や宮中真言院など。日本美術全集の六巻「密教」には藤井恵介氏が密教空間と修法の関係について図解や図版を含めて詳細に解説していますから、よろしければどうぞ。大方の図書館に蔵書されているかと思います。密教や仏画の美術全集などもご覧下さい。具体的なイメージが沸きやすいと思いますよ。

参考URL:http://www.tuuhankan.com/goods/D0298.htm
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この回答へのお礼

色々興味深い言葉を挙げていただいてありがとうございます。
そしてすみません、質問文のポイントがずれていました。
一番知りたい部分は法要<葬儀・追善供養をいう。法事。法会。法用。>でありました。しかし、年間の宗教行事も押さえておきたいところだったので、挙げて下さった言葉をキーワードにして、またちょっと探してみようと思います。
仏教建築や仏画はちょこちょこ見ておりますが、今は言葉で説明されたものを捜しています。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/01/31 23:34

どのような目的で調査されているかわかりませんが


由緒ある寺院に問い合わせてみてはいかがですか?
おそらく内容的にNET上には、無いような気がしますし
図書館の蔵書にもないかもしれません
しいてあるとすれば、龍谷大学とか佛教大学とかに
詳しい先生がいらっしゃるのではと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。でも……由緒ある寺院だからといっても学問として勉強なさっている方がいらっしゃらなければ、詳しい方もあまりおられないように思うのですが、どうでしょう?
研究者の方はおそらく何人もいらっしゃってそういう方に伺えたら最高ですが、個人的な興味の質問者にレクチャーしてくれるほど先方もお暇ではないでしょうね……。
地元大学群の図書館検索で何とか一冊「これか?」というものがあったのですが、研究室に貸し出し中って(T_T)。これには当たってみようと思いますが、人様に迷惑をかけるほどの必要性はないもので……ちょっと弱気です。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/01/31 00:42

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