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母の愛が強いはずである。

何故なら母の愛は感じることが出来るが、仏の愛は感じることが出来ないからである。
 

A 回答 (12件中1~10件)

裏切られれば憎しみに変わるのが「愛」


裏切られても深さを増すのが「慈悲」
さて
愛は慈悲に昇華できるか
愛を感じることと 慈悲を感じることは 何の違いによるのだろう
愛には求める心がはたらく
慈悲はただ与えるだけの心
求める心のある者に「愛」は感じられ
与えるだけの心を知っている者に「慈悲」はある

母の愛の中に慈悲はこもごもとあり
仏の愛はすべて慈悲のみ
知ると知らざるは 心の鏡しだい
きれいな水の鏡しだい
母の影は乱れやすい 少しだけ乱れやすい
乱れては戻る母の影は 仏の影に見える
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仏の愛が強いはずである。



何故なら、物心つく以前に他界した母の愛を感じることはできないが、「スッタ=ニバータ」を読めば仏の愛は感じることができるからである。

他の人の答えに哲学的でないと批判するあなたに問いたい。

こんな主観的なことを議論するのが哲学なのかい?
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この回答へのお礼

 
>こんな主観的なことを議論するのが哲学なのかい?

そんなことゆーんであれば仏が主観なのか客観なのか答えを出してみてくれ。
 

お礼日時:2012/09/17 00:59

母の愛は実在し、仏の愛は想像上の概念です。



したがって、両者を比較することは出来ません。カテゴリーが違うのです。
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この回答へのお礼

 
>したがって、両者を比較することは出来ません。カテゴリーが違うのです。


カテゴリーが違うから比較できませんで終わったのでは、哲学になんでしょ。

その結論、思想的に言ってあまりに貧しくはあるまいか。
 

お礼日時:2012/09/15 21:31

追伸まで



「アルケーは人は皆自分の心を大切にせよとゆーております。
そして自分を愛するものを愛せとゆーております。」

○アルケーは、釈尊が菩提樹下で大悟することを邪魔した悪魔パピアス・マーラと同じこというのですね。

悪魔パピアス・マーラは、釈尊に、「もういいではないか、帰って自分を愛する父や母、妻や子と楽しく暮らせ」と言ってますね。釈尊はこれで悪魔パピアス・マーラと見破るのですが、見破れずに落ちた修行僧は多いのですね。
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この回答へのお礼

 
かつてわしが悟りを啓くためインドに出向き釈尊がやったよーに菩提樹の木の下に座って座禅を組み瞑想しよーと考えた時、アルケーの神はわしに「それは止めとけ」と言われた。
 

お礼日時:2012/09/15 21:42

父ちゃん、元気で留守が良い

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そのとおりです。

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母の愛と仏の愛はどちらが強いか


母の愛が強いはずである。

○hitonomichi23さんはアルケーの愛と母の愛とどちらが強いと思ってるのでしょうかね?
やはり見えないアルケーより母の愛の方が強いのですかね。アルケーはただ「ある」だけの存在ですかね。

私は仏の愛の方が生みの母の愛より強いですね。生みのは母は肉体の母でしかありませんね。私の精神の生みの親は仏ですから、仏の方が強いのですね。両親には産み育てて頂いた深い深い恩はありますが、恩は転生輪廻の過程でお返しすればいいだけのことですね。
肉体の私は永遠に存在するものでもありませんし、私自身ではありませんのでね。
永遠に存在する私の心は仏の心の一部ですから強い愛、慈悲を感じますね。
霊的な自分が強くなると人間的、いや動物的な感情は減ってきますね。アルケーでは、そんなのないのかな。
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この回答へのお礼

 
       アルケーの教え

アルケーは人は皆自分の心を大切にせよとゆーております。

そして自分を愛するものを愛せとゆーております。

感じることの出来ぬものに愛はないともゆーております。

それが自然界の掟、宇宙の法則であるとゆーておるのです。

あ~、アルケー。
 

お礼日時:2012/09/11 21:09

仏に愛なんてあるのかどうか、キリストあたりの神と勘違いしているのか。


妄言の投稿ばかりしている質問者ならではの稚拙な解釈ですね。頭の病気かと思いました。

感じれルカどうかと強いかどうかは関係ない。青酸カリは無味無臭ですが毒性は強いです。
飲んだら目が覚めるかもしれませんよw
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この回答へのお礼

 
>仏に愛なんてあるのかどうか、キリストあたりの神と勘違いしているのか。

ならば話はかんたんである。

愛のない仏など捨てたほーがえー。
 

お礼日時:2012/09/11 20:52

強いかどうかって、どうやってはかったらいいんでしょうね、たしかに難しいですね。



太陽の熱の方が高くても、そばにある炎の方が熱いと感じたりもしますからね。



純粋かどうかと問われたら、仏の愛の方が純粋な気がします。

母の愛は、自分の子だけへ向けられているなら、利己的な気持ちが混じっているだろうから。
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この回答へのお礼

 
>強いかどうかって、どうやってはかったらいいんでしょうね、たしかに難しいですね。

べつに難しくはないのです。

かんたんなのです。

感じることの出来る愛と、感じることの出来ない愛のどちらが強いかは計るまでもありませんね。

感じることの出来る愛が感じることの出来ない愛より強いに決まっているでしょー。
 

お礼日時:2012/09/11 20:49

宗教や哲学に疎い者の発言で恐縮ですが。



愛の強さは受け取る側の感受性で測れるものなのでしょうか?
愛される側の思いの至らぬ所に働く、そんな愛の形もあるでしょうし、
例えば死んだ人への愛は、感じる相手はいなくとも、「無い」といえるものではないと思います。

そう考えると、
問題となるのは受け取り手ではなく、愛する側です。
愛する側の気持ちの強さを比べるべきだと思います。

それを踏まえて申し上げますと、
母が子供を思う気持ちと仏が人や生命を思う気持ちのどちらが強いかは私には分かりません。
さんざん生意気を言った挙句お力になれず、申し訳ないです。
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この回答へのお礼

 
>宗教や哲学に疎い者の発言で恐縮ですが。

愛を知るのに宗教も哲学も要りません。

最後はみな原始に帰るのです。
 
そして母の愛が何よりも強いと悟るのです。
 

お礼日時:2012/09/11 20:43

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