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少し考えてみた。
 
キリスト教であれ仏教であれ神や仏について、またその教えについて議論をしていくと必ずある所で議論が止まりそれ以上先に進み得ぬ所にたどり着く。

そこを終着駅と呼ぶことにする。

するとキリスト教において終着駅はどのよーなところなのか。

仏教における終着駅はどこか。
 

A 回答 (3件)

キリスト教でいえば、


 神の愛
 イエスの十字架の意味
でしょう。神の愛は、万人にみな等しく及んでいるはずなのに、何故、自分は○○なのか?などなど、ヨブのように神の愛への不信や疑念がつぎつぎと浮かんで来る。そして、人間には、その答えが分からない。
神の子・イエスがなぜ十字架で死ななければならなかったのか、分からない。永遠の謎であり、一人一人がみずから、終生、その意味を問いかけ、考えつづけなければならないテーマなんで。


仏教、大乗仏教ならば、
 その終着点は《空》!!
これは論理を超えた論理。理性や悟性といわれるものでいくら考えても、分かりやしない。そして、大乗のすべての教えはこの《空》から展開し、そして、再び、すべては《空》へと収斂してゆく。

いわゆる小乗・上座部仏教は、
《縁起の理法》
やね。《縁起の理法》からは、《縁起の理法》を《縁起の理法》たらしめているものが何なのか分からない。《縁起の理法》は、ゴータマ・ブッダの示したアプリオリの公理・真理として受け容れるしかないんで。
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人の道さん、こんばんは




「終点は「人それぞれ」、「人それぞれ」でございます」?
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キリスト教であれ仏教であれ神や仏について、またその教えについて議論をしているのはまるで終点のない山手線に乗っている様なものである。



いつか見た風景がまた目の前に現れる。
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