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北海道開拓の初期の頃、現地のトップである○○という人物が、北海道の開拓は国家の緊急課題であり天皇の意志でもあるという認識のもと、年間の予算を測量だけに費やしてしまい、政府から大目玉を食らって解任された。その後任となった人物が、これまた同じようなことを行ったというエピソードについて、正確な史実、名前、役職名、参考文献などを知りたいのですが、何か手がかりはないでしょうか。

A 回答 (3件)

>○○という人物



おそらく○○の中に当てはまる人物は、後の「佐賀の乱」
の首謀者としても有名な島義勇(しま よしたけ)ではないかと
思われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%BE%A9% …

・北海道開拓初期のいきさつ(明治以降)

日本国の政権は、王政復古の大号令により、徳川幕府から
天皇を中心とする維新政府の手に移ります。ところが、国内では
旧幕府との戦争による内乱が各地で続いていたため、政府は
蝦夷地(後の北海道)の事をかえりみる余裕はなく、依然として
箱館(今の函館)奉行の手に委ねられたままでした。
その頃、幕末の混乱に乗じたロシアは、カラフト全島(今のサハリン)
に侵略の手を伸ばし、蝦夷地の開拓はさしせまった問題となります。
そこで政府は1868年、最初の開拓機関として箱館に箱館裁判所を
(後に箱館府と改称される)設置するのですが、旧幕府軍の榎本
武揚によって一時期箱館は占拠され、箱館府は青森に移って
政府軍による失地の回復を待たざるを得ない状況となり、一ヶ月
経って榎本は政府軍に降服、箱館府知事は館藩主とともに蝦夷地
に戻り、戦後の処理を行った後、廃藩置県によって館知藩事は
辞任、1869年開拓使が設置され、蝦夷地は「北海道」と改称し、
ここから長らく中断されていた開拓事業は発足する事になります。

とはいっても関東、中部地方全部を足し合わせた面積に匹敵する
広大な土地を経営していくのは地理的に非常に困難ですので、
全道86郡のうち、66郡を兵部省、佐賀藩を始めとするの諸藩、
士族、寺院に当初は支配させる事になります。開拓使はさらに
全道の行政府の設置場所としてかねてから適切と唱えられていた
石狩平野に決定、第二代開拓使長官東久邇通禧は佐賀藩出身の
島義勇判官(長官を助ける役職)を陸路で石狩平野の札幌に派遣、
その地を調査させることになります。
島判官は百人ほどの大工を連れて札幌に到着、現在の創成橋付近
(南一条西一丁目)を町の中心地と定め、大通をつくり、そこから京都
のような碁盤目の区分けをして土木工事を始めていくのですが、
場所が北海道という冬の厳しい原生林、雪によって前進を阻まれたり
して工事は困難を極めたうえに、更には政府から頼んだ食料を積んだ
船が難破したりしたため、不足した食料を買うために、一年分の予算と
定められていた五万両の資金を三ヶ月足らずの内に全部使い果たして
しまいます。
さらに島判官は札幌菅下の西部が諸藩の分領となっていたのを一元
化するための行政、場所請負制度の改革、官吏の待遇改善、移民の
保護政策の樹立など根本的な重要政策に取り組もうとするのですが、
先述の資金面の問題、また島判官の専断的なやり方が東久邇長官
に嫌われた事もあり、政府に追加の予算を願い出るも認められず、
島判官は東京に呼び戻され、札幌の町づくりはいったん中止になって
しまいます。

さて、皮肉にも雪が解けると、移住者も続々とやってきてまっすぐな
道路に三十件ほど役所、官舎、大工小屋などが立ち並ぶようになり
ます。島判官が呼び戻されたその年の秋、今度は東久邇長官が
自ら札幌を視察、島判官の雄大な構想は改めて再認識される事に
なります。(実際に現地に見に来てくれないとどうしようもないのです)
こうして翌1671年4月、長官は札幌に赴任し開拓使庁は札幌へ移転。
岩村通俊判官が島判官の行った札幌の町づくりを引き続き推し進め
る事になります。こうして土木工事は継続し、新しくやってきた移民を
どんどん札幌のまわりに入植させていくのですが、
移民たちの中には、出稼ぎ気分ですぐにでも本州に戻ろうと火災に
弱いくさぶきの掘立て小屋を作るものが後を絶たなかったため、
岩村判官は断固とした姿勢を示すため、手本として札幌中の開拓使
のくさぶきの建物を実際に皆の前で火にかけて燃やしてみせる
という大胆な行動に出るのです。(これを「御用火事」といいます)
これ以降、入植者たちはくさぶきの掘立て小屋をきちんとした板ぶき
の家に立て替えるようになり、札幌の町づくりはさらに進展するように
なるのです。

>参考文献
といえるほどでもないのですが、たまたま家にあった
「北海道の夜明け 開拓につくしたひとびと 北海道総務部文書課 編」
等をもとにいちおう回答を述べてみました。
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A.No2です。

まだ締切りになられていないようですので、
前回答にあまりにも顕著な間違いが見受けられた所を
訂正させてください。

・東久邇開拓使長官が札幌に赴任した年号

誤 >翌1671年4月
正 翌1871年4月

でした。申し訳ありません。

・前回答への補足
>一年分の予算と定められていた五万両の資金

その後、一年間の予算は年20万円と決められ、
更に黒田清隆によって、十年間で一千万円、
(年平均に換算すると年間100万円)
という予算を政府に認めさせましたので、
(1両=ほぼ1円 か)
私には、当初の見込み(年間5万両)がむしろ甘かったように
思われます。

尚、質問の趣旨からは外れているので箱館戦争に
ついてはあえて詳しく述べるのを避けましたが、(蛇足です)

1868.10.22 榎本軍が箱館を占領、箱館府知事青森へ逃れる
同  11. 5 榎本軍 松前城 占拠
同  11. 5 榎本軍 館城 占拠 
(藩主は弘前に逃れ そこで切腹)
同  12月 榎本軍 五稜郭へ
1869.2月 新政府軍青森に集まる
同  4.9 新政府軍 箱館に上陸
同  5.18 榎本軍 新政府軍に降伏
同  7月 新政府、開拓使を設置

したがって、少なくともこの九ヶ月のブランクの間にも、
ロシアは計画的にカラフトに軍隊、移民を送り込み、
その結果、日本側の人口はロシア側の10分の1になって、
新政府はカラフトをあきらめざるを得なくなったことを
いちおう注意しておきたいと思います。
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この回答へのお礼

二度にわたり丁寧なご回答りがとうございました。
二十年ほど前、北海道南を訪ねた際、年配のガイドの方からこのエピソードを聞き、
感動したことを覚えています。
近々有志のグループで同じ話の聞けるツアーを計画したいと考えたとき、
まずは史実を調べようとしましたが、肝腎の人物の名前が分からず、
ネットで検索する以前の段階で事が進まず、困っていました。
感謝し御礼申し上げます。

お礼日時:2012/09/08 09:52

黒田清隆か?榎本武揚か?鍋島某か?たぶんこのうちの誰かかと

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